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[25761] 源平剣豪伝(魔改造歴史剣豪物)
Name: 空鞘◆fe0cdfe9 ID:159035d5
Date: 2011/02/01 20:13

ひとつめ 『京の鬼。剣の鬼。京の夜叉。』







 京の都に、鬼がでる。
 その鬼、巨大な体躯にて数え切れぬ武具を背負い、五条の橋にと現れるという。

 京の都に、夜叉がでる。
 その夜叉、痩躯に似合わぬ太刀を背負い、京の夜を彷徨い歩くという。

 鬼も夜叉も、目的は同一である。
 ただ、平氏の強者との邂逅のみを求めているのだと。
 そんな噂がいつしか流れ始めていた。



 鞍馬の山より源氏の牛若が逃げ落ちてきたのは、折しもそんな噂の流れる時期だった。





 女が歩いている。

 黒。

 闇に融けるような艶やかな黒髪を後ろで結わえ、櫛も通さず無造作に垂らしている。

 その女の姿は、京の都を歩くには些か奇抜すぎた。
 全身が黒いのである。
 黒い髪、黒い衣、黒い手甲、黒い足袋。その姿全てがまるで墨を落としたかのように黒い。
 そして極めつけは、その背に背負う黒鞘だった。その刀は分類としては太刀に属するだろう。だが、明らかにその太刀は他の物よりも長い。それは馬の首すら一閃しかねぬ代物だった。比較的小柄なこの女が背負うには、あまりにも非常識な大太刀。

 そも、女性が太刀を佩くこと自体が珍しい世である。いつの世も武士でありたいと心の内で思う女は数少ないながらも無くなりはせぬが、それでもこの様な異装はしまい。

 野宿でもしていたのだろうか。黒い衣のあちこちに泥や埃、ほつれや傷跡なども見える。本来は白いはずである肌も、埃や煤に紛れるように薄汚れている。
 その中で、ただ唇だけが血の様に紅かった。

 女は歩き続けている。
 その歩みは迷い無く、早くもなく遅くもなく、ただ夜に消え入るように進んでゆく。
 時折、何かに耳を傾けるように止まり、また時折、駆け出したりもする。かと思えば、夜空を見上げ、そこにある月を陶然と見上げていたりもする。

 まるで、年端もいかない童のよう。

 事実、女は少女と言っても良いような相をしていた。年の頃、十四か五か。その程度の年齢にしか見えなかった。

 夜の月を見、少女は嗤う。

 嫣然と嗤うその様は、その美しさと相まって人ではなく化生の類。

 そして少女は駆けだした。
 足音もなく、気配もなく、呼気もなく。

 夜の闇を寄せ集めて人の形にしたようなものが、京の通りを駆けてゆく。
 ふと、その足が止まる。

 前方から三人。歩いてくる者がいた。
 その者達を見て、黒い少女はただ。

 嗤っていた。






「ねえ、そこの」

 最初、大塚左門義家(おおつかさもんよしいえ)は空耳だと判断した。

 大塚は二人の従者と共にある場所へと向かっていた。
 夜遅く通りを歩くのはわけがある。大塚は平氏に与する武士であった。彼は大安の世であっても武士(もののふ)は武芸を常に尊ぶべしとの考えを持っており、源義朝と平家の決戦の折にも、常に兵たちの先頭に立ち敵を切り伏せている。

 早い話が剣狂い。それが、大塚左門義家を一言で表すに相応しかった。

 今日も自ら部下達と剣を交え、叩き伏せる。敵兵は決して遠慮をしてくれぬとの価値観から、手加減無く木剣にて部下を叩きのめすその姿は、まるで鬼のようだと常々評価されていた。

 近頃、京女達の間で交わされる他愛もない噂話。五条の大橋に出るという大鬼と、大太刀を背負うという夜叉。共に、平氏の武士のみを相手取るという化生。

 大塚はそれを眉唾とばかり思っていた。平氏の世を嫉んだ者達が、その様な在りもせぬ幻想を作り上げ、噂として流したのだと。現実で勝てぬのならばせめて夢想の中で勝たせようとの、弱き者達の精一杯の抵抗。大塚はそう思っていた。先日、部下の一人が橋の麓に屍となって転がっている姿を見るまでは。

 どの様な凶器にて殺されたのだろう。戦場での死体というものを見慣れている大塚にすら、その姿から想像も出来なかった。

 刀、ではない。

 腹の部分を胴丸ごと吹き飛ばされた様に両断されている屍。それは太刀で作れるような傷痕ではなかった。そも、如何に腕の良い者が揮う太刀とて、甲冑に叩きつければ刃は通らぬ。甲冑とは刃を防ぐためにあり、鋭いが細い太刀でその防御を完全に貫くことなど、生半な者には出来はしなかった。

 殺された部下は大塚の弟子の中では一番の使い手だった。ただ無防備に胴を薙がれるはずがない。確かに、優れた者が持つ太刀は胴丸ごと敵を切り伏せることも出来うるかもしれない。だが、それは胴丸を持つ方も同じだった。薙がれる際に刃筋が立たぬ様に自ら刃へと胴丸を押し当てる。それにより刃は物を切る適切な角度がずらされ、胴丸の表面を掠り逸れて止まる。それは、大塚が幾たびもの戦で編み出した極意であり、当然、殺された部下にもその極意を伝授していた。数いる部下の中で最も腕が立つ者だったので、それもまた当然だった。

 相手の刃を甲冑で受け止め、逸らし、その隙に太刀で鎧の隙間を突く。自らの負傷を最小に抑え、立ち塞がる敵には必殺を。それが、大塚左門義家の剣理。

 しかし、その剣理は明らかな敗北の形となって、大塚の目に映っていた。

 胴丸ごと吹き飛ばされた男。断じて、太刀などではなかった。もっと巨大で、圧倒的で、重厚な、そんな見たこともないような凶器。それが、部下の身体を二つの骸にした物だろう。

 身震いした。
 大塚の中に潜む剣鬼が、まだ見ぬ強敵の確かな存在に、悦びの声を上げているのである。

 五条の橋の大鬼。数えきれぬ程の武具を背負うという、化生。

 戦ってみたかった。しかし、大塚にも立場という物がある。まさか、甲冑姿で京を徘徊するわけにはいかなかった。

 ならば、夜。人々が眠り、草木も眠り、魔性が騒ぐ丑三つ時。

 思えばあの部下も、同じことを考えていたのではないかと今さらになって気付く。だからこそ、完全な戦具足のまま、屍となって打ち捨てられていたのだと。

 そして、腹心の部下を従者として連れ出し、大塚は夜の都へと出た。他ならぬ、五条の橋へと向かうために。

 例え今宵大鬼が現れなくても大した問題ではなかった。それならば丑の刻参りの如く、毎夜でも通い詰めよう。そんな決意と共に歩いていたのだが。

「あんた、平家の侍?」

 何もない闇から、鈴のような声をかけられた。
 空耳などではなかった。距離にして三間(凡そ5.5㍍)。その先に、妙に青白い何かが浮かんでいる。

――生首?

 大塚にはそう見えた。儚げな中にも凛とした刃を秘めた、そんな印象を持つ生首が、三間先に浮かんでいると。

 だが、それが誤っていることに、大塚は気付いた。全身を黒で塗り固めた様な姿をした者が、そこに佇んでいるということに。

 愕然とした。かつて、これほど近間まで何者かを気付かずに近寄らせた事など、果たしてあっただろうか。それほどまでに大塚は武芸に秀で、目の前の存在は幽鬼じみていた。

「何者か!!」

 漸く、従者の二人が正気を取り戻したのだろう。主である大塚を護るべく前に出て、大音声で問いかける。

 しかし、その問いがなくとも、大塚は答えを知っていた。ここは未だ、五条の橋ではない。ならば、目の前の化生は大鬼ではなく。

「京の夜叉か」

 もう一つの噂、大太刀を背負った夜叉に違いなかった。

 そして、太刀を抜く。
 従者二人もそれに倣い太刀を抜き、三者が共に、八相に構える。右手が上、左手は下。切先は天。太刀を立てて体の側面に。攻守に堅い青眼でも、威力の勝る上段でもなく、八相。それは、相手に先を取らせ甲冑にて防ぐという戦法のために大塚が出した結論だった。通常の八相よりも右に傾いだ大塚達の構えは、彼の剣の極意である。わざと無防備に近い左半身を晒すことで、左方からの斬撃を誘う。左方には鞘があり、胴丸があり、肩当てがある。目立ちすぎることを避けるために兜までは用意できなかったが、これだけあれば大塚達は相手の剣を確実に防ぐことができる自信があった。

「話が早い。行くよ」

 鈴のような声。京の夜叉とは少年であったかと、今さらながら大塚は思う。
 そして、夜叉が背中の大太刀を抜く。柄拵えから鞘までも黒く、その姿を見ることも困難だった大太刀は、月光を跳ね返す煌めきとなって初めてその存在を主張する。しかし、太刀の長さは測れない。夜叉が刃を脇に構えたためだった。

