書 物
− 書物をめぐるあれこれ -
(1)地中海世界の書物概観
地中海世界では書物はギリシャ・ラテン語での出版が 主流でした。特に著作・出版が盛んだった前1世紀‐後1世紀の間は古代ギリシャ・ヘレニズム・ローマの著作者が多数出現し、出版も盛んに行われました。そ の後2世紀以降は古代の著作・出版は衰えたように考えられがちですが、これは著作の対象が文学・学術的なものから宗教的なものへと大きくシフトしたことと 意味しています。法律書や政治文書は相変わらず製作されつづけましたが、文学・学術は衰退し、変わってキリスト教による歴史書・道徳書・キリスト教的色彩 を帯びた学術書が主流となってゆきました。なので、ギリシャ・ラテン語で書かれた古典文学の衰退は古代地中海世界の書物そのものの衰退を必ずしも意味しな いのではないかと思います。確かに古代の知識はイスラム圏へと引き継がれましたが、著作と書物そのものは、古代末期にも継続して行われたと考えることも出 来るのです。とは言え、古代地中海世界を特徴づけている英知が失われたことは、古代地中海世界の衰退の一つの側面ではあったものと思います。以下には教会 文学の進展による新しい書物の成立と流通・その読者についてまでは記載していませんが、いづれ書き加えたいと思います。
(2)書物の材料
当時はパピルスや羊皮紙に文字を記載しました。あまり一般的ではありませんが、公文書では保存の為、銅、錫、青銅の巻物が使われ、豪華さを出す場合は、金銀・象牙などを筆記用具として利用されました。木製板、亜麻布、シュロの葉なども筆記用具として利用されました(シュロの葉は現存はしていないようです)。また革(羊皮紙ではない)も使われることがあり、ペルシアで公文書として前5世紀のものが発見されているとのことです。
パピルスも羊皮紙もどちらも安くはありませんでした。パピルスは一般的には縦40センチ、幅20‐40センチ程度が1枚となり、20枚を組み合わせてだいたい6 メートルで1巻本をなしたそうです。プラトンの「饗宴」は7mで太さ5,6cmとのこと。長くても10m程度だったと推測されています。
文字は表に、横に走る繊維に沿って記載され、大体1枚あたり25‐45行程度、1行あたり18‐25文字程度が記載されていました。パピルスは湿気に弱く、耐久性に乏しい為、古代の遺物は殆ど出土してはいないようですが、保存が良ければ数百年もつものもあったようで、4,5百年前のパピルスを再利用している事例も稀ではなかったようです。
パピルスは、大体 現代の書物と比較すると同じ情報量を格納するために50倍の収容スペースが必要だったようです。また、産地がエジプトやシリアに限られ、製造工数も大きく、更には政府専売物であり(民間に委託されていたとの説もある)、年間の生産量も数千巻程度と多くはなかったため価格も高価だったとのことです。 紀元前6世紀末には都市労働者賃金一日3オボル (古代ギリシャでは1ドラクマ=6オボル)のところ、1巻に8オボル。前4世紀初には1巻21オボル。1世紀の例では労働者の賃金3‐6オボルのところ1 巻4ドラクマ(24オボル)だったとのことです。「ソクラテスの弁明」には、哲学者アナクサゴラスの書籍は1ドラクマ という挿話があるそうです(当時羊1頭が12-17ドラクマ)。紀元1世紀の詩人マルティアヌリスによると1詩作品が5デナリウスだったとの証言があるそうです。とは言えパピルスは西洋では長く利用され、3世紀頃から品質が低下し、11世紀初頭にエジプトでの生産が終了したとのこと。なお、1022 年ローマ教皇の教書を最後に利用されなくなったとのことですが、法王庁が利用していたパピルスは、シチリアで生産されていた可能性があるとのことです。
パピルスに対して、羊皮紙は前1世紀頃から利用されは じめ、現代でも一部利用されているとのことです。羊皮紙は1匹あたり4枚(1枚のサイズはA2らしい)しか取れない。よって大量生産には向いていない材料といえます。羊皮紙は前2世紀にペルガモンで開発され前1世紀に普及しました。これはアレキサンドリア 図書館を持つエジプト王がペルガモン図書館への対抗心からパピルスの輸出を禁止したことから起こったこととのことです(ただし、これには別の説もあり、前170-68年にシリア王アンティオコスがアレキサンドリアを包囲し、パピルスの輸出ができなくなった為、という説もあるそうです)。一方で、両図書館の所有争いが著作者名を写本に明記する、現在につながる習慣を生んだそうです。
