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TOYOTA再発見
【ものづくりの心】
(10)容赦なし「大野学校」
2011年01月26日
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池渕浩介 |
池渕浩介(現トヨタ自動車顧問)はある日、取締役の大野耐一に呼び出された。1960年の入社から2年目のころで、大野がトップを務める本社工場に勤務していた。
「きょうから君にかんばんを教える。しっかりやれ。部長に教えてもいいんだが、たぶん泣くほどつらい。どうせ泣くなら若いほうがいいだろう」
大野は、池渕と同年代の若い社員を、社内で100人ほど選抜。「大野方式の先兵」として鍛えた。古い常識で凝り固まった社員より、若者のほうが理解が早いと考えていた。とくに大野が好んだのは、向かってくるような血気盛んな若手。69年入社の岩月伸郎(現デンソー顧問)も、そういう一人だ。
大野の「右腕」と呼ばれた鈴村喜久男の講義で手を挙げ、異論を唱えた。現場で教えられたことと違っていた。「利いたふうな口をきくな」。鈴村の雷が落ちた。岩月のトヨタ生産方式を学ぶ日々が始まった。
大野は細かく教えるのではなく、自分で考えさせた。現場で不良品を見つけると、なぜ発生したのか何日も徹底して調べさせた。いい加減に答えようものならば、青筋を立て、容赦なく怒鳴りつけた。
現場へは連日、ふらりと顔を出した。神出鬼没で、いつ現れるのか分からず、「大野学校」の生徒たちは気が休まることがなかった。ただ、当時の大野を知る人はいま、口をそろえる。怒鳴り方は「怒る」ではなく、「しかる」だった。
池渕は言う。「自分のすべてをぶつける大野さんのやり方は、最も効果的な指導法だ。僕も現役時代、怖いと恐れられたが、ついにあそこまではなれなかった」=敬称略
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