6-13 皇帝の真意
皇帝だけでなく、気付いてみればここは坂の途中で、大勢の兵士たちが遠巻きに集まっていた。
さきほどまでこの坂には居なかったほどの人数だ。きっと大声に何事かと集まってきたのだろう。シュエラが背後を、坂の下の方を見れば、帝国軍の兵士らしき人々が上がってきている。
これだけ大勢の人々に怒鳴り合いを聞かれてしまったかと思うと、恥ずかしさに顔がほてってくる。
しかも、シュエラはシグルドの頬を叩いてしまった。横顔を見せるシグルドの頬が赤い。
国王に手を上げるなんてなんという無礼を!
真っ赤になった顔を急激に冷やし、シュエラは冷や汗をかきそうなほどに青ざめる。
──・──・──
シュエラが赤くなったり青くなったりしている側で、シグルドはぽかんとしながらまだ笑い続けている皇帝レナードに見入っていた。
面白がりな雰囲気は最初から感じていたが、こっちは真剣なのにそこまで笑い転げるのは失礼にもほどがある。
シュエラと二人だけの世界からいきなり引き戻された衝撃から覚めてきて、シグルドはむっとしながら口を開いた。
「レナード皇帝……」
膝を叩きながら笑っていたのをやめ、レナードは目尻を指の背で拭いながら顔を上げる。
「いやー、久しぶりに大いに笑わせてもらった! 笑いというのはこう、心が洗われるようでよいな」
「レナード皇帝、ふざけるのも大概にしてもらいたい」
腹立ちを込め脅すように言うと、頬をひくつかせながらレナードは言った。
「少しくらい笑わせてくれてもよいではないか。その代わり儂の本心を聞かせてやろうというのだから」
「──え?」
ぎくっとしてシグルドがつぶやきをもらすと、レナードはにやり笑ってみせる。
「ここ一週間のことは、それが目的であったのであろう?
行為とは目的の裏返しでもある。何でも教えるということは、質問の内容からこちらの意図を探ろうとしていたと解釈したのだが、違ったか?」
見抜かれていたのか。
奥歯を噛みしめうつむくシグルドの肩を、レナードは親しげに叩いた。
「落ち込むことはない。この老人に少しは花を持たせてくれねば困る。長い話になるだろうから、天幕に戻ろう。──愛妾殿も同席されるがよい」
レナードが歩き出すと、進行方向に集まっていた兵士たちが慌てて道を空ける。
シュエラも一緒に?
レナードはどのような話を聞かせようというのかわからないが、このままここで悩んでいても仕方ない。
不安げに見上げてくるシュエラにうなずき、シグルドはシュエラの背に手を回して一緒に坂を降り始めた。
──・──・──
何の話? 本心?
ついさっきここに到着したシュエラには、何の話なのかさっぱりわからない。
緊張から解放されたせいか、今になってシュエラの体はがくがくと震えだした。
震える足が小石にすべり、転びそうになる。
背中に回っていたシグルドの腕が、とっさにシュエラを支えてくれた。
「も、申し訳ありません……」
シュエラは地面を踏みしめ体を起こしたのだが、腰に回ったシグルドの腕は離れていかなかった。また転びそうにならないよう、支えてくれているのかもしれない。
ダンスでもないのに人前でこのように密着するのは恥ずかしかったが、シュエラはおとなしく従い、シグルドとともにテントに入った。
兵士たちは皇帝やシュエラたちの移動に合わせてテントのところに集まってきていた。足音は騒がしいものの、誰一人として口を開かない。
テントに先に入った皇帝は、難儀そうに椅子に座った。
かくしゃくとしているようでいても、やはり寄る年波の影響は避けられないのかもしれない。
シグルドはそのことに気付いていないかもしれない。シュエラの足元ばかり気にして皇帝を見ていなかったから。
もう一つの椅子の側まで近づいてきたシグルドは、ようやく顔を上げて背もたれのある椅子に腰を落ち着けた皇帝を見た。
「妾妃をこの席に座らせたいのだが、よろしいか?」
この場に椅子は二つしかない。そのうちの一つにシュエラが座るとなると、シグルドは立っていなくてはならないということになる。
