CIVICS  内田樹『日本辺境論』を読む その4

2回目

 急いだため十分な理解が得られなかった可能性がある。また明日か明後日にでも落ち着いて書き加えるとして、前回の続きの部分のかいつまんだ要約的紹介をした。
 日本の裁判所では和解や調停が重視される傾向が強い。これは地域差も大きいかと思うが、随分昔に兵庫県下の数地域での聞き取り調査に参加したときにも、農村地域における土地相続の争いでも、裁判所に訴えるよりも区長の調停を求めることが多いという話であった。法社会学者の川島さんは、そうした事実に基づき説明している。
 われわれは、聖徳太子の「和を以て尊しと為す」という一七条憲法の文言を思い出すのであった。
 オバマ大統領の演説においては、アメリカを造ってきた先人たちの努力をわれわれが引き継ぎ、後進に引き渡していく責務がわれわれにはある、というトーンで語られる。なすべきことをしっかり意識した発言である。それに引き替えどうも日本の政治リーダーたちは、このような発言を自然に行うということはない。
 内なる基準よりも外に範を求めるのであればよいのだが、更には、強大なものに媚びを売る傾向すらみられる。外交において強国アメリカへの追従は当たり前に論じられる。自国の国益を犠牲にしてもアメリカにつけという主張さえみられるのだ。小泉首相時代の構造改革は、アメリカの企業が日本からの収奪を容易にするために行われた面もあった。イラクへのアメリカの義のない攻撃にも日本は応分の血を流す覚悟を決めた。
 このような場の親密感を優先する態度はいまに始まったものではなく、ベネディクトが日本の捕虜のあまりにも露骨な変わり身の早さ、積極的に米軍に協力する態度を報告していた。

 内田は、こうした日本人の行動の特性を確認しながらも、そうした傾向が同時に強みにもなることを後の方で説明している。私はとりあえず、日本人の好奇心の強さや権威に無条件に服するところから発生する学び(修行)の効果について軽く触れておいた。また、日本が儒教や仏教など古いものをしっかりと学び残すという特徴のある地域であることや多様な要素の折衷の仕方、アレンジの仕方に独特の特徴をもつことにも少し触れておいた。
 本の内容を丁寧に正確に負ったものではないので、是非とも自分で読んでおいてほしい。(1.20)  はじめにへ   

授業で読み進めた部分の要約

・日本人はある種の文化的劣等感をもち、本物の文化はどこか ほかのところでつくられるもので、自分のところのものは何と なく劣っていると考えてしまう。
・日本文化論は大量に書かれ、そして忘れられてしまい、同一 の主題を繰り返し回帰する。
・上のことを丸山真男が早くから指摘していた。
・丸山の指摘に付け加えることはない。「辺境」という地政学 的補助線を引くとその傾向の由来について理解が進むという程 度のことは加えられるが、それも梅棹忠夫が既に指摘している 。
・日本人は、社会関係を維持していき、「和」を大切にするた めの調停を行う。そのために「変わり身の早さ」が特徴となる 。しかし、このことを「後進性」「退嬰性」とみなすだけでは 不十分である。

感想 クラスによって随分と反応の温度差があったことに驚きました。特に、科学的思考ということについての話の部分については、高校で扱うべきテーマの先取り説明だったわけですが、3組などやや異常なまでのシラケ方で驚きました。最後のクラスでこちらが飽きてしまっていたということもあり、ハショって話を進めたということもあるので仕方ないことかもしれません。(1.13)

2.5回

 日本人が日本のことを中等教育において学ばないというのはどういうことか? という至極当たり前の疑問があって、20年ほど前から機会を見ては、内田が「日本人論」と呼ぶところのものを授業で取り上げてきました。宮本常一や川島武宜、丸山眞男、加藤典洋、加藤周一、山本七平などの題材を取り上げてきたように思います。今回もその延長。
 多分、飛ばすことになるつづきの部分ですが、
・日本人は、外交において、先方が採用しているルールを知らないふりをして「実だけ取る」という戦術を採ってきたし、今後も採る(p.63)

 聖徳太子の「日出ずる所の天子」という書簡とか明治新政府の李氏朝鮮に対する文書の例や足利義満の「日本国王」僭称文書の例などを列挙し、安保条約と憲法第九条問題や「非核三原則」も辺境人の狡い生き残りの知恵と解釈します。

