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高橋秀元
高橋秀元

日本の神々について独特な解読を進め、観念の技術をめぐって多様な執筆を続ける。 現在、編集工学研究所主任研究員。 出版、日本文化・観光・都市などの研究、地域振興や文化施設などのプランに携わる。 イシス編集学校で密教のヴァジラ(金剛杵)を冠した教室を開いたことから、「ヴァジラ・タカハシ」が仇名になっている。

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高橋秀元 バジラな神々

第7柱 国常立尊-6◎日本哲学の惨状と大本の金神

[第7柱 国常立尊]
2010年08月20日

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 1本のスピリチュアル・ポール(柱)を立て、これを“中心”とする「場」を宇宙・生命・霊魂、現代的にいえば、「物質」と「情報」が発生した「未分の世界」(混沌:カオス)と想定することは多くの人類に共通していました。その混沌の場を想定することで、この世はどのように発生したのか、人間はどのように創造されたのかというような問いをおこし、その多様な解答群とともに物語(神話)として保存したのです。このとき、「場」の外側から訪れて、「場」の形成のために働く多様な“未知”が神々として列挙されているともいえましょう。これは中国では社稷(しゃしょく)といいます。「社稷を立てる」ということは共同体を形成すること、国を立てることでもありました。これを日本語でいえば、そのまま「国之常立神」(クニノトコタチノカミ)です。

 

 このポールをめぐって発生した世界構造は社会の拡大ともに複雑な世界像を複合して巨大化し、ピラミッドやジグラッド、ゾロアスターの精神階梯やイグラドシル、仏教の須弥山や道教の崑崙(こんろん)のような観念宇宙ともなったのです。あるいはこれらをすべてくつがえして世界の外に唯一者(ゆいいつしゃ)を想定し、一挙に世界を創造したとする短絡(たんらく)も生じました。この短絡は“無”や“虚”のような“原初の混沌”(カオス)を嫌います。そのすごいところはとめどなく発生する問いを専門家にまかせることで、社会のおそるべき発展を可能にし、その答えがいきすぎるととり除くという“合理”を構築したことにあります。これは現代社会の“病理”ともなっているのです。

 

 聖徳太子の時代まで、日本列島にもスピリチュアル・ポールを立てたプリミティブな共同体の連合体が集散離合していました。そこに時代に応じて進歩、変化する儒教、仏教、道教などを導入し、神話の問いに対する解答を模索してきたといえましょう。「神道」はもともとあったのではなく、不断に編集されリファインされてきたのです。「神道」はたんなる“惟神の道”(かんながらのみち)ではなく、日本で構成された「宇宙と霊魂と倫理の思索」、すなわち儒教、道教、仏教の諸宗派、あるいはキリスト教の霊魂論をも巻きこんだ「日本哲学」に昇華しました。ところが、ごく単純にいえば、明治維新政府は日本人の霊魂の根源を天皇に収束し、江戸時代に成熟した藩や地域共同体に所属する民(たみ)を日本国民としてまとめようとしたのです。そのために構築されたのが「国家神道」でした。その短絡(たんらく)は西欧化の嵐にまぎれて、日本から「日本哲学」を奪いました。

 

 「国家神道」の名称は、明治23年(1890)に開設された帝国議会において、神社局と宗教局の公務を述べる用語として一般化します。神社局が管轄するのが「国家神道」、宗教局が管轄するのがキリスト教、仏教、教派神道などで、宗教団体の神道を「宗教神道」と呼称しています。宗教ではない「国家神道」が天皇崇拝と神社信仰を一体化し、強制的な“心の管理システム”となったことが“神道のトラウマ”になっているのです。これを脱するには独自に発生した神社と神々が、時代の要請を反映して複雑に変転しつづけた物語・歴史・祭祀・思想に関わる情報を復旧しつつ編集する必要があります。

 

 さらに根深い問題は、「国家神道」が“幽冥の議論”を禁じ、千年以上にわたって日本人がつちかってきた“宇宙と霊魂と倫理の思索”を排除したことにあります。これは「日本哲学」をアカデミックな研究から除外し、近代の「日本哲学」の先鋭的な部分が隠秘(オカルト)に傾いたのです。その結果、日本の大学に印哲、中哲、ギリ哲、あるいはフランス哲学、ドイツ哲学などはあれど、「日本哲学」が“失”(な)いという惨状を招き、今でも「日本哲学」は“無”(な)いという“常識的な非常識”がまかり通っています。「日本哲学」の復興によって、日本のアカデミズムは近代の呪縛から解き放たれるでしょう。

 

 「国家神道」が公用語となってきた明治20年代、これに危機感をおぼえた知識人も多く、民間にも心の異変が頻繁にあらわれましたが、「国家神道」への批判は封殺されていました。これに立ち向かおうとした気運が、国之常立尊(クニノトコタチノミコト)にして「艮の金神」(うしとらのこんじん)を掲げた「皇道大本」(こうどうおおもと)に結集しました。「皇道大本」は、その名を知られているわりには、近代史に位置づけて語られることはほとんどありません。ここでは、その込み入ったヒストリーを編集しておきたいと思います。「皇道大本」のイデオロギーは、明治21年(1888)、小学校の代用教員だった18歳の上田喜三郎(後の出口王仁三郎:1871~1948)と本田親徳(ほんだちかあつ:1822~1889)が丹波の亀岡王子(京都府亀岡市篠町)の梨木坂で出会ったことに端緒(たんちょ)しました。

