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7-5 COMMUNICATION
 外は月明かり。窓から入り込む夜風は、背中に流れていたシュエラの髪を宙に舞わせ、ドレスの袖を揺らした。
 窓の外から逆光を受けたシュエラは、扉の前で振り返ったシグルドをまっすぐに見つめる。

 これ以上ないくらい大きく目を見開いて、シグルドはシュエラを凝視していた。
「な……にを言ってる……?」
 かすれるシグルドの声。
「言葉の通りです。陛下がわたくしと一緒に居られることをご不快と思われるのでしたら、わたくしはここから出てゆきます」
 シュエラは震えそうになる声に力を入れる。
 シグルドにちゃんと聞こえるように。
「……ここは三階だぞ? 死ぬ気か?」
「そのようなつもりはありません。何とか壁を伝って下まで降ります」

 正直、そんなことができるとは思っていない。
 卑怯だと思う。自分を楯に取って情けを得ようだなんて。
 でも、今はそんな方法しか思いつかない。
 これでダメなら本気で降りるだけだ。

「おまえは俺に抱かれたくなかったんじゃないのか?」
 シグルドから低い声がつむがれる。
 怒っている、間違いなく。
 怯みそうになる自分を奮い立たせ、訴える。
「そんなこと、申し上げておりません」
 シグルドは怒りの表情をあらわにして怒鳴った。
「なら何故あのとき、俺を拒んだ!?」
 その言葉はシュエラの胸に突き刺さり、シュエラは表情を歪める。

 やっぱり言わなければならないのね……。

 そう思ってもすぐには思い切れず、うつむいて唇をかむ。
 すると荒々しい足音があっという間に近づいてきて、シュエラの腕がつかまれた。
 シグルドはつかんだ腕を乱暴に引っ張って、シュエラを窓際から引きはがす。
 有無を言わせない行為だった。
 跡がつきそうなほどシュエラの腕を強く掴んだまま、シグルドは大股に隣室へと向かう。シュエラはつんのめりそうになりながら、それを追いかけるしかなかった。

 引きずられるようにして入った隣室は、寝室になっていた。
 小さめの部屋に、シュエラがたまわっているのと同じくらいの大きさのベッドが半分近くの場所を占めて置かれている。
 サイドテーブルには煌々(こうこう)と灯るランプ。掛け布団がめくれ上がっていて、ベッドの横には分厚い本が落ちている。気付いてみればシグルドは、夜着にガウンを羽織った姿だった。

 ベッドに入って本を読んでらしたんだわ。

 そう思った瞬間、シュエラはベッドに突き飛ばされる。
 反射的に起き上がろうとしたところに、シグルドが覆いかぶさってきた。
 シュエラの横に片肘を置き、もう一方の手であごをわしづかみにして、乱暴に口づけてくる。無理やり唇を割られ深くむさぼられ、シュエラはまともに息ができなくなった。
 頭がぼうっとしてくる。

 長い口づけを終え顔を上げたシグルドは、シュエラの胸元に手をかけ、むしるように装飾のリボンを外した。装飾の内側に隠されていた、ドレスの合わせを閉じる紐をほどきにかかる。
 シグルドはシュエラに馬乗りになりながら、叩きつけるように言葉を吐いた。
「抱かれたいというなら抱いてやる! だが一度でも抱いたなら、俺はもうおまえを離さない!」
 シグルドの手は容赦なく、紐を通し穴から引き抜くたびにシュエラの上体はもちあげられそうになり、そのたびにシュエラの首はがくがく揺れる。

 そんな手荒な扱いを受けながらも、シュエラはほほえんでいた。
 うれしかった。
 ──俺はもうおまえを離さない!
 その言葉が聞きたかった。
 シュエラは最初から、シグルドのものになるために王城に上がった。