 ポーツマス条約締結時の朝河貫一博士の論文による国際社会と日本の採る道についての予測を紹介し、この程度のことは政治家なら予測し判断しなければおかしい。しかし、いくつかの外交的選択肢を比較考量した上での「理想主義的」政策を避け「現実主義的」政策を採ったというより、視野狭窄に陥り「短期的利益の確保」に向かったという(繰り返される)事実が問題なのです。
 これは「保証人」をより上位に求めてしまうから(p.88)だと内田は解釈します。
 そして、その姿勢が強みでもあると展開するのがU章です。(1.23)

3回目

「威を借る狐」は「下々のもの」に向かって、やおら「印籠」を取り出して、「ここにおられるのは誰だと心得る。畏れ多くも……」と居丈高に告げる。すると一同はたちまち平伏する。誰も、「それが何か?」とは言わない。
 興味深いことに、私たちの社会では、「立場が上」の人々は決してなぜ自分はあなたより立場が上であるかということを説明しません。そのような挙証責任をまぬかれているという当の事実こそが彼が「立場が上の人間」であることを証明していることになっているからです。少なくとも、私たちはそう推論して怪しまない。でも、本当を言うと、「証明しないしのは「証明できない」からなんです。
 水戸黄門が自分では「印籠」を出さないのはなぜか、それについて考えたことがありますか。それは徳川光圀自身が印籠を取り出して「控えい」と怒鳴っても、たぶんあまり効果がないからです。これは助さん格さんがやってはじめて有効なのです。この二人は「虎の威を借る狐」ですから、実のところどうして水戸黄門が偉いのか知らない。
  「でも、みんなが『偉い人だ』と言ってるから……」という同語反復によってしか主君の偉さを(自分にさえ)説明できない。でも、子どもの頃からそう教えられてきたので、服従心が骨肉化している。この彼らの「どうして偉いのか、その根拠を実は知らない人に全面的に服従している」ありように感染力があるのです。印籠そのものには何の政治的効果もありません。でも、「助さん、格さん、その辺にしておきなさい」という命令に忠犬のように服従するそのありさまには感染力がある。
 みなさんもテレビドラマを見て「何かおかしい……」と思ったことはありませんか。それはワルモノが最後に逆上して、「ええい構わぬ斬り捨てい」という展開は毎度のことであるのに、「この爺い、つまらぬハッタリをかましおって」とせせら笑って、そのまま黄門一行を置き去りにして、すたすた立ち去るという展開になることがないという点です。おかしいと思ったこと、ありませんか。論理的に考えると(『水戸黄門』のドラマツルギーについて語るときに「論理的に考えると」という措辞が適切ではないことは百も承知で申し上げますが)そういう展開があってもいいはずです。でも、ない。
 この物語のかんどころは「前の副将軍」が供を二人連れただけのただの大店のご隠居にしか見えないという点にあります。その一見すると「ただの爺い」が、「狐」たちが「虎だ、虎だ」と言い立てると、「虎」のように見えてしまう。黄門さまは別にきわだった才知や武技を示すわけではありません。単に場違いなほどに態度が大きいだけです。
