第二章 カミカゼ・ブレーキング

未熟児で生まれる


一九六三年五月二十九日、予定日よりもひと月も早く、僕は東京都町田市民病院の産婦人科病棟で「か細い」産声を上げた。体重が二〇〇〇グラムにも満たない未熟児だった。片山家にとって初めての男子は、桃屋の「海苔の佃煮」の瓶に、ちょこんと小さなミカンを載せたくらいの大きさしかなかった。
「こんなに小さくて大丈夫なんだろうか?」
 長い間、保育器に入れられたままの長男を心配そうに見つめながら、片山巌、朝子夫婦は、何度そう思ったことか。巌、三十六歳、朝子、三十歳。昭和三十八年、ケネディ大統領が暗殺された年のことである。東京ではオリンピックを翌年に控え、いたる所で工事が行なわれていた。日本で初の本格的なレース、第一回日本グランプリ自動車レースが鈴鹿サーキットで開催された年でもある。
「頭に酸素がいかなくなるので失明するか、最悪の場合はそのまま死んでしまうかもしれません。酷なようですが、万が一のご覚悟だけはしておいてください」
 医者は両親にそう告げた。
 が、そんな小さなころから、負けん気が強かったみたいだ。
(せっかちな性格で、この世に出てきたのは少し早かったけれど、せっかく生まれたんだ、元気になってやる!)
 とばかりに、両親の心配をよそに、しばらくして無事退院していった。
 右京という名は、関東の人にとっては少々珍しく聞こえるにちがいない。でも京都には、右京区もあるし左京区もある。僕の名は、叔父のそれにちなんだ。彼の名は、片山左京といって慶応義塾大学の経済学部の教授だった。僕がまだ、未熟児として入院していたころ、その叔父が見舞いに来てくれて、たぶん想像するに、「叔父・左京のように偉い人に育て」という親心からだったのだと思う。
「右京」という関西風の名前を持つのだが、実際のところ、両親ともにルーツは大阪周辺である。父方の祖父は関西から東京までいろいろな仕事をしながら、歩いて東海道を上京してきたという逸話が残っている。また、嘘か本当か知らないが、父方の家は相当裕福で、伊丹空港周辺の土地の地主であったと聞いている。母の父親も会社を経営していて裕福だったらしい。僕も記憶があるのだけれど、祖父が町田の家に遊びに来た時、運転手付きの黒い大きなロールスロイスのリムジンでやって来たので驚いたことがある。
 父、巌は昭和二年生まれ。その名の通り、非常に厳格な父だけれど、器用な人でもあった。僕が生まれる前は、新宿駅西口の現在の都庁がある辺りで診療所を開いていた。
父は資格や免許を取ることが好きだった。しかも、にわか勉強が上手で、試験のコツを習得するのが得意だったらしい。一級船舶免許や国語や数学の教員免許などを持ち、東京工大を卒業し、変電所の所長も務めたこともある。戦時中は夜間戦闘機の「月光」のパイロットだったという。もちろん、自動車免許、大型車、自動二輪のライセンスも持っていた。
 僕が小さいころ、家には国産のオートバイ「陸王」があり、それはそれは格好よかった。「陸王」は戦前、米国ハーレー・ダビッドソンからライセンスを買って国内生産されていた大型のオートバイである。小さいころから乗り物に囲まれた、マシンのある環境が身体に染み付いていたわけだ。父は今年、七十七歳になるが、スクーターも乗るし、山にも一人で行く。父のいつまでも現役感のあるそうした姿を見ると、確実に父の血を引いているのだと痛感する。
 父・巌はとても怖い存在だった。たとえば、食事の時、父の席の傍らには木刀が置かれていたほどだ。片山家では、食事中、会話をすることは禁じられていた。もちろん、食卓でテレビを見るなんて言語道断。座はしんとして、黙々と姉二人と父母、僕は飯を食べていた。寄せ箸、舐め箸、渡り箸、肘をつくなんてしようものなら大変。だから、殴られた、蹴られるなんて、しょっちゅうだった。
 父から「勉強しろ」と言われたことは一度もない。ごくたまにだが勉強している僕に向かい、「あんまり勉強すると頭がバカになるぞ」と椰輸するほどだった。だが、父が教えてくれたことはいくつかある。しかも、教え方が父らしく、非常にユニークだった。
 例えば、自転車。普通、補助輪を付けてしばらく慣れさせてから、二輪だけで足らせ、数日かけて乗り方を教えるものだろう。が、父はちがった。砂利道の坂の上から、補助輪も付けない自転車に僕を乗せ、「じやあ、行って来い」と背中を押すのだ。初めてなのだから、後から支えていくとか、一緒についてきてくれるなどしてもいいようなものだが、そんなことは一切しない。転んで足を擦りむいて大泣きしても、おかまいなし。父は、ただ坂の上から「こげ、こげ」と声をかけるだけだった。
 泳ぎを教えるときもそうだった。小学校一、二年のころ、「泳げない」と言ったら、神奈川児の江ノ島に連れていかれた。連れて来られた先は、砂浜ではなく岩場。「まさか」とは思ったが、何と父は岩の上から僕を海に放り投げたのだ、泳げない僕を。
 必死になって岩に取り付いて、なんとか這い上がろうとした。けれども、波は泳げない僕を翻弄する。波に流されて、岩場に当たり、腹や脚は傷だらけ。泣く暇もないくらい、あせりまくる。だが、そんな息子を岩の上から見た父親は大笑いしながら、「バカだな、お前。波に体を合わせるんだよ。波がブワーって来たらバッと岩を掴むんだ」と、父なりのアドバイスをする。
 普通じゃない。万事、体験が一番という教育方針なのだ。かなり乱暴ではあったけれど、自転車もすぐに乗れるようになったし、泳げるようにもなった。今から考えれば、息子であればこれくらいなら無理ではないということを、父親は見通していたにちがいない。
 母は昭和八年生まれ。似た者夫婦なのか、子供に対してあまりとやかく言わない人だった。「勉強しなさい」なんて、やはり一度も言われたことがない。勉強に関して唯一、言われたことが、「四十七都道府児の県庁所在地だけは覚えなさい」だった。たぶん、近所のお母さんに「今、学校で覚えさせられているのよ」と言われたのだと思う。たった一度のことだから、「県庁所在地のこと」はすごく記憶にある。

