先週はバルセロナでモバイル通信関連のコンベンションがあり、過去最高の6万人が参加して大いに賑わった。モバイル通信は今や完全に「種々の高機能端末をクラウドにつなぐ為の必需品」と考えられるに至っており、この目的をより快適に実現する為に、種々の新技術が開発されている状況が実感出来た。
私は、最初の二日間は業界団体であるGSMAの諸会議に集中、後の四日間には色々なミーティングがぎっしりで、その中で延200人以上の人達と会った事になるが、大変充実した時間だった。しかし、残念だったのは、Twitterの出番が殆んどなかった事だ。それには理由がある。
本来なら、どんな忙しいスケジュールの中でも、Tweetするタイミングは日に2-3回は必ずある。興味ある情報を耳にしたり、何かを強く感じたりする事があれば、私をフォローしてくれている人達とそれを分かち合うのが、何となく楽しいし、意義深く感じられる一刻だ。
しかし、今回は何となくその気になれなかった。Twitterを開けば、私を攻撃したり、嘲笑、罵倒したりしている書き込みが嫌でも目に入るので、それが不愉快だったからだ。気晴らしに行きつけのパブに立ち寄ろうかと思いついても、その辺りに屯している悪ガキに絡まれそうなのが億劫になって、行くのを止めるのに似ていた。
そもそもの経緯は簡単な事だ。少し前にある人から「フェムト(超小型)基地局には、周辺の電波との干渉の心配がないか」と問われたので、相当時間をかけて社内の色々な人達に確かめた上で、「大丈夫」と答えていたのだが、これに対し、常日頃からソフトバンクを目の敵にして色々絡んでくる某氏から「おい松本、...この様にフェムトには問題がある...。無責任な事を言うな」というTweetがあったのが発端だった。
普通ならこの手のTweetは黙殺するのだが、「困っている顧客を救う為の応急措置が仇になって、周辺の電波状況が悪くなることはないか」を常にチェックしておく事は、私にとっても重要な技術上の課題だったから、「おい松本」という失礼極まる「呼び捨て」はまあ良いとしても、「無責任」と言われては放っておけなかった。
某氏が参照していたある利用者のオリジナルな書き込みを見ると、「フェムト」の文字は何処にもなく、「ホームアンテナ」という言葉があるだけだった。「ホームアンテナ」というものは、もともとソフトバンクが屋内に届かない電波を増幅する為に無償配布していたレピーターの呼び名で、本質的に「フェムト」とは何の関係もないものだったから、私はあまり深く考えずにこの事を指摘し、「悪口をいう時には事実関係をよく確かめてからにして欲しい」と苦言を呈した。
もう少しよく前後の文章を読んでから答えればよかったのだが、電車の駅でTwitterをチェックしていた時のことでもあったし、この某氏については、「ひたすらソフトバンクの悪口を広めるのに熱心で、初めから是々非々の議論をするつもりは全くない人物」という認識があったので、若干切り捨てるような返答となった。(尤も、後で読み返してみても、そんなに強い言葉は使っていないのだが…。)
ところが、数日後になって、ある人から指摘を受け、ソフトバンクの営業部が、電波問題を抱えた各家庭の一部に無償で配布する事を決めていた「フェムト」基地局に、「ホームアンテナFT」という愛称をつけていた事を思い出した。「『フェムト』と言っても一般の人には何の事だか分からないから、『これまでのホームアンテナと同じ効果をもたらす』という意味で、『ホームアンテナ』という呼び名を流用しよう」という営業部門のアイデアには、それなりに意味はあるように思えたので、私もその時には特に反対しなかったのだ。
しかし、私は当初この事には考えが回らず、「ホームアンテナ」という言葉だけに早とちりで反応してしまったのだから、これは完全に私の失策だ。という事は、少なくとも当初の段階では、事実関係を正しく把握出来ていなかったのは私の方であり、これについては非を認めて陳謝しなければならないという事になる。
