おそらく授業時間の中ではそこまで辿り着かないだろうと思うので、ここであらかじめ触れておきたいのですが、U 辺境人の 「学び」 は効率がいい において、再び丸山眞男の「きょろきょろ」が登場します。それは、次のような文脈においてです。
日本ではときとしてその主張の根拠や論理的理由が明示されず、激しい主張がされることがあります。たとえば、朝まで生テレビといったようなタイトルの番組の中で(私自身は見ていませんが)突然ある政治家が、「国歌を斉唱したくない人間は日本から出て行け」と怒鳴り声を上げたように。国旗と国歌は法律で決まったのだから、それを遵守せよというのです。
内田は、そのロジックが成立するとすれば、その政治家の属す政党が改憲を党是に掲げていて、他方で公務員の憲法遵守の義務が憲法に定められているのだから、「国の最高法規を『尊重し擁護する』気がないと揚言している人間がどうして自分は国を代表する権限を付託されていると信じ込めるのでしょう」と著者は書いています。分かりやすく言い換えれば、そんなら「日本を出て行け」ということになるだろうというところでしょう。
彼は、その場に参加した誰も、それは変な発言だと指摘しない理由を次のように説明しています。
「国とは何か、国民とは何か」について最終的に答えを出すのは私たちひとりひとり個人の資格においてであるという考え方が私たちの中には定着していないからです。
そして比較のため、アメリカ上院で2006年に「星条旗を燃やすなど、国旗を冒涜する行為を禁じる」憲法修正案が否決された事実を取り上げます。1989年最高裁判決で「表現の自由」として国旗を燃やす行為が認められたことを受けての憲法修正案だったということです。これは、市民の一人一人が「アメリカとは何か、アメリカ人はいかにあるべきか」という問いに答える義務と権利があるという認識が共有されているという証です。
日本にはそのような合意がない。「日本とは何か、日本人はいかにあるべきか」という問いについては、何が「正解」なのかを知ろうとするだけなのです。どこかよそで、誰か他の人が決めたことのうち、どれに従えばいいのかを知りたがるだけです。
この態度、姿勢がなぜ起こるのかを「虎の威を借りた狐」という比喩で説明しています。以下その箇所を丸ごと引用してみたいと思うほどうまい説明部分です。で、その後、著者は、日本人の「学び」の姿勢とその原型としての「武士道」についての説明を展開していきます。その学びの姿勢の箇所で「きょろきょろ」が出てくるのです。つまり、師を求める弟子の態度を、「自分を養う乳房を求める幼児の焦慮」に喩え、その形容として「きょろきょろ」という擬態語はもっともふさわしいと言うのです。なぜか日本人は師の前で、判断を停止し、無防備になり、幼児性と無垢性を露呈するのです。適否の判断を一次的に留保する。それによって知性のパフォーマンスを上げることができるということをわれわれが(暗黙知的に)知っているというのが列島に住む祖先から引き継いできたことなのだというわけです。
虎の威を借る狐の意見
今、国政にかかわる問いはほとんどの場合、「イエスかノーか」という政策上の二者択一でしか示されません。「このままでは日本は滅びる」というファナティックな(そしてうんざりするほど定型的な)言説の後に、「私の提案にイエスかノーか」を突きつける。これは国家、国民について深く考えることを放棄する思考停止に他なりません。私たちの国では、国家の機軸、国民生活の根幹にかかわるような決定についてさえ、「これでいいのだ」と言い放つか、「これではダメだ」と言い放つか、どちらかであって、情理を尽くしてその当否を論じるということがほとんどありません。
たとえば、私たちのほとんどは、外国の人から、「日本の二十一世紀の東アジア戦略はどうあるべきだと思いますか?」と訊かれても即答することができない。「ロシアの北方領土返還問題の『おとしどころ』はどのあたりがいいと思いますか?」と訊かれても答えられない。尖閣列島問題にしても、竹島問題にしても、「自分の意見」を訊かれても答えられない。もちろん、どこかの新聞の社説に書かれていたことや、ごひいきの知識人の持論をそのまま引き写しにするくらいのことならできるでしょうけれど、自分の意見は言えない。なぜなら、「そういうこと」を自分自身の問題としては考えたこともないから。少なくとも、「そんなこと」について自分の頭で考え、自分の言葉で意見を述べるように準備しておくことが自分の義務であるとは考えていない。「そういうむずかしいこと」は誰かえらい人や頭のいい人が自分の代わりに考えてくれるはずだから、もし意見を徴されたら、それらの意見の中から気に入ったものを採用すればいい、と。そう思っている。
そういうときにとっさに口にされる意見は、自分の固有の経験や生活実感の深みから汲みだした意見ではありません。だから、妙にすっきりしていて、断定的なものになる。
人が妙に断定的で、すっきりした政治的意見を言い出したら、眉に唾をつけて聞いた方がいい。これは私の経験的確信です。というのは、人間が過剰に断定的になるのは、たいていの場合、他人の意見を受け売りしているときだからです。