原材料としては、エジプト から輸入するしかない(シチリナなどでも生産されていたように事実はエジプト以外の地でも生産されていたようです)パピルスよりも羊皮紙はどこでも入手可能なため、コストとしてはパピルスよりは安価であり、ローマ時代には主として教科書や法律書、キリスト教関係者間で利用されたようです。
ただし、絵の材料としての羊皮紙は前5世紀からあったとのこと。絵の入ったパピルス巻子本はまだ発見されていないが、技術書や数学書、科学書の線描画の解説は、パピルス本に残っていて、線描画の現存最古は前2世紀のものとのこと。マルティリアスが著者の横顔イラスト入りの羊皮紙冊子を、やセネカがイラスト入りパピルス巻子本に言及しており、当時の演劇代本にもイラスト入りのものが発見されているとのことで、文学作品ではなく、解説の添え物として絵入り書籍も出回っていたようです(前39年ウァッロの人物辞典(700名)は肖像画つきで大変好評ったそうですが現存していないそうです)。
なお、ペンは葦と青銅製のペンが一般的で、机ではなく、立ったまま、脚の上にパピルスを載せて書く方法も一般的だったようで、レリーフなどに残っているようです。余談ですが、「あぶりだし」の方法も当時からあったようです。
( 3 )巻子本と冊子本
冊子本の最古の文献登場は1世紀の詩人マルティリアスの作品に羊皮紙冊子本が登場しているそうです。パピルス冊子の現存最古のものは2世紀のもので、登場したのは1世紀頃と推測されています。しかし冊子本はなかなか文学作品を扱っていたもののなかなか普及せず、大プリニウスでさえ、冊子本には言及していないとのこと。、近年の研究によると、巻子の方が冊子本と比べて26%の製造コストがかかり、更にカバーに革などを使うことが大奥、経費がかかったにも関わらずなかなか普及しなかったのは、冊子本が高尚な知識人の為のものとはみなされていなかった為だと推測されているそうです。一方、キリスト教徒は、社会の底辺で広まった為、庶民の為に、安くて情報集積力のある冊子本を利用して聖典が普及することとなったとのこと。更にコンスタンティウス2世時代に、図書館の書籍を巻子から冊子へと移すように奨励され、4世紀に急速に巻子本から冊子本への移し変えが行われ、この時期に、この時代の価値観に合わない書物の多くが失われることになってしまったそうです。なお、3世紀の冊子本は300ページ以下のもので、4世紀以降、分厚い豪華本が登場してくるとのこと。幾つか例を挙げますと、
4,5世紀のコプト教(マニ教)詩篇 638ページ パピルス冊子
4世紀 聖書 羊皮紙冊子 1600ページ
5世紀 聖書 羊皮紙冊子 1640ページ以上
などがあるとのことです。なお、インドのグプタ朝記の古典「土の小車」には冊子本が登場しており、マニ教の文献には、マニは優れた画家でもあり、イラスト入りの冊子本を書いたとされています。なお、一般的な冊子本は、横26.4、縦31.5cmくらいだったりしますが、羊皮紙冊子の場合は、小さいものも見られ、最小の羊皮紙冊子本は、ケルン大学保存のマニ教文献で横38ミリ、縦45ミリ、本文横24ミリ縦38ミリ。192ページ。4−6世紀のものとのことです。3世紀の羊皮紙冊子本は現存20冊とのことで、2段組は羊皮紙冊子本に多く、パピルス冊子は1段組のものが一般的とのことです。。
更に、4世紀になると、冊子本は、豪華本が出るようになりました。現存豪華本はイラスト入りで、革や木の表紙を使っているそうです。以下は現存の豪華本です。
4,5世紀 ウェルギリウス
5世紀末 イリアス ミラノ アンブロシアーナ図書館
ディオスクリデス 植物標本 512/513年前後 オーストリア国立図書館
5世紀 創世記 ロンドン大英図書館
ウィーン創世記、ロッサーノの福音書、
シノペ福音書(パリ国立図書館) 6世紀
( 4 ) 著作者と出版