 

 薩摩藩士だった本田親徳(ちかあつ)は京都の薩摩藩邸で狐憑きの少女が和歌を詠むのを見て、「神と霊と心の研究」に邁進(まいしん)します。親徳は水戸の会沢正志斎(あいざわせいさい)に弟子入りし、古神道を標榜する平田篤胤(あつたね)を訪れましたが、神道の理論(教理)はあれど、実証がないというので、40年もの間、神霊現象を体験して神道を研究したのです。そして神懸かりに36種(神憑り36法)、神界に181の階位、霊の種類に上中下の品位があることを体系的にまとめました。憑いた神を判別する「審神法」(さにわのほう)、邪霊を縛る「霊縛法」(たましばりのほう)を開発し、神道に用いられた「鎮魂」(ちんこん)、「帰神」(きしん)、「太占」(ふとまに)から、“神と霊と心の統一原理”にもとづく“霊魂のテクノロジー”(霊術)を取り出そうとしたのです。

 

 これは西欧化を進めながら、国家神道によって“帝国日本の心”を形成しようとする国策に鋭く対立しました。本田親徳(ちかあつ)は日本の西欧化を拒否し、皇法(こうほう:神道の霊学)を根本に、霊術を用いた神道政治を実現する“純粋な祭政一致による王政復古”を構想したのです。親徳の弟子の多くは西欧化する帝国日本において、皇法・霊術は懐旧的な癒しになると思っていたでしょう。これに失望した親徳は全国を遊説し、亀岡の不思議な少年の噂を耳にしてわざわざ会いにきたのでした。本田親徳の理論と実践は、少年が出口王仁三郎となり、皇道大本を率いるようになって顕在化します。

 

 上田喜三郎と本田親徳(ちかあつ)が出会った2年後、丹波の各地に神懸かりして狂躁状態におちいる女性たちが多数あらわれます。心理学的解釈によれば、これは文明開化の恩恵にあずかれず、むしろ近代社会の矛盾がのしかかり、未来を閉ざされた鬱屈による集団狂躁とされています。出口なお(1837~1918)の妹、福島ひさも発狂し、なおは神社や寺院、丹波に布教しはじめた金光教に治癒法を教わろうとしました。ところが、なおにも神懸かりの兆候があらわれ、さまざまな神封じ(かみふうじ)の効果もなく、明治25年(1892)2月3日、なおは霊夢を見て神懸かりしたのです。これが大本の立教の日とされます。

 

 少し出口なおの半生にふれておきますと、独身のころは桐村なおといい、祖父は福知山藩(京都府福知山市)に代々出口政五郎を襲名する御上大工(おかみだいく)で、苗字帯刀を許された家柄でした。ところが、父の桐村五郎三郎が家を傾け、なおは満8歳から糸つむぎの奉公に出て、寺子屋にも通えず、生涯、文盲(もんもう)でした。それでもなおは、嘉永2年(1849)、福知山藩主・朽木綱張(くつきつなはる:1816~1867)から藩内の三人孝女の1人として表彰されています。朽木綱張は近江膳所(おうみぜぜ)の藩主の次男でしたが、婿入りして福知山藩主となり、民意をえるために民間の孝行娘を表彰したのです。しかし藩政改革に登用した家臣が安易な増税策をとり、万延元年(1860)、大規模な百姓一揆がおこりました。しかも福知山藩は佐幕(さばく)を貫き、明治維新を迎えても、丹波の庶民は文明開化の矛盾にさらされ、その恩恵はおよばなかったのです。

 

 桐村なおは福知山城下の饅頭屋や呉服屋に奉公していましたが、綾部(あやべ:京都府綾部市)にいた叔母の出口ゆりの養女となり、安政3年(1856)、大工の四方豊助を婿養子に迎えました。豊助は出口政五郎を襲名しましたが、酒好きの浪費家で、明治政府が土地の売買を認めると、出口家の土地や田畑を売りはらい、明治17年(1884)ころには破産状態になります。なおは紙くず買い、糸ひきに出て、またもや極貧に落ち、三男五女を育てながら、未亡人となりました。なおは“明治維新の負の運命”を一身に背負い、同じような運命の女性たちをみつめてきたのです。

 

 出口なおに神が憑(つ)いたとき、腹に何かが宿って大声が聞こえ、なおが「だれか」と問うと、「艮の金神」(うしとらのこんじん)と答えたというのです。そして艮の金神は、なおに「三千世界を立て替(か)え立て直(なお)す神じゃぞ。三千世界一度に開く梅の花、艮の金神の世になりたるぞよ」といい、「とどめに艮の金神があらわれて三千世界の大洗濯を致すのじゃ。これからなかなか大謨なれど、三千世界を一つに丸めて万劫末代(ばんごうまつだい)続く神国にいたすぞよ」と託宣したと伝えられます。これは“神による革命宣言”です。しかし文盲のなおには、その漢語などの意味がわかりませんでした。

 