転びかけたことで心配させたのだろうか。
「あの……わたくしは立ったままで」
シュエラは慌てて遠慮するのに、レナードは鷹揚に答える。
「貴殿の席だ。好きにされるとよい」
シグルドはシュエラを椅子の前に押しやって、肩を押さえ強引に座らせた。
いろいろと居たたまれない思いがする。
一介の妾妃なのに、国王を差し置いて着席してしまったこともだけど。
さきほどの話と雰囲気からわかる。これから始まるのは重要な話だ。にもかかわらず皇帝の対面に座るのがシュエラでいいのだろうか。
それにさきほど皇帝に口づけされそうになったことを思い出して、まともに顔を見られない。
どうしても顔を上げられないでいると、肩にそっと手が置かれた。
椅子に寄り添うように立ったシグルドが、シュエラの肩に手を置いている。ただそれだけのことなのに安心が胸を満たしていく。
シュエラがシグルドを見上げほっと肩から力を抜くと、シグルドはシュエラに温かな視線を向けてから、厳しい表情を皇帝に向けた。
「さっそく貴殿の本心とやらをお聞かせ願おうか」
シグルドの硬い声に、シュエラは緊張を思い出す。
「慌てるな。順を追って説明しよう」
背もたれと肘かけに体を預け、緊張を削ぐような柔和な表情をして、皇帝はゆっくりと語り出した。
「レシュテンウィッツの内乱がはじまったのは十一年前。内乱がはじまって間もなく、レシュテンの貴族を援護する名目で各国が参戦し、戦乱に発展していったことは覚えていよう。
周辺諸国がこぞって参戦したにもかかわらず、レシュテンと接する国の一つである我が国が今頃になって参戦したのは何故だと思う?」
シグルドが口元に軽く握ったこぶしを当て、考え込むようなしぐさをして答えた。
「それは……様子見をしておられたか──あるいは、貴国に限ってあまり考えられないことだが、その余力がなかったということか」
皇帝は肩を揺らして小さく笑う。
「その“あまり考えられないこと”が主な原因だ。
我が国はレシュテン内紛の開戦当初、東方の部族との戦いや南西で起こった国同士の小競り合いに軍を差し向けていて、レシュテンにまで軍を差し向ける余力がなかった。そうしているうちに周辺諸国がレシュテン内紛に参戦して状況は泥沼化し、簡単に手出し出来る状況ではなくなってしまったのだ。そこで下手に手出しをするのをやめ、東と南西の紛争を解決し軍をまとめてから介入することにした。
我が国が参戦してすぐ、人質集めに奔走していたことは知っておろう?」
「あ、ああ……」
シグルドは歯切れ悪く返答する。
答えにくいだろう。その情報がもたらされるきっかけとなったのが、元王太子、シグルドの異母兄の救出だったのだから。
こちらの動揺に気付いていないのか、気付かぬふりをしたのか、皇帝は何事もなかったかのように話を続ける。
「あれは各国からレシュテン介入の名目を奪う作戦だった。各国はレシュテンの貴族を保護し、その貴族の要請を受けてという対外的な名目を作って、レシュテンの地に進軍してきていた。
儂はそれを逆手に取り、各国の要人をその国が保護するレシュテンの貴族と交換していったのだ。間諜を使いそのための下準備を進軍前に進めておいたため、人質の確保は容易に進み、各国とほとんど交戦することなく軍を引きあげさせることができた。
──ところが、一筋縄ではいかない相手がここに居たわけだ」
皇帝は軽く手を上げてシグルドを指差す。
「余が……?」
シグルドが戸惑いの声をもらす。
シュエラにもさっぱりわからなかった。
ラウシュリッツ王国は三年も前に戦乱から手を引いている。もう関係ないはずなのに。
皇帝は愉快そうに口元を歪めた。
「貴殿はあろうことか難民という大量の人質を手に入れた。しかもそれを人道的措置であると対外的に知らしめて。民草であっても万という数になれば、レシュテンに攻め入る十分な名目となる」
シュエラの肩に置かれたシグルドの手に、ぐっと力がこもった。
「待ってくれ! 余はそのように考えて難民を保護したわけでは」
「それを誰が信じると?」
