それは、当時俺がまだ小学校低学年、歳で言う9歳の頃だった。
日々、楽しく友達と遊びまわり、悩みや嫌なことと言えば学校から出された宿題といった程度のもので、一日一日を何の憂いもなく過ごしていた。
その日は連休だった。その連休中は家族と旅行に行く予定で、その休みの始まる前日から俺は期待に胸を膨らませていた。子供らしく、あまり寝付けなかったのを覚えている。
だが、結局旅行は中止となった。親の勤めている会社でトラブルがあったらしく、急遽両親は休日出勤を命じられたためだ。
もちろん、俺はひどく落胆した。行くな、とわがままを言っていたような気もする。だた、頭の片隅では「無理なものは無理だろう」と、子供なりにきちんと理解はしていた。事実、無理だった。
予定がなくなった俺は、両親が会社へと向かったすぐ後、一人公園へと向かった。そこはもっぱら俺が友達とよく遊ぶ場所で、そこならこの沈んだ気持ちも晴れるだろうと思ったからだ。
公園にはブランコやジャングルジムや砂場、また誰かが忘れて帰ったのだろうサッカーボールがあった。しかし、そこに友達はおろか人一人いない。
世は連休の始まりの最初の日。朝から公園に向かう奴などいない。皆、家族で出かけるか、まだ家で寝ているのだろう。
俺は世界に一人取り残されたような感覚になり、1分も経たず公園を後にした。
しかしながら、だからといって他に行く当てなどない。
俺の行動範囲は今の公園と学校と家。
休日、学校に行くと言う選択肢はなし、その考えすら浮かばない。家に戻っても、取り残されたという感じが余計大きくなるだけ。
俺は歩いた。どこへとは決めず、何かを求めるつもりもなく、歩いた。反面、何分かおきに誰かが周りにいるか確認していたので、きっと自分以外の人が居る場所を求め、歩き続けていたのだろう。
歩いて、人通りの多い道に出て、それでもまだ足りず人混みの中に入るように歩き。
どれくらい歩いただろう。数分か、数時間か、明確な時間は覚えていないが、所詮子供の足だ。遠くまでいける事も、長時間歩く事も叶う筈がない。
町内の中で人通りに多いところをぐるぐると歩き回っていただけだと思う。
俺は空しさを感じ始め、足にも疲れが見え始めたので、もう家に帰ってふて寝でもしようかと思い始めた───その時。
ふと、目が一つの建物に釘付けとなった。
それは何処にでもある平凡普通な木造建築の建物。取り分け、何か目を引く所もない。
入り口の脇に字の書かれた立て看板が置いてあるので、そこは何かしらのお店だろう事は察せたが、それだけ。何を取り扱っているのかも外からでは分からない。
普通なら滅多に誰もが目に留めないだろうお店。その証拠に、自分以外の道行く人々は一瞥もしていない。まるでそんなところには何もないように。
だと言うのに、俺はいつの間にかそのお店の門をくぐっていた。何故かは分からないが、入らなければならないような、ある種の強制力のようなものが襲ったからだ。
理由は不明だし、その強制力云々自体がただの勘違いかもしれないが、もうお店の中に入ったので今更すぐには出れない。
果たして、お店は何屋でもなかった。強いて言うなら『なんでも屋』。
用途不明の機械。日用雑貨。宝石のような珠の数々。あまり見慣れない形の家具。
もしかしたらお店ですらないのかもしれない。
「おや?これはなんとも珍しい。お客ですか。いらっしゃい」
そんな声と共に、大きなテーブルの向こうから一人の男性が出てきた。
知的な眼鏡が印象の、20代後半から30代前半の男性。服装は一見してバーテンダーだが、部屋の中にお酒の類は見えないので、まさかここバーというわけではないはず。
「なにがご入用ですか?」