「道」 が好きだった

 自宅は住所としては神奈川県相模原市鵜野森だが、意識としては隣接する町田が生まれ育った故郷である。今では町田駅の周辺には小田急や東急百貨店、お酒落な店なども増え、東京のベッドタウンとして発展しているが、僕が小さいころは、いわゆる武蔵野の田舎だった。川が流れ池はいくつもあり、よくザリガニ取りをした。神社や広場、雑木林や小さな山も残っていて、遊ぶ所にはこと欠かなかった。そんな環境だったから、さぞかしガキ大将だったのだろうと思うかもしれないが、小学校に上がるまでは、実は背の低い体の弱い少年だった。
 では、家にこもって絵本を読んだり、漫画を描いたり、裁縫をしたりという気弱な男の子だったかというと、そうでもなかった。ひとことで言うと、ユニークなことを考えている、元気(=やる気)だけはある少年だった。
 幼稚園のころ、本気で自分は「機械」だと信じていた。なんでそう思っていたのだろう?「エイトマン」とか「鉄腕アトム」の影響だったのか。あるいは、家にあったクルマやバイクをイメージしていたのだろうか。とにかく、自分をマシンだと思い込んでいたチビの少年は、走るたびにギアを入れ換える真似をしていた。
「一速、二速、三速だぁ!」
 そう口にして、幼稚園の庭や自宅の周辺を走り回っていたらしい。ギアを上げていくたびに、ぐんぐん加速していくのがたまらなく楽しかった。それと、「自分は機械だから、どんなに高い場所から飛び降りても大丈夫」と本気で思っていた。それで、だいぶ幼稚園の先生をはらはらさせたと母親からは聞いている。
 そして、「道」がたまらなく好きだった。
 子供にとっては、行く先に何があるかわからない「道」。怖い気もするが、その未知の世界に行ってみたい……。
 幼稚園に通っていた五歳のころ、行方不明になってしまったことがある。以前、遠足で行った、園から二〇キロほど離れた小山貯水池まで、天で歩いて行ったのだ。「道」はまっすぐなだけじゃない。曲がりくねっていたり、坂があったり、この先に何があるのかは、立ち止まって見ていただけではわからない。あの角を曲がったら、いったい何があるのだろうか。この坂を上った先では、何が僕を待っているのだろうか。僕の知らない人たちが、見たこともない家に住み、きっと見たこともない犬にも合うのだろう。道はひとつとして同じものはなく、しかもどこまでもどこまでも続いているのである。そう思うと、いてもたってもいられなくなってしまうのだ。
 歩き出してみなければ、何も確かめることはできないじゃないか−−。
 振り返って家の方角を見たときの、怖さと新鮮な驚き。自分の家はもう見えない。知っている風景もない。僕は、果たして家に帰ることができるだろうか?そんな恐怖が、ふとよぎる。しかし、すぐに好奇心が取って代わる。
 僕はどんどん道を進んでいった。
 小学校に入り自転車に乗るようになると、僕の「小さな旅」 の距離はぐんぐん伸びていく。僕の育った鵜野森は、津久井湖や相模湖までは二〇キロほどのところにあった。小学校三年生になると、その辺りにはペダルを踏んでよく通った。旅はどんどん距離が伸びていく。やがて神奈川県を縦断して江ノ島や鎌倉へ。神奈川児一周や富士五湖。まだ見たことのない世界は、僕をさそった。五年生の時には、ついに東京からフェリーで三重県の松阪に渡って、そこから東海道を通って自宅をめざした。奇しくもその旅で、初めて鈴鹿サーキットを見ている。
「かわいい子には旅をさせよ」とは言うものの、自分で子供を持ってはじめてわかることだが、そうしたことを許すには勇気がいる。一人旅を許してくれた両親に対して、今すごく感謝している。なぜなら、そうして小さいころから一人で旅をするようになったことが、後々、どんな世界へも臆せずに飛び出していける自分を形成してくれたと思うからだ。

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