京都・河村織物株式会社
中国への挑戦
西陣・河村織物株式会社
中国への挑戦





弊社製品は中国手織工房で生産しております

製品の一部は西陣地域でも生産しております

一切の偽造生産は致しておりません

より良い手織製品をつくるため
        日々の努力と指導を行っております







中国への憧れ!



1974年、私は中国明つづれ帯というものを初めて見ました。その時の感動は身震いするような激震が体中を走ったのを覚えています。以後、どうにかして明つづれ帯を作りたく現状などの調査をしました。
中国 江蘇省 蘇州近郊 東山地域で織られている事がわかりました。生産量も少なく西陣からは三社が契約をしていました。坂下織物、いづくら織物、二宮織物です。
色々な商社に打診しましたが 明つづれを一括管理している南京シルク公司の許可を得る事が出来ませんでした。そのような中、坂下織物の社長と個人的にお話する機会が多くなり、その都度 明つづれの素晴らしさを伝えてきました。
その後、坂下織物の枠を貰えることになり、1975年より明つづれ帯の生産・発注にかかりました。
坂下織物は香港の亜東有限公司という商社を通じ業務を行っていました。
当社の明つづれ製作の特長は、一柄一本の最高級志向を打ち出した事です。他社は一柄平均4.5本以上の製造をしておりましたから 得意先からの驚きと暖かいご支援を強く頂けたものと思っております。
その後、1988年まで順調な生産を行って参りました。

1978年、丸居(室町問屋)の指導のもと 刺繍帯の製作にかかりました。
平刺繍を主に相良刺繍、金駒刺繍を製作致しました。同時にスワトーのハンカチからヒントを得、スワトー帯の試作にかかります。最初の試作品は上海シルク公司に依頼し、10本の試作商品が出来上がりました。以後、色々試作・研究を重ね 今日のスワトーを完成しました。

1982年、丸居の依頼により 上海での帯博覧会を開催致しました。
日本からは、岡山高島屋のお客様が20名程参加頂きました。以後十数年に渡り、上海・蘇州・杭州・南京・北京などで20数回の展示会を開催しました。
延べ参加人員は二千名を越す大イベントになりました。(中国旅行のブームが追い風となる)

1987年より呉県・東山に手織工場の建設に着手する。
中国に西陣の手織技術の移転を思考した理由としましては、当時、西陣地区に100台の手織機を所有しておりました。しかし、職人の平均年齢が60歳に近く将来に向けての職人確保の不安がありました。
当初5台の機屋を設置し、指導して行きました。一年後、ダイレクトジャガード付きの機屋を16台設置し 将来に向けての準備が整いました。しかし、東芝ココム違反が問題になり 以後二年間ダイレクトジャガードの輸出が禁止されました。通産省の指導のもと何度も東京通産省に通い、二年後に許可が下りました。

1988年より本格的に増機を行い、2005年には100台の手織機の設置が完了しました。
また、2004年10月に新工場が完成しました。

その他の中国工場の設備
      撚糸・整経・染色(糸染め)の設備。 図案・紋図の製作。

中国工場は一環生産可能な工場を目指しております。
今日までの成功の功は当社社員にあり、担当者の長期出張、滞在が職人の育成に大きく貢献しました。
また、中国人管理者の理解・協力があってこそ、このプロジェクトが成功したものと感謝に耐えません。


理念

  人のマネをしない    独自性

  じっくり時間をかける  長期展望

  良い物をつくる     信用





北朝鮮への開拓

  平成七年に北朝鮮での和装進出を知る。日商岩井や在日朝鮮系の商社により進出している情報を得る。

主にキモノの刺繍や帯締めが発注・製造されていました。帯の製造はされておらず新しい工場開拓に着目しまし

た。しかし、北朝鮮との接点がなく 情報も乏しく苦よいたしました。唯一国会議員先生の紹介で京都北朝鮮商工

会の会長を紹介していただきました。残念ながら会長には中々理解をしていただけませんでした。

数回会う内に少しづつご理解いただき 次に朝鮮総連の幹部を紹介して頂きました。

京都総連本部には会長も同行頂き 委員長・副委員長を紹介していただきました。

細部に渡り説明し 今後の計画や要望を伝えました。これで新しい道が出来たと安堵いたしました。

しかし、以後二年間何の連絡もなく諦めかけておりました。

平成九年夏に権さんと言う北朝鮮帰国者の兄弟と称する方が突然会社に来られました。

権さんの弟さんが帰国され その方のご子息が刺繍をしているとのことレベルが低いこと等などお話を聞きました

早々に訪朝の依頼がありました。私が入院中のため若田社長が訪朝することになりました。

12月に北京経由で平譲へ向かい視察を行いました。特殊な国のため 色々心配はしておりました。

帰国一声は 真面目で今後教えがいがあるとの報告でした。以後早急に製造体系の準備を致しました。

中国刺繍製品以上のモノをつくること。本つづれ技術を教え習得させること。この二点が目標になりました。

以後今日まで 最高度の刺繍製品・極細かい本つづれ帯の製品の完成に至りました。

年に五回 延べ80日以上の訪朝を行い指導・管理をしております。

技術指導・管理など全て 若田社長が担当しております。



    追加 

  生産体系に入ってからは新聞・テレビに公表しました

         テレビ  朝日放送  久米ひろしさんのニュースセンター
               近畿放送 
         新聞   京都新聞    朝日新聞等など

         訪朝団  平成15年までに業界関係者・代議士など三回案内しました


北朝鮮刺繍工房は

  2007年秋より政治的理由により閉鎖しました




何故 海外生産を批判するの


西陣の現状や将来を理解せずにただ反対 何故なの
伝統工芸とは必要とされたきたものを継続し守り通してきたものです
現在 日本社会ではキモノの必要性は年々減少しています
その減少たるものは想像を絶する数値です
ただ 守れ・守れは言葉だけで何の意味もありません
現状を分析すれば需要が減る限り生産量・生産者を減らすしか方法はないのです
それを無理すれば共倒れを引き落とし取り返しのつかない事になるのです
もう一つは需要を増やすことです。ただ色々試みても成功していません

西陣の技術は特別なものです
各分野の職種や職人によって生産が可能になるシステムです
図案を描く人 紋を作る人 金銀糸を作る人 箔を作る人
織機の部品をつくる 織るための道具は数知れずあります
また色々な材料や消耗品などは西陣内でしか調達できません
海外での生産であろうとも上記のものは海外では調達できません
海外生産も西陣の下支えする人たちを守っていることになるのです
金銀糸や箔を作る技術は世界に誇れるものです

手で織るものを機械で織ったものは認め
手で織るものを外国人が織ったものは認めない  何故ですが
機械で織るものは産業であり 帯が伝統的なもののため 伝統産業と呼ぶ
手で織るものは工芸です だから 伝統工芸です
伝統産業などと呼ぶ如何わしい言い回しはおかしいのです
伝統工芸をどうして守るかが議論されるべきことで
伝統産業を守る議論は論外な話なのです

何が必要で何を残すべきか 必要でないものまでは残す必要がないのです
何もかも残すようなことは不可能なのです
西陣は織る職人だけが存在するわけではありません
職人の数十倍の下請け業にたずさわる人たちがおられることを無視すべきではないのです

海外生産は下請け業の方々を守る役目も果たしていることをご理解していただきたく思います

                    平成二十二年  小売業者講演会で話す

























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河村康人