――右、脇構え。なるほど、刃の長さを測らせず、一太刀にて勝負を決める所存か。

 距離は変わらず三間。しかし、二人の従者も黒き夜叉も、摺り足にて距離を詰める。

 じりじりと。じりじりと。

 この瞬間が大塚は好きだった。相手と自分を、文字通り命を賭けて比べ合う一瞬。それに至るまでの無限に思える時間。この時のみが、大塚に至福を与えてくれる。
 数の理はこちらにある。だが、これほどまでに世間を騒がせた夜叉が、たかだか三対一の数の差に呑み込まれるかどうか。やはり、この時間が堪らなく愛おしい。

 そして二間。状況に代わりはない。未だじりじりと両者は進み続けており、その刃はまだ一度として交わっていない。



 しかし、大塚の聴覚はその音を聴いていた。



 ヒュゥと。妙に甲高い音が、前方から聞こえていた。大塚はこの音を知っている。その人生の中で、幾度となく聴いてきた音。

 人が、喉を切り裂かれた状態でなお、呼吸をした際に立てる音だった。

 やがて、従者二人が前のめりに倒れ伏す。

 意味が解らなかった。いったいいつ、あの二人は斬られたのか。夜叉は未だ、変わりなく立っているではないか。あの大太刀を脇に構えて。

 そしてようやく、大塚は気付いた。いつの間にか、右に構えていた夜叉の刃が、左側へと移動していることに。

 左構え。つまり、夜叉は右から左へと刃を振り、そのまま左脇に構えていたのか。

 見えなかった。恐らく、斬られた二人すら気付いていないのだろう。それほどまでに今起こった出来事は常軌を逸している。

「いいのかい。その位置で」

 唐突にかけられた、声。

 そして気付く。いつの間にか夜叉は大塚から一間の距離に居た。信じられぬ。一体いつ如何なる間に入り込んだのか。

 “間”とは“魔”でもある。それを大塚は熟知していた。間は扱いをしくじれば魔へと変貌し、容易く牙を剥いてくる。しかし、その魔を上手く操ることが出来れば、相手の攻撃すら自由自在に操ることが出来る。大塚はそう心得ていたはずだった。今この瞬間、ありとあらゆる魔を夜叉に操られるまでは。

 しかし機は大塚に味方していた。大塚の構えは右側に構えた八相。対して、夜叉の構えは左脇構え。即ち、大塚にとって右側に刀があることになる。夜叉がその構えから最速の斬撃を繰り出すには、必ずや八相に構えた大塚の太刀が邪魔になる。先程の二人のように、一瞬で首を裂くなどということは出来はしない。
 もし、構えを変えようとの動きを見せたのならば、その瞬間にこちらが最速の一撃を叩き込む。
 脇構えは防御が弱い。夜叉が青眼に切り替え防御に回すよりも、必ずや八相の構えからの一撃の方が早い。その筈だった。

 距離は一足一刀。相手の間合いまではわからない。あの大太刀がどれほどの長さなのかはわかっていない。しかしその緊張が、大塚に至福の時を与え続けている。命どころか来世の生すら削りかねない至福の時を。

 踏み込めない。踏み込まれない。

 相手が動かぬということは、その刃はまだ届かぬのか。
 しかし既に、そんなことは大塚の脳裏からは消えている。ただ確実な後の先をとるためにのみ、大塚は立っていた。

 時が流れる。
 汗が止まらない。自然と呼吸が荒くなる。
 だが、夜叉の方は汗こそ見えるが、呼気は見えない。目を瞑るとまるで何もない闇が広がっているかの様に、その存在感が全くない。それほどまでの静謐。

 不意に、月が翳った。
 流れる雲が月光を遮ったのである。



――動!



 夜叉の手の動き。今度は見える。身体ごと捻るように一歩を踏み出し、独楽のような回旋と共に神速の一撃が襲い掛かってくる。

 しかし見えている。大塚は必死の想いで刃を動かすと、自らの首と大太刀の間を遮る絶対の壁として君臨させた。



――勝機ッ!



 身体ごと叩きつけられた大太刀の切っ先は、恐らく凄まじい重さと勢いを持って大塚の刀を襲うだろう。しかし、それに耐えたとき、この大振りへの代償が、夜叉を襲う筈。必至の隙という形として。そこを――――殺る。



 だが、大塚は目にしてしまった。一歩を踏み出した夜叉の左足。その足が、その膝が、滑らかな動きで沈み込む様を。



 その絶妙な運足は、振り抜かれる太刀筋へと多大な影響を与えていた。刃は大塚の予測位置より遙かに下段を通り過ぎ、その左手の筋を籠手ごと断ち切ってゆく。

 大きく地を踏む音が聞こえる。夜叉の回旋はその、地に憎しみを叩きつけるかのような運足により急停止し、大太刀の切っ先は真っ直ぐに大塚の首へと伸びてくる。

 大塚は痛みと驚愕のために為す術もなくその刃を睨み続けていた。防御など、間に合うはずもない。だが、例え致命の刺突からも目は逸らさなかった。自らを殺すであろう宿命であろうとも、決して退かぬと叫ぶように。



――見事。



 自らの首に刃が埋もれてゆく中で、大塚は声にならぬ賞賛を目の前の夜叉へと告げていた。剣に狂った男が、剣に敗れたからこそ洩れた、心の底からの賛辞であった。

 名を知らぬのが、残念だな。

 思った刹那に引き抜かれる刃。引き抜く際に夜叉の足で腹を蹴られていたがために、大塚の身体は後方に倒れ伏す。

 強かに頭を打ったはずだが、今の大塚にとってそんなことはどうでもよいことであった。

「ぁ……は……」

 名は何という。
 そう口にしたはずなのに穴の空いた喉ではそんな言葉すら紡げない。

 しかし夜叉は、その思いを正確に汲み取っていたらしい。

「シヅカ……。それがあたしの名前だ」

 倒れ伏す大塚に鈴のような声で名乗った夜叉。その眼差しにはどこか賞賛の様なものが含まれているような気がする。

――何と。おなごであったか……。名の通り激しくも静謐な太刀筋であった。まさに、剣に生きた儂の最後に相応しい。

 それが、大塚左門義家の最期の思考だった。







 十八ヶ月。
 それが、男がこの世に出ることを拒んだ時間である。

 意味を求めていた。
 自らがこの世に生まれ出でた意味を。

「鬼め」

 生まれてすぐ。人であることを否定された。

「鬼め」

 人と会うたびに、人であることを否定された。

「鬼め」

 何かを成し遂げるたびに、人であることを否定された。

「鬼め」

 そして、今も尚、否定され続けている。

 男はその肉体が母の胎内にあった頃より、自意識という物を持っていた。
 男が未だ胎児であった頃から、男は誰よりも聡明であったのだ。

 自らの異常さを誰よりも噛み締め続けていた胎児は、生まれ出でる以前からもただ一つのことだけを願っていた。

 愛されることがないことを知っているが故に。求められることがないことを知っているが故に。否定されることを知っているが故に。

 私をこのまま死なせてくれ、と。

 しかしその願いは、叶うことなく。
 男は世に生まれ出でてしまった。







 夢を見ていたらしい。遙か昔の夢。未だ自らが名という物すら持っていなかった頃の。
 橋の中央にまるで仁王の様に立ち尽くしながら、鬼はそのまま過去へと思いを馳せる。

 山を下りて幾年。鬼は願い続けた。どうか、自分の存在に理由を与えてくだされと。そのためならば他には何もいらぬのだと。愛もいらぬ。友もいらぬ。敵も味方も隣人他人あらゆる者もいらぬから、ただ異形に生まれた自分に生きていても良いという理由を、と。

 初めに殺したのは僧だった。

 殺すつもりなどなかった。ただ、自分に信仰という物の素晴らしさを教えてくれた僧を、感極まって抱きしめたくなっただけだった。そして、抱きしめたら恩人は死んだ。

 次に殺したのもやはり僧だった。

 恩人を殺し茫然としていたところを、棍で思い切り打擲された。なんてことをするのだ、と。しかし、その棍は肩に当たって砕ける。そんなつもりはなかった。あの人を殺すつもりなどなかったと、そう言い訳したかった。その際に相手を振りほどくように払った腕で、その男の頚はへし折れた。

 鬼が未だ十になったばかりの頃の話である。

 その後、鬼は自ら寺を出た。僧を殺してしまった以上山には居られない。そもそも鬼は、恩人をその手にかけてしまったことに酷く後悔していた。やっと得られたかもしれなかった存在理由を、自分ですら制御できぬ力により破壊してしまったことは、鬼にさらなる絶望を与えた。

 山を下りた鬼はまず、力を求めた。誰かを打ち倒す力ではない。自らの異形を制御できる力。矛を止めると書いて武という文字となる。ならば、達人とまで呼ばれる人物の武ならば、鬼に自らの矛を止める術を与えてくれるかもしれぬと。

 しかし、漸く探し求めた達人は、鬼の姿を見るなり襲い掛かってきた。その、人にあらざる巨体は、達人の危機感を煽ったのかもしれぬ。その、薙刀を持った達人は、結局鬼が身を守るために繰り出した拳により果てた。

 この圧倒的に巨大な鬼の身体では、誰かに教えを請うことすらままならない。ならば、自ら武を鍛え上げるしかない。達人の亡骸を前に決意した鬼は、その薙刀を拾い、彷徨うこととなる。

