人間関係は難しい [自己研鑽]
日曜日、友人と「人間関係って難しい」という話をしていた。
話といっても、メールでだが。
「人間、二人いれば争いが起き、三人集まれば派閥ができる」
という通りで、複数の人格が集まると、複雑な関係が生まれる。
物理学に「三体問題」という概念がある。
太陽系のような恒星と惑星が、万有引力で相互作用し合う場合の
惑星運行の問題が挙げられる。 太陽と地球のような二体問題は
厳密に解けるが、例えば月の運動も考える一般の三体問題以上に
なると解析的に解くことができない場合が多い。
限定された条件(制限三体問題など)では解が存在する。
明確な法則がある物理学の世界でも三体以上になると「難しい」
のである。
ルールも何もかも曖昧な人間関係での「三体問題」「多体問題」
が簡単な訳が無いのだ。
ニュートン先生も「天体の運動はいくらでも計算できるが、
人の気持ちはとても計算できない」と仰っている。
「三人寄れば公界」という言葉もある。
三人いる所で言ったり、したりしたことは、秘密にはできない
ということである。
また、「三人、市に虎をなす」という言葉もある。
誰か1人が町中で「虎だ!」と叫んでも誰も信じない。
誰かがそれに呼応して「虎が出た」と叫んだとしても、まだ
信じられない。 しかし、もう1人「虎だ!」と叫ぶと、人々は
逃げ出すという話である。
3人が同じ事を言えば、架空の話でも、事実として伝搬して
しまうのだ。
更に「嘘には足がない。だがスキャンダルは翼を持っている」
ということで、噂話は一気に拡がるのだ。
「巧言令色鮮し仁(こうげんれいしょくすくなしじん)」と
孔子さまも仰っている。
言葉を巧みに操る奴はろくなもんじゃないということだ。
ベラベラ喋ってはいけないのである。
しかし、派閥を作り、噂話をし、ただでさえややこしい
人間関係をより混沌に向かわせるのは人間の特性だ。
「君子の交わりは淡きこと水の如し、小人の交わりは甘き
こと醴の如し」という荘子の言葉を何度となく聞かされ、
菜根譚や論語を教わっている集団でも、この特性からは
逃れられてはいない。
グラシアンの言葉に「人に好かれるための唯一の方法は、
畜生のなかで最も愚かなものの皮をかぶることである」と
あるが、私は、愚者を装うのは嫌だ。
「口の虎は身を破り、舌の剣は命を絶つ」と十訓抄に
脅されようとも、「君子は行いをもって言い、小人は舌を
もって言う」と王陽明に諭されても、「話す」という人間の
特徴を放棄はしたくない。
では、どうすれば良いのだろうか?
一つの方向性としては「開き直り」かな?と私は思う。
「噂をされるより悪いことがひとつだけある。それは、
噂すらされないことだ」とオスカー・ワイルドは言っている。
噂されても気にしなければ良いのだ。
「百人のうち九十九人に誉められるは、善き者にあらず」
と武田信玄も言っている。
「十人が十人とも悪く言う奴は善人であろうはずがない。
だが、十人が十人とも良く言う奴も、 善人とは違う。
真の善人とは、十人のうち五人がけなし、五人がほめる
人物である」と孔子さまも仰っている。
どんなに正しき人でも、あーだこーだ言われるわけだ。
気にすることは無いのだ。
「アローの不可能性定理」という理論がある。
選択肢が3つ以上あるとき、定義域の非限定性、全会一致性、
無関係な選択対象からの独立性、非独裁性、これらのすべてを
満たす「社会的厚生関数」を作ることはできないのだ。
人間が作るシステム・関係に過度に期待してはいけないと
いうことだ。
アインシュタイン先生のように「僕は全く誰にも期待しない。
だから幸せなのさ」と達観するが得策ということなのだ。
開き直った上で、必要最小限の「留意」と「味付け」が
あれば良いのではないだろうか。
菜根譚に次の言葉がある。
「小人と仇讐することを休めよ、小人はおのずから対頭あり
君子 に諂媚することを休めよ、君子はもとより私恵なし」
つまらぬ相手とムキになってやりあったり、人格者に対して
媚びへつらうようなことは無駄なので止めておこう。
「私たちがみんなで、小さな礼儀作法に気をつけたら、
この人生はもっと暮らしやすくなる」とチャップリンは言った。
一定の礼節は持ち合わせるようにしよう。
「大抵の友情は見せかけであり、大抵の恋は愚かさでしかない」
というシェークスピアのご意見もあるが、達観はした上で、
友情にも恋にも期待はしたいものである。
友情や恋が幻だとしても、それが無い人生はつまらないので。
話といっても、メールでだが。
「人間、二人いれば争いが起き、三人集まれば派閥ができる」
という通りで、複数の人格が集まると、複雑な関係が生まれる。