厳しい口調で、皇帝はシグルドの言葉をさえぎる。
「国益を無視して他国の民を助けるなど、国の方針として考えられない。難民たちの土地を取り戻すという名目で攻め入ってくると考えた方が、よほど納得できる」
善行として行われていたはずのことが、そのように帝国を警戒させてしまっていたという事実に、シュエラの胸は締め付けられた。
国というものの在り方の常識によって、人を助けたいという善意がねじ曲がって伝わってしまう。
シグルドは返す言葉がないようだった。椅子に寄り添うように立つ彼をそっと見上げれば、呆然とし青ざめたようにも見える表情が視界に入る。
沈鬱な雰囲気を壊そうとするかのように、レナードは急に明るい声を出した。
「そうではないということは、ここ一週間の間にはっきりしたがな!」
シグルドははっと顔を上げる。
「え? では」
シグルドの発言を、皇帝は軽く手のひらを上げて止めた。
「そう逸るな。残りの話もさせてくれ」
坂の途中に建てられたテント。その周りには数えきれないほどの両軍の兵士たち。
なのに彼らからは、声一つ、吐息の一つも聞こえない。
誰もが息を詰めるように、急きょ始められた会談の成り行きを見守っている。
その中でレナードは、ただ一人くつろいだ様子で話し始めた。
「我が軍はレシュテンの戦乱の平定を終えた。できれば戦後処理の兵士を残して他は引きあげたい。だが、引きあげたと同時に貴国が攻めてきたとしたら、帰路から取って返さなくてはならなくなる。大人数の移動はひどく消耗する。戦争をしなくてはならないのなら終わらせてから帰路につきたい。
そのために貴国に揺さぶりをかけたのだ。我が軍を見せつけて難民返還を要求し、それでも動じる気配がないため、貴殿が砦に到着したのを見届けて軍をけしかけた」
「では、あのときの交戦は……」
皇帝はにっと笑う。
「脅しのつもりであったから、もともと壕の内側にまで進軍する指示は出していない。だが、貴国は攻め入られると思いこんで必死に応戦していた。そして貴殿は、砦の外に居た難民たちを犠牲にすることなかった。混乱に陥った難民たちを鎮め誘導したその手腕は大したものだった。
だからこそ儂はよりいっそう警戒を強めた。人心を掴む術を心得る人物ほど、戦略において恐ろしいものはないからな。その統率力から生み出される戦力は、個人の力を何倍に も何十倍にも引き出す。
それゆえに話し合いの場を設け、貴殿自身に揺さぶりをかけることにした。その作戦は見事成功した」
皇帝が思わせぶりな視線をシグルドに向ける。シュエラが見上げてみると、シグルドはいまいましそうな顔をして歯を食いしばっている。
何の話をしているのか気になったけれど、皇帝が話を再開したのでシュエラは正面を向いた。
「愛妾か、難民か、兵士──つまり国をか。何を犠牲にするかとくと見させてもらった。貴殿はそれらを選ばずして、貴殿を屈服させ意のままにしようとした儂の思惑を跳ねのけた。
自らの本心をさらけ出すという、一歩間違えば国をさらに窮地に追い込む方法を使ってな」
これはどういうことだろう。
いきさつをろくに知らないシュエラには、何が何だかさっぱりわからない。
和平はどうなったの? 人質交換の件は?
シグルドを見上げようとしたとき、皇帝がさらに言葉を重ねる。
「百戦錬磨のこの儂を下すとは、貴殿は大した者だ。しかし王たるもの、傍らに王妃がおらぬでは恰好がつかぬぞ?」
もしかしたらと期待に胸膨らんだが、やはりそう簡単にあの話はなくならないらしい。
皇帝の孫姫がシグルドの王妃になり、シュエラは帝国でシグルドではない相手に嫁ぐ。
シグルドと会ってしまったからこそ、なおさら別れがつらい。
肩に置かれたシグルドの手を、シュエラはギュッと握りしめる。
が、皇帝の口から思わぬ言葉が飛び出した。
「ときにシュエラ殿、そなたには確かラウシュリッツ王国の三公の一つ、クリフォード公爵の後見をお持ちだったな」
「は、はい……」
わけがわからないまま、シュエラは返事をした。
これは今しなくてはならない話なのだろうか?
