期間限定で授業の補足とガイダンスをここで試みます。
今学期は、最初に、内田樹『日本辺境論』(新潮新書)を底本としてその内容紹介を試みたいと思います。本当は、この本で提言されていることをめぐる討論ができれば一番望ましいのですが、おそらく無理だろうと予測します。部分的にしろ何か発言してもらえるとよいのですが…。
日本の教育について、エバレット・ブラウン・松岡正剛『日本力』(バルコ出版,2010年)の中で、ブラウンは、日本の教育が○×方式に埋め尽くされている弊害について語ってます。
そして、「教育ではなくてただの訓練としか呼べないようなものが占めている割合が大きい」ため、「知的好奇心が育たず」、同年齢の外国の子に比べて精神年齢に遅れが生じているのですが、それは、日本の年配の人との会話において、相手が全くぼくの意見を求めていないということと関係があるのではないかと彼は読み解くのです。
更に、ある商社役員の説明を紹介しています。60年代学生運動の頃、反体制、反権力といったカウンターカルチャーが異様に発達し、みんながまだ問題意識を持っていた。そうなると、社会を統制する、庶民を意のままにするということが、かなりむずかしい状況になった。そういったことが二度と起こらないように、もっと管理しなければいけない、コントロールしなければいけないということで、日本では70年代に教育制度を変えて、偏差値教育が生まれた。「日本では国民から考える能力を奪うために教育がある」
ブラウンはワシントン生まれの写真家で、epa通信社日本支局長です。人類学、代替医療を学び、世界六大陸五十カ国以上を旅した人で、1988年から日本定住。マクロビオティック料理研究家の中島デコさんと結婚し、千葉県いすみ市で古代米や発酵食品の研究実践をしている方です。彼の父親が進駐軍として終戦直後に日本にいたこともあり、中国での実習の後日本に来ますが、東京着とともにそのまま下北半島に行き、恐山で老婆の集団と酒を酌み交わし、いたこにかわいがられるという、人類学者らしい日本との関わりを開始したそうです。「ただ者ではない」という感じですね。下手をすれば私より日本の深部を知っていそう。
さて、日本の教育が○×方式のことです。
内田樹『日本辺境論を合わせ読むと、これは、実は、日本人ならばこうしかできないのではないかと思わせるところがあります。つまり、子供たちを導くべき大人も、周囲をきょろきょろ見回し、外部に手本を見つけて、それをそのまま自分の採るべき行動とすることしかしてこなかったわけで、常に○か×か、あるいは提示された選択肢の中から外部権威によって「正解」とされるものを選ぶか、でなければ最も人気のあるもの、支持を受けそうなものを選択するかといった行動様式以外知らないという生き方をしてきたからです。
つまり、「教育」が○×方式なのではなくて、日本人の生き方が○×方式である。あるいは、日本人であるということが○×方式に生きるということだったのです。無論、内田樹はそれを否定的批判的に語っているのではありません。どちらかというと「しかたないよなあ」という感じに近いでしょうか。「それならば、居直って、その生き方が生存戦略として優れていることを示してやる」というような語り口なのですが、このあたりが彼のしたたかなところです。
一応、ブラウン・松岡正剛にも触れておきますと、彼らは、ちょっと違う。伝統に生きる日本の職人たちの所作に分け入って、その微細な触覚などの感覚が、伝統を継承し、体得したかたちでそれぞれの個としての職人が、それぞれの踏ん張る基盤としてのホームポジションを、自分の原点、美意識や価値観の源泉をもって生きているということに気づいています。単に外に範を求めるというのではなく、もう長年染みついて離れようのない自分なりの日本人(人間)としてのふるまいを確信していることを理解しています。ブラウンの指摘は鋭く、ガングロ・ファッションをニューヨーク・タイムズなどで紹介し、フランスのファッションに影響を与えたそうです。ガングロ少女たちが求めたものは、祭りの空間のように一体感を感じ取れる仲間の存在を確認できる場であったと分析しています。その後彼女たちの多くは、プロの職人との結婚を果たし、家族を大切にする生き方をしているのだそうです。