 誰かを屠ると武器が残る。ただその場に打ち捨てられた武具をそのままにしておくことは、鬼には出来なかった。これは、自らが殺した者の悔恨の念そのもの。それが地に落ち朽ち果てるのを見捨てることは出来なかった。その意味を失くした武具が、意味を持たぬ鬼の境遇と重なるがために。鬼はそれら全てを背負い生きてゆくことに決めた。

 そうして十数年が過ぎた。

 既に、目的は変わっていた。鬼は数多の修羅場を超えて、自らの力を制御できるだけの武を手に入れることが出来た。もう、この力に振り回されず生きてゆくことが出来る。そう確信できる頃には、集めた武具は三百を超えていた。

 しかし、それでも鬼が鬼であることには変わりなかった。

 意味が欲しかった。だが、鬼は人とは程遠いが故に、誰からも恐れられ遠ざけられ続けた。誰よりも理知的な鬼は、鬼であることに耐えられなかった。孤独であることならば耐えられる。人に恐れられるのも耐えてゆける。しかし、自分の存在が無意味なのではないのかという疑問には、彼は耐えることが出来なかった。

 役目が欲しかった。誰よりも強い肉体を持って生まれ、誰よりも武を修めた自分にしかできない使命が。
 しかし、それは誰からも与えられることはなかった。なぜなら彼は鬼であったのだから。ただ、誰かに恐れられるだけの鬼なのだから。

 人でありたかった。人ならば使命を与えられるやもしれぬ。人から生まれたにも関わらず、なぜ自分は人ではないのか。それは、闇のように深い絶望だった。

 そして鬼は、幼き頃の教えを思い出す。自らの剛腕で絞め殺してしまった、誰よりも暖かな言葉をくれた大恩ある僧を。僧は言っていた。祈ることに意味があるのではない。祈り続けることにより意味が出来るのだと。一の祈りでは叶わぬかもしれぬ。ならば十。それでも届かぬのならば百度祈れと。

 百という数は特別な意味を持つ。意志弱き人間には辿り着けぬその数。全身全霊を籠めて百度も祈れば、神や仏も見てくれるだろうさと。

 だが、自らは鬼である。人ではなく鬼という存在が、誰よりも厚かましい願いを神仏に祈るのだ。百ではたりぬ。その倍あっても恐らく届くまい。

 ならば、千。

 千という数は人には辿り着けぬ。千に至るまで命を懸けて何かを貫き通すことは、人の領分を超えている。自分は今まで三百もの悔恨を背負ってきた。ならばあと七百。千もの想いと呪いを背負う意志さえ持てれば、鬼である自分にも神仏の慈悲は与えられるやもしれぬ。

 数多の悔恨と絶望の果てにその様な答えに辿り着いた鬼は、さらなる修羅場をくぐる決意をした。時には武士を。時には山賊を。十名以上の敵と戦い、重傷を負ったことすらあった。しかしそれでも鬼は生き残ってきた。その巨躯と膂力が故に。

 鬼は集めた武具を一本一本山の頂へと突き刺してゆく。山とは一つの生命である。数多の命が混じり合い、巨大な一つの生命となったそれは、時に神として崇められる。鬼は神にその武具を奉じていたのである。

 やがて、捧げた武具が九百を超えた頃、鬼は京へと辿り着く。平家にあらずんば人にあらず。その様なくだらぬ噂が飛び交うほどの魔境と化した京へと。

 平家の武士。世を統べた彼等ならばまた、神に捧げるに相応しき力量と武具を備えているやもしれぬと。

 だが、その期待は外れてしまう。世を統べたとはいえ、所詮彼等は人であった。鬼である自分に抗えるほどの力量を持つ武士など、数えるほどしかいなかった。

 京に辿り着き心躍らせた出会いは三つだけ。一つは名も知らぬ大鎧の男。一つは二十もの兵との戦い。そしてもう一つは。



「今夜はたぶん来ないよ。大鬼殿。あたしが三人斬っちまったから」



 この、幼き女夜叉との出会い。

「三人とはまた、奮発したものよな。夜叉殿」

 正面より出でた黒い影。大太刀を背負う女夜叉。三人を斬ったというその貌には、微かに血の飛沫の様なものがかかっている。返り血。

「たぶんね、あんたの所に行く連中だったと思うんだ。三人が三人とも、まるで戦にでも向かうような具足姿だったからさ。横取りするのは悪いと思ったんだけど、すまないね。我慢できなかったんだ」

 この夜叉は、七尺(凡そ二㍍十㌢)をも超えようとする鬼に対しても、この様な口調で話す。決して、自分に対して畏れを抱いていないその在り方は、酷く眩しく映る。

「で、まだ集まらないのかい。あたしは楽しみにしてるんだけど。千本目はあたしとやるって約束だろ?」

 鬼が今まで集めた武具は、未だ九百九十五。後五本で千に届くというところで、鬼の脳裏に迷いが浮かんでしまう。この様に容易く達成できる試練で、本当に神仏は我に慈悲を与えてくれるのだろうかと。

 しかし、その迷いは目の前の夜叉と出会うことにより霧散した。これが、これこそが最後の試練なのだと。自分とは違う類の物の怪。自らが鬼の力と姿を持って生まれたのならば、目の前の夜叉は悪鬼が如く業(わざ)を持って出でた物の怪なのだと。それを打ち倒すことにより、我が祈祷は完遂するのだと。鬼は彼女を見た刹那より、そう確信していた。

「すまぬな夜叉殿。恐れをなしたのか夕刻以降は誰もこの橋を通らなくなった。四日ぶりの武士も、そなたに奪われてしまったようなのでな。もしそなたが奪わなければ、今頃はそなたと仕合えておったのかもしれぬが」

「ふざけんな。大体あんたが馬鹿みたいにでかい図体しているから、誰もが恐れて近寄ってこないんだよ。あたいの所為にするなんてお門違いじゃないのかい」

「まったくもってその通り。しかし、今宵は随分と楽しんでこられたようだな。夜叉殿」

 目の前の夜叉の様子はおかしかった。酷く高揚している。普段はもっと冷静冷酷な雰囲気を纏っていたものを。
 余程の強敵と出会えたのだろう。酷く羨ましく思うと同時に、彼女が生きていたことに安堵すらしている。矛盾である。鬼自身が殺そうとしている相手が死ぬことを、鬼自身が許せない。それほどまでに鬼は目の前の夜叉に惹かれている。

「ああ、あの三人は最高だった。たぶん今までで一番の使い手だ。少しでも気を抜いたら自分の首に太刀が刺さっている姿が思い浮かぶんだから。特に、最後の一人になんて、思わず名乗っちまったよ」

 名乗った? 夜叉には名があったのか。出会ってから十日近くなるが、お互い名乗りあったことはない。互いが互いに、名など無いとでも思い合っていたのかもしれぬ。

「あたしにだって名前くらいはあるさ。けど、今のところ死人になる奴相手にしか名乗ったことはないけどね」

「なるほど。ならばワシの死に様にはその名を土産にもらいたいものだな」

「変なの。そんなものが土産になるとは思えないんだけど」

「なに。冥土に持ち込める物はあまり多くはない。末期に聞いた言葉などは、その数少ない中の一つだろうよ」

 そういうもんなのか。首をかしげながら夜叉は歩き出す。向かう先は橋の下。水を浴びて血飛沫を落とすのだろう。以前など、鬼の前で素裸になりそのまま行水まで始めたほどだ。市井の女に見られるような羞恥心や常識など、夜叉にはありはしなかった。

「水浴びも良いが、もうじき日が昇る。早く戻った方がよいかもしれぬ」

「じゃあ、先に戻っていてくれるかい。火でも熾しておいてくれると助かるよ」

「承知した」

 二人が出会ったのは八日ほど前。その折に、あろう事か夜叉は、橋の下に棲んでいた鬼を自らの棲処へと誘ったのだ。いずれ殺し合う定めにある相手であることを、判っておりながら。

 鬼と夜叉の棲処。それは荒れ果てた廃屋だった。どこぞの武士の家だったのだろうが、度重なる乱により主を亡くしたのだろう。手入れする者のいないままに数年が過ぎ、打ち捨てられていたところを夜叉が棲みついた。山の麓にほど近いため、鬼や夜叉は食料に困ることはなく、未だ他の者に見つかってはいない。昼間は一切外出せず、ただ獣の様に眠るだけ。そして夜になると徘徊を始める。二人してその様な生活をしているのだから見られていなくとも不思議ではなかった。

 鬼は歩き出す。後ろを振り向くことすらしない。背負った巨大な七つの武器を揺らしながら、五条の橋を去ってゆく。

 今宵の夜叉の笑顔。それが心から離れない。生まれ落ちて二十余年。最も美しいと思ったものが、年端もいかぬ少女の血にまみれた笑顔などとは。つくづく己らしいとも思う。人ではなく鬼。人ではなく夜叉。共に化生。だからこそ惹かれるのか。