従って、私はこの事については「謹んでお詫び」申し上げたが、だからと言って、この某氏の日常のブログやTwitterを評価し直す気には全くならないので、その事も率直に申し上げた。(これに対しては、「大人の対応」として評価してくれる人達がいる一方で、「それでは謝った事にはなっていない」と非難する人達も何人かいた。)
結局、この某氏は、その辺りの事を自分自身の解釈に基づいてブログに書き、その中の「間違った知識を披露した挙句、『知識がない』と人を罵倒するソフトバンクの副社長」という言葉が、繰り返し執拗に私のTwitterのメンションに現れるという事態が生じたという訳だ。
勿論「間違った知識を披露した」という私への非難は全く当たっていない。「フェムトは干渉を起こさない様なやり方で設置しているから、心配は要らない(特殊なケースで万一問題を生じたら、個別に解決すればよい)」というのも、「『既存のホームアンテナ』と『フェムト』は、本来全く異なったものである」というのも、紛れもない事実だからだ。(要するに、私の犯した誤りは、家庭用に配布している「フェムトの愛称」のことを忘れて、しばらくの間事実誤認をしていたという事だけだ。)
しかし、こう言ってこの某氏のブログ記事に反論したら、某氏の思う壷にはまることになるから、多くの人達のアドバイスに従って、私はひたすら沈黙を守っている。(とにかくこういう人達は、自分のサイトにある事ない事センセーショナルに書きたてて、出来ればそこに議論を呼び込んで「祭り」状態を作り出したいようだ。若干でも社会的に名の知られた個人を標的に出来れば、効果は抜群だと思ってもいるだろう。)
さて、つまらない事を長々と書いてしまったが、私が書きたかったのは「Twitterの2チャンネル化の防止」についてである。Twitterが「便所の落書き」のようになれば、その為にTwitterを忌避する人達も多くなるだろうからだ。
昨年の12月27日の「Twitterの潜在力」と題する私のブログにも書いた通り、私はTwitterの潜在力の大きさと、それがもたらす価値を高く評価している。中近東における長期独裁政権の崩壊においても、TwitterはFacebookと並んで大きな力を発揮した様だし、先週には、中国で、「誘拐された3歳の男児が、ミニブログ(Twitterの中国版とも言うべきもの)の力で救済された」というニュースが報じられている。
私の友人の中には、「カッとし易い私の性格では、今回の様なリスクが常についてまわるから、Twitterから足を洗った方がよいのでは」と忠告してくれる人もいるが、「不特定多数の人達の参画を歓迎する私的なパーティー」としてのTwitterの価値を高く評価している私として、それはあまりに残念なので、今後はやり方を少し変える事によって対処したいと思っている。
「匿名の人達が実名の人を非難する」事には、或る程度の「不公正さ」が常について回るが、私はその事は特に問題にするつもりはない。匿名の人達が「直接は耳に入ってこない自分の会社の問題点」などを指摘してくれるのは、大いに歓迎するところだからだ。
一方、「非難の為の非難に終始する悪口マニ的な人」や、「人間としての最低限の礼儀をわきまえていない人」については、遠慮なくブロックすればよいのだから、それも問題にはならない。私の悪口を言いたい人は、どうせ方々で悪口は言うだろうが、「心の安らぎ」と「緊張感」が絶妙に交錯する、私の「私的なパーティー」を汚染しない限りは、私としては別に構わない。
但し、問題は「会社の仕事」との関係だ。
実名で出ている私が「会社の問題」に巻き込まれるのは止むを得ないので、これまでの私は、それを出来る限り誠実にこなそうとしてきた。特に、「格好のよい事や都合のよい事はどんどん宣伝するのに、都合の悪い事については完全に口を噤むのは卑怯だ」と言われれば、「それはそうだ」と思い、極力誠実に対応する様に努力してきた。「万事慎重に」をモットーとする「会社の広報部」の対応を超える「生身の人間としてのコメント」を出す事も、会社とユーザーの間を近づける事になるので、私は良い事だと考えてきた。