シュエラの混乱をよそに、皇帝は背もたれから体を離し身を乗り出すようにして話を続ける。
「だが、そなたの父はペレス公爵の派閥の者、その娘であるそなたには最初からペレス公爵の後見がある。これではもう一つの三公ラダム公爵が仲間外れだ。それは国の均衡を崩しかねない。そこで提案したいのだが、どちらかの公爵の後見を外すのではなく、そなたの後見にラダム公爵も加えてみてはどうだろう?」
「は、はぁ……」
別にかまわないけど、向こうが嫌がるのではないだろうか。
混乱のあまり、シュエラはどうでもいいことを考えてしまう。
シュエラの返事に、皇帝は上機嫌になって言った。
「そこでだ。儂もそなたの後見に加えてもらいたい。三公に帝国皇帝の後見、これだけそろえばうるさい貴族共も黙るであろう?」
皇帝が何を言いたいのかわかってくると、シュエラはますます混乱した。
何故皇帝がそのようなことを言い出すのかわからない。一度はシュエラを要求した皇帝が。
返答できないでいるシュエラの代わりに、シグルドが口を開いた。
「それはつまり」
シグルドの言葉の続きを、皇帝は強引に引き取る。
「シュエラ殿は強力な後見を携えて堂々とシグルド国王の王妃となるがよい」
「え……? それでは貴殿の孫姫を余の王妃に迎えるという話は?」
困惑に、シグルドの声は弱々しくなる。そんなシグルドに皇帝はにやにやと笑った。
「それは撤回するに決まっておろう。一人の女に執心するあまり大ばくちに打って出るような男に大切な孫娘をやることはできん。その代わり、貴殿が儂の後見するシュエラ殿を王妃に迎えることを和平の条件とする。不服はあるか?」
「い、いや……」
シグルドがしどろもどろに返事すると、皇帝は自らの膝をぱんと小気味いい音を立てて叩く。
「それでは和平成立だ!」
そのとたん、周囲からいっせいに歓声が上がった。
両軍ともに拍手喝さい。
「皇帝陛下万歳!」
「国王陛下万歳!」
その声に圧倒されていると、シグルドが急に目の前に回ってきて、シュエラの両の二の腕を掴んで立たせる。シュエラに喜びに輝いた笑顔を見せると、シグルドは勢いよく抱きしめて、額に口づけた。
兵士たちの歓声がいっそう大きくなる。
その中でシュエラは、目まぐるしい状況に頭がついていかず、戸惑いの笑みを浮かべるばかりだった。
──・──・──
「今日はもう遅い。詳しい話は明日から詰めていくことにしよう」
歓声の中で皇帝がそう宣言すると、帝国兵たちは先を争うように坂を下り始めた。
辺りはすっかり薄暗くなっている。
それに気付かないまま目の前で行われていた会談に聞き入っていたことに、セシールは驚きを感じていた。
しかし、その驚きは不快なものではない。
何もかもが解決したという爽快感が、セシールに深く長く息をつかせる。
が、心が軽くなった気分は長くは続かなかった。
傍らから離れていく人が居る。
「急いで持ち場に戻れ!」
セシールから離れていき、腕を振り上げ指示を飛ばすのはヘリオットだ。
シグルドとシュエラを追って皇帝や兵士たちが移動するさなか、ヘリオットはセシールの肩を抱いて他の者たちからセシールを守ってくれた。
場がテントに戻った際も、セシールを連れてテントの隅に入り、ずっと隣に立っていてくれた。
でも一度もセシールの顔を見てくれなかった。
怒っているのかもしれない。
シュエラに真摯に仕えるセシールを好きになってくれたんだと思う。だけどセシールが、ヘリオットよりシュエラを優先したから。
そう思うと、せっかく帝国に行かなくても済んだのに気分は果てしなく落ち込んでいく。
このことが原因で嫌われたらどうしよう。
別れになることを覚悟してシュエラについてきたというのに、帝国に行かなくても済んだとたん、別れたくないという欲が生まれる。
「セシール? どうしたの?」
シュエラが心配して声をかけてくれる。
セシールは慌てて返事をした。
「も、申し訳ありません。何でも──」
言葉が途中からかき消えた。
振り返ったヘリオットに射すくめられて、息すらも止まってしまい。
ヘリオットの無表情が恐い。
ヘリオットのセシールに対する無関心が。
どのくらい見つめ合っていたのか。
セシールの目の前に立ったヘリオットが、ふっと笑みを浮かべた。
「もしシュエラ様についてきてなかったら、別れなきゃならなかったかもしれないよ。──俺もシュエラ様について帝国に行くつもりだったから」
セシールは口元を押さえて息を飲んだ。
ヘリオットが苦笑して、両腕を広げる。
歓喜の涙をこぼしながら、セシールはヘリオットの胸に飛び込んだ。
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