2011-02-20
吉田豪、伊藤剛両氏、及びご迷惑をおかけした周囲の皆様にお詫びします。
『クイック・ジャパン』の記事に関して、一時の激情に駆られ、お二人に多大な迷惑をおかけしたことを深くお詫びいたします。また、わたしの立場に理解示す余り、苦境に立たされた周囲の皆様にもお詫びいたします。
本当に、申し訳ありませんでした。
2011-02-19
わたしが怒っている理由
吉田豪さん伊藤剛さんにお詫びいたします。以下の不愉快な文章は自戒のため削除せずに残しておきます。また漫棚通信さんには、戴いた私信を貼ったことをお詫びし、その部分を削除いたしました。
まず最初にお断りしておくが、これから悪口雑言罵詈讒謗のオンパレードが始まるわけではない。それには期待しないで下さい。それから、おれは伊藤剛さんに対して怒りは感じていない。不意打ちにされてびっくりはしているけどね。こう書くとまた伊藤さんは「無神経野郎」といらつくだろうなあ。
長くなります。
お暇な方だけお読み下さい。
1、おれが唐沢俊一の検証を始めた理由。
ことの発端は、もう何度も書いているけれど、2007年6月4日の裏モノ日記だった。
オノからメールで、サイト『漫棚通信』の運営者さんから『新・UFO入門』の一部が、当該サイトの文章に酷似しているとの抗議があったとの知らせ。これにはショック。山川惣治氏の作品の紹介部分で、まったく思いもよらなかったが、確かにあのサイトは参考にしている。ストーリィ紹介の部分なので、つい文章に、コピーと取られる類似性を持っていた。すぐさまその意の無かった旨返信をし、謝罪。しかしこういうときにメールがなかなか送れぬのは踏んだり蹴ったり。担当編集にその旨を知らせ、善後策検討。サイトにも大至急、その旨を書いてアップする。
http://www.tobunken.com/news/news20070530155748.html
論旨の方にばかり気をとられ、紹介部分の原稿チェックを怠っていたのが原因。迷惑をかけたことに対してはひたすら陳謝のみ。向後はこういうことのないように厳につつしまないとと自分を諌めることしばし。
おれは、この言い分を信じた。類似しているのは偶然という言い訳ではなく、参照にしたことを認め、きちんと謝罪しているように読めたからだ。当時、おれは唐沢俊一のファンでもあったし、トンデモ本大賞のイベントにも参加し、山本会長や唐沢と話したこともあった。特に山本会長とはメールで幾度もやりとりして、情報の交換もしていた。したがって、この時点では、毛ほども盗作の疑いなんか抱いてはいなかった。
おれが「?」と思ったのは、被害者漫棚通信さんのblogを見たときだった。
この文章は長文なのでリンク先を見ていただきたい。まあ、いまおれのblogを読んでいる方のほとんどは充分ご存知だと思うけれど。
おれは驚いた。これは唐沢が書いているような「論旨の方にばかり気をとられ、紹介部分の原稿チェックを怠っていたのが原因」なんて代物ではない。全文をコピペして、言い回し、語尾などを自分のオリジナルに見えるように改竄した、つまり盗作以外のないものでもないものだったからだ。唐沢がこの事件をどう乗り切るかが気になった。つまり、この時点でも、おれは唐沢が断罪されるべきだとは思っていなかった。はやくこの問題を解決して、次の本を出してくれないかと本気で思っていた。
『QJ2月号』で、唐沢はこの件についてこう語っている。
元の本読んでもらえればわかるけど、あれって盗作してどうなるって部分じゃないんです。他の本の内容を要約した部分で、あんなところわざわざ盗んでどうするという。もちろん謝罪の上、あれは単なる引用ミスだと、僕は説明すればわかってくれると思っていたんですけど、ネットの叩きを面白がってやっている人にとっては、そんなことどうでもいいんですね。とにかく、人を叩けば面白い、というアンチが湧いて出てきて。
これって結構説得力のある文章だよね。具体的に盗作事件の内容を知らない人が読んだら「そりゃそうだ」と思うかもしれない。いや可能性大だけど、そのことに関しては後で述べる。この言葉に漫棚通信さんはこう反論している。
唐沢氏が盗んだのは、わたしの時間と労力です。単行本三巻分の大長編「絵物語」を読んで、エピソードを取捨選択してあらすじにまとめてごらんなさい。どれだけ時間とアタマを使ってるか。
その通り(普段からコピペで文章を書いている唐沢には、オリジナルの文章を書くための労力とか能力に、一切考えが及ばないのだろう)。
さて、おれは能天気にも唐沢が、きちんと盗作を認めて全面的に謝罪、そうしてあらたな執筆活動に入ったなら、応援してやろうと思いながらことの経緯を見守っていた。
ところが話は全然進行しない。その上幻冬舎の法律顧問なる人間まで登場し、漫棚さんにいろいろクレームを付け出したのだ。そして、二週間もたたないうちに、週刊新潮にこの件の扱った記事が掲載され、それはこんな文章で締められていた。
唐沢氏の知人が言う。
「ネット上では様々な意見が出て“祭り”状態ですが、資料なしに最初から盗用を意図していた、と唐沢氏に認めさせろという雰囲気。おかげで先方もかなり強気で、話し合いがなかなか進まない。対応に苦慮しているという状態です」
身から出たサビとは言え、これが、ネット社会の怖さでもある。
(強調は引用者)
「漫棚通信ブログ版」はけっこうマメに読んでるので、騒動の最初からウォッチしてたわけですが、いた週刊新潮6月21日号の記事、『朝日新聞“書評委員”に浮上した「ブログ盗用疑惑」』の書きっぷりはちょっとひどいんじゃないかと思った。
まるで、匿名クレーマーの地雷をうっかり踏んで大変な目に遭ってる被害者に同情するかのような論調。全然そういう性格の問題じゃないと思うんですが。もうひとつ、週刊新潮の記事で謎なのは、唐沢氏が「書評委員をつとめる朝日に対しては、当分、原稿を自粛したいと申し入れた」という一節。「裏モノ日記」を読むと、出稿・出演を自粛しない媒体もたくさんあるようなので、なぜ朝日新聞だけ特別に自粛するのか意味がわからない。世間を騒がせると新聞の書評原稿は自粛するのが社会常識なんでしょうか?