 なおは13日間、断食状態がつづき、法華僧の祈祷を受け、福知山の金光教会に憑いた神の由緒を調べてもらいましたが、憑いた神がなにかは知れず、乞食姿で遍歴し、狂躁状態になって叫び、奇行をくりかえしました。そして放火の疑いで警察に留置され、座敷牢に押し込められたのです。その牢獄で落ちていた釘(くぎ)をもち、憑依(ひょうい)した神が語りかける言葉を自動的に記すオートマティスム(お筆先)がはじまりました。出口なおは牢から出て、神の言葉をはじめは杭(くい)にカナクギで刻み、やがて紙に筆で書くようになります。これは平かなと数字で書かれましたが、周囲の知り合いは読めても何が伝えられているのか理解できなかったのです。

 

 出口なおは綾部で病気治しの祈祷をはじめ、「綾部の金神」と評判がたちます。ことに日清戦争開戦の予言が的中したことから、金光教が布教師の奥村定次郎を派遣し、明治27年(1894)、なおの信者を中心とした金光教綾部布教所が開設されたのです。そこに金光教の金神となおの「艮の金神」をあわせて祀(まつ)りました。けれども、なおのお筆先は止まらず、これを軽視する金光教との対立が深まります。そのころ、出口なおの三女ひさが京都内国勧業博覧会の見物客をあてこんで、綾部に小さな茶店を出しました。この茶店を奇しき神に導かれたかのように上田喜三郎が訪れるのです。

 

 上田喜三郎は本田親徳(ちかあつ)の“霊術”を試しながら、大石凝真素美(おおいしごりますみ:1832~1913)と交遊し、その思想を咀嚼(そしゃく)していました。真素美は幕末に密教を学び、勤王の志士と交流して明治維新に夢を託しましたが、廃仏毀釈に失望し、明治3年(1870)、国家神道を似非神道(えせしんとう)とののしって投獄され、出所して南宮大社(岐阜県不破郡垂井町)に附属する修験寺院、天上寺の山本秀道に弟子入りしました。そこに醍醐派修験道の「恵印三昧耶法」(けいいんさまやほう)、すなわち大日如来と合一する修法が継承され、これを応用して精神病を治療する「山本救護所」が開設されていたのです。「山本救護所」は近年、優れた成果をあげた日本初の精神病院として評価されはじめています。天上寺は実践的な霊魂の研究が可能な数少ない施設でした。

 

 大石凝真素美(おおいしごりますみ)は山本秀道とともに「恵印三昧耶法」を応用して独自な鎮魂帰神法(神人合一法)を開発したといわれます。これを用いて、真素美は「天津金木学」(あまつかなぎがく)をおこしました。「天津金木」は天照大御神(アマテラスオオミカミ)が岩戸隠れしたとき、神々が未来を占うために構成した装置の柱状の部品、伊勢神宮の真の御柱の霊体、宇宙の根本度量衡器とされていました。これを修法者が理想的に配置すると、造化三神と一体化してヴァーチャルな小宇宙を出現させ、宇宙の生成過程を見ることができるというのです。これはいわば“霊界テレビ”のようなもので、それを実現する思索の体系が「天津金木学」でした。さらに真素美は自然の表象を神が霊示する文字とし、これを読みとく言霊学(ことだまがく)を開発し、上田喜三郎を琵琶湖に招き、水紋にあらわれる啓示の文字(水茎文字:みずくきもじ)を判読する方法を伝えたといいます。大石凝真素美は、これらの研究のはてに神国(理想世界)を実現するための“弥勒下生による革命”を想定しました。これが皇道大本の実践論となるのです。

 

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「天津金木」の配列例

 

 このような霊魂研究と神道革命を模索していた上田喜三郎は亀岡で病気治しの祈祷師となり、「穴太(あのう)の喜楽天狗」と噂されます。これを伝え聞いた月見里神社(やまなしじんじゃ:静岡市清水岡町)に附属する稲荷講社のお札を配っていた三矢喜右衛門(みつやきえもん)が喜三郎を訪れ、長沢雄楯(かつたて)に会うよう勧めました。稲荷講社は本田親徳(ちかあつ)がネットワークした組織で、静岡に稲荷講社を結成した弟子の雄楯に「丹波から青年が訪ねて来ると道が開ける」と遺言し、鎮魂帰神法(神人合一の法)と審神学(さにわがく:憑いた神の判別法の研究)の奥義書を残していたのです。この奥義を習得した喜三郎に神が憑依(ひょうい)し、明治31年(1898)、その神は長沢雄楯の審神(さにわ)によって素戔嗚尊(スサノオノミコト)の眷族(けんぞく)、小松林命(コマツバヤシノミコト:牛頭天王)と判示されました。

 

 上田喜三郎は小松林命から「西北を指していけ」という神示をうけ、亀岡から西北に進んで綾部に入り、出口ひさの茶店に立ち寄ったというわけです。これが縁で上田喜三郎は出口なおと出会い、明治32年(1899)、稲荷講社の分会として「金明霊学会」(きんめいれいがくかい)を立ち上げます。翌年、出口なおは五女すみを大本の後継者とし、喜三郎をすみの婿に迎えたのです。そして出口喜三郎夫婦に長女直日(なおひ:3代教主)が誕生したとき、喜三郎の「喜」は世界を変革する「鬼」とされ、「鬼三郎」では直接的なので、「王仁三郎」(おにさぶろう)と改名します。王仁三郎は出口なおのお筆先を読み解き、編集しました。これが『大本神諭』(おおもとしんゆ)となるのです。

 

