阪神淡路大震災16年目
2011.01.18.10:07
こんにちわ〜
今週はめづらしく、火曜日がお休みですよ〜
昨日朝寝坊しちゃいました
目覚ましかけて、携帯も目覚まし機能にしていたのに…
原因は分かってるんですよ。
一昨日も記事にしましたが、ビリーズブートキャンプをしたから
職場のお友達にね、
「私ね、ビリーズブートキャンプ頑張ることにしたんよ」
て言ったら、
「あ〜〜あれねぇ、お友達がやって熱出してたわ…」
だって
普段運動不足な人が急に動くと、こんなもんです
昨日は阪神淡路大震災から16年目でした。
去年詳しく記事にしたので、もしよければご覧くださいね。
それぞれクリックすると、別ウィンドウが開いて、記事へジャンプします。
阪神淡路大震災の記事 その1
阪神淡路大震災の記事 その2
阪神淡路大震災の記事 その3
長い文章なので、疲れたらごめんなさい。
去年読んでくれたお友達にはね、
「だいぶたっているのに、よく細かく覚えてるね」
と言われましたが、忘れられるはずはないんです。
たぶん一生忘れないでしょう…どころか、書いてないエピソードはまだまだあるんです。
でも私も年をとっていくのでね、今後どうなるか分からない。(今は若いけど?えっっ?)
じゃあちゃんと覚えてるうちに、記事にしておこうと。
地震後メディアで有名になった言葉の一つにPTSDがありますよね。
私の場合、とくにそれらしい症状は出ませんでした。
とにかく住むところはない、食べ物も着るものも何にもないところから始まり、祖母はしばらく寝たり起きたりで、「明日の生活どうしよ〜」と、それが不安でたまらなく、気が紛れていたからかなぁ。
親戚には恵まれていたので、物質的にだいぶ助けてもらいました。
PTSDらしい症状と言えば、
・地震後一人で寝られるようになるのに1ヶ月ほどかかった。
・寝ころぶと、ソファなど家具の隙間に血まみれの母が横たわっている幻覚が見えた。
・頻繁に起こる余震にキャーキャー言って固まってしまう。(今でも)
・生活が落ち着いた半年後くらいに、めまい、吐き気、孤独感を感じた。
めっちゃPTSDにかかってるやん…
今は…というと、自分が母の亡くなった時の年齢に確実に近付いていってるのが怖いのです。
母が亡くなったのは49歳で、まだまだそこまでは遠いんだけど、自分も早くに子供を残して死んじゃうんじゃないか…なんて思ったりして。
って私は健康だし、なんの根拠もないんですけどね。
あと、何年か前の「JR福知山線脱線事故」(←この事故もうちから車で30分くらいのところです)に遭われて助かった方たちがおっしゃっていたのですが、
「なぜ自分が助かったのか。自分が生きていることが、死んだ方に申し訳ない」
この気持ち分かります。
これも特に根拠はないんだけど、私も時々そう思う時はありましたねぇ。
私は心理学に詳しくないので、どなたかこの気持ちを解析出来る方、教えてくださるとありがたいです。
最後にちょっと書きにくい内容を一番下コメント欄左の追記(more…)に伏せています。
あ〜〜今年もやっぱり長くなってしまいましたね。
阪神淡路大震災について書くのは、今年でおしまいにします。
最後まで読んでくださって、ありがとうございました

昨日ちっちゃいことだけど、嬉しいことがあったよ


最近ちっちゃいことにも感動できるようになった私。
しばらく楽しそうです
今週はめづらしく、火曜日がお休みですよ〜
昨日朝寝坊しちゃいました
目覚ましかけて、携帯も目覚まし機能にしていたのに…
原因は分かってるんですよ。
一昨日も記事にしましたが、ビリーズブートキャンプをしたから
職場のお友達にね、
「私ね、ビリーズブートキャンプ頑張ることにしたんよ」
て言ったら、
「あ〜〜あれねぇ、お友達がやって熱出してたわ…」
だって
普段運動不足な人が急に動くと、こんなもんです
昨日は阪神淡路大震災から16年目でした。
去年詳しく記事にしたので、もしよければご覧くださいね。
それぞれクリックすると、別ウィンドウが開いて、記事へジャンプします。
阪神淡路大震災の記事 その1
阪神淡路大震災の記事 その2
阪神淡路大震災の記事 その3
長い文章なので、疲れたらごめんなさい。
去年読んでくれたお友達にはね、
「だいぶたっているのに、よく細かく覚えてるね」
と言われましたが、忘れられるはずはないんです。
たぶん一生忘れないでしょう…どころか、書いてないエピソードはまだまだあるんです。
でも私も年をとっていくのでね、今後どうなるか分からない。(今は若いけど?えっっ?)
