【第三国人軍】に立ち向かった【山口組自衛隊】のはなし。
【ヤクザと日本人・宮崎学・ちくま新書・702】2008,1,10第一刷発行、を紹介したい。
帯には、佐藤優氏推薦、【ヤクザの論理を知れば、今の日本が見えてくる】とあります。
この内容を紹介する前に。
【山口組三代目・田岡一雄自伝・徳間文庫423~3】に記載されている関係年表で、神戸市の敗戦時の状況を知っていただきたい。
P.181(年表).
昭和20年
田岡一雄小史
空襲激しく妻子を疎開させる。
戦災にあう(3,17)
賭場で玉音放送を聞く=終戦=
一部不良台湾人や朝鮮人との抗争相継ぐ。
自警団を結成、新開地より一部不良台湾人や朝鮮人を放逐。
山口組動向
6月空襲で古川松太郎死亡。
一部不良台湾人や朝鮮人の放逐。
世相史
20.8.15 終戦
20.9.25 米軍第6軍 33師団 1万7000人が神戸進駐。
一部不良台湾人や朝鮮人の暴行事件相次ぐ。
21.2月 神戸・生田署の岡巡査、一部不良台湾人や朝鮮人に拉致され殺害される。
21.4月 須磨署佐藤巡査射殺される。
21.7月 新橋・松田組と一部不良台湾人と朝鮮人との抗争。
以上の予備知識を前提に。
【ヤクザと日本人・宮崎学】の一部を紹介する。
P.240
第七章 山口組概略史
…近代ヤクザとは何だったのか(略)
…初代山口組と港湾労働(略)
…組織の質的変化と"代変わり"(略)
…闇市自衛隊からの再出発。
山口組二代目・山口昇は廣澤虎造の映画出演をめぐる吉本興業と籠寅組とのトラブルの調停の過程で斬られ、やがて1942年(昭和17年)に亡くなってからは、戦争の進展にともなう統制もあって山口組は逼塞していた。
そして戦後、山口組は田岡一雄のもとに蘇った。その蘇りをもたらしたのは、敗戦直後の闇市解放区において、当時「第三国人」と呼ばれた在日コリアン・台湾省民との熾烈な闘争であった。
「戦勝国民」として我が物顔にふるまう「第三国人」に対し、敗戦によって意気阻喪し武装を制限された警察は、全く対応できなかった。
警察に代わって対決したのは、山口組を始めとするヤクザだったのだ。特に山口組の戦闘ぶりはすさまじかった。
1946年2月、三ノ宮駅東側の市有地を占拠した台湾省民にたいし、拳銃・日本刀・鳶口・手榴弾で武装した山口組は、神戸市のマーク入りの公用トラック二台で突入、建築中の建物を掛矢でぶちこわして逆占拠した。
さらに、「第三国人」武装集団が警察署襲撃を計画しているという情報が入ると、山口組自警団が警察周辺に配備された。
このときの迎撃作戦はこうだ。
「全署員は……ただちに裏口より避難し、あとは山口組組員が迎撃にあたり、同署の屋上から数本のドラム缶に重油をいっぱいに詰め、これを落下させるとともに、さらに手榴弾三箱、約四十個を投下し、彼らを大量に殺傷させ、相手がひるむすきに、山口組抜刀隊による決死隊が日本刀や拳銃を持って殴りこむ……」(佐々木道雄「かくされた真実」、「田岡一雄自伝】電撃編より重引)
警察が機能しなくなっていたとき、彼らヤクザこそが街の保安官、闇市自衛隊として、勝ち誇る「第三国人」武装集団と命を張って対決したわけである。
こうした姿は神戸市民の喝采を浴び、英雄としての山口組は長く神戸市民の心の中に刻印されていたのである。
だから、1966年(昭和41年)に山口組壊滅作戦が発動したとき、兵庫県警は次の点を踏まえて当たらねばならなかった。
兵庫県警の文書【山口組壊滅史」は次のように書いている。
「第三国人の集団に対する日本人暴力団の闘争が、「大和魂の発露」「男の中の男」として一部の市民から英雄視され、心から拍手を浴びた」
「この一部暴力団に対する一部市民の歓呼が、戦後20数年を経た今日にあっても、『戦後のわたしらの命がけの働きを忘れたのか、市民のためにつくしたわしらの苦労を忘れるな』と彼らに叫ばせる」
このようにして山口組は神戸市民に受け入れられた。だから、1959年(昭和34年)に組長の田岡一雄が神戸水上署の一日署長を務めたのも不思議ではなかったのだ。
それが、いまは暴力団対策法によって、組員になるだけで処罰できるようにしようというのだから、恩を忘れたのか、と言いたくなる気持ちはわかる。
(以下省略)
敗戦後の混乱の中で【第三国人】が、【何をしたか】の事例の一つである。
一読を推奨したい。
by 九煙洞老人
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