 もしかしたら出会う前から、好きだったかもしれない。
 父ラドクリフから聞く、新国王の功績と付きまとう苦難。
 そんな話を聞いているうちに、シュエラは会うこと叶わないはずだった人にあこがれた。
 ケヴィンから話がまいこんできたとき、実家のためもあったけれど、シュエラにも新国王のお役に立てると知ってうれしくて、両親を説き伏せよろこんで王城に上がった。
 でもそのときに心に決めていたことがある。
 決して好きにはならないと。
 シュエラの立場はしょせん妾妃。新国王を癒して差し上げ、お世継ぎをもうけるだけが役目。相手はすでに妻を持つ人、シュエラの立場は妻に優先されるものではない。
 それなのに好きになってしまい、好きになった人が他の人を大事にする姿を遠くから見ていなくてはならないなんてつらすぎる。
 だから自覚のないまま芽生え始めていた恋心を、心の奥に封じ込めた。
 でも、封じ込めたところでどうにもならなかった。
 あこがれだった人の生身の姿を見た。怒り、笑い、シュエラの膝で眠りこけ、真夜中の寝室で己のふがいなさを嘆いた。
 新しい姿を見れば見るほど、封じ込めたはずの気持ちはふくらんでいく。
 そしてシュエラが自らを辱めるしかなかったことに大泣きした翌朝、シュエラは恋を自覚したと同時に恋に破れ、また泣いた。
 恋をした人、シグルドには初恋の人が居た。
 幼馴染で、当時妻であり、でも結ばれなかった相手、エミリア。
 シグルドのエミリアへの親愛、信頼は、傍から見ていてもよくわかった。
 シグルドはエミリアのしあわせを願い、生還を果たした異母兄とともに、エミリアを戻ることのない旅路へと送り出した。
 今でもときおり、シグルドの口からエミリアの名前を聞く。きっと忘れられないのだろう。聞かせてもらった昔話では、お互いをどれだけ必要としていたか、ひしひしと伝わってきた。
 きっとシグルドの中から、エミリアへの想いは消えない。
 そしてシュエラは、生涯シグルドの想い人にはなれない。

 それでもいい。
 シグルドがシュエラを好きになることがなくても、傍らに在ることを許してくれるのなら。

 ようやくその願いが叶おうとしている。


 しかし次の一言に、シュエラは目をしばたかせた。
「おまえは俺のものだ! おまえが誰を好きでも、他の男になんかくれてやれるもんか!」



 ………………え?



 シュエラは夢心地から覚醒し、困惑した声で呼びかける。
「陛下」
「シグルドと呼べと言っただろう!?」
 紐をほどくことに集中しているシグルドは、シュエラの様子が変ったことに気付くことなく条件反射のようにいつもの言葉を繰り返す。
「シグルド様。あの」
「何だ!?」
 シグルドのいらいらした声が返ってくる。
 シュエラは首をかしげながら言った。
「わたくし、シグルド様の他に好きな方なんていませんけど?」
「……は?」
 シグルドが胸元の紐をほどく手を止めた。胸元に降ろしていた視線を上げ、まじまじとシュエラを見る。
「何て言った……?」
 シュエラはほんのり頬を染めながら言い直した。
「ですから、わたくしには他に好きな方なんていないんです」
 “シグルド様の他に”なんて、まるで告白ではないか。
 その部分を省いて答えると、シグルドは毒気を抜かれたような顔をしてシュエラの上から退いた。シュエラに半ば背を向けるように、隣に座って胡坐をかく。
「……なら何で、あのとき俺を拒んだんだ?」
 シュエラはシグルドの背中を見つめながも身を起こし、投げ出されていた足を引き寄せて横座りした。
「あれは……シグルド様がエミリア様にも同じことをなさったのだということを思い出して」
 シグルドは勢いよく振り返る。
「俺はエミリアを抱いてなんかない!」
「存じております。……ですが、もしエミリア様が拒んでらっしゃらなかったらと、はしたないことを考えてしまったんです」
 真っ赤になりながら、シュエラはシグルドの視線を避けるようにうつむいた。
 シグルドはそんなシュエラの頭頂を見下ろす。
「つまりおまえは、エミリアに嫉妬したということか?」
「それは……」
 シュエラは口ごもった。
「どうなんだ?」
 シグルドはシュエラの顔をのぞきこむように頭を傾ける。
 逃げられないとさとったシュエラは、やけになってわめいた。
「そ、そうです! 醜い女と思われるのでしたら、どうぞ存分に軽蔑なさってください! けど、心はどうにもならないんです! どうか思うことだけは許してください!」
 すっかり吐き出してうなだれてしまう。