(強調は引用者)
的確な指摘である。そうして、この件を境に、おれの中に唐沢に対する不信感がムクムクと芽生え始めた 。
唐沢が引用ミスと言い張ったまま時間は経過し、さすがにそれはおかしいだろうと、おれは何回か自己のサイトで指摘した。はっきり書いておくが、この時点で、唐沢に対する不信感を公にしていたのは、前記の大森氏とおれだけだった(漫棚さんのblogのコメント欄は別にして)。そして、七月に入って交渉が決裂したときに、伊藤剛さんが「伊藤剛のトカトントニズム」で、町山智浩さんが「ベイエリア在住町山智浩アメリカ日記」で、唐沢に批判的な記事を書いた。
それでも、唐沢は強引にこの事件の幕引きをした。サイトに謝罪文を掲載したのだ。その文章はこう結ばれていた。
読者の皆様、また『新・UFO入門』に好意を寄せたメッセージをお送りいただいた多くの皆様には、今回の件で多大な心配とご迷惑をおかけいたしました。心よりお詫び申し上げると共に、向後、このような事態のおこらぬよう、厳しく自分をいましめて今後の活動にあたるつもりです。よろしくお願い申し上げます。
2007年8月1日 唐沢俊一
おれはこの時点でこの事件は終了したと思った。ついに盗作は認めなかったが、唐沢は正式に謝罪したし、交渉が決裂した段階で訴訟に持ち込むか判断するのは、漫棚さん本人の問題だと思ったからだ。おれは自分のサイトから唐沢関係のエントリを削除した。このことは後に2ちゃんねるで散々非難の対象となったが、間違ってはいなかったと思っている。
詳細は省くけど唐沢は、この2007年8月1日の段階で、すでに新たなパクリをやっていた。
さて。総てが終了したと思ったその年の暮れ、唐沢が『社会派くんがゆく!』で、交渉決裂に至る経緯に関して、卑劣きわまりない発言をしたのだ。まあ、皆様とうにご存知だとは思うけど。
このままでは交渉が継続できない。担当者から、そのような行為を続けた場合は法的措置をとる可能性もある、と指摘したところ、先方は、これは恫喝である、とまたまたブログで主張。さらに通常の、このような場合の謝罪のレベルを大きく超えた範囲の要求までしてきた。これを認めると、今後、単純な引用ミスをおかしただけの同業者が、これを前例として相手に過大な謝罪を要求されるという事態を招きかねない。私自身の反省や意識だけでどうこうという問題をすでに超えてしまったのである。ついに、こちらの法務担当の、これは通常の法的交渉をする気が相手にないという判断をもって、交渉を決裂させるに至った次第である。
なんかコピペしただけで殺意が芽生えるような文章だな。「謝罪のレベルを大きく超えた範囲の要求」というのは、実はこういうことだった。唐沢は慰謝料、初版在庫の断裁、謝罪文掲載の条件として、漫棚さんに「未来永劫、この件に関して、書いたり発言しない」という念書を書かせようとしたのだ。それはさすがに幻冬舎の弁護士からも無理だと言われたのに切れて、前記の謝罪文にこう書きなぐった。
今後の対応措置についての合意書の締結を拒絶されました。これは、漫棚通信氏の謝罪要求に対する無限の譲歩を意味することであり、当方としては合意書の締結なしに、漫棚通信氏が要求される謝罪条件のみを無条件で履行することは困難であると判断いたしました。
(強調は引用者)
余りに酷すぎると思った。なんら落ち度のないアマチュアの文章を盗み、誹謗し、悪質なクレーマーと貶めたのだ。こんな無能で卑劣な人間が、「雑学の神様」と称して大手を振って歩いているのが許せなかった。漫棚通信さんに土下座して謝罪させてやる。おれはそう思い、唐沢俊一の徹底検証を再開したのだ。
唐沢俊一という興味深い人間をウォッチするのが目的ではない。
2、おれはなにをしてきたか。
おれはまず、唐沢を潰すと宣言し、広告代理店の力を使うと公言した。それは、それまでの2ちゃんねるの雰囲気から、代理店の力が過大評価されていることを知っていたからだった。絶対に非難されるのは分かっていたが、唐沢をびびらせるために手段は選んでいられなかった(追い込んで謝罪させるのが目的だからね)。
次に、山本弘「と学会」会長から、唐沢はこれまで引用元を明らかにしていたから、今回は単なるミスであるという私見を戴いていたので唐沢のこれまでの著作を徹底的に検証し直した。まあ、そうしたら出てくるわ出てくるわ、パクリとガセの山。
さらに唐沢が連載を持っている出版社に、手紙&メールを出した。唐沢が盗作常習者と知ってるのか、もし知ってるのならなんで使うのか。そのとき、一通一通にキイワードを仕込んだ。例えば『創』の編集長には「直接唐沢を問い詰めると言いくるめられる恐れもあるので、まずは自分で調べてみてください」という一文を添えた。すると、その『創』の岡田斗司夫との対談の中で「なかには直接唐沢を問い詰めると言いくるめられる恐れもある、なんて書いてきた奴もいて、あれには笑った(主旨)」と発言し、ああ、ここの編集は駄目だという判断材料になった。唐沢先生にご注進した編集は、『月刊創』と『週刊新潮』。
それから、唐沢を出演させている番組のプロデューサー宛に、同様なことをやった。また出演者のマネージャーにも同様に文章を送った。無視されたのがほとんどだったが、朝のワイドショーで唐沢と同じくコメンテーターを務めていた某氏のマネージャーからは、丁寧な返事を頂いた。唐沢は日記で某氏とのコラボでイベントを行うと公言したが、それが実現しなかったのにはこうした工作があったからだ。
それでも唐沢はレギュラー番組を持ち多くの連載を持った売れっ子のままだった。一方、おれに対しては匿名の嫌がらせメールが殺到した。考えてみればおれは直接の被害者でもないし、こんなことをしても一文の得もない。一時の正義感から突っ走っても、敵を作るだけではないか。それでも、誰かがやらなきゃならない。そう信じて自分を鞭打っていたとき、mixiのコメント欄に、著名なミステリ作家からこんな言葉が寄せられた。
自己満足などとご謙遜される必要はなく、意義のある社会的振る舞いだと思いますよ。ふつうはわかっていても、わざわざ憎まれたり敵視されたりするのがイヤで、めんどうで、自分に影響がないかぎり黙視してしまいます。私も含めてですが。誰かがかわって発言してくれるなら、それでいいやという横着さもあるでしょうね。なかなか、その「誰か」にはなりたがらない中で、立派なことだと思います。遠くからの応援だけで申し訳ありませんが、正直な気持ちです。
おれは泣いた。心の底から嬉しかった。どれほどこの一文に勇気付けられたろうか。今でも感謝の気持ちで一杯だ。
それから、おれはコツコツ唐沢を追い詰めていった。具体的なことは3月になったら書く(まだサラリーマンなんで)。そのうち、ポツリポツリと同調者が現れ、ついに、2ちゃんねる唐沢俊一スレッドの常連だったkensyouhan氏が、唐沢俊一検証blogを立ち上げたのだ。
その後の経緯は皆様ご存知の通りだ。唐沢の連載は次々に切られ、イベントは中止、電波媒体でのレギュラー出演もなくなった。個人名義の単行本も出版できず、自慢たらたらの日記は追討記事と杜撰な映画紹介で埋まっている。
唐沢の離婚問題や浮気問題に関しては、奥さんやお母さん、あるいは当事者である女性に迷惑が及ぶだろうから、そこでの突っ込みはしない。当初、ゴーストライター説が出たとき、ひょっとして妻か母親が資料を集めていたのではと思い、「唐沢にとって大切な人を傷つけるかもしれないので」追求しない旨をサイトに書いたら、2ちゃんねるに「それは山本弘のことか」と書いた奴がいて脱力した。
しかし、おれ(おれ一人の力では、全然ないけれど)は、一種の空しさを感じ始めていた。それは「唐沢はどんなに追い詰められても謝罪なんかしない」という気がしてきたからである。
だったら、もう引導を渡すしかない。そしてその想いはkensyouhanさんが今年の夏コミでウォッチャーをやめるようなことをほのめかしたことで、一層強くなった。
3、おれはなにを怒っているのか。
そう、問題の『クイック・ジャパン』である。
一読して、心臓が揺れるようだった。これはセカンドレイプではないのか? 唐沢の盗作(癖)は広く知れ渡ったといっても、一部の業界内だけだろう。取り上げてくれた雑誌、単行本もあるが、それは失礼ながら、マイナーなものばかりだった。それが、初めてメジャーな雑誌で取り上げてもらえたのに。
おれが何年もかかって、コツコツ積み上げてきた小さな山を、ドタ靴で踏まれ崩されたような気持ちだった。目の前で山を崩されたときに「なにをするんですか君は?」なんて言えるか(『八月の濡れた砂』じゃないんだから)。「おい、こら、なにしやがんだ!」という反応が普通じゃないか。それに対して、これがボクのやり方です。盗作を批判するのが目的ではありませんなんて返されたって、到底納得は出来ない。無神経なやり方には罵声を浴びせる、それがおれのやり方だ。
それだけのことだ。
世間の影響でいえば、むしろ「唐沢のアンチって怖い」になっちゃったと思いますよ、あなたのツイートで。
大きなお世話。世間の影響でいえば、むしろ「『クイック・ジャパン』て甘い」になっちゃったと思いますよ、あなたの記事で。
