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TOYOTA再発見

【ものづくりの心】

(7)危機が生んだ生産方式

2011年01月21日

写真

終戦直後の機械工場=トヨタ自動車提供

 戦争が終わって間もない1949年夏、37歳の大野耐一は機械工場長になった。駆動系の部品などをつくる工場だ。自動車生産は徐々に回復したが、目の前には在庫の山があった。終戦直後の不況で売れなかった。
 つくりすぎは会社を潰す。大野は脳裏に刻んだ。「つくりすぎは罪悪だ」と繰り返すようになるのも、このころから。資金繰りに窮したトヨタは、銀行団の協調融資で命運をつないだが、会社を再建するための大量解雇が、豊田喜一郎を社長辞任に追い込んだ。この経営危機の原体験が、トヨタ生産方式を生み出す原動力になる。
 一方、喜一郎は戦後すぐ「アメリカに3年で追いつけ」と号令。日本の工業の生産性は、米国に大きく劣っていた。高性能の機械を入れれば、生産性は手っ取り早く上がるが、当時のトヨタに資金的な余力はない。大野は苦肉の策として、人の生産性を上げることを考えた。
 まず取り組んだのは、1人の工員に複数の機械を受け持たせること。当時の工員は職人気質。自分の機械で巧みに部品を削り上げたが、仕事が終わると暇な時間ができていた。
 大野が戦前に勤務していた豊田紡織(現トヨタ紡織)では、1人の工員が何十台もの織機を受け持っていた。可能にしたのは、豊田佐吉が発明した自動織機。糸が切れると自動的に止まるので、機械の横に常時ついていなくてもよかった。
 大野は、部品の加工が終わると自動的に止まるように機械を改良。「自働化」の考え方を採り入れた。ただ、職人たちの抵抗は強く、機械の「複数持ち」が受け入れられるまでには時間を要した。=敬称略

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