ローマ時代の上流階級には一般に著作熱というものがあ り、上流階層の人々は同時に文人であろうとし、著作を出版業者を通じて出版したり、頻繁に朗読会を催しては互いに聞かせ合う(実際に朗読をしたのは解放奴 隷や写字生)、ということが行われていました。アッテイクスという富裕なキケロの友人であったローマ人が前1世紀には出版人として有名です。彼が行った事業は営利目的ではなく、正しく校正した標準版を出版し、流通させることにあったようで、彼が出版した書物はアッティカ版として質の高さを認められていたと のこと。他にソシウス兄弟、ドールス、トリフォン、ヴァレリアーヌスなどがローマの出版者として知られている。彼らはまた各々の作家と関係ともっていたとのことです。
(5)本屋
すでに古代ギリシャのアテネには本屋があったとのこと。キオスクのような形で、魚屋、菓子屋などと軒を並べていたとのことです。ローマ時代のオスティアの遺跡からは、酒屋の中に書棚があって売られていた様子もわかるそうです。劇場などでも本を売っていたとのことです。本屋の入り口の両側の柱に販売している本の題名が記載さ れていたとのことです。
本屋は一種文学愛好市民が集まるサロンのような働きも担っていたらしく、庶民の間ではなく、サロンに集まるのは知識人や貴族の世界のことと考えられています。そこでは本屋の主が本の朗読を 行ったりもしていたとのこと。ローマ時代には地方都市にも本屋がり、トーリア、カルタゴ、アレクサンドリア、コンスタンテイノポリス、アンティオキアに多くの書店があったそうで、前述のウァロの人物辞典は、帝国全土で売られていたとのこと。ローマだと、公共図書館付平和神殿近くのウィクス・サンダラリウスで書店が集まっていて、シギラリア地区にも書籍商人が集まっていたとのことです。古本商人や書籍の行商人もいたとのこと。また、この時期ギリシャから本の輸出も始まっていたようです。しばらくするとロードス とアテネは書籍産業の中心地となったが、アレキサンドリア図書館が成立すると書籍産業の最大の中心となり、アレキサンドリアで校正された書籍が標準となったそうです。ローマ時代では書物生産の中心となったのは、アレキサンドリア、アテネ、ロードス、コス、アンティオキア、ペルガモン、タルソス、ニカイア、ビザン ティウム、シラクサ、クマエ、ペラであったとのこと。
ローマ時代の本屋では、作家が作品を読み上げる部屋があり、聴衆がそれを聞いて注文し、写本が製作される、という大型書店もあったようです。写本は直接本を見ながら書き写す方法と、朗読によって記載するも のとがあったようですが、両方用いたものもあったようです。前者は鼠算式に写すすため、人手はかかるが、生産性は高く、比較的短時間で量産できたとのこと。後者は更に短時間で量産が可能だったが、誤植も多く発生したとのこと(ネロの時代には賃金標準を決めるために1行35文字と決められたようである)。そこで、筆写者は、テキスト前に、口述しながら筆記したケースもあったと考えられています。筆写の所得ですが、デォクレティアヌスの最高価格令では1級の品質については、100行25デナリウス、2級は20デナリウスで、賃金は行数に対して支払われたそうです。
なお、書籍商人は一般に、発行と販売を兼ねてしましたが、販売専門の人もいたそうです。販売部数の例として、1000部という単位で、マルクス・アルキウス・レギウス子息追悼文が属州で販売されていたことがわかっているそうです。
なお、個人の知識人が自分の著作原稿を書くときは、口述筆記が一般的ですが、筆記を推奨する人もいたそうです。特に古代と言う時期に大量の著作の著述を行っている著作者は、専用の筆記担当者を連れ歩いていたそうです。
(6)個人の蔵書
BC5世紀頃のギリシアで個人蔵書が見られるようになり、前4世紀には広く個人蔵書が普及した模様です。最初の蔵書家として知られるのは詩人のエウリピデス、学者のアリストテ レス(700冊との情報あり)、政治家ユークレイデスなど。下記が有名とのことです。
文献学者マルクス・メティウス・エパフディトゥス 3万巻所有
セレヌス・サモニクス(詩人) 6万2千巻を父親から遺贈。 3世紀前半
(7)図書館