しかし、そういう努力は、ちゃんとその意義を理解してくれる人達が相手でなければ報われない。「言葉尻をつかまえて難癖をつける」事だけを考えている人達が相手だと、どんな努力をしても無駄だし、私自身の時間の負担もあまりに大きくなる。残念ながら、現状がそうなっている限りは、私もとしても、「理想の追求」はこの際断念する事にせざるを得ない。
従って、私は、今後はこれまでの方針を転換して、「会社の問題」には一切答えず、受信したクレームや質問は全てを担当部署に転送し、その対応も全て各部署に任す事にする。
どんな会社でも完全で非の打ち所がないという訳には行かない。つつかれれば痛いところは必ずある。会社としても、そのままでよいと思っているわけでは決してないが、改善には時間がかかるという事は数多くある。
こういう事については、勿論会社としては迂闊には答えられない。下手に中間的な状況を説明しようとすれば、誤解や反発を生むリスクが高いからだ。担当部署や広報部の立場になれば特にそうなるだろう。
しかし、「答えがない」という事は「無視した」という事では決してない。「問題を指摘しくれた人や、率直に怒りを表現してくれた人達の時間は、決して無にしない」という事だけは、私も経営者の端くれとして、確約するに吝かではない。
それにしても、ネットの世界には、「とにかく人の悪口をいうのが生き甲斐」というような人が多いのは、一体どうしてなのだろうか? 本来、「人の悪口をいう事」は、全く非生産的な事だ。悪口は「売り言葉に買い言葉」の連鎖を生み出すだけで、そこからは何も生まれないからだ。
今の時点でネットに深く関与している若い人達は、時代に対応出来ている人達で、間違いなくこれからの日本を背負って立つ人達だ。そういう人達は、少し努力するだけで、驚く程の知識を得る事が出来るし、色々な考え方に接してそのそれぞれの是非を考え、建設的な議論に参加していく事が出来る。しかも、議論の進展のスピードや広がりは半端ではない。彼等はみんな、ネットがなかった時代には考えも出来なかったような「素晴らしい状況」の中にいるのだ。
それなのに、そのような人達が、真偽も定かではない十数行の記事に煽られて、付和雷同して人の悪口を言う事だけを楽しんでいるようでは、大変残念だと思わざるを得ない。何故もっと深く考え、建設的なことをしようと試みないのだろうか?
批判や難詰も、政治家や官僚、名の知れた会社や企業人を対象とする場合はまだよい。もしかしたら、それが改革に結びつくこともあるかもしれないからだ。また、少なくとも、それが日頃の鬱屈を発散させる効果がある事は認める。しかし、一般の人達を悪口雑言の対象にするのは許せない。間違った考えを正すのはよいが、寄ってたかって、一人の人間を嘲笑したり、罵倒したりするような事は、子供達のイジメと何ら変わる事のない、実に恥ずべき所業だ。
極端な礼儀の欠如も問題だ。礼儀というものは堅苦しいものではなく、要するに「相手の立場を尊重する姿勢」だ。Tシャツにジーンズで偉い人に会ってもよいし、言葉遣いが粗雑でもよい。真の礼節は「心の中」にある。だから、面と向って話す場合でも、ネットの上でのやり取りでも、全く同じであって然るべきものなのだ。
私は、若い頃(ちょうど「三丁目の夕日」の時代になるが)、街の空手道場に通っていた。血気の多い若者達が集まってきていたが、道場主の決まり文句は「空手は礼に始まり、礼に終わる」という事だった。私は当初は「何を古めかしい事を」と思っていたが、そのうちにこの事の意味がよく分かるようになった。この言葉があったからこそ、この街道場は無法者の溜まり場になる事がなかったのだ。考えてみると、ネットの世界もそうあるべきだ。
