CIVICS

『日本辺境論』 目次

 はじめに 3

T 日本人は辺境人である 15
  「大きな物語」が消えてしまった  日本人はきょろきょろする
  オバマ演説を日本人ができない理由  他国との比較でしか自国を語れない
  「お前の気持ちがわかる」空気で戦争  ロジックはいつも「被害者意識」
  「辺境人」のメンタリティ  明治人にとって「日本は中華」だった
  日本人が日本人でなくなるとき  とことん辺境で行こう

U 辺境人の 「学び」 は効率がいい 101
   「アメリカの司馬遼太郎」  君が代と日の丸の根拠  虎の威を借る狐の意見
   起源からの遅れ  『武士道』を読む  無防備に開放する日本人 便所掃除
   がなぜ修業なのか  学びの極意  『水戸黄門』のドラマツルギー

V 「機」の思想 158
   どこか遠くにあるはずの叡智  極楽でも地獄でもよい  「機」と「辺境人の
   時間」  武道的な「天下無敵」の意味 敵を作らない「私」とは
   肌理細かく身体を使う  「ありもの」の「使い回し」  「学ぶ力」の劣化
   わからないけれど、わかる  「世界の中心にいない」という前提

W 辺境人は日本語と共に 211

   「ぼく」がなぜこの本を書けなかったのか  「もしもし」が伝わること
   不自然なほどに態度の大きな人間   日本語の特殊性はどこにあるのか
   日本語がマンガ脳を育んだ   「真名」と「仮名」の使い分け  日本人の召命

   終わりに  248
    註  253

授業プラン

 相手のあることですから、やってみなければ分からないということになります。しかし、とりあえず、Tを中心にテキストを読むのがまず第一になすべきことでしょうか。
 「「大きな物語」が消えてしまった 」は、著者および私の年代には分かりやすい話ですが、若い人たちには通じないかと思います。私どもの中学生・高校生時代というのは、「社会主義」とか「革命」とかいう物語が普通に語られ流通していたように思います。次の世紀に向けての「あるべき社会の姿」「理想」の社会状態を描き出し、現実のどこが不足しているか、間違っているかを抉り出すような態度姿勢は周辺に暮らす人々の一部ではあれ当たり前にいましたし、新聞や総合誌、テレビなどを通じて容易に耳にすることができました。「社会主義」はソ連の内情、特にスターリンの血の粛清などの情報が入るにつれ、少々色褪せてきはしていましたし、特定の党やその下部組織に対する警戒心も働いて、それに代わる人間の本性に正直な、抑圧から自由な社会を描く新たな理想の物語が語られ始めていました。
 大学受験では大学紛争による東大受験中止に遭遇もし、大学紛争の余燼さめやらぬ時期に大学生活を送っていたのです。
 マルクスの思想やマルクーゼの思想、アルチュセールの思想などに接した大学生は結構いたかと思います。また、大学紛争時に人気のあった廣松渡や吉本隆明(吉本バナナのお父さん)の評論はよく読まれていた、少なくともその存在は知られていたのではないでしょうか。他方で、サルトルのような実存主義者の人気もあり、そのパートナーのボーヴォワールも話題になっていましたし、構造主義の流行もありました。
 そういった「大きな物語」は信用できない、もう語れないと批判を展開したのがポスト・モダンの思想家たちということになるかと思います。私は、一応読みはしましたが、あまりよく理解できないままできましたので、これについての解説は抜きにしておきます。
 著者は、とりあえず、「大きな物語」を語る人が少なくなったので、敢えて語ってみたいというような意味のことをこの節で述べているようです。
 ここは飛ばして次から授業では入ればよいかと思っています。
 * 内田樹『寝ながら学べる構造主義』(文春新書)とか、内田樹・難波江和英『現代思想のパフォーマンス』(光文社新書)とかを参考にしてください。小阪修平『はじめて読む現代思想』(芸文社)なんて便利な本もありました。

さて、「日本人はきょろきょろする」

 この本(『日本辺境論』)には、ほとんど創見といえるものは含まれていないと著者は断言します。日本および日本人について、私たちが知っておくべきたいせつなことは、すでに論じ尽くされており、何をなすべきかについても、もう主立った知見は出尽くしているというのです。だったら書く必要ないじゃないかということになります。
 しかし、それは違うというのですね。
 先人たちが、その骨身を削って、深く厚みのある、手触りのたしかな日本論を構築してきたのに、私たちはそれを有効利用しないまま、アーカイブの埃(ほこり)の中に放置して、ときどき思い出したように、そのつど、「日本人とは……」という論を蒸し返している。そのことが問題なんだと言うのです。アーカイブって、「記録を保管しておく場所」のことです。インターネットで古いソフトウェアや発言、メッセージなどをまとめて保存している場所をさすこともあります。
 先賢が肺腑から絞り出すようにして語った言葉を私たちが十分に内面化することなく、伝統として受け継ぐこともなく、ほとんど忘れ去ってしまっていいのかと指摘しているわけです。