最後に一言。見苦しい言訳だけど。おれは吉田光雄が吉田豪とは知らず、無責任な第三者だとずっと思っていた。途中で気付いたが、もう言いたいことは言っちまったあとだった。その点だけはお詫びします。
以上。
今回の記事で、引導を渡すのは難しくなったなあ……。
古賀
盗用問題の最初期のころからずっとウォッチしていましたので、藤岡さんの貢献は充分認めているつもりです。kensyouhanさんが非常に慎重なスタンス及びウォッチ主眼なので、それと対照的な積極的に盗作被害者に謝罪させようとする藤岡さんのスタンスも別におかしいとは思っていませんし、私はむしろ複数の異なるスタンスの人間がいる方がいいと思っています。
今回のQJのインタビュー記事が藤岡さんには不本意というのは良くわかりますが、世の中というのは中立的な醒めたスタンスからの意見の方が「客観的」に見えやすいゆえに受け入れられやすいということもあり、唐沢問題を大勢の人間に関心を持ってもらうためにはそんなに悪くはなかったと考えています。各所で述べましたが「引用ミス」という唐沢さんの出鱈目な説明を信じるQJ読者はまずそんなにいないと思います。
伊藤さんは長い間自分の正論がわかってもらえなかったという経験ゆえに「正しいからといってそれだけでそれが受け入れてもらえるとは
限らない」と考えたがゆえにああいう発言をされたのでしょう。
繰り返しますが、今回の件について私の意見は藤岡さんの意見と異なりますが、これは藤岡さんのスタンスを否定するということではありません。漫棚通信さんも言われているのだから、これからも「検証」を続けていってほしいと思っています。
藤岡真
>古賀さん
一般論としては充分に理解しています。誤解して欲しくないのは、わたしは吉田豪に「糾弾インタビュー」をやれと言っているのではありません。コツコツ積み上げることが如何に大変かも分からずに足蹴にしていく神経が堪らなかったのです。あの方から見たら、わたしなんか、考慮するに値しない存在なのでしょうが。
桃李庵主人
私にとって唐沢俊一の問題は、単なるウォッチングの対象ではありませんでした。
文章を人に見せることのある人間として、何をしちゃだめなのかを、彼の対応を見ながらずっと考えてきたのです。
そういう意味では唐沢の問題は他人事ではまったくなくて、私は自分が「加害者にならない」
ために何をすべきかとか、すべきでないかとかを、この問題を通じて、若い頃よりももっと
いっそう深刻に、考えるようになりました。
つまり「自分が盗作されたとしたら」というのとはまた別に、逆に、
「自分の書くものが問題を起こさないようにするには」
「問題を起こしてしまった場合できるだけ早く、自分の書いたことが原因で
個人や社会に害が及ぶのを小さく抑え、原状を回復するには」をより深く、考えさせられたのです。
茶化して遊ぶような話でも本来なかったし、よく中二病みたいな子がネットで
「俺は唐沢なんて興味ない。ただお前らが正義を振りかざすのが気に入らないだけ」
みたいなことを書きますが、正義を振りかざそうなんて大層なことでもない。
いろんな意味で私には《他人事じゃない》のです。
ただ、心には余裕があった方がよかろうと思うので、ふざけたことも書いていますが、
真剣に怒っている人を目の前にして茶々を入れるつもりなど毛頭ないのです。
もしそういうことで私のコメントにイライラされたことがあるとしたら、大変失礼いたしました。
お遊戯王
ツイッターの件ようやっと読み終わりました。
先生方はつまらない枝葉を伸ばす喧嘩をすべきでもないし
続けるべきでもないです。つまらないので。
そんなつまらないきっかけで二正面三正面作戦をはじめたら
勝てる戦も勝てませんよ。
伊藤先生も、持って回った言い回しで場外乱闘してみせたり
別の話に飛び火させてみたりせずに、水面下でそれこそメールなりで
意図を述懐すれば事足りることですよ。
双方共に暗に「おれのことはわかってるだろ!?なあわかってるだろ!?」
だとか「どうだ言いくるめてやった!」という行間に見られる、男の悪癖を
滲ませてはなりません。
串刺しになった豚がこんがり焼けるまで囲んで談笑すべきですよ。
伊藤先生や私などのような被害者も藤岡先生のような義憤の士も。
皮肉の言い合いや喧嘩なんかしていたら豚を食いっぱぐれますよ。
藤岡真
>桃李庵主人さん
「踏みたるは釈迦とも知らず蟻の死よ」鶴彬
ありがたい説法をしながら、わたしという蟻を踏んでいるわけで。個人に対する怒りではなく行為に対する怒りです。
>お遊戯王さん
わたしの伊藤氏に対するツイートを見ていただければ分かると思いますが、豹変した相手に「どうしたんだよ、きゅうに?」って応じているだけで喧嘩なんかしたつもりはありません。「どうしたの?」「無神経!」じゃ喧嘩にもなりません。
お遊戯王
そこは悪い物言いになってしまいますが
端的にこれは両先生方の甘えに起因するものです。
無礼な物言いを御容赦下さい。
伊藤先生は外聞や体裁に細心の注意を払いたいと思ってらっしゃるはずで
そのように行動してくれない方に苛立ちを感じたということ。
対する藤岡先生は義憤ゆえ追及の手を緩めたくないと思ってらっしゃり
そのように行動してくれない方に苛立ちを感じたということですよね。
どちらもそうなって止む無い積年のなにがしかは共通しているわけであります。
そうしてどちらもが「わかっているはずなのに」という姿勢でいるから
こうしたことが起こるのです。
ここで両先生方が皮肉の言い合いを続けるのは人材の無駄遣いであり
それはある種の、言ってみれば先生方自らへの冒涜に近い行いです。
私は目的を反れて同岸の文士が切り結んでいる姿を
彼岸の亡者に笑われる事態だけは避けた方が絶対によいと思います。
トンデモブラウ
私も「引用ミス」というのは、一般に浸透していない単語なので、QJの記事を読んだ読者が被害者を悪質なクレーマーと信じないかというのを心配しています。
犯罪者の言い訳をそのまま載せるくらいなら、最初からその件には一切触れなきゃいいのに、と思いますけど。
藤岡真
>お遊戯王さん
わたしは伊藤さんと争うつもりはありません。でも伊藤さんはガサツな人間が嫌いだと言う理由でわたしとは友好関係を結ぶ気はないようです。
>トンデモブラウさん
吉田豪には100%そんな気遣いはないでしょう。自分には係わり合いのない問題です。嫌な言葉ですが、こっちが舐められたってことなんでしょうね。
お遊戯王
藤岡先生の精神にしこりとなって、拘らざるを得ない点はわかります。
伊藤先生の物言いが、一方の無神経を指摘しながら根本の無神経を
視界から除くものに見え、そんな矛盾を強く憤ってしまったからでしょう。
そこはもう意見の相違として置く以外の道はないですよ。
名前を挙げて話題にしたり、食って掛かったり、相手の言葉尻を捕まえて
皮肉を言う等は、どちらが嫌な人間として優れるか競うようなもので不毛です。
相手がやり続けるなら自分はやらないという太い構えでいてください。
儒学者
藤岡先生
>他の本の内容を要約した部分で、あんなところわざわざ盗んでどうするという。
私はこの発言がそのまま掲載されている時点で、「雑誌(および聞き手)のスタンスは中立」とは到底思えないです。
「要約」というのはかなり高度な知的作業です。ですから、入試現代文などにも要約問題が出題され、大学で(私もよく出しますが)本の要約などがレポート課題として課されるのではないかと。新書本のある一章だけの要約レポートでも、大半の学生は悪戦苦闘し、鼻紙にもならないような酷いものを提出してきます(それでも自分の言葉で書くだけ唐沢よりゃはるかにマシですが)。ましてや漫棚通信さんが「盗まれた」のは本三冊分の要約というものですからなおさらです。そこをスルーされるのでは「ああ、この人も同類なのかな。まともな労力費やして文章を書いたことがない人なのかな」と思わざるを得ません。
さかなや 藤岡さんがここで書いている事はとてもよくわかる。私が唐沢氏を許せないと思って今に至る部分も同じだ。ただ今この文章以上のことをかかないほうがいいと思います。今のツイッターの流れは「吉田豪のインタビューをケシカランと貶めている輩が・・」という流れであり唐沢云々は最早ほとんど問題になっていないから。ここは沈静化を待って一度とどめておくべきじゃないでしょうか。ここで吉田氏の批判を続けるのは唐沢俊一の間違いを認めさせることの障害になるような気がしてなりません。冷静になりましょう。私がいうのも変かもしれませんが心からお願いします。他の人にも言いたいです。冷静に対処しましょう。
藤岡真
>お遊戯王さん
すみませんが、わたしは伊藤さんに関しては昨日から、もう全く言及していません(このエントリの冒頭だけです)。
>儒学者さん
吉田さんはtwitterでのやりとりで検証側にわたしが迷惑をかけたと再三指摘されるのに、自分がやったことには「なんで考慮しなければならないか分からない」というスタンスですから。
>さかなやさん
わたしもそのつもりです。