 だが、数日後にはどちらかの命が潰える。それは間違いがなかった。鬼は相手の武具を求める。例え逃げ出そうとする相手からも、武器だけは奪う。その信心と祈祷のために。しかし夜叉にとって背中の大太刀は唯一無二のかけがえのない物であろう。その命がある限り、決して鬼に渡そうとはせぬはず。さらに夜叉が鬼に与えられた試練である以上、他の者では代わりにならない。

 つまり、化生同士の命懸けの共喰いを避けることは決して出来なかった。そもそも夜叉の目的は、強者を斬り殺すことなのだから。いつしか鬼を切り伏せる時を、夜叉は誰よりも楽しみにしているのだから。

 ままならぬものよな。心からそう思う。

 千に辿り着き、神仏に願う。己に人としての意味を与えてくだされと。それは鬼が十数年以上も抱き続けた、悲願。

 しかし、鬼にとっては夜叉と出会ってからの数日が、かけがえのないものへとなってしまっていた。夜叉は鬼を恐れない。それは夜叉自身の強さによるものか、それとも同じ化生であるが故か。畏れを抱かぬ夜叉の態度は、鬼に懐かしいものを抱かせてくれる。あの大恩ある僧と共にあった、たった数日の出来事。涙を流すほど感極まった、あの満たされた刹那。その温かかった何かに近い物を、鬼は今、胸の内に感じることが出来る。

 “今”が“無限”に続けばよい。そんな浅薄な考えすら浮かぶ。

 本当に、ままならぬものよ。心からそう思う。

 鬼若という名の鬼が、その人生を賭けて求め続けた瞬間。
 千に辿り着くという、何よりも求め続けた瞬間が、永遠に来ないことを鬼は願っているのだから。









[25761] 弐ノ一
Name: 空鞘◆fe0cdfe9 ID:159035d5
Date: 2011/02/24 17:07


ふたつめ 『清盛。知盛。牛若。弁慶。静。』






「なぜ父上はそこまで牛若を気にかけるのだ」

 その疑問は、常に平知盛(たいらのとももり)に投げかけられる。如何に己の兄とはいえ、同じことを何度も繰り返す暗愚さを備えてしまっている平宗盛(たいらのむねもり)の事を知盛は疎ましくさえ思っていた。

 事の因は七日ほど前に遡る。鞍馬の山に源氏の残党が潜むことが発覚。幾度となくあの、“紗那王”と接触していると。
 その話を耳に挟んだ宗盛は、即座に鞍馬山へと人を遣った。その結果がこれだ。“紗那王”、牛若丸の鞍馬脱走。

 愚かなことだ。そう知盛は思う。兄の判断は決して間違ってはおらぬ。だが、最善とは決して言えなかった。ただ誤りではないとのだけで、最善ではない行動を行う。その短慮さがいつか平家に災いをもたらさねば良いが。

 此度のことは父である清盛にすら黙って行われている。兄・宗盛の独断。恐らくは得点稼ぎでもしたかったのだろうが、これではただの失態である。そも、とうに父は気付いているのだ。あの平清盛の目の届かぬ所で暗躍できる様な器量は、宗盛には存在しない。

「そもそも、災禍の芽であることがわかっておられるのならば、さっさと殺してしまえば良かったのだ。父上はいったい何をお考えか」

 くだらぬ。愚かな兄を持つことは多々ある知盛の悩みの一つであったが、ここまで来ると逆に憐憫すら誘う。己の失態を事もあろうに主君である父に転嫁しようとまで腐っているとは。少しは長兄・重盛(しげもり)の姿を見習ったらどうだ、とすらも思う。

 しかし宗盛が長兄を見習うことはありえないという事は、知盛にとっては既存の事実であった。宗盛の心の内にあるのは、出来過ぎた兄に対する劣等心なのだから。幾度となく功を立てた長兄に対し、宗盛に目立った功はない。無能に生まれたが故に有能を羨む。その心はわからなくもないが、平家一門に生まれた男児の在り方ではないと、常々知盛は感じていた。

「そもそも牛若が鞍馬より逃げられたのは、あ奴等が無能だった故だ。断じて、儂の所為ではない」

 あ奴等。自身の部下すらも無能と曰う男。実にくだらぬ。まさかこの男は父上の前でもこの様な弁明を見せる気であろうか。あの魔王の化身と見紛うばかりの平清盛相手に? 馬鹿げている。殺されても仕方があるまい。

「兄上、私めに対して洩らすのは結構ですが、どうか相国殿の前でその様な態度はやめていただきたい。あの御方は、失態を冒した者に容赦をなさる方ではありませんからな」

 幼き頃から知盛は見続けていた。父に逆らい死罪を言い渡される者。父の期待に応えられず死罪を言い渡される者。明らかに無実だと分かり切っているにも関わらず死罪を言い渡される者。

 最も知盛が記憶に残したのは、他ならぬ牛若丸に対する父の態度である。源義朝(みなもとのよしとも)の側室であった常磐が、三人の息子と共に父の前に引き立てられたとき、父から発せられた言葉はただの一言だけだった。『殺せ』。

 恐ろしかった。年端もいかぬ子供が母に縋り付き泣き叫んでいる様を見て、その様な言葉を容赦もなく言い放つ事が出来る存在が。そして、同時に知盛の根幹に叩き込まれた事象。己が生き続けるためには、父・清盛と同じ存在にならねばならぬと。あらゆる者に容赦なく、慈悲もなく、迷いもなく。利用できるものは利用し尽くし、敵対するものは鏖とす。さもなければ己は、他の誰よりも先に己が父に殺される。あの光景を目にした知盛が抱いた物は、十数年経った今でも己を縛り続けている。

 幼き頃はなぜ宗盛が父に殺されずに済んでいるのかと疑問に思ったものだが、数年前に父と会話した折にその疑問は氷解した。結局、宗盛が生きているのは予備に過ぎぬ。長兄・重盛が何らかの事故により死した場合の予備。知盛が生まれつき病弱でなければ、あの様な無能者は謀殺していた所だと、父は真顔で言ったものだ。その際に父に言われたことは未だに覚えている。宗盛を傀儡とせよ。貴様が糸を握り裏で操り続けよと。

 以来知盛は、その父の言葉を忠実に守り続けている。常に宗盛を立て、知盛自身は陰に潜み、その実すべてを支配する。だが、その様な日々が続いていると、思ってしまう。もしかしたら。考えたくもないことだが、もしかしたら。

“誰かを操る側だと思っている自分自身でさえも、あの父・平清盛の操り人形に過ぎないのではないか”

 それが脳裏を過ぎった瞬間、知盛に浮かんだ考えは一つだけだった。何のことはない。幼い頃からそうであれと教育され続けていた行動原理。己の根幹に叩き込まれた事象。ただ、それらが答えを出しただけだった。自らをないがしろにし、操り続けている魔王。平清盛を殺せ、と。
 その考えはいつ如何なる時も消えることはなかった。兵法を学んでいる時、食事をしているとき、剣を学んでいる時、そして、平清盛と会話をしている時すらも。
 ただ殺すのではない。暗殺。謀殺。抹殺。いずれにせよ、殺害後に自らが失脚することだけは避けねばならない。共倒れになるつもりなどは毛頭なかった。“平清盛”に造られた、“平知盛”を完遂する。それは、平清盛に成り代わるということ。それが出来てこそ、知盛は自身を完成させることが出来る。そう、信じていた。

「そ、その様なつもりではなかったのだ。知盛よ。ただ儂は、責があるのが儂ではないと言うことを……」

「存じております。兄上」

 頭を下げたまま、宗盛が望むであろう言葉を返す知盛。知盛は常々、この器の小さき兄の眼を直視しない様に心懸けている。宗盛にとって知盛の無機質な瞳は耐え難きものであり、また知盛もその眼に侮蔑を浮かべぬ自信がなかった。故に、彼等の視線が交わったことは、ここ数年間一度もない。

「さて、相国殿の許へ参りましょうぞ。兄上」

 今の宗盛にとって、父たる清盛はさながら閻魔の如き存在なのであろう。考えると、歪んだ自らの心にも清々しき風が吹く様な錯覚を受ける。父が閻魔なら、自分は冥府の鬼か。魔王の子には相応しいではないか。

 そして知盛は歩き出す。いつしか魔王清盛をその手にかける光景を想いながら。






 京に降りてから、十と五人、斬った。
 皆、大したことはなかった。己の身に刻みつけられた術理。その魔性の業の前に、京の武士は皆須く倒れ伏した。

 初めは、彼等を斬ろうとしたことに他意はなかった。生まれて初めて山から下りた少女にとっては、その全ての光景が珍しく、眩しく、輝かしいものだった。深い山中でただ父を相手に剣を振り続けた人生。少女は、生まれて初めて姿を目にする父親以外の人間に、ただ純粋に感動を受ける。

 しかし世の倣いなど何も知らぬ少女。彼女は己が黒衣とその背に背負う大太刀が、人目を集めるものだとは思ってもいなかった。

 そして奇異な姿をした少女に、当然の如く群がる下卑た男達。武士(もののふ)というものを自らの父親しか見たことのなかった少女には、その男達が武士であるとはとても思えない。本当にこの男達は侍なのだろうか。本当に、あの狂うほどに厳格だった父親と同種の者なのだろうか。

