第76回 株式会社エムグラントフードサービス 井戸 実 2

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ロードサイドのハイエナが、いまや期待のエンジェルに。
時代を先読みした飲食店経営手法で快進撃を続けます!

 2007年から、大手ファミリーレストランチェーンの撤退が相次いでいる。リストラクチャリングを進めるチェーンもただでは事業をやめられない。原状回復など、多額の撤退費用がかかるのだから。そのマーケットの中で、多くの撤退企業から注目を浴びている企業がある。郊外ロードサイドの居抜き物件を中心として新店舗の出店を展開する“エムグラントフードサービス”がそれだ。同社の若き経営者である井戸実氏は、なんとまだ30歳。撤退店舗を安く買い上げ、再生する経営手法は当初“ロードサイドのハイエナ”と呼ばれたが、いまや多くのチェーンが頼りにする“ロードサイドのエンジェル”に昇格。時代を先読みした井戸氏の戦略は今のところ大当たりしている。「不透明な時代ですが、これからも必ず必要とされるビジネスモデルであることは間違いないでしょう」と語る。今回は、そんな井戸氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

<井戸 実をつくったルーツ.1>
常に明確な目標を探すリアリストな子ども。小学生時代の夢は、プロ野球選手かすし職人

 父は川崎市役所の交通局に勤務する公務員で、今も元気に働いています。母は普通の専業主婦。そんな両親のもと、男ばかり3人兄弟の末っ子として、川崎市の多摩区で生まれ育ちました。末っ子だから両親からかわいがられたか? いえ、完全に放置されていました(笑)。でも、5つ上と3つ兄がいたので、自然と年上の人からかわいがられる方法はわかっていたように思います。小学校時代の通知表には必ず、落ち着きがないとか、せっかちとか書かれていました。そんなこと言われても、落ち着いた小学生なんかいたら逆に気持ち悪いですよねえ(笑)。

 勉強は大嫌い。やる意味を見出せませんでした。はまったのは野球です。地元の野球チームに入って毎日練習に明け暮れていました。もちろんこの頃の夢はプロ野球選手ですよ。将来の道のりとして、帝京高校に行って、ドラフト1位、契約金1億円でスカウトされる。そんなことを真剣に考えていました。リアルでしょう。なんだかイヤな小学生ですね(笑)。誰に教えられたわけではありませんが、いつも達成可能な夢を探していた気がします。そして、言葉にすることで夢はかなうと信じていました。ちなみに僕は小学校の6年間、無遅刻・無欠席を達成しています。これも達成できる目標だと自ら決めて、口に出して宣言して、実現したんですよ。

 裕福ではなかったですが、実家の食卓はすごかったですよ。バリバリ成長期の男3人がいるわけですからね。母に聞いたら、米を毎月80キロくらい使っていたそうです。夕食は味噌汁と毎日おかずが1品のみ。月曜日が鶏のから揚げ、火曜日がハンバーグ、水曜日がお好み焼きとか決まっていて、月に1度のすき焼きがご馳走。から揚げなんて1度に2キロくらいがどんとテーブルに乗る。それを兄弟でいっきに平らげるという。だから、我が家のエンゲル係数は相当なものだったと思います。

 ど根性ガエルの梅さんっているでしょう。僕はあのキャラクターが大好きだったんですよ。配達中のバイクを転倒させて、いつも主人公のひろしにすしを食われちゃうおっちょこちょいなんだけど、情に厚くて、空手が強くて、男として粋に感じてた。食べることも好きでしたから、将来はすし屋の板前ってものいいなあと。小学校の卒業文集には、「すし屋の板前になりたい」って書いていましたね。まだプロ野球選手になる夢は捨ててはいませんでしたが。


<井戸 実をつくったルーツ.2>
母の貴重なアドバイスを受け入れ、モラトリアムな高校3年間を過ごす

 中学では野球部に入部しました。ポジションはピッチャーです。もちろん頑張ったんですが、県大会には出られなかった。多摩区の地区大会で優勝できないんですよ。他チームと戦うことで、自分たちのレベルってイヤでもわかるでしょう。そんなこともあって中学2年の頃には、プロ野球選手になるという夢は断念していました。なんでも一番になれないなら意味がないと思っていたんです。運動会の種目でも短距離とか一番になれる種目を選んでいましたね。ケンカもよくしましたが、負けるケンカはしない主義でしたし(笑)。プロ野球選手になるという夢のベクトルは、自然とすし屋の板前に方向転換していきました。

 忘れもしないあれも中学2年。よみうりランド駅前の某大手居酒屋チェーンに友人たちと飲みに行ったんです(笑)。一所懸命、大人に見えるように変装して。やればやるほど未成年に見えちゃうんですが(笑)。でも、居酒屋って、たくさんのメニューがあって楽しいですよね。で、その時に“いくら丼”をオーダーして食べたんです。この時、生まれて初めて世の中にこんなに美味いものが存在していることを知りました。食べ物で感動させる仕事ってやっぱりいいなあと。中学を出たらすぐに丁稚奉公に出ようと決めたんです。

 そう決めたことは決めたのですが、中3の進路を決める時期に母から言われました。「まだまだこれからの人生は長いのだからそんなに焦らなくてもいい。高校の3年間、ゆっくり遊んでから考えればいいじゃない」と。そんなこという母親も珍しいと思いますが、まあそれもそうかと。ただ、まったく勉強してこなかったですから、さてどうしようかと。で、結局、つるんでいた友人に誘われて、川崎市の中でも最高に偏差値の低い工業高校を受験することになるんです。当然、合格しました(笑)。でも今思えば、母のアドバイスを聞いておいて本当に良かったと思っています。

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