ヘレニズムを代表する アレキサンドリア図書館はアリストテレスの弟子でもあったプトレマイオス1世によって建設され、70万‐100万巻の書物を備え、ムーセイオン(学術目的)、セラピオン(教育目的)とから構成されていました。小アジアには、アッタロス1世の建設によるペルガモン図書館が20万巻の蔵書を備えていました。アテネにはプトレマイオンという図書館がプトレマイオス2世によって建設され、アレキサンドリアに次ぐ書籍の校正標準機関となりました(前3世紀前半建設)。また、ローマにはオクタヴィア記念柱廊に公共図書館をはじめとする多数の図書館があり、4世紀には29の図書館がありました。前3世紀末には ギリシャのあちこちに図書館が見られ、公共図書館、個人図書館、学校図書館、専門図書館などが多数建設され、公共浴場や神殿にも図書室があったことが遺跡から判明しているそうです(豪華船内の図書館なんてものもあったそうです)。アレキサンドリア図書館では 古代オリエントの文献(バビロニア語、フェニキア語、エジプト語、ヘブライ語)の翻訳を主な役割の一つとしていた、と考える意見がある。これは中世イスラム社会がギリ シャ語から大量の文献を翻訳し、文明として成熟したことに対比して検討することが出来るとのことです(カルタゴ図書館の書物は、カルタゴ滅亡とともに散逸したとのこと。カルタゴ語のわかる人が少なく、翻訳に費用がかかたためとされています)。
各図書館は、書籍目録をそろえており、アレキサンドリア図書館では、カリマコスの「ピナケス」という120巻のギリシア書籍目録があったとのこと。そのアレキサンドリア図書館では、プトレマイオス・フィラデルフィオスが全ての書籍をギリシア語にして集めることをもくろみ、70人訳聖書をギリシア語に翻訳したり、アレクサンドリア港に停泊中の書物の捜索と押収し、筆写してから、オリジナルを図書館に蓄積し、筆写した方を所有者に返す方法で蔵書を増やしたとのこと。ムセイオン図書館では49万巻(現代の書籍にすると8万から10万9千巻という試算)を有し、付属のセラペイオン図書館は42800巻の蔵書があったとのことです。ムセイオン図書館は、パルミュラ戦争にて破壊されてしまい、研究施設のみが残ったものの、415年にキリスト教徒により破壊されました(ヒュパティアの父親テキンはムセイオン最後の会員とのこと)。セラピオン図書館は391年に破壊されたとのことです。
コンスタンティノポリスの最初の図書館は357年に建設され、12万冊の書物を蔵していましたが、473年焼失し、再建したものの、蔵書は36500冊程度に減ってしまい、最終的に726年に崩壊しました。
ローマの公共図書館としては、カエサルが、ローマ最初の公共図書館計画し、前39年ポッリオが構築たものの、その後、トラヤヌス図書館になったとのこと。2つ目の公共図書館はアウグストゥスが建築し、「アポロン神殿ラテン図書館」「アポロン神殿ギリシア図書館」として存続したが、これも363年焼失したとのことです。当時は、アポロン神殿図書館に見るように、ギリシア語の書庫とラテン語の書庫が別々にあったそうです。これは、利用者や、管理者・司書が、それぞれの言語話者で、片方しかできない人もいたため、とされているようです(現在の日本の図書館でも、日本語書籍と英語書籍は別コーナーとなっているのと同じことですね)。これは、5世紀キリスト教教会に図書館が作られるようにになってもこの傾向は続いたそうです。
開架式の図書館内では、建築物のへこんでいるところに、書棚(高さ3m程度)が嵌め込まれ、上の方の棚の書物を取るときは梯子が必要されたと推測されています。しかし一般には閉架式のところが多く、図書館司書に頼んで本を取り出してきてもらうことになっていたようです。通常貸し出しには費用が必要で、館内閲覧が一般的だったようです。入場料は不明とのこと(公共浴場は料金を取られていた)。図書館には、アレキサンドリア図書館のピケナス同様、目録があり、各分野毎に、著者名別で整理されていたと考えられているそうです。貸し出し時間、服務規程、運営時間なども決まっていたようです。ところで、有名図書館管理者の年俸は恵まれていたようで、ダキア総督の年俸が20万セステルティのときに、トラヤヌス図書館のプロクラトル(事務管理官)が6万。トラキア総督以上に相当する額だったとのことです。
図書館の建設費ですが、小プリニウスに、図書館運営費10万セステルティウス、建設・設備費に100万セステルティウスを寄贈したとの話が登場しているそうです。また、ティムガドの図書館建設に地元の名士が40万セステルティウスを寄贈したとの記載もあるそうです。