 些細なことから発生した争い。既に陽が落ちかけ、人の流れがまばらであったことは、武士達にとって数多い不運の一つだったのだろう。彼等が平氏に与する者達で、昼間から行われていた酒宴により酒臭い呼気を発していたこともまた、彼等の不運の一つだった。

 平家にあらずんば人にあらず。既に彼等には武士としての誇りはなく、ただ酒に任せた獣欲だけがその場にはあった。奇怪な姿をしているが妙に美しい少女を前に、彼等の自制は霞の様に霧散する。それも当然。彼等にとっては平家以外のものは人ですらないのだから、明らかに平家と係わりがない少女を相手に持つ遠慮など存在しなかった。

 それが、彼等の命運を決めた。

 一人目。下卑た笑みを浮かべながら、少女の腕を掴もうとする。直後、少女は反転し、背を向ける。彼はそれを、逃避行動だと判断した。せっかくの獲物を逃がすつもりは彼にはなく、少女の肩を掴んで引き寄せようとする。しかし、喉に衝撃。後ろに蹌踉めく。少女に殴られたのか。生意気な小娘だ。こらしめてやらないと。それが、彼の人生最期の思考。

 二人目。背を向けた少女を強引に引き寄せようとした男の、喉からほとばしる赤い紅い朱い激流。それが何であるのかわからない。何が起こったのかわからず、ただ背を向けた少女を見る。ひるがえる、髪。目が合う。なぜ。少女は背を向けていたのでは。赤い飛沫を浴びながら彼を見つめる少女。笑っていた。嗤っていた。なんて美しい。それが、彼の最期の思考。

 三人目。彼は辛うじて状況を把握することが出来た。順に追う。まず、焼けるような夕暮れに、人型に切り取った闇の様な黒い影を見つける。不審人物。詰問するつもりで近づく。その背からは黒い柄。だが、佩刀しているにも関わらず、明らかに武士ではない。山賊野盗の類か。さらに近づく。向こうは一人、こちらは三人。酔いこそ回っているものの、あれほど小柄な相手に後れを取ることなどないだろうと判断。さらに近づく。一間。逆光故にようやく、貌の判別が付く。女。薄汚れてはいるが、美しい。思考を満たす獣欲。仲間と目を合わせる。意思の疎通。一人が手を伸ばす。少女の反転。いつの間にやら少女の右手に大太刀。いつ抜いた? そして、大量の血液が飛沫となって宙に舞う。赤い雨。血の雨。見れば、そいつの首は皮一枚を残して切断されている。勢いよく吹き出る血液により、頭部が背面に。しかし、そいつはまだ立っている。少女を掴もうと、前方に体重を傾けていたためだろう。おかげで、そいつの身体は前を向いているにもかかわらず、頭部のみ天地逆さに後ろを見つめているという状態に。そいつは一体どんな景色を見ているのだろうと刹那の思考。もう一人の、声。断末魔。自我を取り戻す。太刀に手をかける。抜く。そして絶望。眼前に切っ先が迫っている。灼熱。右目。熱い。熱い。熱い。それが最期。

 瞬く間に三人を切り伏せた少女は、彼等のあまりに呆気ない死に様を嘲笑する。こんな、ろくに戦うことも出来ぬ存在が太刀を佩き、我が物顔で歩いている。なんてくだらない世の中。嗤うことぐらいしか出来ない。きっと、侍にも当たりと外れがいるのだ。こいつらは、大外れに違いない。

 血の海に嗤う黒い少女。長い前髪を流れる大量の血液。その髪を伝い唇へと垂れたそれを、ぺろりと舐める。甘い、と呟く。その様はとても幼い少女とは思えないほど妖しく、淫らで、美しかった。

 夕暮れの惨劇は一瞬で終わり、返り血を拭おうともせず少女は歩き出す。その血に濡れた大太刀をヒュンと一振り血振るいすると、黒衣の袖で刃を拭い納刀する。その、あまりに現実離れした光景。夕刻。それは、逢魔が刻。その少女を目にした者は後に一様に口にする。あれは人ではないと。あれが、人であるはずがない、と。女の姿をした鬼。美しき般若。女夜叉。京の夜叉の噂は、こうして始まった。






 武士を三人も斬り殺した少女は、用心のために夜間のみ出歩くこととした。また同じような輩に出会うのはたまらない。斬り合いならば構わないが、とるに足らない輩をただただ斬り続けることは、少女の望みではなかった。少女が切望していたことはただ一つだった。血反吐を吐きながらもなお狂わんばかりに研ぎ澄まし続けた技を、存分に振るうこと。そのためならば少女は、人を棄てることすら厭わない。

 京で出会う太刀を佩いた男達は、皆が皆平家の武士であった。時折僧兵などもいないことはなかったが、今は亡き父がふとした際に、猟師や僧などと親交があったと語っていたことを思うと、少女にとってあまり気の進む相手ではなかった。その点、平家の武士は気兼ねなく斬れる。よもや全ての侍が大外れということはなかろう。稀に現れるだろう当たりが出るまで、少女は斬り続けた。夜叉のように。



 そして、その邂逅は訪れる。



 陽が沈む。夜が来る。少女は目覚め、夜叉の時間がやってくる。
 朽ちかけた家屋の中、身体を丸め膝を抱え蹲るように眠っている少女。太刀こそ利き手より放していないが、髪を解き薄衣一枚で眠っている姿は年相応のあどけなささえ感じる。この姿を誰が見ても、毎夜血飛沫を浴び続けている少女だとは思わないだろう。まるで無防備。夜叉ではなく少女としての本当の姿が、垣間見える。

 しかし彼女は覚醒する。今宵もまた、命を削り削られあうために。

 髪を纏め、黒衣に身を窶す。寝ている時すら片時も手放さなかった大太刀を背負えば、少女は夜叉となる。いつもの嗤みに貌を歪め、歩き出す。

 妙に美しい月夜だった。いつか、あの月すら斬ってくれる。少女はそんな事すら思い浮かべていた。

 ふと、歩みが止まる。前方の街道。五条へと続く通りを、何やら集団が歩いている。中心には籠を担いで進む四人の男。間違いなく、平家に関わる人物が乗っていると、少女の思考。

 ざっと二十人。籠を担いでいる者と、籠の中にいるであろう者を含めると二十五人か。
少女夜叉は思考する。目の前の集団。恐らくは平氏の名のある武士を乗せた籠を襲うかどうかを。

 戦いを挑めば恐らく自分は死ぬだろう。五人までなら無傷で斬り捨てる自信が夜叉にはあった。しかし、それ以上の数を相手にするのは危険どころか、自殺行為にしかならない。あの集団に戦いを挑むとする。数で圧倒的に優る相手に手段は選ぶつもりはない。背後からの不意打ち。最後尾にいる二人を仕留める自身の姿。集団がこちらに気付く。恐らく後方に位置する三人が斬りかかってくる。しかし、その三人を斬り捨てる場面までなら想像することが出来る。問題はここからだった。こちらは無傷、相手には五人分の屍。この状況を見て、敵の思考からあらゆる油断が消えることは想像に難くない。となればどうなるか。実に簡単な結果。残る二十人による包囲波状攻撃により、夜叉はその命を失うだろう。如何に夜叉の剣理が常軌を逸しているとしても、押し包まれる様にして多数に斬りかかられれば敗北は否めなかった。

 しかし、確実な敗北が見えていても夜叉は彼の集団へと飛び込みたい衝動を堪えきれずにいた。刃でありたい。剣でありたい。太刀でありたい。鋭く、細く、研ぎ澄まされた。全てを断つ刃。刃に保身などは関係がない。ただ、刃は何かを斬るために存在し、剣や太刀は敵を斬るために存在するのだから。その身が錆びて折れて打ち捨てられるまで、己という刃を振るい続けたい。それが、夜叉の魂にまで刷り込まれた本能。

 その本能が言っている。その魂が言っている。強き者を斬れ、と。戦いという炎に己という刀身をくべ、斬り合いという鎚で打ち鍛えよ、と。

 背中の太刀に手をかける。音もなく影の様に歩き出す。美しき貌には嗤い。決死の覚悟なるものは夜叉には存在しない。なぜならば、命などというものは初めから彼女には無いも同然なのだから。ならば如何に此度の斬り合いで業を振るうことが出来るか。夜叉の思考にはそれしか残らない。ただ、一振りの刃であり続けることが出来れば、夜叉自身は生きていなくともよかったのだから。

 闇に融けるような歩法。音も気配も、ともすれば姿すら見失いかねないほど夜叉と闇は同質だった。歪んだ静謐。殺意はなく、しかし狂気じみたものすら感じる。そして夜叉が集団に接近しようとしたところで。



「そなたらは平家の者か?」



 声が、聞こえた。

 声の主は、五条の通りへ向かう橋を塞ぐかのように存在していた。巨大、だった。とても人とは思えない。この光景が夢であると言われた方がまだ信じられる。それほどまでに現実離れした存在が、そこに仁王立ちしていた。

 ただ、身の丈が高いだけではない。例え衣の上からでも、鋼のように引き締まった筋肉が全身を覆っているのがわかる。その歪な盛り上がりは、薄皮一枚下を何匹もの蛇がうねっているかのよう。腕も、脚も、首も、胴も。全てが黒鉄の如き筋肉に覆われている。二の腕など、夜叉の胴ほどはあるだろうか。全身がとてつもなく太く、獣よりも遙かに無駄のない肉体。まるでそびえ立つ仁王像が、異形の存在としてそこにある。そんな有り様。