世の中には理不尽な人も多いから、望ましくない事ではあるが、空手の有段者にとっても、ストリートファイトが避けられない場合もある。そういう場合は、攻撃されれば躊躇せず反撃するしかない。しかし、血の気が多かった私も、会社に入って暫くしてからは、「例えこちらに理があっても、障害事件になれば会社に迷惑がかかる」と考えて、どんな時でもおとなしく目を伏せている事にした。暫くはそれがひどい苦痛だったが、慣れると段々平気になった。(そのうちに歳をとって自分の戦闘力に自信がなくなると、すっかりそれが普通になった。)
しかし、「議論」は体力とはあまり関係がないので、私の闘争本能はなお衰えてはない。「議論」にも礼節は勿論必要だが、「事実」と「論理」に基づいて相手をねじ伏せる事に遠慮は要らない。
但し、ここにも「仕事上の立場」という縛りはある。だから、「何事もお客様第一」、「国家権力との折り合いも必要」という原則を守らなければならない現在の立場は、私としては、率直に言うと大変窮屈なものだ。(「今年の6月には少なくとも副社長のタイトルは返上する」という事については、既に会社側の了解も得ているので、その後は少し気楽になるだろうが…。)
さて、今回はアゴラにはふさわしくない、私的で感傷的な記事になってしまったが、最後に一言だけ現実的な提言をしたい。
かつて、携帯電話の学校への持込を規制すべきと主張した人達は、「近頃の若者はメールばかりやっている。直接相手の目を見て話す経験を積まなければ、歪んだ人間になってしまう」という事をその論点の一つとした。それは一面では正しいが、一面では間違っている。
本当は、これからの若者達は、「直接話す方法」と「メールなどでコミュニケートする方法」の両方を学ばなければならないのだ。前者については色々と指導するが、後者については「無法地帯」を容認するというのでは、「教育責任の放棄」と言われても仕方ない。
「パソコン(或いは携帯端末)の扱い方」と、「ネット社会への対応の仕方」については、中学から正式に教科に取り入れ、若い人達も巻き込んで大いにディスカッションをしていくべきだ。特に後者は重要であり、「プライバシーの侵害」「名誉の毀損」「風説の流布」などが全て犯罪である事を、何故それが犯罪になるのかという理由と共に、きっちりと教え込んでいくべきだ。
本来なら、どんな忙しいスケジュールの中でも、Tweetするタイミングは日に2-3回は必ずある。興味ある情報を耳にしたり、何かを強く感じたりする事があれば、私をフォローしてくれている人達とそれを分かち合うのが、何となく楽しいし、意義深く感じられる一刻だ。
しかし、今回は何となくその気になれなかった。Twitterを開けば、私を攻撃したり、嘲笑、罵倒したりしている書き込みが嫌でも目に入るので、それが不愉快だったからだ。気晴らしに行きつけのパブに立ち寄ろうかと思いついても、その辺りに屯している悪ガキに絡まれそうなのが億劫になって、行くのを止めるのに似ていた。
そもそもの経緯は簡単な事だ。少し前にある人から「フェムト(超小型)基地局には、周辺の電波との干渉の心配がないか」と問われたので、相当時間をかけて社内の色々な人達に確かめた上で、「大丈夫」と答えていたのだが、これに対し、常日頃からソフトバンクを目の敵にして色々絡んでくる某氏から「おい松本、...この様にフェムトには問題がある...。無責任な事を言うな」というTweetがあったのが発端だった。
普通ならこの手のTweetは黙殺するのだが、「困っている顧客を救う為の応急措置が仇になって、周辺の電波状況が悪くなることはないか」を常にチェックしておく事は、私にとっても重要な技術上の課題だったから、「おい松本」という失礼極まる「呼び捨て」はまあ良いとしても、「無責任」と言われては放っておけなかった。
某氏が参照していたある利用者のオリジナルな書き込みを見ると、「フェムト」の文字は何処にもなく、「ホームアンテナ」という言葉があるだけだった。「ホームアンテナ」というものは、もともとソフトバンクが屋内に届かない電波を増幅する為に無償配布していたレピーターの呼び名で、本質的に「フェムト」とは何の関係もないものだったから、私はあまり深く考えずにこの事を指摘し、「悪口をいう時には事実関係をよく確かめてからにして欲しい」と苦言を呈した。