その男性の言い方から、やはりここは何かを取り扱っているお店なのだというのは分かった。
しかし、俺は言葉を返せなかった。それは特に要る物もないし、ましてやここには目的があって入った訳でもないからだ。
男性に「ここはなんのお店なんですか?」と、そう返すのがやっとだった。
「ここですか?ここは、あなたの求めるものがあるお店です」
そんな訳も分からない言われ方をされれば、9歳児の俺としては漠然と『はあ、そうですか』と頷くしかない。
いや、今言われてもきっとそう返すだろう。
「しかし…う~ん、妙ですね。君くらいの年齢でここに入れるなんて。何かすっごい欲しいものでもあるんですか?」
そう言われ、頭の中に浮かぶのは子供として当然の物。玩具などの遊戯物だった。
「玩具ですか?う~ん、ない事もないですが……さて」
何故か困った様子の店員(もしくは店主)。
俺はそんな店員をよそに店内を見回す。
本当に色々なものが置いてある。理科室なんかでよく見るフラスコやビーカー、服屋なんかでよく見るマネキン、その他動物の剥製や数台のテレビなどなど、この店は本当に一貫性がない。
そんな中、先ほど男性がいたテーブルの向こう側。そのさらに奥に一つのガラスケースが置いてあった。
そしてその中に何か入っている。目を凝らしてみれば、それは───一冊の本。
別段俺は読書かではないし、純粋に興味を引かれたというわけでもないのに、足は自然とそちらに向かっていた。
操られているように一歩を踏み出す足は我ながら何とも不気味であったが、何故か止まれとは思わなかった。
程なく、ガラスケースから30センチも離れていない位置で足が止まった。
さきほどは遠目だったため、それがただの本だとしか分からないかったが、近くで見たらそれは何とも異様な本だった。
電話帳なみの大きな本で、全体的にどこか古めかしい。だが、とても綺麗に装飾が施されており、特に表紙のど真ん中で自己主張している剣十字が存在感抜群だ。
「良い本でしょう?」
いつの間にか俺の背後に立っていた男性がそう言った。
続けて。
「それはですね、魔法の本なんですよ」
その男性の言葉に俺は笑った。同時に呆れた。いい大人が魔法などと、いくら相手が子供だからってそれはないだろう。そう思った。
しかし、男性はこちらが呆れているのも承知の上でまだ続けた。
「正確には魔法の本の写本なんですが。写本って分かります?ええっと、いわゆるコピー品というやつですね。私が正本を写したんですが、中身はほぼ同じです。まあ、私なりに付け足した所もありますがね」
そう言われ、俺は感心した。『魔法の本と偽るがために、ただの本一つにそんな設定をつけるなんて』と。我ながら素直に物事を捉えない奴だった。
男性は此方の胸中を分かっているのか、いないのか、判断のつかない笑みを浮かべ、しかし、次の瞬間には真剣な顔を見せた。
「しかし驚きましたね。まさか、君がここに何かを求めて入ったわけじゃなく、この子が君を求めてここに入れたとは」
また何か訳の分からん事言ってるよ、と思いながらも口には出さず。
そして男性は無造作にガラスケースを持ち上げ、中の古本を取り出した。次いで、その本を俺の前に差し出してきた。
「はい、どうぞ」
当然とばかりに男性が本を出してきたので、俺も自然と手を出し取ってしまった。その後、俺は適当にパラパラと中身を見て返そうとしたが何故か断られた。
「それ、上げます。もう既にその子があなたを持ち主と決めちゃったみたいですから」
本を『この子』呼ばわりするのはいいとして、持ち主をこの本が決めるというのは本気で言ったのだろうかう?これ、無機物なんだけど?