 『大本神諭』によって出口なおに憑(つ)いた神の由来が解読されました。それによれば、世界に鬼神が出入りする「丑寅」(うしとら:東北)の表鬼門を「厳の御霊」(いつのみたま)としての国之常立神(クニノトコタチノカミ)が管理し、「未申」(ひつじさる:南西)の裏鬼門に「瑞の御霊」(みずのみたま)としての素盞嗚尊(スサノオノミコト)が守護するというのです。『大本神諭』に示された歴史によれば、国祖として天皇家を守ってきた国之常立神は崇神天皇の時代に神隠れし、以降の日本は仏教、儒教、道教を受け入れて和光同塵(わこうどうじん)になったのですが、それらを日本化できたのも国之常立神の陰の支えがあったからだとします。そして明治維新を機に神国日本を立て直すために、国之常立神は出口なおに憑いてあらわれたというのです。これらの神々は世界を“みろくの世”に導くとされたのです。

 

 「みろく」について、『大本神諭』に収録されたお筆先に「みろくには、五六七と六六六の、仮名あるぞ、五六七は、世の善の映し、みな、この名を祝うが、六六六とは、世の悪の写し、みな、この名を呪うぞ」とあります。「五六七」は弥勒菩薩が悟りを開いて下生するのが5億6千7百万年後とされることから、「みろく」と解読されました。この神示の意味は国祖の国之常立神(クニノトコタチノカミ)が出口なおに憑いて、西洋では悪魔の数とされる「六六六」に象徴された悪神を招いて人々に呪われるが、これが「五六七」(みろく)となって世界を救済するとされたのです。すなわち、国之常立神が出口なおに憑いたのは、出口王仁三郎を媒介に荒ぶる素盞嗚尊(スサノオノミコト)を出現させ、世界を“みろくの世”に導くためだったと解釈されました。このような神諭の解読にもとづいて、出口なおの教団は皇祖の天照大御神と神祖の国之常立神が教示する天理人道の根本義、天下を統治する神法神則、人の世に処する根本法則を広める役割をになうとされたのです。

 

 こうして出口なおのもとに350人ほどが集まった「金明霊学会」は拡大を模索します。明治39年(1906)、王仁三郎は皇典講究所(現国学院大学)に入り、神職の資格をえて建勲神社(たけいさおじんじゃ:京都市北区紫野)に神主の作法を実習して、教団の祭祀を神社神道にそくするものに改め、教団名を「大日本修斎会」としたのです。こうして明治45年(1912)、綾部に信徒の祖霊を祀る祖霊社を設け、病気治しや占いなどの祈祷宗教から祖霊祭祀を中核とし、倫理・哲学・社会変革を喧伝する宗教教団への脱皮をはかりました。印刷所を設けて機関紙「敷島新報」(後の「神霊界」)を発刊するとともに、布教のため直霊軍(なおびぐん)を組織し、宣教を開始したのです。これによって短期間に信徒は10万人をこえ、大正2年(1913)、「大本教則」を整え、宗教神道の大本教(たいほんきょう)として認められました。そして大正5年(1916)、帝国日本が第一次世界大戦参戦によって好景気にわく中で、出口なおは亡くなり、2代教主すみと出口王仁三郎が大本のトップに立ち、教団名を「皇道大本」(こうどうおおもと)としたのです。その翌年、王仁三郎は「大正維新について」を著し、“皇道経済論”を展開しはじめます。

 

 大正8年(1919)、王仁三郎は寄金によって亀岡の亀山城を買収し、廃棄された石材を用いて「五六七殿」(みろくでん)などの神殿や修養所を建造しはじめます。この宗教施設は「天恩郷」と名づけられ、天主閣付近を聖地(至誠所)とし、これを遥拝する月宮宝座(月宮殿)を設けました。さらに綾部の本宮山を購入し、本宮山神殿の建設にとりかかります。その翌年、政府は株価や相場の暴騰、国際収支の赤字を見て金融引締めに出ました。ところが、第一次大戦の戦後不況が世界に広がり、政府の金融政策が裏目に出て株価、相場の大暴落、大量な企業倒産をひきおこし、失業者があふれ、帝国主義批判、社会革命の機運がおこります。こうした世情のなかで皇道大本は「大正日日新聞」を買収し、「明治維新は王政復古を実現したので、大正維新に神政復古を実現しよう」というプロパガンダを展開しました。王仁三郎の“皇道経済論”を背景とする「大正維新の神政復古」はなにを実現しようと主張したのでしょうか。

 

 それは国家家族制の採用と金銀為本政策の停止でした。明治18年(1885)、政府は銀と兌換する日本銀行兌換銀券を発行し、明治30年(1897)、貨幣法が公布され、帝国日本は金本位制に移行しました。出口王仁三郎はこの金銀為本政策の導入を機に、今風に言えば、最初のグローバル化を実行して「普通の国」(欧米と同列の国)になり、軍備を整えて戦争に勝ち、貿易を有利にする植民地政策に出て、弱肉強食の世界に生き残りをかけるようになったとするのです。その風潮は一般人にも行き渡り、だれもが金銀本位になって、所有する金額によって人間の価値が決まるという風潮がひろまり、ひどい地域格差、貧富格差を生じ、神国の美徳が失われたとします。この近代日本が抱えた問題はいまだに解決されていないといえましょう。

 