「な、なんだこいつは」

 集団が色めき立つ。恐怖に竦む。二十を越える集団は、ただ一つの存在に呑まれていた。蛇に睨まれた蛙などという表現では、生温いほどに。

「まさか……五条の大鬼……」

 五条の大鬼。それがあの存在なのか。夜叉にとっては初めて耳にした言葉だが、どうやら自分以外にも京を騒がせている存在があったらしい。なるほど、大鬼とは言い得て妙だ。あの姿を見て、果たして人だと思う者が一体どれほどいるのだろうか。薄汚れた衣裳の、巨大な鬼。背にはいくつもの凶器を背負い、右手にはあまりにも巨大な薙刀を構えている。
 七尺近い鬼よりもさらに長大な薙刀。どれほど重いのか見当もつかない、鉄塊じみた凶刃。果たしてそんな物をどの様に振るうのか。

「どうやら、平家の者、らしいな」

 鬼の言葉。あまりにも平静で平坦で、目の前にいる者達を敵と認識しているのかどうか。
 あの鬼は、あんな表情で誰かを殺すのか。まるで鬼ではなく悟りを開いた菩薩のような安らかな貌で。自分とは、夜叉とは明らかに違う。

「かかれ、かかれ……かかれぇぃ!」

 籠の中から、声。恐怖に裏返った声でも、この場にいる武士達の主君の声なのだろう。集団の中の誰もが、恐怖を押しのけるかのように抜刀する。

 じりじりと、集団が前に出る。扇状に包囲をする魂胆なのだろう。ゆっくりと、ゆっくりと。

 ドン、と。耳を聾す地響き。
 鬼が、巨大な薙刀の石突きを大地に突き刺し、手放した音だった。

――なに?

 夜叉にはその光景が信じられない。あの巨大な鉄塊をどの様に振るうのか、夜叉の脳裏にはそれしかなかった。まさか自ら薙刀を手放すなどと。



 だから、まさか、あの鬼が、あんな凄まじい手段に出てくるなどとは、思ってもみなかった。



 肉塊が、舞う。

 胴体から吹き飛ばされた上半身。驚愕の表情のまま右腕を失っている侍。半ば吹き飛ばされ、血煙をあげている、籠。

 それは、巨大な一つの凶器が、凄まじい速度で通り過ぎた際にもたらした被害だった。

 鉞(まさかり)。それも尋常の形状ではなかった。握り近くまで伸びた長大な斧の刃は、肉厚で重厚な鋼の鈍い光を放っている。片手斧をそのまま巨大化させたような、まるで釣り合いの取れていない怪物じみた大鉞。あの鬼は背負っていたそれを、悪鬼が如き膂力で投擲したのだった。凄まじい勢いで放たれた凶器は、二十余名の集団の内、実に七名を殺傷した後、路傍の岩石すら粉砕する。

「ォォォ――――――」

 鬼の、咆吼。巨大な薙刀を右手に。背中より取り出した大槌を左手に。集団の中へと飛び込んだ。

 後はただ、一方的だった。

 鬼は濁流であり、雪崩であり、嵐である。巻き込まれた者達は皆、人の形すら留めることなく死に絶えるしかなかった。ひしゃげ、消し飛び、押し潰され。より強く、より速く、より鋭く、より重く。鬼の破壊は止まらない。

 悲鳴を上げる暇すらない。逃げようとした者へ大槌を投げつけたかと思えば、左手の鉤手甲――手甲の先に鋼鉄の熊手を取り付けたかのような――で死骸を貫き、鈍器として振り回す。加減などどこにもなく、ただ全身全霊を持って殺戮を行う鬼の姿がそこにある。

 惨劇は、瞬く間に幕を下ろした。

 後に残るのは血と屍の海に立ち尽くす大鬼と、陶然とその光景に見入っていた夜叉だけであった。

「そなたも、平家の者か?」

 それが、人を外れた者達に訪れた、最初の邂逅。







[25761] 弐ノ二
Name: 空鞘◆fe0cdfe9 ID:159035d5
Date: 2011/02/24 20:03
 平家が憎かった。
 だから、抗い続けると誓った。

 平家が憎かった。
 だから、自身の命を賭けると誓った。

 平家が憎かった。
 だから、他者の命すら、賭けると誓った。

 平家が憎かった。
 だから、あらゆる人間を奈落に堕としても、鏖(みなごろし)にすると、誓った。



 平家が憎かった。
 だから、人を辞めることさえ、厭わなかった。



 追われているのは小柄な少年だった。
 脇差しを片手に駆けてゆく。平坦な道ではない。そも、道など見当たらぬ漆黒の闇の中を、彼は真っ直ぐに駆け続けていた。

 憎い。

 背後には松明の炎がゆらゆらと。その数は二十にも近い。たかが童一人に対する追っ手にしては、あまりにも多すぎる。

 憎い。

 少年は止まらない。息は乱れ、汗は噴き出し、筋肉は痙攣すらしている。しかしそれでも熱に浮かされているかのように、その足は止まらない。

 憎い。

 そもそも、ここは山の中である。何故光一つ無い闇の森の中を、少年は走り続ける事が出来るのか。常人ならば、恐怖に竦み動く事すらままならない。辛うじて歩く事が出来たとしても、すぐさま足を根に取られ倒れかねない。そんな漆黒の森の中を、猿(ましら)の如く少年は駆け進む。

 ふと、少年は立ち止まる。振り返る。確認する。鷹のように鋭い眼が、松明の炎を睨んでいる。表情が歪んだ。逃げ切れぬと察しての諦観ではなく。彼の端整な顔立ちは、まるで獲物を前にした狩人のように。にたり、と邪悪な嗤いに歪んだのだった。

 身を伏せる。それはまるで、蜘蛛のような姿勢だった。脇差しを口に咥え、四肢を伸ばし、蟹のような節足動物や昆虫を彷彿とさせる姿勢で微動だにしない。その姿はとても人に見えず、見る者によっては獲物を前に待ち伏せる狼のような、そんな印象すら抱かせていた。

 憎い憎い憎い憎い憎い憎い。

 少年は知っていたのだろう。松明の炎。その内の三つほどが、こちらに向かってくる事を。
 嗤いに歪む。移動する。いつの間にか呼吸は整い、音もない。草を掻き分け藪の中へ。人ではなく獣の姿。
 哀れな獲物の、声が聞こえてくる。

「彼奴め……一体どこへ行ったのだ」

「気をつけろ。既に何人も殺られている」

「なぁ、あれは、本当に人なのか? 奴らの亡霊じゃないのか? だって見ただろう。あんなこと人間に、ましてや小僧なんかにできることじゃない……」

 暗い森の中に声が響く。松明を手に持つ者が三人。声を出しているのも三人。しかし、足音は五人分。地に伏せた少年は、彼等の気配を確実に感じ取っていた。

「“紗那王”め」

 男達の一人が、忌々しげに吐き棄てる。“紗那王”。それが、少年の名前だった。源義朝が九郎。九郎とは、九番目に生まれた子という意味である。幼名は牛若丸。彼は、紛れもない板東武士の頭領の血筋であった。

 彼は異様な少年だった。平清盛に生かされ、鞍馬の山へと僧となるべく放逐される。普通の子供ならば、この時点で諦めるであろう。ただ、己の運命を掻き乱す世間の残酷さに怯えながら、それでも受け入れ生きてゆくしかなかったはずだ。しかし、紗那王は違ったのだ。彼は、紛れもなく“普通”とは縁遠い子供だった。

 言ってしまえば、彼は既に、狂っていたのかもしれない。

 源氏の頭領の息子として生まれながらも、彼は父のことを憶えてはいなかった。それもその筈、彼が未だ物心つかぬ頃に、父は帰らぬ戦へと出陣していったのだから。だから、彼にとって父親の事など、本当にどうでもよいことであった。

 彼には幼き頃の記憶がなかった。だが、それでも彼は気にしなかった。それこそどうでもよいことだったからだ。彼にとっては過去などどうでもよく、如何に憎しみを保ち続けるかが願いだったのだから。

 彼の誕生は、憎しみの誕生であった。少年の記憶が始まる瞬間。少年の人生が始まった原風景。それが、後の彼の人生を決めてしまったのだろう。不幸な事に。幸福な事に。

 覚えているのはただ、自分達兄弟のために必死に命乞いをする母の姿と、その母に縋り付くように泣いていた兄たちの姿であった。その姿を見て、彼は思ったものだ。なぜ、母や兄が気が狂わんばかりに涙を流さねばならぬのだと。

 彼の世界は狭く、そして小さかった。母と、歳の近い兄と、源氏に仕える使用人。それだけに過ぎない。時折しか顔を見せぬ父も、幾千といる父の配下達も彼には何も関係がなかった。彼にとっては、この狭い世界が幸福に満ちてさえいればよかったのだ。