物理学に「三体問題」という概念がある。
太陽系のような恒星と惑星が、万有引力で相互作用し合う場合の
惑星運行の問題が挙げられる。 太陽と地球のような二体問題は
厳密に解けるが、例えば月の運動も考える一般の三体問題以上に
なると解析的に解くことができない場合が多い。
限定された条件(制限三体問題など)では解が存在する。
明確な法則がある物理学の世界でも三体以上になると「難しい」
のである。
ルールも何もかも曖昧な人間関係での「三体問題」「多体問題」
が簡単な訳が無いのだ。
ニュートン先生も「天体の運動はいくらでも計算できるが、
人の気持ちはとても計算できない」と仰っている。
「三人寄れば公界」という言葉もある。
三人いる所で言ったり、したりしたことは、秘密にはできない
ということである。
また、「三人、市に虎をなす」という言葉もある。
誰か1人が町中で「虎だ!」と叫んでも誰も信じない。
誰かがそれに呼応して「虎が出た」と叫んだとしても、まだ
信じられない。 しかし、もう1人「虎だ!」と叫ぶと、人々は
逃げ出すという話である。
3人が同じ事を言えば、架空の話でも、事実として伝搬して
しまうのだ。
更に「嘘には足がない。だがスキャンダルは翼を持っている」
ということで、噂話は一気に拡がるのだ。
「巧言令色鮮し仁(こうげんれいしょくすくなしじん)」と
孔子さまも仰っている。
言葉を巧みに操る奴はろくなもんじゃないということだ。
ベラベラ喋ってはいけないのである。
しかし、派閥を作り、噂話をし、ただでさえややこしい
人間関係をより混沌に向かわせるのは人間の特性だ。
「君子の交わりは淡きこと水の如し、小人の交わりは甘き
こと醴の如し」という荘子の言葉を何度となく聞かされ、
菜根譚や論語を教わっている集団でも、この特性からは
逃れられてはいない。
グラシアンの言葉に「人に好かれるための唯一の方法は、
畜生のなかで最も愚かなものの皮をかぶることである」と
あるが、私は、愚者を装うのは嫌だ。
「口の虎は身を破り、舌の剣は命を絶つ」と十訓抄に
脅されようとも、「君子は行いをもって言い、小人は舌を
もって言う」と王陽明に諭されても、「話す」という人間の
特徴を放棄はしたくない。
では、どうすれば良いのだろうか?
一つの方向性としては「開き直り」かな?と私は思う。
「噂をされるより悪いことがひとつだけある。それは、
噂すらされないことだ」とオスカー・ワイルドは言っている。
噂されても気にしなければ良いのだ。
「百人のうち九十九人に誉められるは、善き者にあらず」
と武田信玄も言っている。
「十人が十人とも悪く言う奴は善人であろうはずがない。
だが、十人が十人とも良く言う奴も、 善人とは違う。
真の善人とは、十人のうち五人がけなし、五人がほめる
人物である」と孔子さまも仰っている。
どんなに正しき人でも、あーだこーだ言われるわけだ。
気にすることは無いのだ。
「アローの不可能性定理」という理論がある。
選択肢が3つ以上あるとき、定義域の非限定性、全会一致性、
無関係な選択対象からの独立性、非独裁性、これらのすべてを
満たす「社会的厚生関数」を作ることはできないのだ。
人間が作るシステム・関係に過度に期待してはいけないと
いうことだ。
アインシュタイン先生のように「僕は全く誰にも期待しない。
だから幸せなのさ」と達観するが得策ということなのだ。
開き直った上で、必要最小限の「留意」と「味付け」が
あれば良いのではないだろうか。
菜根譚に次の言葉がある。
「小人と仇讐することを休めよ、小人はおのずから対頭あり
君子 に諂媚することを休めよ、君子はもとより私恵なし」
つまらぬ相手とムキになってやりあったり、人格者に対して
媚びへつらうようなことは無駄なので止めておこう。
「私たちがみんなで、小さな礼儀作法に気をつけたら、
この人生はもっと暮らしやすくなる」とチャップリンは言った。
一定の礼節は持ち合わせるようにしよう。
「大抵の友情は見せかけであり、大抵の恋は愚かさでしかない」
というシェークスピアのご意見もあるが、達観はした上で、
友情にも恋にも期待はしたいものである。
友情や恋が幻だとしても、それが無い人生はつまらないので。
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人間関係は確かに、難しいですよね。
でも、万人に好かれる事は難しい事ですよね。
自分は、人間関係における自分軸をいかに構築し、相手に対して、それを活かしていくのかが大事かと思っています。
by sakubiwa (2011-02-26 00:26)