もう少しよく前後の文章を読んでから答えればよかったのだが、電車の駅でTwitterをチェックしていた時のことでもあったし、この某氏については、「ひたすらソフトバンクの悪口を広めるのに熱心で、初めから是々非々の議論をするつもりは全くない人物」という認識があったので、若干切り捨てるような返答となった。(尤も、後で読み返してみても、そんなに強い言葉は使っていないのだが…。)
ところが、数日後になって、ある人から指摘を受け、ソフトバンクの営業部が、電波問題を抱えた各家庭の一部に無償で配布する事を決めていた「フェムト」基地局に、「ホームアンテナFT」という愛称をつけていた事を思い出した。「『フェムト』と言っても一般の人には何の事だか分からないから、『これまでのホームアンテナと同じ効果をもたらす』という意味で、『ホームアンテナ』という呼び名を流用しよう」という営業部門のアイデアには、それなりに意味はあるように思えたので、私もその時には特に反対しなかったのだ。
しかし、私は当初この事には考えが回らず、「ホームアンテナ」という言葉だけに早とちりで反応してしまったのだから、これは完全に私の失策だ。という事は、少なくとも当初の段階では、事実関係を正しく把握出来ていなかったのは私の方であり、これについては非を認めて陳謝しなければならないという事になる。
従って、私はこの事については「謹んでお詫び」申し上げたが、だからと言って、この某氏の日常のブログやTwitterを評価し直す気には全くならないので、その事も率直に申し上げた。(これに対しては、「大人の対応」として評価してくれる人達がいる一方で、「それでは謝った事にはなっていない」と非難する人達も何人かいた。)
結局、この某氏は、その辺りの事を自分自身の解釈に基づいてブログに書き、その中の「間違った知識を披露した挙句、『知識がない』と人を罵倒するソフトバンクの副社長」という言葉が、繰り返し執拗に私のTwitterのメンションに現れるという事態が生じたという訳だ。
勿論「間違った知識を披露した」という私への非難は全く当たっていない。「フェムトは干渉を起こさない様なやり方で設置しているから、心配は要らない(特殊なケースで万一問題を生じたら、個別に解決すればよい)」というのも、「『既存のホームアンテナ』と『フェムト』は、本来全く異なったものである」というのも、紛れもない事実だからだ。(要するに、私の犯した誤りは、家庭用に配布している「フェムトの愛称」のことを忘れて、しばらくの間事実誤認をしていたという事だけだ。)
しかし、こう言ってこの某氏のブログ記事に反論したら、某氏の思う壷にはまることになるから、多くの人達のアドバイスに従って、私はひたすら沈黙を守っている。(とにかくこういう人達は、自分のサイトにある事ない事センセーショナルに書きたてて、出来ればそこに議論を呼び込んで「祭り」状態を作り出したいようだ。若干でも社会的に名の知られた個人を標的に出来れば、効果は抜群だと思ってもいるだろう。)
さて、つまらない事を長々と書いてしまったが、私が書きたかったのは「Twitterの2チャンネル化の防止」についてである。Twitterが「便所の落書き」のようになれば、その為にTwitterを忌避する人達も多くなるだろうからだ。
昨年の12月27日の「Twitterの潜在力」と題する私のブログにも書いた通り、私はTwitterの潜在力の大きさと、それがもたらす価値を高く評価している。中近東における長期独裁政権の崩壊においても、TwitterはFacebookと並んで大きな力を発揮した様だし、先週には、中国で、「誘拐された3歳の男児が、ミニブログ(Twitterの中国版とも言うべきもの)の力で救済された」というニュースが報じられている。