猫遊軒猫八
改めて怒りがふつふつとわいてきます。
これからも頑張ってください。
新作も気になるので、頑張ってください。
古賀
>猫遊軒猫八さん
自分がやったことを反省する能力の全くないあなたは足を引っ張るだけなので黙っていた方がよろしいでしょう。
藤岡真
>猫遊軒猫八さん
怒りはとっくにおさまっています。twitterで唐沢が盗作がらみで大分有名になったと思うので、わたしの「狂犬」分を差っぴいてもお釣がくると思っています。
さかなや もうツイッターでやりあうのはやめましょうよ。藤岡さんに何の得も意味もないと思います。周りも面白がってる人間しかいないのでみていて不愉快だし不憫でなりません。
藤岡真
>さかなやさん
やめました。律儀な性格なんで、つい返事しちゃうんです。
おおくぼ
ツイッターでの伊藤さんと藤岡さんの議論を拝読しましたが、噛み合っていないと思いました。
噛み合っていない議論は、どんなにしても平行線です。
そういう意味では不幸な議論に思えました。
私は今回の『QJ』のインタビューは評価しています。
でも私が評価する理由は、他の方とは全く違います。
私は、どんな酷い犯罪者の自分勝手で嘘まみれのインタビューでも掲載すべきだと考えています。
例えば、自分の快楽のために無抵抗な人を殺した犯人の言い訳インタビューでも掲載すべきだと思います。
もちろん、そんなインタビューを被害者の遺族や被害者の友人が読んだら、怒るか悲しむますし、そんなインタビューを掲載した出版社に対しても憎しみを抱くでしょう。
今回の唐沢俊一さんのインタビューは、被害者からすれば「忘れたい、触れてほしくない」ことまで、身勝手な解釈と嘘で語っています(唐沢俊一さんの片思い事件)。
でも私は加害者の主張を、加害者の主張したい通りさせるべきだと思うのです。
なぜなら、そのことによって加害者の人間性が第三者にもよくわかるデーターとして流通するからです。
私が「唐沢俊一事件」で不平等だと思うのは、唐沢俊一さんから被害を受けた人の声が、一般流通している雑誌で無視されていることです(例外はあるけど、わずかです)。
「唐沢俊一事件」は出版界ではアンタッチャブルで、「触らぬ神に祟りなし」という雰囲気の中、火中の栗を拾うつもりで今回のインタビューが行われたと私は推測しています。
だから吉田豪さんと『QJ』編集部の勇気を評価しています。
でも唐沢俊一さんの嘘と盗作については、唐沢俊一さんを使い続けた出版関係者は今は知っているはずですから、ネットではなく、一般誌で積極的に取り上げるべきです。
そうでなければ不平等です。
コバイア
今回の吉田豪さんのインタビューは、唐沢がいま何を考えているかを知るためには、価値があるものだと思います。
しかし、「引用ミス」という唐沢の言い分を、注釈無しに載せてしまったことは、やはり、盗作事件の被害者に対する配慮が不足していたのではないでしょうか。
注釈にもインタビュイーのチェックが入るから、雑誌に載せるために注釈を入れられなかったのだとしても、それはあくまで妥協の結果であって、本当に望ましいこととは言えないはずです。
また、「唐沢サイドの言い分を引き出すのがボクのテーマ」と吉田さんは発言されていますが、そのために被害者への配慮を欠いてもよいということにはならないと思うのですが。
藤岡真
>おおくぼさん
吉田さんは(ネットの)策士だと思いました。その能力を(インタビューじゃなくて)唐沢追及に使ってくれたらいいのにって思いました。
>コバイアさん
そもそも、わたしはインタビューアの態度が気に入らなくて「ゴマするな!」って言ったんですよ。本音を引き出すとかなんとかなんてこっちは関係ないんでね。それはわたしの気持ちの問題だってことです。
おおくぼ
前から違和感を感じるのは、犯罪者を批判する側は聖人君子でなければいけないという空気です。
しかも、今回は批判する側に一人でもダメな人間がいれば連帯責任になる・・みたいな空気が強く感じられました。
目的はどうであれ、唐沢俊一検証あるいは批判している人々は別々の団体に所属する人間です。
情報交換や一時的な協力はあっても、同じ組織ではありません。
常識や礼節は必要だと思いますが、責任は各個人がとるべきことだと思うし、連帯責任みたいな言い方は変です。
政治家のグループと違うんですから、造反とか分裂というのはありえないと思うのです。
たまたま同じ興味の元に集まった人たちにすぎないのですから。
ただ、私としては、今回の騒動はプラスになったと考えたいです。
一般流通している有名雑誌で取り上げられれば、事件は風化せずに済みます。
唐沢俊一さんとしては、一刻も早く風化して欲しいと願っているはずですから。
2011-02-17
検証 唐沢俊一「裏モノ日記」その5『柳生旅ごよみ 女難一刀流』
ちょっと気になった部分は、最後の文章なので、その前の部分から引用してみる。
古い映画をみませんか・9 『柳生旅ごよみ 女難一刀流』(註;この映画のソフト、amazonでも楽天でも見つからない。見ませんかと言われても困るんだけど)
60年安保を目前に、日本のヒーロー像は、かつての単純明快なものから複雑なものへと変貌しつつあった。『柳生武芸帳』がヒットしたのも、それが極めて明晰ならざる複雑なストーリィを持ち、いずれが正義とも悪とも判断できぬ“現代性“を持っていたからである。それへの、例えアンチテーゼだったにしても、この明朗快活な柳生十兵衛像はあまりに能天気に過ぎた。小説を読んでいた観客が一番混乱したことだろう。東映もこれではいかんと思ったか、近衛十四郎を(片目の)十兵衛にキャスティングしなおして、『柳生武芸帳シリーズ』を新たに制作し、これは東映チャンバラ時代劇のひとつの頂点とも評価されることになるが、時代はすでに東宝の黒澤明監督作品『用心棒』のリアリズムがもてはやされるように変化しており、チャンバラ王国・東映は黄金時代の終焉を迎える。そういう意味でこの『女難一刀流』は、明朗闊達を前面に押し出した東映時代劇の末期の花、と言える作品かもしれない。『用心棒』の続編の『椿三十郎』の終盤がこの作品に似ているのは、まあ偶然の一致だろう……。
「僕ら若手が東映の上層部に“このままじゃダメだ”と、社会性を持った時代劇を作るように働きかけて、変革をはからせたんだ。でも、それは結果的に日本人の時代劇離れを呼んでしまった。もう少し時間をかけて結果を見れば東映の明朗時代劇というものにも、ちゃんとニーズがあったことがわかったのかもしれないなあ」
と言っている。確かに、この大友十兵衛は、キャラクターもストーリィも、現代性という観点から見ればまず、お話にならない幼稚なレベルではあるのだが、見終ったあと、どこかに強烈な懐しさと楽しさが湧いてくるのである。その後、70年代に入り、われわれがいい年齢をして、平山のプロデュースした『仮面ライダー』をはじめとするヒーローものに熱中したのも、それが失われた東映明朗活劇時代劇の、形を変えた再生産だったからなのかもしれない。
唐沢は時代背景から事象の分析なんかしてはいけない。拙い知識と思考力では、そんなことは無理だからだ。
60年安保を目前に、日本のヒーロー像は、かつての単純明快なものから複雑なものへと変貌しつつあった。
いい加減なことを言っているなあ。日本のヒーロー像なんて大ざっぱな括り方をされても、さっぱり分からんよ。まあ、60年代以前は、勧善懲悪単純明快なヒーローばかりだったと言いたいのだろうが。話が広がりすぎるので、時代劇に絞ってみたって、『大菩薩峠』の机龍之介、その系譜を継ぐ戦後の眠狂四郎、丹下左膳(二作目以降は正義のヒーローになったが)、阪妻が演じた雄呂血、平手造酒等等屈折したヒーローなんていくらでもいた。60年安保時に2歳だった唐沢には時代の空気なんて感じたくたって感じられなかったろう。
時代はすでに東宝の黒澤明監督作品『用心棒』のリアリズムがもてはやされるように変化しており、チャンバラ王国・東映は黄金時代の終焉を迎える。そういう意味でこの『女難一刀流』は、明朗闊達を前面に押し出した東映時代劇の末期の花
『用心棒』は1961年の作品。たとえば中村錦之助の代表作の一つである宮本武蔵シリーズ五部作は、1961年に始まり1965年に完結した。工藤栄一の傑作時代劇『十三人の刺客』は1963年の作品だぞ。錦ちゃんの『関の弥太ッぺ』も同年の作。鶴田浩二の『次郎長三国志』シリーズも1965年まで続いたのだから、あっさり黄金時代の終焉を迎えさえてはいけない。唐沢の言う末期の花『女難一刀流』は、1958年の作品なんだし。
確かに能天気な時代劇はその後の東映では制作されなくなったけど、その最終期の作品が『女難一刀流』だというのなら、唐沢がそうした作品群にノスタルジアを感じるわけがない。だって、総て生まれる以前の映画だし、それがテレビやビデオで再び見られるようになったのは、唐沢の幼少期ではないのだから。
でも、それは結果的に日本人の時代劇離れを呼んでしまった。
と、平山亨の言を引いているが、つまり、東映時代劇に引導を渡したのは平山亨である、って結論でOKなのね?
