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7-6 嵐が晴れた朝(あした)には
 ──シュエラ、おまえはいつから俺のことが好きだったんだ?

 ──はっきりしたことはわからないのですけど、多分シグルド様とお会いする前からだと思います。父から国の窮地を救ってくださったのがシグルド様だと以前から聞いておりまして、……それであこがれのようなものをそのころから……。

 ──はっきりと自覚したのは?

 ──……舞踏会のあった翌日です。そのときにはシグルド様がエミリア様を愛しておいでだと思っていましたので、恋を知ったと同時に失恋してしまったことを悲しく思っていたのです。

 ──すまなかった。もっと早く言っていればよかったな。

 ──何をですか?

 ──おまえが好きだということをだ。

 ──そ、そういえばシグルド様は? いつからわたくしのことを、その……お好きでいらっしゃったのですか?

 ──俺か? 俺もはっきりとは覚えてない。だが、自覚をしたのはおまえと初めてキスをしたあの日だ。

 ──父や弟たちを王城に招待してくださったあの日ですか? そんな前から……。

 ──そうだ。俺たちは互いに言葉が足らなくて時間を無駄にしてきた。これからは何でも話そう。俺はもう言葉を惜しんだりしない。おまえもそうしてくれ。

 ──はい……!


   ──・──・──


 遠くから人のざわめきが聞こえる。これは朝の忙しい時間を、人々が忙しく働いている声だ。

 その声に引っ張られるように目を覚ましたシュエラは、目の前にある顔にぎょっとしてしまった。
「おはよう」
「おっおはようございますっ」
 間近でやわらかな笑みを浮かべるシグルドに、シュエラは声を裏返してしまいながらあいさつを返す。

 昨夜のことが一気に思い出され、シュエラはかーっと赤くなった。

 そんなシュエラを見て、シグルドはうれしそうに目を細める。
「よく眠っていたな」
「そ、そうでしたか?」
「ああ。かわいい寝顔をずっと見ていた」
 シュエラは赤くなった顔をさらに火照らせた。
 かわいいなんて言われたの、エド兄さま以来かも……。
 額に口づけられ、その甘い感触がくすぐったく、シュエラは首をすくませる。
「そろそろ起きなければならないな。腹も減ってきたことだし」
 シグルドはシュエラの頭の下からそっと腕を抜き、ベッドの上に上体を起こした。シュエラはその背中から慌てて目をそらす。
 振り返ったシグルドが、不思議そうに声をかけてきた。
「どうした?」
「あ、あの、シグルド様の夜着をわたくしが借りてしまったので……」
 裸でいることに落ち着けなかったシュエラに、シグルドは自分がまとっていた夜着を着せてくれたのだ。
 素肌をさらしているシグルドは、自分を見下ろしてから再びシュエラを振り返る。
「そう恥ずかしがってくれるな。こっちも恥ずかしくなる」
 シグルドが体ごとシュエラの方を向こうとするので、シュエラは慌てて頭まで掛け布団を引き上げた。
 シグルドの動きにベッドが揺れ、掛け布団の上から重みを感じ耳の近くで声がする。
「頼むから顔を見せてくれ」
 これだけ近ければ体が見えることはないだろう。
 困ったようなシグルドの声に誘われシュエラがそっと掛け布団から顔を出すと、シグルドはシュエラの頬に手を添えて、シュエラの唇に口づけを落としてきた。角度を変え、深まっていく。
 ようやく唇が離れたとき、シュエラは空気を求め、深呼吸をしてしまった。そんなシュエラにシグルドは甘い笑みを浮かべる。
「愛している、シュエラ。おまえは?」
 夕べ何度も繰り返された言葉だけど、何だか気恥ずかしくてくすぐったい。
 シュエラははにかみながら答えた。
「わたくしも愛しています。シグルド様」