私の友人の中には、「カッとし易い私の性格では、今回の様なリスクが常についてまわるから、Twitterから足を洗った方がよいのでは」と忠告してくれる人もいるが、「不特定多数の人達の参画を歓迎する私的なパーティー」としてのTwitterの価値を高く評価している私として、それはあまりに残念なので、今後はやり方を少し変える事によって対処したいと思っている。
「匿名の人達が実名の人を非難する」事には、或る程度の「不公正さ」が常について回るが、私はその事は特に問題にするつもりはない。匿名の人達が「直接は耳に入ってこない自分の会社の問題点」などを指摘してくれるのは、大いに歓迎するところだからだ。
一方、「非難の為の非難に終始する悪口マニ的な人」や、「人間としての最低限の礼儀をわきまえていない人」については、遠慮なくブロックすればよいのだから、それも問題にはならない。私の悪口を言いたい人は、どうせ方々で悪口は言うだろうが、「心の安らぎ」と「緊張感」が絶妙に交錯する、私の「私的なパーティー」を汚染しない限りは、私としては別に構わない。
但し、問題は「会社の仕事」との関係だ。
実名で出ている私が「会社の問題」に巻き込まれるのは止むを得ないので、これまでの私は、それを出来る限り誠実にこなそうとしてきた。特に、「格好のよい事や都合のよい事はどんどん宣伝するのに、都合の悪い事については完全に口を噤むのは卑怯だ」と言われれば、「それはそうだ」と思い、極力誠実に対応する様に努力してきた。「万事慎重に」をモットーとする「会社の広報部」の対応を超える「生身の人間としてのコメント」を出す事も、会社とユーザーの間を近づける事になるので、私は良い事だと考えてきた。
しかし、そういう努力は、ちゃんとその意義を理解してくれる人達が相手でなければ報われない。「言葉尻をつかまえて難癖をつける」事だけを考えている人達が相手だと、どんな努力をしても無駄だし、私自身の時間の負担もあまりに大きくなる。残念ながら、現状がそうなっている限りは、私もとしても、「理想の追求」はこの際断念する事にせざるを得ない。
従って、私は、今後はこれまでの方針を転換して、「会社の問題」には一切答えず、受信したクレームや質問は全てを担当部署に転送し、その対応も全て各部署に任す事にする。
どんな会社でも完全で非の打ち所がないという訳には行かない。つつかれれば痛いところは必ずある。会社としても、そのままでよいと思っているわけでは決してないが、改善には時間がかかるという事は数多くある。
こういう事については、勿論会社としては迂闊には答えられない。下手に中間的な状況を説明しようとすれば、誤解や反発を生むリスクが高いからだ。担当部署や広報部の立場になれば特にそうなるだろう。
しかし、「答えがない」という事は「無視した」という事では決してない。「問題を指摘しくれた人や、率直に怒りを表現してくれた人達の時間は、決して無にしない」という事だけは、私も経営者の端くれとして、確約するに吝かではない。
それにしても、ネットの世界には、「とにかく人の悪口をいうのが生き甲斐」というような人が多いのは、一体どうしてなのだろうか? 本来、「人の悪口をいう事」は、全く非生産的な事だ。悪口は「売り言葉に買い言葉」の連鎖を生み出すだけで、そこからは何も生まれないからだ。
今の時点でネットに深く関与している若い人達は、時代に対応出来ている人達で、間違いなくこれからの日本を背負って立つ人達だ。そういう人達は、少し努力するだけで、驚く程の知識を得る事が出来るし、色々な考え方に接してそのそれぞれの是非を考え、建設的な議論に参加していく事が出来る。しかも、議論の進展のスピードや広がりは半端ではない。彼等はみんな、ネットがなかった時代には考えも出来なかったような「素晴らしい状況」の中にいるのだ。
それなのに、そのような人達が、真偽も定かではない十数行の記事に煽られて、付和雷同して人の悪口を言う事だけを楽しんでいるようでは、大変残念だと思わざるを得ない。何故もっと深く考え、建設的なことをしようと試みないのだろうか?