じゃあちゃんと覚えてるうちに、記事にしておこうと。
地震後メディアで有名になった言葉の一つにPTSDがありますよね。
私の場合、とくにそれらしい症状は出ませんでした。
とにかく住むところはない、食べ物も着るものも何にもないところから始まり、祖母はしばらく寝たり起きたりで、「明日の生活どうしよ〜」と、それが不安でたまらなく、気が紛れていたからかなぁ。
親戚には恵まれていたので、物質的にだいぶ助けてもらいました。
PTSDらしい症状と言えば、
・地震後一人で寝られるようになるのに1ヶ月ほどかかった。
・寝ころぶと、ソファなど家具の隙間に血まみれの母が横たわっている幻覚が見えた。
・頻繁に起こる余震にキャーキャー言って固まってしまう。(今でも)
・生活が落ち着いた半年後くらいに、めまい、吐き気、孤独感を感じた。
めっちゃPTSDにかかってるやん…
今は…というと、自分が母の亡くなった時の年齢に確実に近付いていってるのが怖いのです。
母が亡くなったのは49歳で、まだまだそこまでは遠いんだけど、自分も早くに子供を残して死んじゃうんじゃないか…なんて思ったりして。
って私は健康だし、なんの根拠もないんですけどね。
あと、何年か前の「JR福知山線脱線事故」(←この事故もうちから車で30分くらいのところです)に遭われて助かった方たちがおっしゃっていたのですが、
「なぜ自分が助かったのか。自分が生きていることが、死んだ方に申し訳ない」
この気持ち分かります。
これも特に根拠はないんだけど、私も時々そう思う時はありましたねぇ。
私は心理学に詳しくないので、どなたかこの気持ちを解析出来る方、教えてくださるとありがたいです。
最後にちょっと書きにくい内容を一番下コメント欄左の追記(more…)に伏せています。
あ〜〜今年もやっぱり長くなってしまいましたね。
阪神淡路大震災について書くのは、今年でおしまいにします。
最後まで読んでくださって、ありがとうございました
昨日ちっちゃいことだけど、嬉しいことがあったよ
最近ちっちゃいことにも感動できるようになった私。
しばらく楽しそうです
最後に、東野圭吾さんの小説「幻夜」について。
お友達に教えてもらって読もうと思っているうちに、忙しくてまだ読めてないのですが、主人公たちが阪神淡路大震災で出会うところから始まるようですね。
お友達の言う内容では、
「地震後断水していたためトイレが使えず、外で用を足していた女性がレ○プされた」
と。
うーーん、これはありそうだけど、ないと思います。
あったとしても、地震だったから…と言うわけではないと思います。
神戸は外国人が多く住んでいるためか、地震後「外国人に襲われるから、女の子は外に出ないほうがいい」などと、噂は流れていました。
ですが、実際そういうことがあったとは聞いたことがありません。
当時人であふれかえっていた学校や公共施設(非難所)は、夜中でも情報や物資を求める人、あまりの寒さにたき火で暖をとる人達がウロウロしていたので、万一襲われでもすれば、誰かが気づいていたでしょう。
確かに非難所の学校のトイレは大変なことになっており使えなかったので、外で用を足したことは事実です。
断水は2か月ほどでしたが、トイレはひしゃくで汲んだ水をタンクに入れて流すとちゃんと流れるので、早くからそのようにしていました。
外で用を足さないといけなかったのは、ほんの数日だったと思います。
それでも誰かに見られると困るので、誰かと連れだって交代で済ませていました。
あの時は、みんな同じ怖い経験をして、みんな復興に向けて頑張ろうと、同じ方向に向かっていくという気持ちを持っていたし、ライフラインを断たれて、食べ物や住むところの確保などに追われて、そんなことを考えてる余裕はなかったのではないかと思います。
東野圭吾さんのファンの方々、こんなことを書いてごめんなさいね。
お友達に教えてもらって読もうと思っているうちに、忙しくてまだ読めてないのですが、主人公たちが阪神淡路大震災で出会うところから始まるようですね。
お友達の言う内容では、
「地震後断水していたためトイレが使えず、外で用を足していた女性がレ○プされた」
と。
うーーん、これはありそうだけど、ないと思います。
あったとしても、地震だったから…と言うわけではないと思います。
神戸は外国人が多く住んでいるためか、地震後「外国人に襲われるから、女の子は外に出ないほうがいい」などと、噂は流れていました。
ですが、実際そういうことがあったとは聞いたことがありません。
当時人であふれかえっていた学校や公共施設(非難所)は、夜中でも情報や物資を求める人、あまりの寒さにたき火で暖をとる人達がウロウロしていたので、万一襲われでもすれば、誰かが気づいていたでしょう。
確かに非難所の学校のトイレは大変なことになっており使えなかったので、外で用を足したことは事実です。
断水は2か月ほどでしたが、トイレはひしゃくで汲んだ水をタンクに入れて流すとちゃんと流れるので、早くからそのようにしていました。
外で用を足さないといけなかったのは、ほんの数日だったと思います。
それでも誰かに見られると困るので、誰かと連れだって交代で済ませていました。
あの時は、みんな同じ怖い経験をして、みんな復興に向けて頑張ろうと、同じ方向に向かっていくという気持ちを持っていたし、ライフラインを断たれて、食べ物や住むところの確保などに追われて、そんなことを考えてる余裕はなかったのではないかと思います。
東野圭吾さんのファンの方々、こんなことを書いてごめんなさいね。