復帰前の1970年、経済企画庁総合開発局参事官として沖縄開発振興計画作成のために県内入りした元国土庁事務次官の下河辺淳氏(88)が30日までに沖縄タイムスのインタビューに応じ、「沖縄は自ら振興策を行使すべきだった」と述べ、復帰後導入された沖縄開発庁の下での振興体制を疑問視していたことを明らかにした。
下河辺氏は79年の同庁顧問退任後も沖縄に深く関わり続け、大田昌秀県政が沖縄国際都市形成構想を作成した95~96年には、当時の橋本龍太郎首相と大田知事の橋渡し役を務め、同構想の実現に「政府が果たすべき役割を具体的に示すべきだ」と進言している。
沖縄開発庁ができた経緯について「当時、地方の振興体制としては北海道開発庁が先行していたが、私は北海道と沖縄を道州制のモデル地区にしたらどうかと強調した。だが北海道住民から反対の声が上がった経緯もあり、政府内で本格的な議論の対象にはならなかった」とした。
一方、道州制について屋良朝苗主席と意見を交わしたとし、「日本に復帰したら、道州制の一つの道になりたいと言っていた」と証言。「日本復帰すれば、進んだ本土経済に沖縄経済がダメにされると屋良さんは心配していた」という。
屋良氏の懸念については「琉球(という一つの国として)の歴史があり、それを大切にすべきだと思った」と当然視した。
開発庁体制の課題として「地方自治の議論が不徹底だ。どちらが主導権を握るかというところで、どうしても政府が加勢する場が多くなってしまう」と述べた。
新連載で検証
来月6日スタート
沖縄の40年近くにわたる振興体制の歴史と現状を検証する連載「沖縄振興~39年目の答え」を2月6日から総合面でスタートします。復帰直後に制定された沖縄振興関連法は、県経済に欠かせない国策の一つとなっています。一方、地方自治の視点から多くの問題点が浮かび上がっているのも事実です。振興体制が沖縄に与えた影響を取材し、これからの沖縄の在り方を考えていきます。