批判や難詰も、政治家や官僚、名の知れた会社や企業人を対象とする場合はまだよい。もしかしたら、それが改革に結びつくこともあるかもしれないからだ。また、少なくとも、それが日頃の鬱屈を発散させる効果がある事は認める。しかし、一般の人達を悪口雑言の対象にするのは許せない。間違った考えを正すのはよいが、寄ってたかって、一人の人間を嘲笑したり、罵倒したりするような事は、子供達のイジメと何ら変わる事のない、実に恥ずべき所業だ。
極端な礼儀の欠如も問題だ。礼儀というものは堅苦しいものではなく、要するに「相手の立場を尊重する姿勢」だ。Tシャツにジーンズで偉い人に会ってもよいし、言葉遣いが粗雑でもよい。真の礼節は「心の中」にある。だから、面と向って話す場合でも、ネットの上でのやり取りでも、全く同じであって然るべきものなのだ。
私は、若い頃(ちょうど「三丁目の夕日」の時代になるが)、街の空手道場に通っていた。血気の多い若者達が集まってきていたが、道場主の決まり文句は「空手は礼に始まり、礼に終わる」という事だった。私は当初は「何を古めかしい事を」と思っていたが、そのうちにこの事の意味がよく分かるようになった。この言葉があったからこそ、この街道場は無法者の溜まり場になる事がなかったのだ。考えてみると、ネットの世界もそうあるべきだ。
世の中には理不尽な人も多いから、望ましくない事ではあるが、空手の有段者にとっても、ストリートファイトが避けられない場合もある。そういう場合は、攻撃されれば躊躇せず反撃するしかない。しかし、血の気が多かった私も、会社に入って暫くしてからは、「例えこちらに理があっても、障害事件になれば会社に迷惑がかかる」と考えて、どんな時でもおとなしく目を伏せている事にした。暫くはそれがひどい苦痛だったが、慣れると段々平気になった。(そのうちに歳をとって自分の戦闘力に自信がなくなると、すっかりそれが普通になった。)
しかし、「議論」は体力とはあまり関係がないので、私の闘争本能はなお衰えてはない。「議論」にも礼節は勿論必要だが、「事実」と「論理」に基づいて相手をねじ伏せる事に遠慮は要らない。
但し、ここにも「仕事上の立場」という縛りはある。だから、「何事もお客様第一」、「国家権力との折り合いも必要」という原則を守らなければならない現在の立場は、私としては、率直に言うと大変窮屈なものだ。(「今年の6月には少なくとも副社長のタイトルは返上する」という事については、既に会社側の了解も得ているので、その後は少し気楽になるだろうが…。)
さて、今回はアゴラにはふさわしくない、私的で感傷的な記事になってしまったが、最後に一言だけ現実的な提言をしたい。
かつて、携帯電話の学校への持込を規制すべきと主張した人達は、「近頃の若者はメールばかりやっている。直接相手の目を見て話す経験を積まなければ、歪んだ人間になってしまう」という事をその論点の一つとした。それは一面では正しいが、一面では間違っている。
本当は、これからの若者達は、「直接話す方法」と「メールなどでコミュニケートする方法」の両方を学ばなければならないのだ。前者については色々と指導するが、後者については「無法地帯」を容認するというのでは、「教育責任の放棄」と言われても仕方ない。
「パソコン(或いは携帯端末)の扱い方」と、「ネット社会への対応の仕方」については、中学から正式に教科に取り入れ、若い人達も巻き込んで大いにディスカッションをしていくべきだ。特に後者は重要であり、「プライバシーの侵害」「名誉の毀損」「風説の流布」などが全て犯罪である事を、何故それが犯罪になるのかという理由と共に、きっちりと教え込んでいくべきだ。
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