図書館内では声を出してよむのが普通で、黙読者は少数派だったようです。これは、古代の書物の書き方が、音読を想定して書かれていたこと、詩や文学とは、黙読するものではなく、音読するものであると理解されていた為です(だから、西洋でも中国でも、古代の文章には単語の大文字小文字の区別がなかったり、区切り点がなかったりとなっているわけで、これは音読を想定して記載されたものだったから、ということのようです)。そこで、図書館でも、音読ができる柱廊などの施設があったということのようです。
なお、書棚は帝政期に普及したとのこと。「カプサ」という持ち運びようの円筒形の入れ物や、「書物箱」というものに入れていたとのことです。、
(8)どんな本がよく読まれていたのか
現代に伝わっている書物は1〜2%程度。古代ギリシャ の詩人では100以上の作品を著した詩人もいるが、現存する作品はその1割にも満たないとのこと。
エジプトで発見されたパピルスの断片数における作者の 順位は以下の通り。
ホメロス 612点
デモステネス 77点
ヘシオドス 73点
エウリピデス 71点
メナンデル 47点
カリマコス 43点
プラトン 42点
イソクラテス 42点
ツキジデス 31点
ピンダル 30点
個人の蔵書家としてはローマ時代にはサモニクス6万巻、エパフロディテウス3万、アッティクス2万巻という数字が残されているとのことです。
(5)識字率と読者
文字は書物だけで利用されたわけではなく、木版や、ロウ版、陶片なども利用されたため、書物を読まない階層でも文字が読めたとかんがえられます。
古代ギリシャの場合、前4世紀ではせいぜい5%程度、先進的なアッチカ地方でも10%程度、ギリシャ人口200万と推定すると、当時のギリシアで文字の 読めた人口は10%程度ということになるとのことです。しかし、読書習慣という側面から見ると、実務での利用が圧倒的だった と推測されているようです。またローマ時代には古代ギリシャと比べると、識字率は寧ろ低下していると考えられます。これは、ローマ帝国での日常語は現地被 支配民族の言語であり、ギリシャ語、ラテン語を利用する人口は帝国内全人口中では寧ろ、少なく(ラテン語を習熟していたのは1割との情報も)、初等教育は 主に支配階級だけでなされていたことなどに理由を求めることができます。
(古代ギリシアでは、ギリシア喜劇の中で文盲を嘲笑劇もあり、これは、識字率が高かったことの証明のひとつだと考えられているそうです)。
英国のヴィンドランドで発見された木製の板には辺境のローマ軍兵士が故郷の家族とやりとりする手紙などが出土していて、これが識字率についての一つの情 報を提供されているとされますが、これも、兵士本人が読んだとは限らず、また手紙を書くほうも、書記奴隷などに書かせた可能性もあるため、即断は出来ない でしょう。また、出典は忘れてしまいましたが、辺境の兵士が古典を携えて行っている、という挿話もあります。兵士のうち何人かに一人は読めたことは確実な ようです。
(9)学校教育
ヘロドトスの記述では、前494年キオス島で屋根崩壊し119名児童が死亡、パウサニアスでは、前496年のこととして、学校建物破壊(こちらは犯罪)で60名死亡したとの記載が見られ、児童向け学校が前5世紀にはあったと考えられているそうです。ローマでも前4世紀には学校があり、初等学校には6、7歳で入学。有名ギリシア弁論家、作家、詩人の暗唱をしたそうです。後3世紀にようやく初等教育でのヴェルギリウスやキケローなどラテン語古典が教材に加わるようになったとのこと。ヘレニズムとローマ時代はギムナスティカと呼ばれる学校が全土にあったそうです。
次いで、11から12歳で上級学校へ。ここで文法を学習。ラテン語文法教育の普及はアウグストゥス時代になってから普及したとのこと。ローマではラテン、ギリシア語両方が学習されたが、東方では、ギリシア語だけで学校教育が行われたとのことです。東方でラテン語教育が必要とされるようになるのは、ディオクレティアヌス時代以降、帝国の重心が東に移動し、公用語としてのラテン語の必要性が高まってからとのこと。高等教育は、法学・医学・修辞学など専門分野で各々行われたとのことです。
‐参考 「パピルスが伝えた文明」 箕輪成男 出版ニュース社 2002年
ビデオ 「失われた文明 ローマ究極の帝国」
「ギリシア・ローマ時代の書物」 ホルスト・ブランク著 朝文社