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6-7 交換条件
 グラデンヴィッツ皇帝レナードは、胸元まで伸びた長いひげをなでつけながら、どこか遠くを眺めるように視線を動かして言った。
「確か、シュエラ・ハーネット嬢と言ったか」
 衝撃のあまり、息が止まった。
 シュエラを人質に?
 そのときシグルドは、自分がどんな顔をしたかわからなかった。
 レナードはシグルドの表情をちらっと見遣りにやっとする。
 しまった……!
 慌てて取り繕おうとしたが、もう遅い。
 レナードは我が意を得たと言わんばかりに、滔々と語り出す。
「何も驚くことはあるまい。昨今には珍しいが、古来より愛妾も和平の証となった。貴殿には王女も王子もおらぬ。貴国に対して取引材料となり得る人物をあと一歩で確保できるところだったのだが、逃げられてしまったからな」
 含みのある笑みを向けられ、冷や汗をかく思いだった。
 異母兄の生存を知られている。ケヴィンの話から予測して然るべき事態に、シグルドはさらに追い込まれた。
 ラダム公爵イドリックの失脚から、まだ一カ月ほどしか経っていない。未だ国政が安定しない中、このことを公表されたらどのようなことになるか。
 混乱の極みにありながらも、シグルドは何とか言葉をつむいだ。
「し……しかし、貴殿は孫娘殿をくださるというのに、こちらが愛妾では……」
 レナードはその通りと言いたげに、何度もうなずいてみせた。
「グレイスは目に入れても痛くない愛孫だ。貴殿のような出来た男に嫁がせたい。だが、愛妾のいる男のところへは嫁がせ、いらぬ苦労をさせたくないのでな。この条件、儂としても悪くないのだ。貴殿は愛妾をいたく気に入っている様子。交換に十分値すると思うのだが?」
 逃げ道をふさがれてしまう。
 他に、他に何かないのか?
 動揺にうまく働かない頭を必死に動かそうとする。だが、肝心な時に何も浮かばない。
「しかし」
 かろうじて口にした一言も、レナードの次の言葉にかき消された。

「応じられぬというのなら、さきほど要求を飲んだこともなかったことにしようと思う」
 目の前が真っ暗になった。

 ひどいめまいを覚える中、シグルドは満足げに語るレナードの声を遠くに聞いた。
「愛妾は厚遇しよう。嫁する相手を自由に選ばせてやる。儂にはまだ結婚していない息子も孫もいる。選んだ相手によって貴国への恩恵は変る。儂の側妾となるならば、儂の治世の間は貴国も安泰となろう。……」


   ──・──・──


 皇帝レナードの突然の申し入れに驚愕したのは、ケヴィンも同じだった。
 表情に出してしまうことだけは避けられたが、救出のタイミングをかなり逸する。
 ようやく動けるようになったのは、シグルドが言葉を失い、頭をわずかに前に傾けたときだった。
 これはマズい……!
 ケヴィンはシグルドの斜め後ろから大きく前に踏み出し、口を挟んだ。
「申し訳ありません。ありがたきお申し入れと存じますが、国も関わる重大なお話ですのですぐにお答えすることはできません。返答にしばしの猶予をいただけないでしょうか?」
 話をさえぎられたレナードは、鋭い眼光をケヴィンに向ける。
「側近ごときが場を仕切るか?」
 ケヴィンの全身にざっと悪寒が走った。
 近くで見ている分には威圧的な人物だと思うにとどまっていたが、実際にその視線を受けると体が逃げを打ちそうになるほどの恐怖を覚える。
 かろうじて踏みとどまったものの、硬直し言葉も出なくなったケヴィンに、レナードは酷薄な笑みを浮かべた。
「まあよい。考える時間も必要であろう。色良い返事を期待している」
 レナードはケヴィンから視線を外し、席を立った。坂のふもとにある野営地へと歩き出す。

 背後に従えていた大隊長二名とともに坂を下り始めたのを見届けて、ケヴィンはシグルドの耳元にささやいた。
「陛下、砦に戻りましょう」
「……ああ」
 ぼんやりと顔を上げてシグルドは答える。立ち上がりふらふらと歩き出す様子から、完全に放心していることがうかがえる。それでも近くで待機していた近衛たちの間に入ると、足取りは確かなものになった。
 長年の訓練の成果だろう。──いついかなるときであろうと、上に立つ者は堂々と在るべき──ウォリック侯爵とケヴィンの教えだ。
 ヘリオットとともにシグルドの背後に付き従い、近衛に囲まれて砦へと帰還する。
 会談の結果が伝えられるのを待ち望み出迎えた兵士たちを無視して、砦の四階にある総指揮官の居室にシグルドを送り届けた。