 これに対して出口王仁三郎は大胆な構想を提案します。それは天皇を“先天的な世界の大元首”と認め、天皇を中核とする祭政一致の政府に国民は土地や財産を政府に奉還しようというのです。その仕組みを概略すれば、国民はそれぞれの才能を発揮して働き、政府から必要な土地や経費を貸与されればよく、その成果としてえた余分の財をまた政府に奉還すれば、経済循環ができて経済成長するとします。そこに“税金”という概念はなくなり、必要以上に財をためこみ、働かないで利益をえるものも中間搾取や政府の無駄使いもなくなるというのです。だれも余分な財を所有しなければ、泥棒や凶悪事件もなくなり、地域に産するものを使えば(今の地産地消)、貿易や交易も必要なものを交換するだけになり、地域文化が健全に発展し、他国への侵略も不必要となって、軍備も過大にならず、傷病者や孤児、妊婦や寡婦、弱者や老人をケアすることなど、充分にできるとするのです。これはキリスト教社会において、資本主義の矛盾に対して構想されたサン・シモンやロバート・オーエンのユートピアと比較されるべきでしょう。

 

 王仁三郎は、明治維新に天皇の信用にかけて大名も四民も政治権力を奉還する「大政奉還」を実現した日本だからこそ、大正維新で「財産奉還」を実現できるとします。これによって帝国日本は「国家家族制」に移行し、人々は人生の意義を、財産を残すことから芸術や学問や技術を後世に残すことに見いだすようになり、“みろくの世”の第一歩がはじまるとするのです。そして日本の国家家族制が成果をあげれば、世界に財産奉還が広がり、天皇のもとに自主的に統合されていくとします。ところが、大正10年(1921)、大正日日新聞の社主でスピリチュアリスト(神霊主義者)でもあった浅野和三郎が社会変革を打ち出し、天変地異の予言によって信者を混乱させたという訴えによって、警察は不敬罪と新聞紙法違反の容疑で出口王仁三郎と教団幹部を検挙しました。そして王仁三郎の拘留中に武装警官隊が完成したばかりの綾部の本宮山神殿を破壊したのです。これは政府の違法行為でしたが、マスコミは皇道大本を国賊と書きたて、大衆もこれに迎合しました。

 

 この126日の拘留後に王仁三郎はトランス状態になり、『霊界物語』の口述をはじめました。これは7編に編集され、6篇は12巻、最終編8巻、「王仁蒙古入記」を加え、未完結の全81巻の長大な物語です。その物語は丹波という地域を全世界に投影し、エジプト、インカ、アメリカインディアンからバラモン教、仏教、道教、儒教、キリスト教におよぶ世界像を織りこみ、35万年前から紀元50世紀までの歴史書・予言書となっています。そこにスサノオ的な悪神が生まれ変わり、成り代わり、救世主となって世界を救済し、“みろくの世”を招来するというストーリーが展開します。これは皇道大本が過激に社会革命を実現する集団ではないという表明でもあったのですが、断続的に発行された出口瑞月編『霊界物語』はすべて発禁となったのです。その『霊界物語』の第6編に王仁三郎が蒙古に入って活躍する「王仁蒙古入記」が付されています。その経緯を少し解説しておきましょう。

 

 大本の第一次弾圧がおこった大正10年(1921)、蒙古は中華民国から自立したものの、西の辺境タンヌ・ウリャンハイにソビエト軍が侵入してトワ人民共和国を樹立し、蒙古国内は混乱していました。その翌年、中央アジアのイスラム系新興宗教、バハイ教の使者が皇道大本を訪れます。ここに王仁三郎は日本の神道から諸教同根、万教同根の世界宗教への脱皮を試行し、大正12年(1923)、大本エスペラント研究会発会を発足させ、世界に呼びかけはじめました。この年、関東大震災がおこり、国内が混乱する中、大本は中国、蒙古に深く根を下ろすラマ教との連携を試み、大本と共通のシャーマニズムによる中国の新興宗教、世界紅卍会(こうまんじかい)の使者が訪れ、朝鮮独立をめざす普天教に使者を派遣して連携が成立します。

 

 こうして満州、蒙古、中国の現状を実感した出口王仁三郎は大本本部に植芝塾を開いて合気道を工夫していた植芝盛平(うえしばもりへい:1883~1969)に相談し、“義経・チンギス汗伝説”になぞらえて蒙古を安定させ、要衝パインタラ(白音太拉)に皇道大本の本拠地を移す計画を実行に移します。これは蒙古を独立させ、ソビエト連邦におびやかされる諸民族を説得して中央アジアを平定し、西欧列強に蚕食(さんしょく)され、悲惨な境遇におちいったアフガニスタン、インド、イラン、メソポタミアからエルサレムまで進軍して世界統一宗教を実現するという壮大なプランの序曲としようというのです。

 

  王仁三郎は大本の信者だった元海軍大佐、満州で武器を商っていた矢野祐太郎夫人、矢野新(しん)に大陸渡航の手続きを依頼し、植芝盛平と数名の信者を伴い、大正13年(1924)、奉天に入りました。そして中国独立の志士、宋教仁(魯迅『狂人日記』の主人公)を助けて孫文の辛亥革命に参加し、玄洋社の社員でもあった末永節(すえながみさお:1869~1960)が主宰する肇国会(けいこくかい)の仲介で、蒙古独立に賛同する馬賊の頭目、盧占魁(ろせんかい)と盟約します。肇国会はバイカル湖以東のシベリア、満州、蒙古を大高麗国(だいこまこく)とし、中立国として独立させるために工作していたのです。盧占魁が率いる馬賊とともに蒙古高原に入り、蒙古独立を説きながら行進する王仁三郎を大活仏として迎える蒙古人も多く、ぞくぞくと独立軍に加わってきました。