 「ここにあらせられるは前の副将軍」という一方的な名乗りを裏づける客観的な証拠は、実はどこにもない (葵のご紋の入った「印篭」なんていくらでもフェイクが作れます)。そして、その何の根拠もない名乗りを信じることが自分の不利益であるにもかかわらず、ワルモノたちはたちまちその名乗りを信じてしまう。
 その点で言えば、ドラマの前半に出てくる、街場のカタギの人たちの方が黄門の名乗りに対してはずっと常識的に対応しています。彼らは「このじいさんはただの大店の隠居」であるという第一印象をたいてい最後まで手放しません。「根拠のない権威の名乗り」を頭から信じてしまうのは、ワルモノたちだけなのです。
 理由はもうおわかりですね。ワルモノたちは(代官も勘定奉行も)、彼ら自身が「根拠のない権威の名乗り」によって、現在の地位に達し、その役得を享受しているので、「あなたの権威の由来を挙許せよ」という言葉を他人に向かっても言うことができなくなっているのです。その言葉が彼ら自身に対して向けられることを怖れ、忌避し続けてきたので、「どうしてあなたは偉いのか」という問いの文型そのものが彼らにおいては封印されてしまっているのです。言おうとしても口がこわばって言えない。
 『水戸黄門』 はワンパターンの、何の批評性もないシンプルなドラマだと思っている方がおられるかもしれませんけれど、そう侮ったものではありませんよ。このワルモノたちこそ、日本の知識人たちのヴォリュームゾーンを形成するところの、「舶来の権威」を笠に、「無辜の民衆」たちを睥睨してきた「狐」たちの戯画に他ならないのですから。
 彼らは自分では自分の権威を基礎づけることができない。けれども、「印籠」を差し出して「控えい、控えい」と言い募ることで久しく権益を享受してきた。ですから、彼らと同じように、基礎づけを示さないまま、いきなりひれ伏すことを要求する人間を前にしたときに、どうしていいかわからない。それはまさに彼ら自身がやってきたことだからです。
 「あなたの名乗りの信憑性について、この場のすべての人間が同意できるような価値中立的で公正な審問の場を立てて検証しょうではないか」という誰が考えても「いちばん合理的なソリューション」を誰も口にすることができない。それが「狐」にかけられた呪いです。
 「狐」が「時流に迎合して威張っているだけのバカ」だということが私たちには実はちゃんとわかっているのです。わかっていながら、どうしてもそれに対抗することができない。そういう心理的な「ロック」がかかっている。でも、その同じ呪縛は「狐」自身をも緊縛しています。だから、次に彼と同じタイプの「時流に迎合して威張っているだけのバカ」が出現したときに、「狐」はそれに対抗することができずに、むざむざとその座を明け渡すことしかできない。もしかすると、そのようにして、私たちの社会では権力者の交替を制度的に担保してきたのかもしれません。
『水戸黄門』が日本人視聴者から長く選好されているのは、それがきわめて批評性の高い 「日本的システムの下絵」であり、「日本人と権力の関係についての戯画」だからだと私は思っています。視聴者たちは黄門さまご一行に感情移入してこのドラマを見ているわけではありません(彼らは人間的奥行きを欠いた記号にすぎません)。リアルに造形されているのはワルモノたちの方です。(pp.152-156)