   ──・──・──


 シグルドはベッドから降り、素肌の上にガウンをまとい室内履きを履いた。
「侍女たちを呼ぶからここで待ってろ」
 シュエラにそう言い置いて寝室を出る。
 夜の内に閉めた窓を横目に、廊下へと続く扉に向かう。
 昨晩固定されて開くことができなかった扉は、思っていた通り朝はすんなり開くことができた。
 扉の正面で窓際に持たれ腕を組んでいたヘリオットは、顔を上げ腕をほどく。
「お早いお目覚めですね」
 シグルドは顔をしかめた。
「何の嫌味だ」
「嫌味だなんてとんでもない! もっとゆっくりなさりたいかと思っただけです」
 それが嫌味だと言い返してやりたかったが、下手に言えばからかいの餌食になるだけだとわかっているのでやめた。

 扉の近くで待機していたマントノン夫人に「入れ」と言って、シュエラの(もと)に向かわせる。 マントノン夫人はたくさんの荷物を載せたワゴンを押す侍女たちを率いて部屋の中に入っていった。

「おはようございます、陛下」
 扉の脇に居たケヴィンが、シグルドにあいさつの声をかける。
「このたびはおめでとうございます」
 そう言って丁寧に頭を下げたケヴィンに、シグルドは照れ隠しに顔をしかめた。
 これが一番嫌だったんだ。
 顔を上げたケヴィンは、まるで孫の成長をよろこぶ爺さんのように、目を細めてシグルドを見つめてくる。
 その視線がいたたまれない。

 主人たちを一室に閉じ込めるという暴挙をやらかしたのだ。きっとシグルドとシュエラの“話し合い”の結果を待ちわびていただろう。
 そしてヘリオットやケヴィンのあの様子からして、昨夜何があったのかバレバレなのだ。
 彼らには彼らの務めというものがある。だが、こうも筒抜けでは恥ずかしくて居心地が悪い。
 きっと今頃シュエラも同じ思いをしているだろう。
 シュエラ、悪いが耐えてくれ。
 シグルドは心の中で願った。

 隣室に着替えに向かおうとすると、後ろからケヴィンに声をかけられる。
「陛下。昨日おっしゃっておいでだったことを撤回するということでよろしいのですよね?」
 生真面目なケヴィンはわざわざ確認を取ろうとする。
 思えばシュエラを愛妾にしようとした際にも同じことをされた。
 恥ずかしさも相まって、シグルドは自棄になる。
「わかりきったことを聞くな!」
 廊下をどすどすと歩くシグルドの背後から、ヘリオットが大笑いする声が響いた。


   ──・──・──


 上体を起こしてシグルドを見送ったシュエラは、膝を引き寄せてその上に顔を伏せた。
 シグルドは以前、先は長いと言っていたが。

 本当に長かった……!

 それはもう、果てしなく思えるくらいに。口づけが深くなったり、胸を触られただけで飛び上がっていたシュエラに、シグルドがそれ以上のことを教えられなかった理由がわかるような気がする。
 あんなことを口で説明されてたら、きっと怖気づいてとっくの昔に逃げ出していた。
 でも。
 苦労の末ようやく結ばれたとき、体はつらくても心はたとえようのない幸福に満たされた。
 好きな人に求められ、それに応えることができたよろこびは、他の何物にも代えがたいように思う。
 お別れすることにならなくて本当によかった。
 心の底からそう思う。