 もうおしまいだ。今度こそ本当に嫌われてしまう。

 そう観念したころ、シグルドが肩を揺らして笑い始めた。
「あの……シグルド様?」
 何故笑い出すのか、シュエラにはさっぱりわからない。
 顔を上げると、今度はシグルドの方がうつむいていて、口元にこぶしを当ててくっくと笑い声を立てている。
 それだけでは足らなかったようで、とうとうのけぞって大笑いを始めた。
「あーはっはっは」
「シグルド様?」
 何がそんなにおかしいのか。途方にくれて見つめていると、不意にシグルドは笑いを止めた。
 驚くほどやさしい目をしてシュエラを見つめてくる。
「俺も嫉妬した。おまえのうしろに居もしない男の影を見て、気も狂わんばかりにな」
 え?
「それって……」
 呆然とするシュエラにシグルドは腕を伸ばして抱き寄せ、耳元にささやく。

「愛してる、シュエラ」

 夢にまで見た言葉に、目が回る。
 嘘じゃない?
 本当に?

 シグルドの腕がゆるみ、シュエラの顔をのぞきこむ。
「シュエラ、おまえは?」
 うろたえたシュエラはしどろもどろに言う。
「え? でも、エミリア様は? だって、エミリア様のことを聞いたら、初恋だったんだろうなって、陛下が……」
 シグルドは呆れたようにため息をつく。
「初恋のようなものだったろうなと言っただけだ。まったく……おまえまで異母兄上のように疑うのか。
 誓って言う。俺とエミリアの間には一度は恋に似た感情があったかもしれないが、今はもうそんな感情もない。同じような境遇を過ごしたという感傷と、エミリアが王妃として残していってくれた実績への感謝の念があるだけだ」
「……本当に?」
 信じられなくてつぶやくように言うと、シグルドは不機嫌に顔をしかめる。
「誓うと言っただろうが」
「だ、だって、信じられなくて……」
 にわかに信じられるわけがない。
「何故信じられない? だいたい、エミリアとの仲を疑うってことは、俺の気持ちを信じてなかったということだろ? あんなに迫ったのに何故気付かない?」
 あきれ顔のシグルドに、シュエラはむきになって反論する。
「せ、迫ったって、何をどう迫ったとおっしゃるんですか? それでわたくしのことをあ……す、好きでいらっしゃったなんて、わかりません!」
 自分のことを愛してるとも好きとも言いづらくて、シュエラは頬を赤らめつつ、つっかえながら言う。
 シグルドも応酬するようにむきになった。
「キスしたりそれ以上のこともしてきたじゃないか!」
「あれはわたくしを……その、慣らすためだけになさってるとばかり思ってたんです」
 真っ赤になって身を縮込ませながら言うと、シグルドも何故か赤くなってうろたえた。
「シュエラ……おまえまさか、キスとかが愛情表現だって知らなかったのか?」
「し、知ってましたけど、シグルド様のは違う意味だとばっかり思ってたんです」
 シグルドは盛大にため息をつき、うなだれる。
「何でそんな勘違いができるんだ……」
「……今まで言っていただいたことないんですもの」
 シュエラが拗ねた口調でぽそっと言うと、シグルドが顔を上げてきょとんとする。
「好きだと言ったことがなかったか?」
「一度だってありません」
「……本当に?」
 疑い深いシグルドに、シュエラはむくれて上目づかいににらみつける。
「わたくしがシグルド様のお言葉を聞き逃すなんてありません! ……ずっと欲しかった言葉をつぶやきだったとしても聞き逃すなんて、そんなこと……」
 何だか泣けてきた。
 今まで一体何だったんだろう。体調を崩すまでに悩んできた日々が、無駄だったかもしれないなんて。
 うつむきかげんに目尻にたまった涙をこらえていると、シグルドの大きな手がそっとシュエラの頬に触れてきた。
 目を上げると、悪かったと言いたげに眉尻を下げるシグルドの顔が目の前にある。
「言葉が欲しいならいくらでもやる。愛してるのはおまえだけだ、シュエラ。
 だから教えてくれ。おまえは俺のことをどう思ってる?」
 申し訳なさそうだった表情は、やがてとろけるような笑顔になる。

 シュエラによく見せてくれていた、シュエラの胸をときめかせてくれていた、あの笑顔。
 もう勘違いしたらダメと自分に言い聞かせることはない。

 シュエラはこぼれんばかりの笑みを浮かべ、想いの丈を込めて口にした。

「わたくしも愛しています、シグルド様」

 いっそう笑み崩れたシグルドが、もう一度シュエラを抱きしめる。
 シュエラはシグルドの背に腕を回し、ぎゅっと力を込めた。


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