70年代に入り、われわれがいい年齢をして、平山のプロデュースした『仮面ライダー』をはじめとするヒーローものに熱中したのも、それが失われた東映明朗活劇時代劇の、形を変えた再生産だったからなのかもしれない。
おやおや、またオタク第一世代を詐称する気だな。われわれがいい年齢をしてって、仮面ライダーが始まった1971年、唐沢俊一は13歳。いい歳どころか真ん真ん中のターゲットじゃん。そして、地方都市の13歳の餓鬼が、仮面ライダーに、なんで自分の生まれた年に終焉した失われた東映明朗活劇時代劇の、形を変えた再生産なんてことを感じるのよ。
おい、石黒直樹。これが検証ってことだ、分かったか、腰巾着。
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トンデモブラウ
『古い映画をみませんか』を唐沢の書く映画レビューだと思うから齟齬が沢山でるのです。
これは団塊世代以前の視線を軸(主人公=レビュー主)とした小説…無理か。
藤岡真
>トンデモブラウさん
「若いくせに昔のことよく知ってるなあ」というのも、唐沢にとっては大変な褒め言葉なんでしょうね。その賞賛を浴びたくて昔のことを語り齟齬を生じるというパターンですね。まあ、何を語っても齟齬を生じるんですが。
猫遊軒猫八 藤岡さんのご指摘の通り「古い映画を見ませんか」というタイトルなのに国内未リリース作品ばかりなので呆れております。単なる自慢なのかな。唐沢はビデオメーカーだの映画監督に知り合いがいるらしいのだから貰ったソフトでも紹介すれば良いのに。
藤岡真
>猫遊軒猫八さん
「昔の映画について語りたい」とか「こんな映画もありました」とか、タイトルなんていかようにもつけられるだろうに、最悪の選択をしてしまうという。
蘭月新十郎
>当時東映京都で時代劇映画の監督をしていた平山亨は、
『柳生旅ごよみ 女難一刀流』の公開は1958年。
平山亨さんの初監督は1963年の『銭形平次 捕物控』。
時間の流れを考えれば「当時東映京都で時代劇映画の“助”監督をしていた平山亨」が正しいのではないでしょうか。「師匠」とか敬っている人の経歴すらこのぞんざいぶり。
ここに私は唐沢さんの書く文章に違和感を覚えます。
こんなことを平気で書く人のミスをこのまま放置していいんでしょうかね。放置していたら正しいことを書いた人や、史実や事実や小説とかの内容に申し訳ない。
検証や指摘は「何とも暗く貧しい心根の持ち主」がすることでしょうか。
これが「これは先の長げぇ、汚ねぇ仕事だ」としても、自分が知っていることで唐沢さんがヘンなこと書いたら私は指摘します。
藤岡真
>蘭月新十郎さん
自分の師匠(なんかでは全然ないけど)である平山亨は、師匠に相応しい偉い人でなくてはならないから、助監督ではなくて監督でなくてはならないんでしょうね。意味のない見栄を張って事実を歪めているだけです。
RAS 「ソフト化済みの作品を紹介して実際に観られたら、自分が書いた文章のガセを見抜かれてしまう」と考えたのかもしれませんね。
藤岡真
>RASさん
無料で公開しているサイトだし、そこまで悪意にとらなくてもいいと思う一方、なんでこんなちぐはぐなことをやるのかとも思います。
2011-02-16
唐沢俊一追討日記 片山雅博
片山氏はどうやら唐沢にとって、通常の追討対象の人物とは別次元の方らしい。いつもの「○○した男」なんていう苦しいサブタイトルも添えられていない。おれも片山氏のことは全然知らないので突っ込んだ検証は出来ないし、する気もない。気になった点をいくつか挙げるに留める。
上の書影は。唐沢俊一ホームページから転用した。こんな装丁の本があったのか。片山雅博はちゃんと著者名を「潮健児」にしているし、唐沢も、
と書いている。池部良の追討記事でも、自伝と書いているのだから、ハヤカワ文庫版の著者名も改めるべきだ。
パソコンも携帯も長いこと持っていなかった。おかげでだいぶ彼との連絡には不便をかこちたものだった。
無理に難しい言葉を使って間違えるという典型。小学生の作文並の文章も書けないような奴が、なんで「かこつ」なんて言葉を使うんだろう。
かこ・つ【託つ】[動タ五(四)]
1 心が満たされず、不平を言う。ぐちをこぼす。嘆く。「不運を―・つ」2 他の事のせいにする。口実にする。かこつける。
本来の意味で正しく用いるなら「彼との連絡時には何度も不便を託ちたものだった」といった文章になるはずだよね。
なみきに怒鳴られすぎてw心身症になってやめた
なみきたかしは1952年生まれで、唐沢より6歳年長。かつ、アニドウにいたかどうかも分からない唐沢とは格違いの会長(当時)を務めていた。唐沢はなんで呼び捨てにするのだろう。そんなことで自分をアピールしたいのか。面識のある人間なら、一般著名人でも敬称は必要だ。
しかし、いつもの追討に比べたらずっとましだけど、結局言いたかったのは「自分は故人に評価されていた」「自分は故人の恩人だ」なんだよね。
星を喰った男―名脇役・潮健児が語る昭和映画史 (ハヤカワ文庫JA)
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桃李庵主人
『星を喰った男』、最終的にこのタイトルにしてよかった。
『脳天気教養図鑑』の中で唐沢(兄)は「地獄大使大いに語る、てぇタイトルはどうだ」
と言って(ることになって)ますが、それはマニアックすぎるし副題向きですね。
「この話がおもしれーのなんのって あたしゃ聞き書きにして企画持ち込んで本にしようと思うぞ」
『脳天気教養図鑑』の俊一氏のこのセリフからはすごい熱意と愛情を感じました。
それだけにその後の経緯や唐沢氏の行動を聞くにつけ残念なのです。
藤岡真
>桃李庵主人さん
憧れの対象とは「大好物」。結局食い物なんでしょうね。
50代(元アニドウ会員)
>なみきに怒鳴られすぎてw心身症になってやめた
「訃報 片山雅博」で唐沢が書いた「アニドウのIくん」とは、井上則人氏のことですね。
『昭和ニッポン怪人伝』等の装丁をした井上則人デザイン事務所の社長さんです。
「なみきに怒鳴られすぎてw心身症になってやめた」というのも、ずい分ヘンな話です。
『FILM1/24』29号(1980年4月30日発行)の編集後記に、
[今号から静岡の一読者であった井上則人君が強力な編集スタッフとして加わった。彼の活躍によって編集室の労力は半分になっているが、]とあります。
こんな有能なスタッフを、なんで心身症になる程怒鳴るのでしょうか?
