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TOYOTA再発見

【ものづくりの心】

(5)織機に「自働化」の原点

2011年01月19日

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1950年当時のトヨタ紡織の刈谷工場=同社提供

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「G型自動織機」=名古屋市の産業技術記念館

 トヨタ生産方式の生みの親、大野耐一は1912(明治45)年、中国・大連に生まれた。父の一造は南満州鉄道(満鉄)の技術者。耐火れんがを研究していた。「耐一」という珍しい名前は、耐火れんがから取った。
 大野家は代々、刈谷藩の江戸家老。明治初期、祖父の代に東京から愛知県刈谷町(現刈谷市)に居を移した。耐一が生まれて数年すると、父は満鉄を辞めて故郷に戻り、町議、県議、町長、衆院議員を務めた。
 耐一は地元の旧制刈谷中学校(現刈谷高校)を出ると、旧制名古屋高等工業学校(現名古屋工大)へ進学。父が誘致に尽力した豊田紡織(現トヨタ紡織)に就職した。
 豊田紡織には、豊田佐吉が発明したG型自動織機があった。糸が切れるなど不具合が起きると、自動的に止まり、不良品の発生を防ぐ。単に動き続けるのではない。機械が自ら判断して止まる自動織機にこそ、トヨタ生産方式の基本的な考え方「自働化」の原点がある。
 豊田紡織は戦時下の経済統制により、トヨタ自動車工業と合併し、紡織事業を停止。耐一は自動織機に組み込まれた「自働化」の考え方を、自動車の生産現場で発展させた。
 トヨタ生産方式のもう一つの柱である「ジャスト・イン・タイム」も、耐一オリジナルというわけではない。もとは豊田喜一郎の発想だ。=敬称略

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