自分の固有の意見を言おうとするとき、それが固有の経験的厚みや実感を伴う限り、それはめったなことでは「すっきり」したものにはなりません。途中まで言ってから言い淀んだり、一度言っておいてから、「なんか違う」と撤回してみたり、同じところをちょっとずつ言葉を変えてぐるぐる回ったり……そういう語り方は「ほんとうに自分が思っていること」を言おうとじたばたしている人の特徴です。すらすらと立て板に水を流すように語られる意見は、まず「他人の受け売り」と判じて過ちません。
断定的であるということの困った点は、「おとしどころ」を探って対話することができないということです。先方の意見を全面的に受け容れるか、全面的に拒否するか、どちらかしかない。他人の受け売りをしている人間は、意見が合わない人と、両者の中ほどの、両方のどちらにとっても同じ程度不満足な妥協点というものを言うことができない。主張するだけで妥協できないのは、それが自分の意見ではないからです。
「虎の威を借る狐」に向かって、「すみません、ちょっと今日だけ虎縞じゃなくて、茶色になってもらえませんか」というようなネゴシエーションをすることは不可能です。
狐は「自分ではないものしを演じているわけですから、どこからどこまでが「虎」の「譲ることのできない虎的本質」で、どこらあたりが「まあ、そのへんは交渉次第」であるのか、その境界線を判断できない。もし彼がほんものの「虎」なら、「サバンナで狩りをするときは、茶色の方がカモフラージュとして有効ですよ」というような訳知りの説明をされたら一時的に「茶色」になってみせるくらいやぶさかではないと判断するというようなこともありえます。でも、「狐」にはそれができません。「自分ではないもの」を演じているから。借り物の看板のデザインは自己費任で書き換えることができない。私たちは「虎」とは交渉できるけれど、「狐」とはできない。そういうことです。「虎」なら、「自分は『虎』として何がしたいのか?」という問いを自分に向けることができます。でも「狐」は「自分が『虎』として何がしたいのか?」という問いを受け止めることができない。他人の受け売りをして断定的にものを言う人間が交渉相手にならないというのは、彼が「私はほんとうは何がしたいのか?」という問いを自分に向ける習慣を放棄しているからです。
よろしいですか、ある論点について、「賛成」にせよ「反対」にせよ、どうして「そういう判断」に立ち至ったのか、自説を形成するに至った自己史的経緯を語れる人とだけしか私たちはネゴシエーションできません。「ネゴシエーションできない人」というのは、自説に確信を持っているから「譲らない」のではありません。自説を形成するに至った経緯を言うことができないので「譲れない」のです。「自分はどうしてこのような意見を持つに至ったか」、その自己史的閲歴を言えない。自説が今あるようなかたちになるまでの経時的変化を言うことができない。「虎の威を借る狐」には決して「虎」の幼児期や思春期の経験を語ることができない。
ですから、もし、他人から「交渉相手」として過されたいと望むなら、他人から「虎」だと思われたいのなら、自分が今あるような自分になった、その歴史的経緯を知っていなければならない。それを言葉にできなくてはならない。これは個人の場合も国家の場合も変わらないと私は思います。
日本人が国際社会で侮られているというのがほんとうだとしたら(政治家やメディアはそう言います)、その理由は軍事力に乏しいことでも、金がないことでも、英語ができないことでもありません。そうではなくて、自分がどうしてこのようなものになり、これからどうしたいのかを「自分の言葉」で言うことができないからです。国民ひとりひとりが、国家について国民について、持ち重りのする、厚みや奥行きのある「自分の意見」を持っていないからです。持つことができないのは、私たちが日頃口にしている意見のほとんどが誰かからの「借り物」だからです。自分で身銭を切って作り上げた意見ではないからです。
「虎の威を借る狐」は「虎」の定型的なふるまい方については熟知していますが、「虎」がどうしてそのようなふるまい方をするようになったのか、その歴史的経緯も、深層構造も知らない。知る必要があるとさえ考えていない。だから、未知の状況に投じられたとき「虎」がどうふるまうかを予測することができない。
日本人がどうして自分たちが「ほんとうは何をしたいのか」を言えないのは、本質的に私たちが「狐」だからです。私たちはつねに他に規範を求めなければ、おのれの立つべき位置を決めることができない。自分が何を欲望しているのかを、他者の欲望を模倣することでしか知ることができない。(pp.118-123)
極めて刺激的な叙述です。最近の尖閣諸島における中国漁船や警備艇の動きやそれに付随する中国政府の外交行動に関連してわれわれ普通の日本人が政府の対応にイラついた本当の理由は、上のような事情に由来するのではないかと考えた時、かなりスッキリします。テレビに登場する評論家の解説にも新聞社説などにもどうも頷けないところがあったのですが、つまりは、評論家諸氏・論説員氏も政治家も「狐」だったのだということを感じ取っていたからでしょう。
そして、なおかつ大事なことは、そう判断するわれわれ自身も同様に虎の威を借りる狐として生きてきたし、多分、これからもそのように生きていくのでしょう。
とすれば、批判するのは自由として、不満を抱いたり懐疑的になったりするのは自然としても、その対処法、いき方に批判的なばかりでいいのかということになります。
内田樹は、批判と同時に支持もしている様子です。