 「この場のすべての人間が同意できるような価値中立的で公正な審問の場を立てて検証しょう」という部分を私は、主張−論理性−事実性(証拠)という図式で説明しようとしたのでした。さらに、それを補足して、ディベイトは、この構造を主張と反主張側とを合わせた構造をもつことを述べました。また、それは自然科学においてベーコンが法廷技術から援用した帰納的思考として導入したものでもあります。そして、もしかすると西欧人の知識人階層の者の会話においては基礎となる思考様式なのかもしれません。したがって、われわれ日本人は常に二重性に悩まされることになるのかもしれないのです。あるいは切り替えが必要になるのです。
 内田は、これを右脳と左脳の働きの差違と、日本人特有の二重性として説明しようとしています。元々のアイデアは養老孟司のアニメ・マンガについての考察に由来することも明示しています。ただし、『日本辺境論』におけるいかに引用した箇所の最終行は、それ以降の記述のいずれにも対応していないように見えます。つまり、書き誤り。意味が全く通じないということではなくて、気持ちは分かるけれども論理的には飛躍しているあるいは断絶して、他の事柄の記述のみで終わっているのです。
 とはいえ極めて興味深い指摘をしようとしていたと思います。傾聴に値する指摘です。

 自説への支持者を増やすためのいちばん正統的な方法は、「あなたが私と同じ情報を持ち、私と同じ程度の合理的推論ができるのであれば、私と同じ結論に達するはずである」というしかたで説得することです。私と聞き手の間に原理的には知的な位階差がないという擬制をもってこないと説得という仕事は始まらない。
 けれども、私たちの政治風土で用いられているのは説得の言語ではありません。もっとも広範に用いられているのは、「私はあなたより多くの情報を有しており、あなたよりも合理的に推論することができるのであるから、あなたがどのような結論に達しようと、私の結論の方がつねに正しい」という恫喝の語法です。自分の方が立場が上であるということを相手にまず認めさせさえすれば、メッセージの真偽や当否はもう問われない。
 「私はつねに正しい政策判断をすることのできる人間であり、あなたはそうではない」という立場の差を構築することが、政策そのものの吟味よりも優先する。「何が正しいのか」という問いよりも、「正しいことを言いそうな人間は誰か」という問いの方が優先する。そして、「正しいことを言いそうな人間」とそうでない人間の違いはどうやって見分けるのかについては客観的基準がない。だから、結局は(先ほど水戸黄門の例で論じたように)、「不自然なほどに態度の大きい人間」の言うことが傾聴される。
 先日、うちの大学に学生の親から電話がかかってきました。「下っ端じゃ話にならん、とにかく責任者を出せ」とえらい剣幕でした。私は教務部長だったので回された電話の対応に出ました。すると、まず「謝れ」と言うのです。「何について謝るのか、まずそのことについてお聞きしないと……」と私が引き取ると、さらに激昂されて、「学生の親からこれほど怒って電話があるということは、そちらに非があるからに決まっているだろう。まず私をこんなに怒らせたことについて謝れ、話はそれからだ」という複雑なロジックを操りました。「私が現に怒っている」という事実は「怒るに至った事実関係」の吟味に先立って優先的に配慮されなければならないと彼は主張するのです。もちろんそれは「怒るに至った事実関係」が根拠薄弱であることに彼自身気づいていて、それだけでは「弱い」と判断したからでしょう。まず、私の側が「加害者」で、彼が「被害者」であるという非対称的な関係を構築しなければならない。そういう非対称的な関係を入り口に置きさえすれば、そのあと事実関係の吟味に入った場合でも、彼の解釈がつねに正しく、私の解釈はつねに誤謬であるとして退けることが可能になる。なにしろ私はいったん「非を認めた」人間である訳ですから、その「非」は後の全発言に拡大適用できる。
 これは今私たちの社会で広く採用されている戦略です。別に今に始まったことではありません。極道の「因縁」というのはこういうものでしたし、旧軍内務班における初年兵いじめも校滑にこのロジックを活用しました。どうやらこれは日本の悪しき伝統の一つのようです。
 そういえば、先日、柴田元幸さんと対談したときに、フロアから「ウチダ先生のその無根拠な自信はどこから来るんですか」と質問されたことがありました(笑いすぎて質問にはお答えできませんでしたけれど)。質問したこの方は私の偉そうな態度や断定的なもの言いに実は「根拠がない」ということは見破っているのです。けれども「それがどこから来るのですか」と質問することで「このような態度を取っていることの本当の理由」をウチダは知っていて、自分は知らないだけかもしれないという非対称性を導入してしまった。惜しかったですね。
 質問と回答は私たちの社会では「正解を導く」ためになされるわけではありません。それよりはむしろ問う者と答える者のあいだに非対称的な水位差を作り出すためになされています。
 質問に対して「いい質問ですね」と応じることは、すでに質問者に対して上位を取ったことを意味します。「キミはどうしてそのような質問をするのか」と反間するのもそうです。問いを無視して、「いいから黙って私の話を聞きなさい」というのもそうです。これは別に特段有用な情報をこれから述べるという意味ではなく、単に「あなたが私の話を黙って聞かなければならない理由を、あなたは知らないが、私は知っている(だから、私が上位者である)」と言っているにすぎません。
 日本的コミュニケーションの特徴は、メッセージのコンテンツの当否よりも、発信者受信者のどちらが「上位者」かの決定をあらゆる場合に優先させる(場合によってはそれだけで話が終わることさえある)点にあります。そして、私はこれが日本語という言語の特殊性に由来するものではないかと思っているのです。(pp.216-220)

 以上(1.25)

その他の話題  本当に若者は就職難なのか?