胸中でそんな事を思いながら、取り合えず俺は「お金を持ってません」と言った。
「いいですよ。もともと商売でここをやってるわけじゃありませんからね。お金なんていりません」
本当にいいのだろうかと思いながらも、俺は「そうですか」と曖昧な調子で頷いた。
貰えるなら、何でも貰うのが俺の小さい頃からの性分だった。
結局、俺はその古本を一つ貰って店を出た。
「またお会いしましょう」
そんな言葉が聞こえ、後ろを振り返ってみたが、扉はもう閉まっていた。
俺は立て看板に書いてある店名を一瞥すると、その場を後にした。
────翌日、店は姿を消していた。
次にその店を見つけたのが、俺が高校の修学旅行で京都に行った時だった。
古い町並みの中を友達と自由時間を使い散策していた時、偶然にも発見。俺は少し驚きつつも、友達に断りを入れ、一人店の中へと入った。
「おや?これはなんとも珍しい。お客ですか。いらっしゃい」
そんな数年前とまったく同じ言葉と共に、あの男性が姿を見せた。その姿も数年前とまったく同じで、まるで歳を取ったように見えなかった。また、店内の様子もまったく変わりなく何屋か分からない。
何もかもが変わっていなかった。
「おやおや?誰かと思えば、君はいつぞやの。本は大事にされてますか?」
そう言うと男性は笑顔になり、片や俺はとても驚いた。
男性はともかく、俺は成長期を経てあの頃とはかなり見た目が違う。また、俺がこの店に入るのはまだ2度目。それなのに初見で俺と気づくなんて。
この店は客がほとんど来ないのだろうな、と思った。
「今日は何かご入用……と言うわけではなさそうですね。だと言うのにまたこの店を見つけるとは、よほど縁があるらしい。今は修学旅行中ですか?」
また訳の分からない言い回しが混じったが、俺は最後の言葉にだけ頷き返す。
「やはりそうでしたか。いやはや、初めて会ったときはあんなに小さかったのに。時の流れと言うのは、本当に不思議ですね」
感慨深げに一人頷く男性。
「ところであの魔法の本の事ですが……」
そう言いながら、男性はこちらを観察するような目で見る。
なんだろう、気持ち悪い人だな。失礼ながらそう思った。
「ふむ、どうやらまだ目覚めてはいないようですね。まあ、それはそれでいいでしょう」
一人何かを納得しているようだが、それが俺に関係しているだろう事は明白なので、出来れば俺にもその内容を教えて欲しい。
そう目で訴えてみたが、曖昧に笑って誤魔化された。
「なに。いずれ、もしその時が来たら分かりますよ。運命とは時に残酷でもありますが、君なら大丈夫。なんせあの子が選んだ主ですから」
ここまで要領の得ない、というより訳の分からないことを言われたらもう笑うしかない。
それから男性はまた少し取りとめのなく、訳の分からないことを話していたが最後に。
「また君に会えて嬉しかったですよ。修学旅行、楽しんでくださいね。では、いずれ、またお会いしましょう」
そして俺は店から出て、近くのお寺にいるであろう友達と合流すべく足を進めた。
最後にもう一度だけ振り返ってみれば、やはりそこには数年前と変わらず入り口の脇に立て看板。
そこに書かれてある文字も変わらない事から、店名もそのままなのだろう。
俺はなんでも屋(?)『アルハザード』を後にした。
そして現在。俺は22歳となり、2流大学を卒業。しがない…本当にしがないフリーター生活を送っている。
あの京都以降、例の店『アルハザード』は一度も見ていない。まあ、もう本当に用なんてないので、次見つけても果たして入るかどうかは分からないが。
そしてあの、男性曰く『魔法の本の写本』だが、未だに俺は持っている。持ってはいるが、多分、かなりホコリを被っていることだろう。
それもその筈。俺はあの本をまったく読んでいないのだから。理由は字が読めないからという、単純なもの。
日本語でも英語でも中国語でもフランス語でもイタリア語でもない、変な文字書かれた本。少しドイツ語に似てはいるが、経済学部卒のフリーターに翻訳できるわけがない。
よって、今は誰に読まれる事もなく棚の奥で眠っている。
さて、そんな就職も出来ず、日々をアルバイトのお金だけで過ごしている俺。鈴木 隼(すずき はやぶさ)。
平均的な一般人の人生の、少し下の人生を歩んでいるであろう自分だが、別に不満はない。将来が少し不安だが、現状には不満はない。
家賃3万5千のボロアパートで、時給1200円のパチンコ店員のバイト。空いた時間で職探し。時たま居酒屋に飲みに行く。
典型的なフリーターの生活だと思う。
これがずっと続いて欲しいとはいくらなんでも思わないが、今のこんな生活が心地よいのも事実。だから、もう少しだけ続いて欲しいと思ったし、続けるつもりでもあったのだ。こんな平凡な生活を。
────だと言うのに。
「大丈夫ですか?我が主」
只今、俺は見知らぬ女性にお姫様抱っこされるなんて行為を体験中だ。しかも、そんな見知らぬ奴が俺を囲むように、まだ4人もいる。さらに、周りを見渡せば何か知らんが街中木の根っこだらけ。
ハァ、もう訳分かんねーんだが?