第一アニドウの仕事は、ほとんどの同人誌がそうであるようにボランティア活動です。
給料が出るわけでもないのに、なんで心身症になる程耐える必要があるのでしょうか??
もっともその1年ほど後に出た31号の編集後記に、[井上くん自転車もって帰っておいでよおー〜]と、飯田馬之介氏(昨年亡くなったアニメ監督)の言葉が載っています。
同人誌にありがちな喧嘩別れみたいなものはあったのかも知れませんが、心身症云々はどう考えても唐沢のホラとしか思えません。
この飯田馬之介氏の言葉の横に、片山雅博氏がアニドウ事務所に泊まった話が書かれています。
ちなみに唐沢の名は『1/24』の編集後記に載ったこともなければ、スタッフとして表示されたことも一度もありません。
唐沢がアニドウのメインスタッフだったというのは、大嘘だということです。
もっとも90年代になってプロのモノ書きになったからは、なみき氏らに積極的に近づいた形跡がありますが、片山雅博氏とほんとに親しかったかどうかは、死人に口無しでわかりません。
藤岡真
>50代(元アニドウ会員)さん
実情を知らない人間には何も言えませんよね。仕方なく、わたしは言葉遣いに突っ込むしかありませんでした。当時のアニドウを知る皆様から、違和感その他の印象を感じていただけるのなら、エントリをアップした意味もあります。
「なみきに怒鳴られすぎてw心身症」の「w」は、ローマ字入力で「w」と「s」のキイを同時に押した結果だと思います。
2011-02-14
徹底検証 唐沢俊一「裏モノ日記」その4『4Dマン』
唐沢さん終了しちまったかと思ったら、力一杯更新していた。『クイック・ジャパン』のインタービューに関して、情報を入れてくれた方がいたので、当たり障りの無い程度でご紹介しておこうか。唐沢インタービューの大部分は「大恋愛事件」のことだったそうだ。色悪を気取る一方、下心はなかったと言い訳し、劇団を悪者にして、言いたい放題だっただったらしいが、滅茶苦茶な内容のため(唐沢の要請もあって)大幅にカットされたとのこと。どこかにリークされて陽の目を見ないかしら。
閑話休題。
『4Dマン』アーヴィン・S・イヤワース監督(1959年)
B級映画にありがちなことだが、映画のタイトルが本公開のときのもの、テレビ放映、ビデオ発売のときとそれぞれ変わって、同じ作品でも人によって呼び名が全然違ってこんがらかったりする。この『4Dマン』も、80年代の初ビデオ化のときは『怪談壁抜け男』(一応“4DMANの恐怖”というサブタイトルもあるがほとんど目立たない)というひどいタイトルでのリリースであり(仕掛け人は『死霊の盆踊り』の江戸木純らしい。なるほど)、それのせいか、ネットでは“脱力映画”として批評している人が多い。最近出たDVDのタイトルも『4Dマン 怪奇!壁抜け男』とそのタイトルを踏襲しているが、これは劇団四季で『壁抜け男』(こっちはマルセル・エイメの幻想譚が原作)を上演したせいではないかと思う。
私が推すのはテレビ放映時のタイトル『SF・4次元のドラキュラ』である。この作品の主人公が恐れられるのは壁をスリ抜けることより、触れた人間の時間エネルギーを吸収して老化させてしまうことの方であるわけで、ドキュラという比喩は的を射ている。……もっとも、製作者たちがイメージしていたのはドラキュラではなく、フランケンシュタインの怪物の方だろう。科学の力によって怪物化した男の話であり、彼が追われて逃げる途中、水のほとりで少女に出会って話しかけられるところなど、カーロフの映画『フランケンシュタイン』への如実なオマージュである。そのエピソードが結末がつかずに放り出されて終ってしまっているのがいかにもB級で残念だが。
この作品を笑う人は特撮のチャチさやSF的設定の非科学的なところにツッコミを入れるようだが、この映画が1959年のものであることを忘れてはいけない。昭和34年である。この年の他のSF映画というと、日本では『宇宙大戦争』、アメリカでは『プラン・9・フロム・アウタースペース』が有名である。つまりは、2年前、1957年のスプートニク・ショック(ソ連がアメリカに先駆けて人工衛星の打ち上げに成功したこと)以来、世界中どこであっても宇宙ブームだったのだ。全世界が宇宙に目を向けているときにドライブイン・シアターの観客向けに四次元(4D)という用語を冠した作品を送りだしたことはかなりの先進性があったと言っていい(原案はプロデューサーのジャック・H・ハリス)。もちろん、その用い方はデタラメもいいところであるが、それは日本の怪獣映画における放射能だって同じことだ。
そして、この作品もまた、スプートニク・ショックの産物と言える。スプートニクで先を越されたことでアメリカ国内には国民への科学教育へのニーズが高まり、一般家庭の読者向けの科学読物が流行した。アインシュタインの相対性理論で四次元という概念自体は理系の人間には理解されていたろうが、それが一般に急速に普及したのは、これら科学読物(アイザック・アシモフなどが主な書き手であった)の成果と考えられるのである。現に四次元テーマの作品を多く含むアンソロジー『Fantasia Mathematica』(クリフトン・ファディマン編)がこの映画の公開前年、1958年に出版されている。
今でこそ四次元なんて言葉はドラえもんのポケットの名称で幼稚園児まで知っているが、1959年には空想科学小説マニア(上記の『Fantasia Mathematica』が翌59年、『第四次元の小説』として荒地出版(ママ)から翻訳刊行されている)以外の一般人の大半はそんな言葉、耳にしたこともなかったろう。ましてや概念に至っては。この映画の日本公開年の1963年(昭和38年)には……言葉のみはかなり普及していたと思われる。1960年に放映されたテレビドラマ『ナショナル・キッド』のオープニングに、「四次元の世界を克服し」というテロップ入りナレーションが入ったからだ。もっとも、当然のことながら、作中には四次元の概念などまるで出てこなかった。手塚治虫が雑誌『少年』で『鉄腕アトム』に四次元から来た少年・ミーバを、詳細な四次元の科学解説と共に登場させたのは、1966年9月である。その年の7月にはすでに『ウルトラQ』で“四次元怪獣トドラ”が登場しており、トドメに11月、『ウルトラマン』で“四次元怪獣ブルトン”が登場し、ここらでわれわれはやっと何となく、四次元のイメージを頭に刻み込んだのであった。もちろん、それまでにジュブナイルSFなどで福島正実や小松左京が地ならしをしておいてくれたのであるが。
われわれが欧米のSF、ことに50年代黄金期のSF作品を評するときについ忘れがちなのは、日本におけるSFが少年たちと、教養ある知的エリート層の読物として出発したのに対し、欧米、ことにアメリカではSFはブルーカラーの読物であったということである(D・J・スカル『マッドサイエンティストの夢』などを参照)。そこには日々進歩していく科学に対し、それが自分たちの生活をおびやかす存在になるのではないかという、ブルーカラー特有の不信感が通底している。東宝特撮に、いわゆる悪のマッドサイエンティストがほとんど登場しないことと、洋画のB級SF映画がほぼ、マッドサイエンティストものと同義といえる状況とを比較してみるといい。東宝特撮でも、アメリカ資本と提携した『キングコングの逆襲』『緯度0大作戦』にはマッド・サイエンティストが登場するのを見れば、彼我の嗜好の差は歴然としているだろう。
とはいえ、この作品にも厳密に言えばマッドサイエンティストは登場しない。最初にマッドサイエンティスト的実験をしている科学者(ジェームズ・コングドン)が出てきて、実験の失敗で研究所を丸焼けにしてしまい、クビになる。てっきり彼が主人公の4Dマンかと思っていると、彼は同じ科学者をしている兄(ロバート・ランシング)の務める研究所を訪ね、雇ってもらう。実は彼は数年前、兄の婚約者を奪ってしまった過去を持ち、袂を分かっていたのだ。プレイボーイの弟に、研究一辺倒で面白みのない人間だと自分でも自覚している兄は、コンプレックスを持っているが、今は彼は放射能をシャットアウトする特殊金属カーゴナイトの研究で学会の寵児であり、職にあぶれた弟を優越感をもって引き取る。……しかし、またしてもこの弟は、兄が結婚を申込もうとしている美貌の研究者・リンダの心を射止めてしまうのである。恋人をとられた兄はやけ酒を飲み、弟が研究していた実験を自分の身体で試してみる。すると、何と弟では成功しなかった、物質通り抜けが可能な肉体に変化してしまう。実は兄の身体は度重なる放射能の実験で脳波が強力化しており、そのために4Dマンになることが出来たのだ。