『殺せ』



 狂わんばかりに命乞いをする母と、咽び泣く兄たちを前に、あの男はただの一言、そう言った。

――ああ、壊されようとしている。自分のための世界が。小さな平穏の世界が。あの平清盛という男によって。

 それが、少年の原風景。彼はその時、己の奥底に刻みつけたのだ。自分達を価値もない物としか見ぬ、あの驕りに満ちた魔王の眼差しを。あれを、憎み続けるために。

 狂気の人生は、その時より始まった。

 半ば幽閉される形で鞍馬の山へと送られた少年は、紗那王という名を授かる。だが、そこで彼を待っていたのは、僧になるための修行などではなかった。

 如何に僧達とはいえ、その時々における時勢という物には影響されるのであろう。既に天下の趨勢は平氏の色に塗りつぶされており、源氏の血を引く幼子など、厄介者でしかなかった。僧達による陰湿な責め苦が、彼を何年もの間襲い続ける事となる。



 そして、あの“行者”との出会いと、“禍津伏(マガツフセ)”の法。



「それにしてもあの傷痕、いったいどうすればあんな事が」

 地に伏せている少年からおよそ二間ほど。松明を持った男が、仲間を振り返りながら問う。

 傷痕。

 男が言っているのは先程見かけた仲間の姿だった。まるで、喉笛を大きく剔りとられたような――――

 仲間を振り返るということは、地に伏せ身を隠している少年に背を向けることでもあった。当然、少年はその隙を逃したりはしない。

 音もなく地を這う。肉食の獣のような歩法は生い茂る繁みの中でも何故か音を立てることが無く、背を向ける男の元へ到達する。

「かっ」

 男の口から洩れる呼気。
 そして、完全な沈黙。

 後に残されたのは、地に落ちた松明だけ。松明を所持していたはずの男の姿は闇に紛れ、もうどこにも見えない。

「な―――!?」

 しかし残る四人の男達の行動もまた、水際だったものだった。突然の事態に対し瞬時に仲間へ目配せすると、彼等は背中合わせに密集する。彼等はどこまでも冷静で、闇の中での戦闘にも長けている。だからこそ不意を衝かれぬように背と背を合わせ少年を警戒したのだが。

 それはまさに、彼の思う壺といったところだった。

 匕首(ひしゅ)という武器だった。
 鍔はなく、長さに至っては三寸(凡そ9センチ)程度しかない。少年の手の裏にすら隠れる程度の小さな凶器は、氷雨となって男達へと降り注ぐ。そう、文字通り刃の雨となって、樹上から幾多の匕首が彼等に向け降り注いだのであった。

 次々と洩れる苦悶の声。それに混じり微かに聞こえた、猫のような着地音。少年はいつからか潜んでいた樹上から、男達の輪の最中へと飛び降りる。一人目は気付くことすらなく、その延髄を降り注ぐ匕首に貫かれて絶命した。二人目は着地した際に振り抜かれた脇差しで、左腕脇下の動脈を断ち切られている。返す刃で三人目。振り向こうとした顔面を一閃した脇差しは、彼の意識と命を完全なまでに奪い獲った。

 そして、四人目。

 二人目の動脈を断ち切られた男は、決して助からぬ深手を負ったにもかかわらず、即死することはなかった。だから、死に向かうまでの僅かな時に、その光景を目にしていた。

 四人目の男は降り注ぐ匕首に対する負傷も軽微で済み、また、背後での仲間達の呻き声にも即座に反応することができた。男は痛みと恐慌がもたらす“振り向きたい”という衝動に必死で抗った。背後を突かれた奇襲に対し、足を止めれば即座に命は終わる。男はそう判断し、またそれも誤ってはいなかった。丸まるように頭を抱え、身を投げるように前方の繁みに飛び込む。距離を取り、刀を構え、振り向き。



 そこで目にしたものを、何と表現すればよいのであろうか。



 人ではない。

 それは断じて、人のものではなかった。
 夜の闇にさえ白く輝くそれは、人がまだ獣であった頃の名残。人が食物を咀嚼するための歯ではなく、獣が獲物を絶命させるための、牙。

 簡単な仕事の筈だった。逃げ出した源氏の稚児。未だ若い少年である稚児一人を、数十人で追い詰め捕縛するというだけ。なぜ、それで、こんな目に遭う? なんでこんなに痛い? なんでこんなにも寒い? なんでこんなものを見なければならない? 仲間が訳のわからぬ獣に喉笛を噛み破られ喰い殺される様を見る羽目になるなど……。

 そしてゆっくりと、大量に失われてゆく血液に彼は意識を奪い取られ……死への数瞬だけが彼に残された。

 果たして五人の屍からいくつかの武器を物色すると、少年はまた闇の中を走り出す。追っ手はまだまだ残っている。ここで立ち止まるわけにはいかなかった。目指す場所は京の都。未だ彼の狭く小さな世界が無事であった頃、大切な筈だった母君の元へ。

 母を救おうなどとは、思ってもいない。彼は既に人を辞め、ただその憎悪に身を焦がすだけの修羅と成り果てていたのだから。だから、母を救おうなどとは、思っていなかった。

 しかし。
 もし彼の母君も、少年と同じような責め苦を味わわされているとしたら。

「せめて、我が手で……」

 それは修羅道に堕ちた少年の、まごうことなき愛の形だった。

 あの温もりを憶えている。あの優しさを憶えている。あの微笑みを憶えている。あの眼差しを憶えている。
 柔らかな手は幸福をくれた。いつ如何なる時も彼のことを想ってくれた。母が微笑を浮かべれば彼も何故か嬉しくなれた。強さと優しさを兼ね備えた眼差しは、憧憬さえ覚えていた。

 だから。

 鞍馬の山での生活を思い出す。あれはとてつもない痛苦だった。僧達に与えられた所行も、自ら望んだ修行も、“行者”に施された修法も。狂わんばかりの憎悪がなければ決して耐えられるものではない。

 憎悪。それが彼の全てだった。

 他の者など何も求めず、他の物など何も求めず。ただひたすら憎しみの炎に薪をくべ続けた日々。
 残されたのは傷痕にまみれた少年の躰と、虚ろになった心だけ。

 その心が言う。あの優しさを、温もりを、強さを。万が一にでも穢されているのならば。

 狂気の決意を新たに、少年は京へ向かう。その身をより深く煉獄の底へと堕としながら。






 出会った二人が打ち解けるまで、そう時間はかからなかった。

 夜叉はただ純粋に鬼の武芸を賞賛し、鬼もまた夜叉の異常を察することが出来た。互いが互いに理解したのだろう。目前の相手は、己を上回るかもしれぬ武芸者であることを。

「あんたみたいなのは、正直嫌いじゃないさ」

 夜叉の言葉である。
 仄かに少女らしい感情をその鉄面皮から滲ませながら、夜叉は鬼に対してそう言ってのけた。

 これがまた、鬼にとっては予想外だったのだ。
 その様な言葉をかけられたことは、今までの人生であっただろうか。わからない。あの恩師以来かもしれぬ。自らのことを認めてくれた存在は。

『そなたも、平家の者か』

 あの時、そう夜叉に声をかけたあの時、鬼は自らに流れた感情を理解することが出来なかった。

 それはいつも鬼が懐かれ続けていたことで、しかし決して他者に対して懐くことのない感情。恐怖という名の、人の根源。

 嗤ったのだ。その蓬髪を血で濡らした、あまりにも巨大な存在である鬼を前にして。あの少女は、言い様もなく怖ろしい笑顔を浮かべたのであった。

 人では有り得ない。そう直感した。己と同じ人外。人から生まれた人で無き者。恐怖に震えていた。歓喜に震えていた。生まれて初めて目にする同類を相手に、鬼はただ悦びを感じていたのかもしれない。

 少女が歩み寄る。真っ直ぐに、揺れもせず、ただただ前に進むための歩法。歩行という、人が人である事を示すもっとも基本的な行動。しかし、夜叉の歩みは鬼が持っていた常識の枠を踏破していた。一切の無駄が、削ぎ落とされている。完璧に保たれた正中線。上体は常に正面を。骨盤を中心に整えられている重心。ここまで完全なる前進を、鬼は目にしたことがなかった。今までに相手にしたどんな達人よりも、目の前の少女が怖ろしく思える。

 背中の太刀に手をかけながら、少女はただただ歩み寄る。その目線は真っ直ぐに鬼の目を貫いてくる。決して揺れない。歩む度に上下するはずの頭部も、その肩も、常に一定の高さで微動だにしない。

 距離が、縮まってくる。

 鬼はただ静かに、背中の凶器に手をやった。
 それもまた、一つの異形だった。鋼鉄で出来た重厚な鉈のような何か。四尺ほどの長さを持つ、巨大な刃。鉈との差異はただ一つ、鮫の牙のように凶悪な形状の鋸刃である。片刃の大鋸。並みの野太刀よりも長大な鋸は、鬼の巨体と見比べても遜色ない凶器であった。

「へぇ」

 少女の、声。
 笑みが深くなる。太刀を抜き放つ。少女の背丈とほぼ同等の長さを誇る大太刀。鬼の凶器が重厚な異形ならば、少女の太刀は研ぎ澄まされた異常であった。

 掌を天に向けた左手を前方に突き出し、太刀を持った右腕を側方に水平になるまで持ち上げる。刃を寝かせ、切っ先は真横に。目一杯横に伸ばされた右腕は、その異常の刃と一体に見えるかのように細かった。