 

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蒙古を行く出口王仁三郎(中央) 『入蒙記』より

 

 王仁三郎が率いる蒙古独立軍はパインタラを目前に外蒙古領有の野心を抱く軍閥、張作霖(ちょうさくりん)の討伐軍に捕捉され、王仁三郎は銃殺と決まりましたが、矢野祐太郎が奉天軍や特務機関(貴志機関:張作霖の軍事顧問)に嘆願し、日本領事館の介入によって救出されます。その背景に世界紅卍会や張学良(張作霖の息子)と兄弟の契りを交わして大アジアを構想していた怪人、堀川辰吉郎(ほりかわたつきちろう:1884~1966)のバックアップがあったようです。いずれにせよ、白系ロシア人の追撃と称して外蒙古に侵入したソビエト軍によって、ソ連の衛星国としての蒙古人民共和国が成立し、出口王仁三郎一行は強制送還されます。このとき、皇道大本を国賊と罵倒した政府もマスコミも国民も、一転して王仁三郎一行を英雄として迎えました。

 

 大正14年(1925)、皇道大本は北京で「世界宗教連合会」を発足させ、人種、国境、宗教を問わず、同志が協力して人類の繁栄のために活動をする団体「人類愛善会」を立ち上げ、諸宗教との連帯をはかったのです。ここに皇道大本は日本神道の“神・霊・心の統一原理”を基盤にしながら、日本固有の宗教から「万教同根」(すべての宗教の根は同じ)をかかげる世界宗教への脱皮をはかりました。その翌年、王仁三郎は天恩郷内に窯を作り、楽焼をはじめました。そして昭和2年(1927)、皇道大本をめぐる裁判も大正天皇の崩御による恩赦によって無罪となったのです。

 

 昭和3年(1928)3月3日、王仁三郎は56歳7カ月を迎え、これは弥勒が下生する56億7千万年の数にあたるとし、「みろく下生」を宣言して「昭和維新」への取り組みはじめます。これは「祭政一致の政府」への移行をより具体化しようとするものでした。そして昭和6年(1931)の正月、王仁三郎は西暦1931年を「いくさのはじめ」、皇紀2591年を「じごくのはじめ」とし、帝国日本が世界戦争に巻きこまれると予言します。その10月、満州事変がおこり、帝国日本は国際連盟を脱退し15年戦争が開始したのです。

 

 ヨーロッパの侵略にあえぐアジアを目にした王仁三郎は、昭和9年(1934)、「昭和神聖会」を設立し、諸国の大アジア主義者との連帯をはかりました。その統管に王仁三郎、副統管に黒竜会の内田良平・出口宇知麿、顧問に玄洋社の頭山満が就任し、800万人もの会員を擁するようになります。ところが「昭和神聖会」に接触した軍部の皇道派、桜会の橋本欣五郎は政府の英米追従の軟弱外交を攻撃したのです。このような動勢に危機感を募らせた政府は、昭和10年(1935)、軍部の不満分子への牽制を企図し、内務省の指揮によって全国の大本の施設・信者の自宅などを捜索して987人を検挙し、教主出口すみ、王仁三郎をはじめ、61人が不敬罪や治安維持法違反で起訴しました。

 

 このとき、帝国政府は国事の報道制限を一時解除し、国家の意向を受けたマスコミはまたもや一転して大本を邪教、妖教、怪教と民衆を誘導する号外をばらまき、不敬不逞の国賊の団体、国体変革を企図する陰謀団体と書きたて、国民は報道や政府の行きすぎへの疑念を抱きましたが、それを批判できる雰囲気ではなかったのです。そして裁判がはじまりもしないのに亀岡の月宮殿は1500発以上のダイナマイトで破壊され、綾部・亀岡の神苑内の建物、別院・分院・分社のすべてを破却し、綾部と亀岡の神苑の敷地を自治体に売却したのです。これは二度目の国家による違法行為でしたが、マスコミは快哉を報じました。

 

 ところが、昭和11年(1936年)、2月26日、陸軍皇道派の影響を受けた青年将校が「昭和維新・尊皇討奸」を掲げ、天皇親政を実現しようとするクーデター未遂事件をおこしたのです。この“2.26事件”の不穏な空気のもとで、内容が異なる「昭和維新」を掲げた皇道大本の逮捕者61人が治安維持法違反で起訴され、王仁三郎ら11人に不敬罪をあわせて適用し、昭和15年(1940)の判決で全員が有罪となったのです。その二審公判中の昭和16年(1941)、日本はアメリカに宣戦布告し太平洋戦争がはじまります。

 

 昭和17年(1942)、皇道大本事件の第二審判決は治安維持法違反に関して全員無罪となりました。しかし不敬罪に問われた王仁三郎とすみ、出口宇知麿(うちまる)は恐るべき拷問をうけながら、獄中に残されたのです。昭和20年(1945)の8月、第二次世界大戦が敗戦に終わりますが、9月に大本事件の第三審の判決で上告棄却となります。しかし日本を占領したGHQが思想、信教を抑圧する法令の撤廃を指令し、不敬罪はすべて「赦免」となりました。これによって王仁三郎とすみ、出口宇知麿は、6年の獄中生活を終え、第二次大本弾圧は終わったのです。