こちらについてはまた別の機会に詳しく紹介するとして、『日本辺境論』です。
今回の書き込みでは、こういうことを授業でやりたいという宣言とその背景説明を目的としています。余計な情報になるのかもしれませんが、前史的解説をしておきます。
内田の『日本辺境論』という本を少し読み始めて驚くのは、彼がいくら私と同年齢とはいえ、若い頃に惹かれ、影響を受けた本を多く引用していることです。「日本人論」と括れるテーマがあります。戦後だけでも、ルース・ベネデクス『菊と刀』とそれに対する民俗学・農村経済学・法社会学などからの批判・論争や中根千枝『「タテ社会」の構造』、土居健郎『「甘え」の構造』、山本七平『「空気」の研究』、司馬遼太郎の小説とエッセイ群があり、作田啓一『恥の文化再考』、井上忠司『「世間体」の構造』などが「日本人論」としていかに日本人が特殊な存在が、世界に類を見ない特徴をもつ行動パターンを示すかを論じているといってもよいかもしれません。
他の地域との比較にもっと精緻な証拠を得ようとして行われた統計数理研究所の『日本人の国民性』研究が5年ごとの大規模な意識調査と統計的解析を重ねてきました。NHKの日本人の生活意識調査の蓄積もかなりのボリュームのものです。
比較文化ということでは文化人類学が専門的にこれを行い、フランシス・シューの研究のような成果もあります。精神医学や宗教学は否応なしに日本人のあるいは日本文化の特異性について触れざるを得ず、文学や歴史学も関わってしまいます。養老孟司のように日本人の身体観を追求していけば、これも日本人論に到達しますし、建築史だって日本人論にたどりつきます。その建築様式の折衷ぶりには目を見張るものがあり、そのパターンに日本独自のものが見いだせるからです。
思想だって、丸山真男も吉本隆明も、日本人の思想展開あるいは無思想の独特さに言及せざるをえないのです。日本人の法意識の特異性に呆れる川島武宜の系譜の法社会学も、日本人論を論じた意識はないにしろ、日本人論と関わってきてしまいます。鈴木孝夫の日本語の人称の特徴にしろ、ドーアのような日本の経営の特徴分析にしろ関わってしまいますし、角田忠信の右脳と左脳の使い分けの日本人の独特さも関わってしまいます。ドイツ中世史家の阿部謹也が「世間論」で日本人の特異な行動パターンが中世西欧社会では共通のものだったことの指摘やグレゴリー・クラークのようにキリスト教布教以前のケルト文化と通じるものを日本文化に求める見解もあり、なんとも表現しがたい安堵感も得られるのですが、これも裏返しの日本の特異性を語っているものかもしれません。
そして、このように「日本人の特異性」という括りで物事を捉えてしまう態度が日本人に特異な行動パターンなのだと分析できてしまうから困ります。
大学の先生をつかまえてこういうのも変ですが、とにかく内田樹はわれわれの世代なら触れたであろう本をよく咀嚼して、彼の議論展開によく取り込んでいると思います。
ということは、丸山真男の『現代政治の思想と行動』や『日本の思想』を読んでいれば彼のこの本での主張(あるいはまとめ)はより理解できるだろうし、新渡戸稲造の『武士道』を読んでいれば分かりやすいだろうけれど、あるいは梅棹忠夫『文明の生態史観』や朝河貫一『日本の禍機』を読んでいればすぐ分かったと思います。しかし、逆に、内田の『日本辺境論』の記述から彼らの主張の核のいくつかがわかり、将来、それらを読む時の手がかりとなるのかもしれません。また、第一次大戦後の世界の歴史日本の歴史については未習のため議論の対象がよく分からないという生徒も出るでしょう。これも教科書的記述とはずれる知識を先に仕込んでおいて後で授業で確認すれば、そこで議論が展開できたり、自分なりの歴史の見方が立体化できる効用があるかもしれません。
本書引用で司馬遼太郎『坂の上の雲』の部分は、NHKドラマ冒頭で繰り返されますから、その解釈に意外性を感じるかもしれません。
いろんな読み方を楽しめばよいということです。暗記しろとかこれが正解それを覚えろという姿勢はとりませんよということを確認しておいてください。(1.2)
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