――なんのつもりか――

 鬼の脳裏を疑問が奔る。あの様な構えは、今までに見たことすらなかった。あの状態からは横薙ぎの斬撃しか放てまい。あの大太刀の長さも間合いも、あの構えからは容易に推測できる。どう考えても、少女の利が少なすぎる。前方に突きだした左腕で何かをするのだろうか。鬼には想像もつかなかった。

 少女の歩みは止まらない。決して迷わず、躊躇せず。鬼に恐怖を、見せもせず。

――五尺は、あるか――

 太刀の長さである。真横に構えられた少女の太刀は、その全貌を鬼の前に表していた。背中に負った大太刀を、少女はどの様にして抜いたのか。本来ならば少女の背丈では、あの異常を抜けるはずもなかった。鞘に何か特別な仕掛けがあるのだろうか。



 間合いが近づく。二匹の魔が邂逅する。



 攻撃は、鬼が先手だった。



 投擲。背中の大鋸を、少女に。

 それは、嵐であった。巻き込む物全てを切り刻む、鎌鼬によって出来うる嵐。地を這うように大気を裂き、怖気の走る回転と共に少女の胴を吹き飛ばそうと――

 鬼は、確かに目にしていた。

 突き出された少女の左腕が、高速で回旋を続ける嵐の中に伸ばされ、正確にその柄を掴み取った様子を。

 無論、少女の細腕で掴まれたとしても、嵐は止まらない。未だ回転し続ける死の竜巻は、容易く少女を呑み込み、巻き込み、振り回し――――――気付けば、少女は鬼の目の前に立っていた。

 それは、奇跡のような技法であった。

 如何に凶悪な嵐でも、その実体は、巨大な刃物が回転しながら向かってきているだけである。ならば、刃に触れなければ斬れはしない。自ら嵐に呑み込まれたようにさえ見えた少女は、その実、回旋の中に身を投げ出し、巻き込まれ、柄を握った左腕を支点に“嵐と一体化”することにより、確実な死をやり過ごし、尚かつ鬼の眼前へと一瞬で辿り着いたのであった。

 無論、原理が判っても出来うる者などいるはずもない。圧倒的速度で回旋する物体の柄を、僅か下方から一瞬の迷いも遅滞もなく掴む。同時に下前方へと倒れ込むように身を投げ出し、掴んだ左腕に渾身の力を込め流れに逆らわず宙を舞う。そうして刃をやり過ごした後に、絶妙の拍子で手を離す。回旋の勢いに弾かれたように見えた少女は、その実、嵐さえも味方にして五間もの距離を一瞬で潰し、鬼の前へと身を運んでいた。

――信じられぬ――

 避けるのならば納得がゆく。地に伏せる。天に跳ぶ。どちらでも良い。それが如何に難しきことであるかは、鬼自身が誰よりも知っている。しかし、あの少女ならばそれも出来るだろうとふんでみれば。見せられた物は軽業師の如き……しかし比べ物にならぬ神業であった。敵手の技すら利用し一瞬の間に間合いを詰める神業。それを成し遂げたのは十代半ばの少女。鬼が確信を持って言えることが一つだけある。それは、明らかにこの少女が、人としての枠を逸脱しているということ。

 目標を外された大鋸が何かに激突する。それは、合図であった。二振りの刃が、互いの命を奪い合うための合図。

「シャゥ―――――――」「ぬぅん―――――――」

 同時に漏れ出す呼気。片方は切り裂くように鋭く、もう片方は押し潰すように重い。
 薙刀が振り下ろされる。大太刀が薙ぎ上げられる。

 激突。

 しかし、鬼が想像していたような轟音はなかった。少女は左前方、即ち鬼の懐へと、薙刀の力を受け流すかのように潜り込んでいたからである。

 逸れた大太刀。潜り躱された薙刀。互いに互いの首を狙った二つの凶器。大太刀は胴へ、薙刀は地へ。

 趨勢は決したかのように見えた。このままでは少女の大太刀は、鬼の胴を薙ぎ払う。そう、“このまま”では。

 決して慌てず、心が揺れることもなく。
 鬼はその左腕を、向かい来る刃へと叩きつけた。



 それが、二人の出会いだった。



「それでな大鬼殿。そこでそいつがやってきたのはな?」

 所変わって廃屋の中。鬼はただただ困惑していたと言えよう。
 火を熾し、昨夜の内に捕獲しておいた兎と山菜による汁を作る。夜叉の分まで作っているのは、彼女のあまりの食生活を見かねた鬼の善意であった。料理がなければ、夜叉はそのまま“生”で喰う。血抜きすらしない。あの美しき顔や手が兎などの血に染まるのである。あまり見ていられる物ではなかった。

 血を抜き、皮を剥ぎ、食べやすく切り分けられた兎。脂の多い部分を鍋に押し付け、そこそこと流れ出たところで塩をふった肉を焼いてゆく。焦げ目が付いた辺りで汲んできた水を入れ、茸や山菜を放り込んだ。元より細かい調理法など鬼の興味からはかけ離れているため、実に大ざっぱなものだった。それでも鬼の姿を知るものからすれば、鬼が調理をしている様を見るだけで絶句するだろう。

 果たして程よく鍋が煮立ったところへ、水浴びを終えた夜叉は帰ってきた。しかし、どうにも普段とは雰囲気が異なる。上気した肌に、嬉しそうな笑み。この様な夜叉の姿は目にしたことがない。

 食事の最中に鬼が理由を聞いてみると、何のことはない。今宵の相手はそれほど素晴らしかった、半時もかけてそう語り尽くした夜叉はまるで、ただの少女のようにさえ見えた。

「間合いの判断も独特だったし、体勢を崩さずに寄ってくる摺り足も見事だったんだ。もう殺されるかと思った。死ぬほど楽しいって言うのはきっとああいうことを言うんだね」

 それは恐らく違うのではないだろうかと、鬼は心に秘めておく。この様に誰かと話した経験など、鬼には数えるほどしかない。どう受け答えればよいのかもよくわからず、さりとてこれほど上機嫌な少女の意識に水をかけるわけにもいかない。聞き流すこととした。

「でさぁ大鬼殿……、って聞いてる?」

 いつの間にかぼうとしていたらしい。刃の角度の適切さ、鎧の強度と上腕筋の緊張までならば記憶に残ってはいるのだが。鬼にとって今宵の夜叉は、どうにも調子が狂う。

「恐らく八相に構えた状態から突きへの移行が狙いだった。の所までなら聞かせてもらったが?」

「そうそう。それでね大鬼殿。あたしはしてやったわけだ。まあ、一種の賭けには違いがなかったんだけど、前に立った二人を“クラミ”によって何とか斬ってさ。逆方向の脇構えに……」

 そう口にしながら箸を太刀のように振り回す夜叉。娘か妹でもいればこの様なものなのだろうかと、鬼は一人宙を見上げながら、思う。

 しかしこれも、悪くはない。いずれ斬り合い殺し合う定めにある二人の、心休まる蜜月か。気付けば、目の前の少女を見守るような、そんな暖かな笑みを浮かべている自分がいる。

――きっとこの少女は、寡黙なわけではなかったのだ。餓えていたのだろう。自分の“同類”とこの様な話をすることに――

 それが今宵の夜叉を目にした、鬼の感想だった。

「そういえばさ、大鬼殿」

 ふと、鋭い目をした夜叉の表情が映る。
 何を聞くつもりであろうか。鬼にはそれがわからない。

「大鬼殿には、名って、あるのかい?」

 それは、何か畏れを抱くように口にされた。






 名には、深い意味が出来る。
 少女はそう父から教わっていた。名とはその人物の魂を顕すのだと。

 だからこそ少女は、少女自身の名を気に入ってはいなかった。

 シヅカ。父は何を想ってこんな名を付けたのだろうか。彼女にはそれがわからない。

 少女は、この名を嫌っていた。自らの名に対して憎しみすら抱いていた。
 少女の魂を顕す。まさにその通りであった。彼女はこの名が決める通りの人生を送ってきた。きっと今後も送り続けるのだろう。

 なぜならば、この名を少女に与えた父ですら、その名の示す通りになってしまったのだから。

 先程、冥土への土産に私の名を持ち帰った男を思う。強かった。楽しかった。怖かった。震えるほどに。奮えるほどに。あの男は私の名を聞いて、どう思ったのだろうか。嘆いたのだろうか。落胆したのだろうか。それとも?

 そしてふと気になったのだ。

 大鬼殿。

 先程の男よりもさらに強く、さらに厳しい研鑽を積んでいるであろう武芸者。
 鋼の狂信と大地のような強さを兼ね備えた、どこか父親を彷彿とさせる人物。
 まるで山だ。大鬼殿と刃を交えた刹那、夜叉が感じたのはそれだった。巨大な山岳そのものを敵に廻せば、こんな気分になるのではないかと。

 だから、思ったのだ。目の前の大鬼殿は、一体どんな名を、生まれて初めてかけられる“呪い”を込められたのだろうかと。

 少女はただ、そう思ったのだ。



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