CIVICS 労働問題
本日は、労働問題に関する憲法など法規定の基本性格を中心に学習した。労働三権と労働三法についてのざっとした説明なのだが、その根底には、近代法が基本とする個人の権利義務を中心とした、逆に言えば、国家vs.個人の関係と、そこで保障された権利を延長して、私人間の利害対立の調整を国家が保障するしくみとは基本的に性質を異にする、社会法というしくみの基本特徴の理解が横たわっている。ここのところを注意した。
企業組織などの集団(団体)は、個人に比して強大な権力を有するという認識がある。国家という公権力とは性質が全く違うにもかかわらず、場合によっては、私的団体である企業はそこで働く個人の殺生与奪の権を握っていることがある。われわれは生き延びる知恵としては、自分の働く組織と自己とを対立するものとして認識するよりも、自分の人生を輝かせてくれる存在として、また、経済的基盤を与えてくれる存在として認識し、共存共栄を旨とする姿勢をとるものと思う。しかし、給料を払う側が、できるだけ支払額は低く、その働きは最大にすることを狙い、逆の側が真逆のことを希望することもまた自然な事ではあると認めざるを得まい。そこに対立の構図を見ることもまた自然な事だと言えそうである。
近代日本の歴史は、後者の対立が厳しくなったときの不幸を露わにしてくれるものでもあった。というより、農地という自然に組み込まれた農業という仕事から切り離されて、都市に追い立てられた(西欧社会では「囲い込み運動」があった)人々は、極めて人工的な環境において、労働力を商品として売買するということを始めざるを得なかった。また、売りに出された労働力は過剰供給状態で新たな幕を開始せざるを得なかったようであった。
こういった歴史を抜きにして、真空状態で架空の世界のように労働の問題を原理的に描こうとすると、強者と弱者の間の自由な契約関係は前者に有利、後者に不利に落ち着かざるを得ないので、国家による法的なハンディキャップを弱い方に与えるというかたちで調整されると説明するしかなくなる。これを憲法により保障された権利(社会権)として当然のものと考えましょうというのだ。
ところが、1990年前後には、何でもアメリカの真似をすることが「よいこと」として、むしろ荒々しい弱肉強食と国家の保護を否定し「自己責任」を是とする風潮が広まってしまった。混乱はその直後に起こったのだった。その辺りの事情を次回触れることになる。
Print 空欄 1労働組合 2使用者 3対等 4労働条件 5労働協約 6ストライキ 7社会的相当性(公序良俗) 8休日 9最低基準 10児童 11児童福祉 12団結権 13民主化 14正当な 15不当労働行為 16争議行為 17自主的解決 18労働 19調停
ところで、井形慶子『日本人の背中』(集英社文庫)に面白い例が挙げられていた。ヨーロッパのどこかの都市の空港でドイツ人夫婦が喧嘩をして、妻が怒って立ち去ってしまった。残された夫は、大量の荷物を放り出して追いかけて説得することも適わず、戸惑っていた。著者は、困じ果てている男性に、「荷物を見ていてあげようか」と声を掛ける。訝しがり、後ずさる男に、「私は日本人だ」とパスポートを見せると、男は喜んで荷物を託して妻の後を追っていったという。
日本人とは不思議な存在である。法律による保障など関係なく、信用を重んじるが故に他人を裏切ることをしない。他人の物を盗むなどトンデモナイことなのだ。ある意味、国家による裏付けなど必要とも思っていないふしがある。絶対神を信じる一神教の人間たちが互いを疑うのに、絶対神をもたない日本人がである。
労使の関係においても、われわれは、おそらく法律に従うことよりも、相互の信頼、信用の問題として処理してきたのではあるまいか。子守のアルバイトを雇うなら日本人留学生に限ると頼ってきた英国婦人のことを井形さんは紹介していた。ごく普通の日本人がきっちりと約束は守り、誠意をもって役割を果たすのだ。