 さてと。
 幸福に浸っていたシュエラは、顔を上げて気持ちを切り替える。
 部屋の中はひどいありさまだった。脱ぎ散らかされたドレスや下着、髪にささっていた飾りピンもベッドの下に散らばっている。
 昨夜は体がつらくて片づけられなかったが、この有様を侍女たちに見られてしまうのは恥ずかしいのでまとめるくらいはしたい。できたら自分でドレスを着直して……。
 そのとき扉がノックされた。
 ちょっと待ってと言う間もなく、扉が開かれてしまう。
 マントノン夫人を先頭に、女官見習いのセシールや侍女たちが入ってくる。狭い部屋のあちこちに散らばった物を避けて、横一列に並んだ。
「おはようございます」
 いつもと変わらないあいさつ。
 ……この部屋の惨状が気にならないのだろうか。
「お、おはよう……」
 拍子抜けしてあいさつを返すと、マントノン夫人が指示を出し始める。
「まずは床に落ちているものを片づけましょう。シュエラ様、片づけが終わるまでベッドの上にいらっしゃってください」
 気にしないだけでやっぱり目には入っていたようだ。……当たり前か。
 だらしなさに恥入っているうちに、マントノン夫人以外の全員で散らばっていたものをてきぱきと集め、部屋の隅に固め終えた。
 カチュアとフィーナが隣の部屋に行ってワゴンを押してくる。
「シュエラ様、ベッドからお降りになっていただけますか?」
 セシールに言われ、シュエラはベッドを降りた。ワゴンの上に用意された洗面器で顔を洗う。着替えをいたしましょうと言われ、シグルドに貸してもらっただぶだぶの夜着を脱がされる。
 目の前に立っていたセシールが、シュエラの胸元を見てうっすら頬を染めた。何事かと思い下を見れば、素肌の上に点々と赤いあざが散らばっている。
 シュエラは顔を真っ赤にして、今脱いだばかりの夜着をセシールから奪い取って胸元を隠した。
「ごごごごめんなさい。きょ、今日は一人で着替えさせてもらえるかしら?」
 ヘリオットと結婚したというセシールには、これが何なのかわかったのだろう。昨夜の事を知られてしまった気がして、恥ずかしくて出来たらここから逃げ出してどこかに隠れてしまいたい。
「シュエラ様、それは……」
 困惑したセシールは、シュエラとマントノン夫人を交互に見る。
 扉の脇に立っていたマントノン夫人は、シュエラの前に来て言った。
「王妃となられる方の務めです。慣れてください」
「は、はい……」
 慣れてくださいって、何に?
 疑問は浮かんだけれども、マントノン夫人の静かな迫力に気押されて、シュエラは思わずうなずいていた。


   ──・──・──


 着替えが終わり髪を結い直してもらうと、シュエラは三階にある別室に案内される。そこには朝食が用意され、シグルドは席に座ってシュエラを待っていた。
「お待たせして申し訳ありません」
「それはいいから。早く食べよう」
「はい」
 席に着くと保温器からよそわれたばかりのスープが目の前に置かれ、食事が始まる。

 食事の席は、思いの他静かになった。
 マントノン夫人と給仕のために残ったカレンとマチルダ、シグルドの側近のケヴィンとヘリオット、扉の横に侍従が一人。それにシグルドとシュエラの二人。これだけの人が居るのに誰一人しゃべろうとしない環境に、大家族でわいわい暮らしてきたシュエラには未だ慣れない。
 その上、以前はよく話を振ってくれていたシグルドも、今朝は無口だった。
 スープを飲み終えサラダを取り分けてもらう際に、ようやくシグルドがぽそっと口を開く。
「それだけでいいのか?」
「はい。何だかお腹いっぱいで」
 お腹いっぱいというか胸いっぱいというか。
 さきほどの着替えの一件もあるが、食事の席に控えているケヴィンやヘリオットの視線にも何やら見透かしたような雰囲気があって、それがいたたまれなかったのだ。
 行儀が悪いと思いながらも、みんなの顔が見られなくて次第うつむいてしまう。
 シグルドも居心地が悪かったのだろう。たまりかねたように言い出した。
「おまえら全員席を外せ」
「かしこまりました。国王陛下」
 ヘリオットが笑いをこらえたような声で応じる。
「ですが給仕の方は……」
 そう言ったマントノン夫人に、シュエラははっと顔を上げた。
「わたくしがいたしますから」
 そう言うと、マントノン夫人も少ししぶしぶといった様子ながら、カレンとマチルダをうながして退室した。