 シグルドを椅子に座らせてから、ケヴィンはヘリオットにこっそり目配せを送る。
 静かに扉を開けて廊下に出ると、外で待機していた近衛四人に声をかけた。
「二人は扉の前で警護を。もう二人は中で控えているように。陛下が外に出ようとなさったら、力づくでもお止するように」
「はっ」
「こっちだ」
 ヘリオットにうながされ、ケヴィンは後について階段脇の部屋に入る。
「副官の部屋は、今は俺が使ってるんだ」
 扉をきっちりと閉め振り返ると、先に入ったヘリオットが振り返って言った。
「で? どうする?」
「どうするもこうするもないだろう」
 ラウシュリッツのような弱小国に、グラデンヴィッツほどの大国がこのような申し入れをしてくるのは、異例中の異例だ。王都であぐらをかく貴族たちは大喜びだろうし、他国も多少の警戒はするだろうが、時が経てば帝国と姻戚関係を結んだラウシュリッツにすり寄ってくることとなるだろう。もしこれを断れば、貴族たちの非難はすさまじいものになり、シュエラが王妃になるどころの話ではなくなる。また、断りを入れたことが他国に知れ渡れば、身の程知らずとそしられ外交に支障をきたすかもしれない。
 それ以前に、これは交換条件なのだ。
 シュエラを人質として帝国に渡さなければ、難民を引き渡し再度交渉に臨むか、帝国との戦争を覚悟しなくてはならない。
 シュエラを王妃にしようとしていた矢先に、このようなことになるとは。
 表情に苦渋をにじませるケヴィンに、ヘリオットは腰に手を当てため息をついた。
「俺が行こうか? おまえは、旅で疲れてるだろ?」
 ケヴィンは小さく首を横に振った。
「いや、わたしが行く。彼女を実質的に後見しているわたしの義務だ。それに、彼女にはまだ選択権がある」
 言葉にしなくても、それが何なのかヘリオットは察したのだろう。
「ああ。そうだな」
 目を伏せて肯定する。その様子から、ヘリオットも彼女がもう一つの選択を選ぶとは思っていないと知れた。
 話すことが終わったのなら、ぐずぐずしていても仕方ない。

 国王であるシグルドが国のために愛する者を他国へ渡さなくてはならないのなら。
 その選択を避けられないのならば。
 ケヴィンたち側近のできることは、独断で動き国王の反対を押し切ってシュエラを帝国に渡すことで、少しでも罪悪感を取り除くことだけ。

「こちらのことは任せた」
「おまえこそ、そっちの方を頼む」
 うなずき合い部屋を出ると、ケヴィンは小走りに階段へと向かう。

 ヘリオットは姿が見えなくなるまで見送って、それからゆっくりとシグルドの居る部屋へと足を運んだ。


   ──・──・──


 扉が開く音に、シグルドは我に返った。
 会談は終わったのだろうか。
 自分がいつどのようにしてこの部屋に入ったのか、それすらも覚えがない。
 この部屋には見覚えがあった。むきだしのレンガの壁に軍旗がかけられ、簡素な書棚と執務机が置かれただけの部屋。三年前兵を引きあげる際に、一時期この部屋に滞在した。砦の最高責任者、王国軍の総指揮官の居室だ。
 執務机の椅子に座っていたシグルドは、たった今入室してきたヘリオットに目を向けた。
「会談は……」
 頭が回らず、問いかけの言葉はそこで途切れてしまう。
 ヘリオットは小さくため息をついた。
「やっぱり覚えてないんですね。──とりあえず考える猶予を取り付けました」
 考える猶予? そんなもの、あっただろうか?
 シグルドがレナードの孫娘を王妃にしシュエラを帝国に渡さなければ、あの会談は破棄されるのだという。
 シグルドにとって、シュエラが弱点であることを見抜かれてしまった。
 シュエラを渡したくなどない。だからといって難民を放逐するのでは、信頼してくれた難民に対する酷い裏切りであり、善行を主張してきたラウシュリッツは他国から非難を浴びることになるだろう。
 レナードの意図が見えてきたように思う。
 シグルドを徹底的に屈したいのだ。不遜な態度を取ったシグルドへの私怨ということはないはずだ。思い返してみれば、レナードは会談の最初からあの話を持ち出そうと機会をうかがっていたよな気もする。
 弱小国の王に孫娘との結婚を持ちかけてまで、追い詰めようとする理由がわからない。帝国と近接するわけではない小国を相手に、皇帝レナードは何を考えているのか。

 シグルドはふと気付き、訊ねた。
「ケヴィンはどこだ?」
 返事はなかった。侍従と近衛は困惑した顔をしてヘリオットに目だけを向ける。
 シグルドを含めた全員の視線を集めたヘリオットは、ただ弱ったような笑みを浮かべるだけだった。
 シグルドは立ち上がる。引かれなかった椅子は、シグルドのふくらはぎに当たって後ろに倒れた。
 耳障りな大きな音。
 それに構わず、シグルドは猛然と扉に向かう。
 シグルドの進路を、ヘリオットは体を張ってさえぎった。
「落ち着いてください。話をしに行っただけです!」
 シグルドはこぶしを振り上げる。
 こぶしは鈍い音を立ててヘリオットのあごに叩き込まれ、ヘリオットは後方へと吹っ飛んだ。
「話をしに行っただけだと? それだけで済むわけがないじゃないか!」
「陛下を取り押さえろ! 何としても外に出すな!」
 床に転がり、殴られた頬を押えつつヘリオットが怒鳴る。
 侍従と近衛がシグルドの両腕を掴み、背後から拘束する。
 シグルドはそれらの手を振りほどこうとがむしゃらに暴れた。
 
 場を収めるために恥辱を耐え忍んでドレスを引き裂き、元王太子の身柄を隠すために自らの部屋に初対面の男性をかくまった。
 ──『陛下には愛妾が必要だ』──ケヴィン様のこの言葉を聞いて、わたくしは陛下のお側に上がりたいと思ったのです。
 愛妾がどんな立場であるか理解した上で、愛妾になりたいとほほえんだ。
 冷たく当たってくる侍女たちをかばい、お茶の席で家族のためにレースを編む。
 シュエラは、話を聞いたら絶対に自分が行くと言い出す。他の者を犠牲にするくらいなら、自分から名乗り出る。

 お願いだから、これ以上彼女に酷を強いないでくれ!
 押さえ付けに抗しきれず膝を突きながら、シグルドは渾身の力を込めて叫んだ。
「シュエラ──!」
***あとがき***
滔々は「とうとう」と読みます。いくつか意味はありますが、ここでは次から次へとよどみなく話す様子を表しています。


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