このような風土を前提に生活してきたわれわれにとり、法律の想定する決まり事はどうも違和感がある。なぜならすべて輸入品だからなのだ。生活実感に根ざしたところから法律やその前提が出来上がったのではなく、輸入をいかに要領よくやるかから法律の体系はできあがり、そもそも憲法のいくつかの規定は、日本人ならざる者の手によって策定されたという経緯をもつ。
どうです。それ以前に学習してきた内容の一事例となっていることに気づきますか。(1.27)
基本的には、1.終身雇用 2.年功序列給
3.企業別組合という特徴を受験では列挙します。英国人経済学者ドーアの指摘が昔随分と引用されていたものです。あのあたりが出発点でしょうか。その後、『ジャパン・アズ・ナンバーワン』が話題になって、日本型経営の賛美がありました。私は大学生の頃、比較組織論という観点で偶々ドーアも読んでいました。乱読気味の傾向があるため、図書館分館の棚にあったものを気分転換で読んだだけのことでした。『ジャパン・アズ・ナンバーワン』は社会学者エズラ・ヴォーゲルによる1979年の著書。彼は、ハーバード大学社会学教授で、1993年から2年間、アメリカ中央情報局CIA国家情報会議(CIAの分析部門)の東アジア担当の国家情報官を務めているので、日本分析のエキスパートかという気がするが、中国研究が元々の専門の上、1960年にイェール大学精神医学部助教授でした。私が始めて読んだ彼の著作は、『日本の新中間階級―サラリーマンとその家族』で、日本の豊橋だったかどこかの小都市での研究で、日本の家族は「川の字」になって寝るなどと不思議そうに書いていたのを覚えています。ユダヤ系学者の視野の広さに驚きます。
その後、オランダ人記者ウォルフレンが日本社会の閉鎖ぶりを指摘した『日本/権力構造の謎』によって日本社会の閉鎖性が日本経済を停滞させるという批判がなされると急激に日本型経営はマイナスとして否定されるようになります。
日本型経営や日本型労働慣行に対しては経営学の評価が時代によって@批判(世界標準に合わせるべき)の姿勢からA賛美(日本型は素晴らしい。だから世界の手本になる)の姿勢を行ったり来たりします。そして、必ず、ちょっと前の流行を忘れて、似たような変動を繰り返しているのです。しかも、褒めるにせよ貶すにせよアメリカでの流行を輸入してきて、それを纏って行うので、ふりこが行って復ってきてもそれが見えにくいという特徴もあるようです。
私は、単に新聞記事や雑誌記事の紹介だけでなく、問題になった本を翻訳であれ読んできて、また、その著者の他の著述にも目を通してきたので、彼らの元々の指摘とその妥当性や、彼らの視野の広がりの中での主張の位置づけを理解してきたと思います。無論、その一石によって生じた波紋のすべて、つまり、いろんな研究分野における数多くの著書や論文のすべてに目を通したわけでもないので大きな事は言えませんが、表面的な「他人の意見」に振り回されるような次元でなく、素人なりに物事を考えてきたように思います。自分の仕事に胸を張れる一面です。
この45年を同時代的に目撃してきた人間として伝えておきます。
日本人が「経済」において優れて真摯であったのは、単なる金額をより多く弾き出す行為としてではなく、より多くの人々の生活により多くの「幸福」を導き出すために関わってきたからです。「目に見えない」部分、人と人との交渉や職場での働きが家族の生存を支えてきたことなどを日本人は意識してきたと思います。江戸時代の京都の町人思想家・石田梅岩や大坂の懐徳堂の思想家たちの思想を受け継いできたという側面が見られたように思います。
これは世界の手本たり得たと思います。
中谷厳が『資本主義はなぜ自壊したのか』(集英社)においてグローバル経済の欠陥を分析し、(世界に広めるべき)日本の「安心・安全」の源泉として描いているものも、上の日本の伝統です。これを破壊したときに、格差社会が導かれ、悲惨な貧困が顕在化するとともに日本経済の停滞が導かれるのだと指摘します。かつて「構造改革」の旗手であった中谷氏が、「転向」せざるを得なくなった事情を告白しているのです。