 全員が退室して扉が閉められたところで、シュエラはほっと息をつく。シグルドも同時にため息をついたことに気付いてそちらを見れば、ほっとしたような顔をしてシュエラを見ていた。
「お互い気づまりだったな」
「そうですね。ありがとうございます」
 やっぱりシグルドも気づまりだったのだ。何だかうれしくてほほえんだけれど、シグルドは残念そうに目尻を下げる。
「そのかしこまった口調をもっとくだけたものにしてくれないか? おまえとはもっと気安い会話を楽しみたい」
 実家で会ったときに言われたことだ。だけどそう簡単には“わかりました”と返事はできない。
 シュエラは言葉を選んで答えた。
「努力しますので、少し猶予をください」
 その答えに、シグルドは苦笑する。
「努力をしなければ気安く話せないのか?」
「当然です。国王陛下と仰いでまいりました方に、そんな急に無礼な口のきき方などできません。それに公との区別もありますし、使い分けは難しいんです」
 シュエラがきっぱりと言うと、シグルドもあごにこぶしを当てて考えるそぶりをする。
「公との区別か……難しいところだな。だが、シュエラには努力してもらおう。二人きりでいるときは俺たちは恋人同士──もうすぐ夫婦になるんだからな」
「は、はい」
 シグルドに甘い笑みを向けられ、シュエラは気恥ずかしくなってうつむき加減に視線をそらす。
 シグルドが席を立ち食事のワゴンに向かおうとしているのに気付いて、シュエラも慌てて席を立った。
「わたくしが給仕いたしますので、シグルド様はお座りになってお待ちください」
 シュエラの手が届く前に、シグルドはメインの料理を取り分けるトングを取り上げてしまう。
「いや、俺がやる。おまえに任せておくと、自分の分はほんの少ししか取り分けそうにないからな」
「そんなことをおっしゃって! もしかして以前お菓子を山のように積み上げたときのようなことをなさるおつもりじゃないでしょうね!」
「そういう手もあったな」
 にやっと口の端を上げるシグルドに、シュエラは思わず声を上げてしまった。
「シグルド様っ」
 日差しの差し込む明るい部屋の中に、シグルドの朗らかな笑い声が響く。


 食事のあと、シュエラが淹れたお茶をシグルドと二人、ゆっくりと飲み干す。
「そろそろ片づけをお願いしましょうか?」
 シュエラが言うと、シグルドは何を思ってか、席を立って窓際に寄った。
「シュエラ」
 窓際に呼ばれたのだと気付き、シュエラも席を立って窓際に近寄る。
「外を見てみろ」
 そう言ってシグルドが自分が立っていた場所を譲るので、シュエラはその場所に立ち窓の外を見た。

 そこには美しい景色があった。
 実り豊かに黄金にかがやく大地。それを縁取る緑の森。目線を下ろせば、王城の周囲に広がる石やレンガで造られた街並みが一望できる。

 息をするのも忘れそうなくらい見入っていると、シグルドがシュエラに頭を寄せるようにして窓の外を見た。
「おまえがここに来ることがあったら、見せたいと思っていた景色だ」
「美しいですね……」
「──ああ」

 しばらく見入っていたシュエラは、ふと思い浮かんだ言葉を口にする。
「この美しい景色は、この三年間にシグルド様がつくり上げてきたものなのですよね」
 どんな苦難にも負けず、自らは王にふさわしくないと嘆きながらも、シグルドはその責務を放り出すことなく国を治めてきてくれた。
 シュエラは傍らに立つシグルドを見上げた。
「シグルド様にこの国を治めていただいて、本当によかったです。シグルド様が治める国の民であることを、わたしは誇りに思います」
 見上げた先に、シグルドのいつくしむようなほほえみがある。
「その俺の横に立つのは、シュエラ、おまえだ。──この国を、俺と一緒に治めていってくれるか?」

 一緒に治める──それはシュエラが王妃になるということ。
 王妃になるということは、この人の妻になるということはこういうことだ。

 今のシュエラに、答えは一つしかない。
 この人とともに歩んで行こう。
 どこまでも、一緒に。

 シュエラは涙ぐみながら、しあわせに華やいだ笑みを見せた。
「はい。仰せのままに」

 シグルドは笑みを深め、シュエラの前に顔を傾け唇に口づけた。


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