 いまや数少ない総合雑誌となった『中央公論』2月号に、海老原嗣生が「超・就職氷河期のウソ 四大卒も中小企業を目指せばいい」という評論が載っている。先日、寝る前に「軽く読んで寝よう」と思ったのが大間違い。読後少し興奮して朝まで考え込んでしまった。
 いま流行の話は、「年寄りがのさばっているから大卒の子らが就職できないで非正規雇用になるのだ」というものがある。そこから「年功序列制が悪い」となる。しかし、それは事実に即した判断なのか?
 事実でなくとも流行の言説に従って正規社員就中高齢層の賃金を引き下げたり、手当のいくつかをカットしたりするのが流行している。若者は高齢労働者の犠牲になっているのだというのだ。そこから悪者は年寄りで、年割りはイジメても大丈夫というような風潮になっているのではないかと、私なんぞは心配する。
 海老原は、「ジイサンはクビにして労働の流動化をはかれ」という主張に対して、それなら流動化した雇用体制のアメリカはどうなんだと反証を出す。明らかに日本より失業率が高いではないか。日本の25歳未満の失業者9%(全年齢平均5%前後)に対しアメリカの若者は20%(全年齢9%)もあるのだ。
 さらに、四年制大学・新規卒業者の正社員就職数は、1980年代後半・バブル期で29万4000人に対し、2009年で約38万人(2010年で約30万人が見込まれている)。これは文科省の「学校基本調査」による数値だ。
 リクルートワークス研究所のデータに従えば、バブル期の求人ピークは84万人に対し、08年94万人。不況の94年−39万人に対し、今年58万人。
 つまり、「常識のウソ」というか、みんなの「思い込み」は間違いだったのだ。

 22歳人口はバブル期に比べ3割減っていてなおかつこうなのだから、現在の方が数段恵まれているということになりそうだ。大卒の超・就職氷河期といわれるのは、上のような条件であるにも関わらず、大学生の数が増えているから出てくる話なのだと海老原は言う。25年間に大学の数で7割増え、学生数で6割増えている。
 ところがこのような認識はわれわれにはない。
 実際、教育学の専門家のM先生に訊いてみたら、進学率の頭打ちの方を強調された。政府の統計を検索をかけてみたところ、次のようなデータが得られた。上の数値は正しかったことが確認できる。話題になっている1995年と2009年の比較をしても、大学数で37%増、学生数で12%増だと確認できる。やはり間違いなく増えていたのだ。[「学校基本調査」による数値である。]

年度 大学数 学生数
1985 460 1,849
1990 507 2,133
1995 565 2,547
2000 649 2,740
2005 726 2,865
2007 756 2,829
2008 765 2,836
2009 773 2,846

 このことは、日本の産業構造の変化と対応している。高校卒業生の就職先であったブルーカラー職、建設業、農林業、自営業、事務職が世の中から激減している。
 「グローバル化とIT化によって、日本の産業が外に出ていってしまい、国内での職が減った」とマスコミに喧伝されたが、これに当てはまったのは、上のようなブルーカラー職で、世界売り上げが増えたため、本社が肥大化し、海外支社や海外工場の管理要員として日本人のポストは増えている。ホワイトカラーの雇用者数は、トヨタ自動車もパナソニックも新日鐵もグローバル化で増えているのだ。[不思議な話で、こういう明るい話題はニュースでは取り上げないという慣行でもあるらしい。]

 私の関心はここまでで十分だったのだが、海老原は、ここから更に、増加した大学生がその増加率ほどには増えていない求人のためはみ出すというのも不正確で、従業員1000人以上の大手企業の求人倍率はこの15年間0.5倍から0.8倍の間を行き来しているが、従業員数1000人未満の企業では2.16倍となり、300人未満の企業ともなれば4.41倍なのだ。つまりは増えすぎた大学生と中小企業求人とのミスマッチがみられるというのが事の本質だと指摘しているのだ。

 さらに海老原は、この現象が起こりやすい要員の一つに大企業でなければ、学生にとってはその事業内容や信用度、安定度の判断はむずかしいことを挙げ、それに対する対策まで述べている。たしかにCMで馴染みのある企業に学生の就活は集中する。中小企業の中にはブラック企業も混じっていて、そんなところに間違って入ってしまった若者の人生は無残なことになるということも確かなのだ。ここに政府のなすべき仕事があるということになる。こちらについては記事をお読みいただきたい。十分に説得力のある内容であった。

 何をそんなに興奮したかといえば、あまりにもこれまで「若者の貧困化」困窮というものの見方に偏りすぎていたことに気づいたからで、「冗談じゃない。日本のホワイトカラーの未来は明るいんじゃないか」と思ったからだ。ならば当然、現在の高校生や中学生も将来に怯える必要はなくなる。要求されるような能力を磨いておけばよい。そして、それは、職種によって異なるのだから、「いろいろあってよい」ことになる。あせらせることなどないのだ。(1.16)

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