他方、諸君の先輩に当たる戸堂康之(東大新領域創成科学研究科准教授)は、『途上国化する日本』(日経プレミアシリーズ)において、グローバル化が経済発展に不可欠であることを指摘し、鎖国状態にある現状の打破の必要を訴えています。
おそらくわれわれは冷静に二つの立場を検討し、グローバル経済の落とし穴が指摘された後にもかかわらずなおグローバル化の必要が論じられるのか突き詰めなければならないのだと思います。
そして、そこで「経済」と呼び、「科学」と呼んでいるものの内容の差違にも気づかねばならないのではないでしょうか。わざわざ中谷が「中空構造」(ユング派の精神分析学者・臨床心理学者・河合隼雄による日本文化の特徴)に言及しているのは、資本主義の「目に見えない」部分にまで視野を広げようとしているからでしょう。これについては、柄谷行人『世界史の構造』(岩波書店)やカール・ポランニー『大転換』(東洋経済新報社)を将来読んでいただきたいと思います。また、「暗黙知」について語るカールの弟・マイケル・ポランニーについて触れてもらえればと期待します。(マイケル・ポランニーは化学者から経済学あるいはより広大な領域に転換していきます。天才というものの姿を彼や情報理論のベイトソンに見ることができ興味はあるのに、私自身はマイケルの著作を精読したことがありません。更に脱線して付け加えておくと、ベイトソンにはイギリスの精神科医・ドナルド・レインとの共同研究によって知ることになりました。これも偶々京都丸善で購入したペリカンの新書から知ることになったのです。レインは元フォーク・クルセダーズの精神医学者・北山修が英国のレインのクリニックに留学していることで近親感をもったものです。レイン+ベイトソンのダブル・バインド理論は重要です。そして、ベイトソンは、有名な人類学者マーガレット・ミードと結婚して一女を得ています。ミードは『菊と刀』のベネデイクトの緊密な関係の同僚です。ベネディクトも女性人類学者なのです。そして、天才の家系であるベイトソンの娘は、『娘の眼から』という本の中で、両親について語っているのですが、これがクレバーで面白い。人類学者の娘は魅力的な発想をするらしく、『ゲド戦記』の作者ル=グィンは、「文化」の定義集で有名なクローバーの娘。クローバーの妻はアメリカ白人が絶滅させたヤヒ族インディアン最後の一人を描いた『イシ』を書き残しています。強権的な父を憎むル=グィンは歴史学者のかなり年長の夫を尊敬し深く愛しています。彼女の作品に色濃く反映していることです。本を多く読んでいくと、単なる知識ではなく、生身の魂を備えた人間の連なりとして自分の中で生きてくるものです。中谷の告白には、そういった人類の知の蓄積や人の連鎖に結びついていく何かが見えます。戸堂さんはこれからの人でしょう。)
今回はちょっとお遊びで自由連想に身を委ねてみました。次回の授業は、ハケン問題・プレカリアートについて。ワーキング・プアは見えなくなることが特徴で、ネット・カフェが偶々火事になって死者が出たというニュースではじめてその存在が目に見えるようになったのですが、それまでは見事に姿を消していたのです。ちょっと本気で考えてみようかと思っています。2.02
これについては語るべき問題点は沢山あります。不思議なことにクラスによって随分と反応が違いました。数人寝ていたクラスもあったし、熱心に考えている生徒の多かったクラスもあったし。こんなこと言っちゃマズイんだけど、寝ている生徒の方がワーキング・プアに該当しそうな気配がしたりして、矛盾ですよね。文科省が小中高で職業に関する教育をさせようと企てているとか。おそらく、放っておいてもいい生徒の方が熱心に授業を受けて、刺激を与えるべき者が神経が他の方向に向かっていたりするんだろうね。
教科書の記述だけでなく、授業中に触れた、オランダを始めとしたワークシェアリングのことなどテストで出題したいと思います。(2.3)