 そして、(梅棹忠夫の文章の引用を経て、)どうして忘れたかというと、外来の新知識の輸入と消化吸収に忙しかったからです。どうして、そんなに夢中になって外来の新知識に飛びつくかというと、「ほんとうの文化は、どこかほかのところでつくられるものであって、自分のところのは、なんとなくおとっているという意識」に取り憑(つ)かれていたからだと続けています。
 梅棹さんは、吹田の万博公園近くにある民族学博物館初代館長で、1970年前後にはベストセラーを連発し、テレビの草創期によく出演しておられた民族学(文化人類学者)です。最近、小山修三『梅棹忠夫語る』(日本経済新聞出版社)という本が出版されています。聞き書きの形式ですが、若い世代には梅棹忠夫という学者の面白さを理解する一助になると思いますし、知的な刺激を受けることと思います。ついでに言えば、テレビが痴的ではない情報を伝えていた時代もあったのです。

 その後、著者は、この繰り返し(回帰性)のパターンこそが日本文化の特徴なのだと展開していきます。
 「数列性と言ってもいい。項そのものには意味がなくて、項と項の関係に意味がある。制度や文物そのものに意味があるのではなくて、ある制度や文物が別のより新しいものに取って代わられるときの変化の仕方に意味がある。より正確に言えば、変化の仕方が変化しないというところに意味がある」という説明はさすがはと思います。フラクタルに例える箇所も出てきますが、出現パターンの同一性に気づくことは重要な意味をもつと言っているのです。

 この指摘を補足して丸山眞男の引用をもってきます。それを更に説明して次のように述べています。

丸山眞男はそういうふうに「外来イデオロギー」(「自分のスタイル」とか「主体性」というのはもちろん「外来イデオロギー」です)に反応するときの国民的な常同性(これが「きょろきょろ」という擬態語で表されます)を「執拗低音」(basso ostinato)と音楽用語を使って指示しました。
 執拗低音は決して「主旋律」になりません。低音部で反復されるだけです。
「主旋律は圧倒的に大陸から来た、また明治以後はヨーロッパから来た外来思想です。けれどもそれがそのままひびかないで、低音部に執拗に繰り返される一定の音型によってモディファィされ、それとまぎり合って響く。そしてその低音音型はオスティナートといわれるように執拗に繰り返し登場する。」

 「うまいなあ」と感心します。私ではとてもこう段取りよく、分かりやすくはいかない。

 この後、法社会学者の川島武宜から一つの例を持ち出してきます。ここは多少なりとも議論できる具体例かもしれません。

 ところで余談になります。川島の『日本人の法意識』は事例の多くをきだみのる『気違い部落周游紀行』などから採っています。この本は岩波新書に入っていたものだと記憶しているが、そのタイトルから当然のように絶版になった。一時期の差別用語を排除するという徹底したことば狩りの運動がありまして、面白いことに「気違い」はワープロ・ソフトでも出てきません。著者の山田吉彦(この名義ではファーブル昆虫記の訳の仕事がある)は、ソルボンヌで人類学者のモース(贈与論で有名。デュルケームという高名な社会学者の甥でもあった。)に学んだ人で、日本の山村のコミュニティの実態を参与観察した報告が本書。1960年頃の雰囲気では、「ちょっと風変わりな」という程度の意味で「気違い」という言葉は日常的に使われていました。少年漫画でも頻出ではなかったかと思います。それが精神障害者に対する差別用語であるとして使用禁止になったのだと思いますが、なんとなく納得のいかない気分を残しました。その後、冨山房百科文庫の一冊として復刻されています。18歳のときに読んで腹を抱えて笑ったのを覚えています。
 更に余談の余談を付け加えれば、この調査旅行の時期に孫ほど年の離れた娘さんをきだは同行させていて、それを訝しんだ小学教師夫婦がその娘の養育を申し出ます。後に、この夫がこの娘さんのことを小説にして、芥川賞を受賞したのではなかったかと記憶しています。その後、娘さんから小説家が訴えられるといったスキャンダルも付随したのでした。裁判の経緯などは失念しましたが、きだみのるの山村の人間模様の観察記の公表も少し問題があったかもしれませんし、小説の方も微妙な問題を含んでいる(プライバシー侵害云々はともかく、これから社会に出て行こうという女性をいかに護り育てるかという視点で考えても妥当性を欠くような印象を受けたのが『文藝春秋』でいち早く作品を読んだ直後の個人的な感想でした。)ような気のする出来事でした。

 中途半端な書き込みになりますが、中断します。(1.3)

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