馬鹿馬鹿しい設定、と切って捨てればそれまでだが、われわれが50年代B級SFに惹かれるのは、まさにここにそのポイントがある。この作品におけるサイエンス、四次元実験理論は、研究一途であった兄に、初めて人間性の解放をもたらした。それまで、愛している女性に告白も出来ず、みすみす彼女の心が弟に惹かれていくのも指をくわえて見ているしかなかった兄が、物質透過能力を身につけることで大胆になり、銀行を襲って大金をせしめるまでになる。彼女の気を引くためでる。もちろん、すぐにその能力のマイナス面(エネルギーを大量に消費することで老化が早まる)がわかって、それどころではなくなるのだが、欲望を満たし、かつ両刃の剣的に害を与える魔法の力を得た人間の“寓話”のアイテムとして、科学が用いられている。
SF、ホラーものの特質のひとつに“寓話性”がある。一見、たあいない化物ばなしであっても、50年代B級SF、B級ホラーの裏には、そこに人間性を極端に抽象化したアナロジーとしての寓話性が秘められている。『女黄金鬼』(1957)では金への執着であり、『吸血怪獣ヒルゴンの猛襲』(1959)では男女の愛欲であった。寓話であるが故に、それはリアリズムとは異った立脚点を持っていた。逆に言えば、映像がチープなものであればあるほど、その寓意性が際立つという特徴があった。上記二作に登場する怪物はどちらも出来の悪さで有名だが、しかし、その出来の悪さが、作品のテーマである人間の我欲の醜さをストレートに表していたのである。製作費を豊富にかけ、一流のスターを器用した怪奇映画の多くが気の抜けたような印象のものにしかならないのはこのためである。
科学の多くはわれわれの生活を幸福にしていくものだろう。しかし、その一方で、われわれは原水爆をはじめとして、科学に抜き差しならない不信感をも持ち合わせている。B級SF映画におけるチープきわまりない“最先端科学”描写、それは、われわれ庶民の、科学に対するささやかな批判と風刺に、結果的に成りえているのである。
この作品の価値はチープなところ、B級なところにある。例えば一流監督により大規模な製作費をかけてリメイクしても、それはどうにもピントのぼやけたものにしかならないだろう。
この映画はかつて「わ〜すごシネマ」という酷い名前のシリーズの一本として発売された。同シリーズには 「恐竜ダサイナサウルス(「最後の海底巨獣」)「X線の眼を持つ男」「殺人ブルドーザー」「地底の原始人キングゴリラ」なんてのがあったはず。実は、そのへんのことは岡田斗司夫・唐沢俊一・眠田直の『オタクアミーゴス!』でもとりあげていたんだが、忘れちまったのかな(おれは捨てちまったんで、具体的な確認は出来ない)。で、唐沢はビデオタイトル『怪談壁抜け男 4Dマンの恐怖』に苦言を呈し、
私が推すのはテレビ放映時のタイトル『SF・4次元のドラキュラ』である。この作品の主人公が恐れられるのは壁をスリ抜けることより、触れた人間の時間エネルギーを吸収して老化させてしまうことの方であるわけで、ドキュラという比喩は的を射ている。
と書いているんだが、なにを言いたいのかな。だって、この作品の主人公が恐れられるのは壁をスリ抜けることに、四次元力を使ったために急激に老化してしまうのでそのエネルギーを取り戻すために、触れた人間の時間エネルギーを吸収して老化させてしまうからなんだよね。赤字の部分がゴッソリと抜けてるのはコピペミスかな。
で、唐沢は、この映画はチャチである。でも製作された1959年という時代を考えてみろと論を進める。だったらしかし、当時の技術としたらは最先端のものなのだという結論になりそうなものだが、なぜか
2年前、1957年のスプートニク・ショック(ソ連がアメリカに先駆けて人工衛星の打ち上げに成功したこと)以来、世界中どこであっても宇宙ブームだったのだ。全世界が宇宙に目を向けているときにドライブイン・シアターの観客向けに四次元(4D)という用語を冠した作品を送りだしたことはかなりの先進性があったと言っていい(原案はプロデューサーのジャック・H・ハリス)。
ちょっと待て。
全世界が宇宙に目を向けているときに、四次元という先進性のあるタイトルをつけたからって、そんなもんこの映画がチャチであることのフォローには全然なってないだろって。そして、その四次元に関しても
アインシュタインの相対性理論で四次元という概念自体は理系の人間には理解されていたろうが、それが一般に急速に普及したのは、これら科学読物(アイザック・アシモフなどが主な書き手であった)の成果と考えられるのである
美味しいなあ、唐沢くん。
じゃあ、早速、薬学を学んだ理系人間のきみに質問だ。アインシュタインの相対性理論では、四次元ってのはどんなふうに説明されているの。それが理解できれば「壁抜け」の理屈も理解できるの? 答えてよ、ねえ、ねえ。
アインシュタインはわれわれが今住んでいる三次元の空間に、「時間」という次元をプラスした考え方を導入したのであって(難しい言葉で言うと“ミンコフスキー空間”というのね)、次元の隙間に落ち込んで別世界にいっちまうなんてことを説いてなんかいない。さらに言えば「ウラシマ効果」も「ローレンツ収縮」も四次元には関係ない。ああ、むろん、そうした四次元の概念もある。つまり、当たり前の三次元のユークリッド幾何学の空間(われわれが住んでいる空間)にもう一つ空間軸を加えたものだ。三次元の住人には、その空間軸は認知できないから、そうした空間で起こることは不可思議な現象に感じられるだろう。ひょっとしたら四番目の空間軸から見たら壁に穴が空いていて、そこからの出入りも可能とかね。でもそれは、相対性理論とは全然関係ないのだよな。
東宝特撮に、いわゆる悪のマッドサイエンティストがほとんど登場しないことと、洋画のB級SF映画がほぼ、マッドサイエンティストものと同義といえる状況とを比較してみるといい。
悪とは言えないかも知れないけど、『ゴジラ』でオキシジェン・デストロイヤーという悪魔の兵器を開発した芹沢大助博士(平田昭彦)は紛れもないマッドサイエンティストだよな。『地球防衛軍』でミステリアン(エイリアン)に寝返った白石亮一博士(平田昭彦)、『美女と液体人間』で液体人間を創造した真木博士(千田是也)、『ガス人間第一号』である水野(土屋嘉男)を生み出した佐野博士(村上冬樹)なんて面々も紛れもないマッドサイエンティストだろう。
SF、ホラーものの特質のひとつに“寓話性”がある。一見、たあいない化物ばなしであっても、50年代B級SF、B級ホラーの裏には、そこに人間性を極端に抽象化したアナロジーとしての寓話性が秘められている。『女黄金鬼』(1957)では金への執着であり、『吸血怪獣ヒルゴンの猛襲』(1959)では男女の愛欲であった。
あのさあ。『女黄金鬼』(1957)では金への執着であり、『吸血怪獣ヒルゴンの猛襲』(1959)では男女の愛欲であったって、それは寓話性ではなくて、まんまのテーマじゃないの。
科学の多くはわれわれの生活を幸福にしていくものだろう。しかし、その一方で、われわれは原水爆をはじめとして、科学に抜き差しならない不信感をも持ち合わせている。B級SF映画におけるチープきわまりない“最先端科学”描写、それは、われわれ庶民の、科学に対するささやかな批判と風刺に、結果的に成りえているのである。
科学に対する不信感を、チープきわまりない“最先端科学”描写として示すのが、われわれ庶民の、科学に対するささやかな批判と風刺って、じゃあなにかい、唐沢の下手くそな似顔絵描いて「コイツ バカ ヤーイ」なんてチープ極まりない罵り言葉を添えるのが、庶民の意趣返しだってのかい。
おきやがれってんだ。
で、この文章を読んで『4Dマン』がみたくなった人っている?