 

 このとき、皇道大本は国家の違法な破壊行為と冤罪(えんざい)に対する多額の賠償請求権があったのですが、敗戦の窮乏に苦しむ国民が納めた国税を費やすのは教義に反するというので、これを放棄しました。国家の違法によって自治体に競売された皇道大本の土地返還訴訟は戦時中から行なわれ、戦後すぐに綾部市・亀岡市の無条件返還によって和解が成立したのです。やっと戦後復興をはじめた皇道大本を2人の世界連邦の構想者が訪れます。インド独立の志士にして大アジア主義者マヘンドラ・プラタップ(1886-1979)とキリスト教社会運動家の賀川豊彦(かがわとよひこ:1888~1960)です。

 

 プラタップの世界連邦の構想は第一次大戦にはじまります。横道にそれますが、その活躍を記しておきましょう。プラタップはドイツのカイゼルを訪れてインド独立を説き、トルコ、アフガニスタン、インド、ロシアを往来し、反植民地ネットワークを形成し、国際連盟からの植民地所有国の排除を説いて世界連邦を構想したのです。大正4年(1915)、アフガニスタンのカーブルにインド臨時政府を樹立し大統領に就任し、大正8年(1919)、アフガニスタン王国の完全独立に寄与して王室顧問となりました。その後もアフガニスタン特使として世界を往来し、フィリピン、ベトナムの独立を支援しながら、たびたび帝国日本を訪れました。しかしガンジーの勧めで、昭和13年(1938)東京府小平村(現東京都小平市)に世界連邦日本本部を建設したのです。

 

 昭和15年(1940)、プラタップは在日インド独立運動をまとめ、アリアン義勇軍を組織して世界連邦構想のもとでのインド独立をめざしました。太平洋戦争がはじまると、日独伊三国協定の承認のもとにインド独立宣言を発表しましたが、その世界連邦構想は狭隘な日本の軍事政権に容認されなかったのです。昭和20年(1245)、帝国日本の敗戦によって大森監獄に戦犯として収容され、インドを植民地とするイギリスは戦勝国となり、インド独立は延期になったのです。翌年、出獄したプラタップは同じく出獄したばかりの出口王仁三郎に世界連邦構想を説いたのでしょう。その活動はGHQの日本支配の妨害になるとされて強制帰国させられ、インド独立の達成につくして国会議員として活躍し、郷里のプリンダバンを本拠として世界連邦の建設の夢を追いつづけました。

 

 賀川豊彦はキリスト教の博愛精神を実践した「貧民街の聖者」として日本より欧米での知名度が高く、敗戦直後、読売報知に「マッカーサー総司令官に寄す」を書き、日本民族は世界文化への貢献、世界平和への奉仕に役立つとし、その具体策として国際協同組合と世界国家を提唱しました。これを伝え聞いたマッカーサーは賀川豊彦を招いて、意見を交わしたのです。そのころ、ヨーロッパでは国際連合が拒否権をもつ戦勝国の設定や世界統合を志向しないことなどから、世界連邦構想(1946:ルクセンブルクに「世界連邦政府のための世界運動」開始)が立ち上がっていていました。

 

 世界連邦構想はアメリカに伝わり、シカゴ大学名誉総長ロバート・ハッチンスは「原爆の威力を知ったとき、私は直感的に世界国家をつくらねばならないと悟った。世界的な組織をつくり、それに原子力を独占させる以外に将来の戦争を廃絶する望みはない」とし、世界憲法審議委員会を結成して「世界憲法草案」を作成はじめます。その世界連邦の憲法草案の作成に日本人では唯一、賀川豊彦が諮問されたのです。昭和22年(1947)、賀川豊彦はシカゴで作成された「世界憲法草案」(シカゴ草案)を受けとって翻訳します。

 

 この年、宗教法人令が施行され、皇道大本は宗教法人「愛善苑」を設立し活動を再開したばかりでした。昭和23年(1948)、「シカゴ草案」を英国の“ニューズ・ウィーク”に紹介したという情報が、無政府主義者、農本主義者だった延島英一の所属する世界恒久平和研究所に伝わり、シカゴ委員会から原文を取り寄せました。これは愛善苑にもたらされ、綾部に「世界憲法研究会」が結成され、その概要を機関誌「一つの世界」に公表したのです。この年、賀川豊彦はキリスト教と神道の壁をこえて、世界連邦実現への道を探るために、アジアの諸宗教と連帯がある愛善苑を訪れました。その翌年、愛善苑が発行する「人類愛善新聞」の平和特集号に延島英一訳「世界憲法シカゴ草案全文」が掲載され、全国に58万部近くが配布され、市民レベルに世界連邦構想が知られたのです。

 

 もっとも、この間、出口王仁三郎は作陶に没頭し、昭和24年(1949)、大阪で「耀琓展」(ようわんてん)が開催されました。耀琓は王仁三郎が創意をこめた独創的な楽焼です。その制作によって「人間は芸術をこそ後世に残すべきである」という“神国の理念”を全うしようとしたのでしょう。それは底抜けに明るい青、黄、緑、赤などを配した独自の境地を表出しています。王仁三郎は帝国日本の官憲が皇道大本を弾圧してくれたおかげで、列強が戦った第二次世界大戦に関わることなく、新たな世界構築に向かうことができると喜んでいたようです。この年、王仁三郎は新たな時代に向けて教団規則が制定し、愛善苑を「大本愛善苑」に改めました。

