「辺野古に戻らざるを得ない苦しい中で理屈付けしなければならず、考えあぐねて『抑止力』という言葉を使った。方便と言われれば方便だった」
鳩山由紀夫前首相は、沖縄タイムス社など地元紙のインタビューに応じ、米軍普天間飛行場の移設問題をめぐる対米交渉の裏側を語った。
「抑止力は方便だった」という言葉の軽さには、ただただあきれるばかりである。言う言葉がみつからない。
インタビューによって浮かび上がった普天間問題をめぐる政治の構図を、あらためて問い直す必要がある。交渉の過程でどのような政治力学が働いたのか。何が問題の解決を妨げているのか。
「最低でも県外」「常時駐留なき安保」「対等な日米関係」「政治主導」。いずれも鳩山氏の政治家としての信念に根ざした主張だった。
実行に移そうとすれば、米国との摩擦、官僚との摩擦は避けられない。
鳩山前首相はその備えもないまま米国や官僚と相まみえ、壁にぶつかっては跳ね返され、閣内をまとめることもできず、迷走を続けた。
鳩山政権の動きに警戒感を募らせた米国は硬軟織り交ぜ、さまざまな圧力を新政権にかけた。
全国紙の米国特派員は「米国が怒っている」という類いの記事を流し続けた。外務省や防衛省の官僚は非協力的だった。
「鳩山の失敗」に身震いした菅直人首相は、米国にも官僚にも逆らわず政権を長続きさせるという道を選んだ。政権交代時に掲げた理念の大幅な後退である。
2009年9月に鳩山首相が誕生してから今日に至るまで、普天間問題の節目節目に浮かんだ言葉がある。
西郷隆盛と西南戦争について取り上げた「丁丑(ていちゅう)公論」の中で福沢諭吉は「新聞記者は政府の飼犬に似たり」と指摘した。
政治学者の丸山真男は、日本の新聞社の「政治部」について「『政界部』というふうに直した方がいい」と批判した。
大ざっぱな言い方をすれば、米国と官僚と全国メディアは鳩山政権誕生以来、三位一体の連携で辺野古移設を主張してきた、といえるのではないか。鳩山前首相はこの強固な壁に押しつぶされ、あえなく「憤死」したのだ。
総理の強いリーダーシップと閣内の結束、党内の一致協力があれば、状況は変わったかもしれない。
1994年2月、細川護熙内閣の下に防衛問題懇談会が設置され、同年8月、村山富市首相に報告書が提出された。
報告書は、国連の下での多角的協力を重視した内容だったため、「米国離れの動き」だと米国から警戒された。
米国が定めた枠組みから日本がはみ出したり飛び出したりするのを米国は警戒する。
対米、対中、対ロ。いずれも菅政権の外交の足腰はふらついている。
嘆かわしいことだが、それが普天間問題を取り巻く今の状況だ。