 

 東西冷戦が深刻化し、朝鮮戦争が勃発した昭和25年(1950)、大本愛善苑は「人類愛善新聞」を市民に頒布して世界連邦の必要性を訴え、綾部市は世界連邦都市宣言を採択し、世界連邦宣言自治体全国協議会を開設したのです。これに賛同する自治体が続出し、日本の142自治体(9府県75市区54町4村:平成18年)が世界連邦都市宣言を採択しているのです。昭和27年(1952)、2代教主出口すみが亡くなり、3代教主出口直日が立つと、宗教法人「大本」(おおもと)が設立され、「万教同根」の世界宗教への道がとられます。この年、「大本」は広島に第1回世界連邦アジア会議を招致するとともに、台湾・香港に残る世界紅卍字会、ベトナムのカオダイ教と連携し、キリスト教との連帯も進められました。たとえば昭和52年(1577)、ジェームス・P・モートン聖ヨハネ大聖堂長が「大本」を来訪し、第1回のキリスト教と共同礼拝式「平和と一致」が実現し、さらにバチカン宮殿で大本祭典の執行されたのです。その翌年にネパールのカトマンズに愛善センターが設立され、大本・ヒンズー教・仏教の三教合同鎮座祭を実施しています。

 

 昭和55年(1980)、愛善苑は後継者をめぐって三派(大本本部・大本信徒連合会・愛善苑)に分かれました。しかし今でも大本各派にエスペラントが普及し、綾部市へのアジアやヨーロッパからの招致も多く、イスラエルとパレスチナなどの紛争地域の若者を日本へ招待して共同作業や対話をする「綾部プロジェクト」が推進されています。こうした活動から、世界から神道哲学にふれるために綾部、亀岡を訪れる知識人も多いのです。そして平成12年(2000)、綾部市はエルサレム市との友好宣言に調印し、それまでの「綾部世連建設同盟」を「綾部世界連邦運動協会」に改称し、綾部市で第22回世連全国宗教者大会、第22回世界連邦日本大会が開催されたのです。

 

 最後に大本が蒙古との架け橋となっているということでしめくくりたいと思います。平成2年(1990)、ソビエト連邦の崩壊にともない、蒙古人民共和国は人民革命党と民主化勢力の連立政権へ移行しました。そして国名を「モンゴル国」と改称し共産主義体制を放棄しましたが、経済破綻に近い状況となります。これを大本系の教団は支援しつづけました。平成17年(2005)、出口王仁三郎のモンゴル訪問80周年を期し、ウランバートル市に出口王仁三郎の人類愛善会の理念をうけつぐモンゴル政府公認NGO「人類愛善会モンゴルセンター」が設立されたのです。モンゴル政府はそこに大本開祖、出口なおに憑き、出口王仁三郎が「大陸の大神」と審神(さにわ)した神の神体を祀ること、大本の世界連邦運動や教育支援、農業支援への賛同を表明しています。そして平成21年(2009)、ウブルハンガイ県グチンウス村がモンゴル初の世界連邦都市宣言を採択したのです。

 

 丹波の出口なおに憑いた国之常立神(クニノトコタチノカミ)は近代日本を考えさせる国祖の神でした。それが提起した哲学問題、社会問題、経済問題のなにも解決していないことは明らかでしょう。ましてやマスコミの報道にいたっては、政府の機密費をもらって報道を操作するなどということがあるようでは、戦前からの体質を改めたとはいえない状況で大きく信頼性をそこねはじめています。それはともかく、皇道大本が唱えた社会変革構想の妥当性は問われてしかるべきでしょう。けれどもスピルチュアル・ポールを原型とする国之常立神は、今にいたっても、“国家という未知”を問いかけてくる神でありつづけているのです。

 

 

異端論断章 (藤田省三著作集 10)

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藤田 省三
  • みすず書房
“公共宗教”の光と影

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津城 寛文
  • 春秋社
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本田親徳全集 (1976年)

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  • 山雅房
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大石凝真素美全集 (1981年)

大石凝 真素美
  • 大石凝真素美全集刊行会
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邪宗門〈下〉 (朝日文芸文庫)

高橋 和巳
  • 朝日新聞
巨人 出口王仁三郎

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出口 京太郎
  • 天声社
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仏説法滅尽経と弥勒下生

出口 王仁三郎
  • みいづ舎
ルドルフ・シュタイナーと出口王仁三郎の符合

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咲杜 憩緩
  • ブイツーソリューション
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出口王仁三郎入蒙秘話

出口 和明
  • みいづ舎
大本襲撃―出口すみとその時代

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早瀬 圭一
  • 毎日新聞社
出口王仁三郎の示した未来へ

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出口 京太郎
  • 天声社
思想としての右翼

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松本 健一
  • 論創社
大川周明の大アジア主義

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関岡 英之
  • 講談社
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暗い谷間の賀川豊彦

雨宮 栄一
  • 新教出版社
霊界物語〈第1輯〉

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出口 王仁三郎
  • 八幡書店
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霊界物語 (第2輯)

出口 王仁三郎 ; 霊界物語刊行会
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霊界物語 (第3輯)

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霊界物語 (第4輯)

出口 王仁三郎 ; 霊界物語刊行会
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霊界物語 (第5輯)

出口 王仁三郎 ; 霊界物語刊行会
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