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儒学者
藤岡先生
>上記の『Fantasia Mathematica』が翌59年、『第四次元の小説』として荒地出版から翻訳刊行されている
「荒地出版」ではなく「荒地出版社」です。
どうも唐沢氏は書誌データをまともに書くことができないようですね。コピペでレポートを出す学生などにも共通して見られる特徴です。
藤岡真
>儒学者さん
>コピペでレポートを出す学生などにも共通して見られる特徴です。
そのものズバリですね。
にしむら
>コピペでレポート
原稿用紙○枚書かなきゃ駄目なレポートをとりあえず埋めましたと言うやつ?
このような文章提出しなきゃ、駄目と誰が決めたのかな。
そういえば、ドラキュラが数カ所ドキュラになってます
tochica 『4Dマン』、懐かしいです。僕らの世代はテレビで観ました。「4次元のドラキュラ」が的を射ていると言いますが、ドラキュラは別に血を吸った相手を老化させることで恐れられているわけではないので的外れだと思いますけどね。かえって吸血鬼のような主人公を想像させてミスリーディングでしょう。
猫遊軒猫八
マジソンズ博覧会より最低映画館「4Dマン」。
http://www5b.biglobe.ne.jp/~madison/worst/doctor/4d.html
比較するまでもなく唐沢の書くものは余計な部分が多すぎる。
しかも、なんだかわからない。
藤岡真
>にしむらさん
コピペしなけりゃ文章なんか書けないと、もう居直っているようです。
>tochicaさん
『わーすごシネマ』以前は名作という評判でした。後年ビデオをみたら、うーむ、という映画でしたが。
>猫遊軒猫八さん
もう普通の映画紹介は無理だと自覚して、文明論持ち込もうとして、玉砕、支離滅裂になったということでしょう。P&Gとコピペしか能力のないライターのやることですから。
TDF
重箱の隅ですが、『ガス人間第一号』でガス人間を誕生させてしまったのは、田宮博士ではなくて佐野博士(村上冬樹)ですよね。
田宮博士はガス人間対策を立案した側だったような。
東宝特撮のマッドサイエンティストと言えば、他にも『キングコングの逆襲』のドクター・フー(天本英世)とか、『メカゴジラの逆襲の』真船博士(平田昭彦)とか。
少なくとも「ほとんど登場しない」ということはないですよね。
TDF
申しわけありません。ドクター・フーは余計でしたね。
引用部分を斜め読みしていました。失礼しました。
藤岡真
>TDFさん
あ、佐野博士の方でしたか。実はそのところ、曖昧なまま書いていました。訂正します。
丘丘+郎
>今でこそ四次元なんて言葉はドラえもんのポケットの名称で幼稚園児まで知っているが、1959年には空想科学小説マニア(上記の『Fantasia Mathematica』が翌59年、『第四次元の小説』として荒地出版(ママ)から翻訳刊行されている)以外の一般人の大半はそんな言葉、耳にしたこともなかったろう。
いや、だから戦前の日本には海野十三「地球要塞」(昭和15年)という四次元の概念を扱った少年小説があってですね。
http://www.mobunko.com/160/3239-55.html
都筑卓司氏が少年時代にこれを読んで、宙づりにされた戦艦のイラストに感銘を受けたというエピソードは、SFファンのあいだでは昔からけっこう有名な話なんですけど。
そういえば藤岡先生と海野さんは、大学の先輩後輩の間柄でしたね。
アーヴィンショーテス
あれ、そもそも「4Dマン」は1956年製作では?
江戸木純さんも仕掛け人といわれるほどのもんでもないし。
それに、劇団四季はまったく、ぜんぜん関係ないでしょ。
altnk
>アインシュタインの相対性理論で四次元という概念自体は理系の人間には理解されていたろうが、
本当に何を言ってるんでしょう、光と重力の理論となんの関係が?絶好調ですね、唐沢さん。
藤岡真
>丘丘+郎さん
「四次元」という言葉一つとっても、唐沢がSFというものに全く無知だと分かりますね。蔵書の山に対して「これ全部読んだんですか」という質問を愚問と斬捨て、それには一理あるんですが、唐沢の場合「一冊も読んでいなかった」んでしょう。
海野十三は大学の学部の学科(電気工学科)の先輩です。
>アーヴィンショーテスさん
IMDbの"The 4DMAN"だと1959年になっていますね。
>altnkさん
(特殊)相対性理論は古典物理学として高校課程の物理で学びます。唐沢はもうその時点でギブアップしてるんでしょうね。
桃李庵主人
一般じゃなく特殊相対論の場合なら、4次元ったってまだユークリッド空間の話ではあるんですが、
いずれ「4次元」を何か特別の(恐ろしげな)もののように扱うフィクションの不思議な「伝統」について
何も啓蒙的なコメントはしないで、逆に「我々庶民」とか平気で書いてしまう嘘くささ(唐沢の「庶民」像が
チープだってことでもあります。なめてるわけです。「庶民」の読書力・理解力を)、言葉の軽さ、
薬学を学んだっていうせっかくの「理系の経歴」との結びつきの希薄さ…
なぜこう、「深く下ろした根っこがあってそこから語る」のでなくて、いつも徒手空拳でゼロから適当に語っちゃうのでしょう。
唐沢さん、あなたはそんなにも「学問」が面倒臭いのか、そんなにも「アカデミズム」が敵に見えるのか、
と、悲しくなります。いい歳して、なぜそうオーソドックスなものに対していちいちハスに構えるのか…
素直に学んでみればいいのに。オーソドックスなものだけ集めたって世の中は十分豊かなのに。
スター・ウォーズならぬ、「スキゾ・キッズ」の第一世代なのかな。
藤岡真
>桃李庵主人さん
アカデミックな学問が苦手=実社会の実学が得手という根拠のない自信を持っていたようですね。裏の社会に通じているとか、世渡りが上手いとか。馬鹿はなにをやっても駄目、の見本のような人です。
>「スキゾ・キッズ」の第一世代なのかな。
そんなこと唐沢に言ったら、悶絶死しそう。
アーヴィンショーテス
IMDbはアメリカでの公開年しか書いてませんね。ソフト会社の資料だと56年製作になってます。
ツッコミどころ満載だけど、急激に老化して破滅していく兄の末路が哀れな話でした。
ぼんくらのくせに女にモテる弟と不器用な兄の愛憎渦巻く葛藤にひかれたのかもしれませんね。
藤岡真
>アーヴィンショーテスさん
>ソフト会社の資料だと56年製作になってます。
そうなんですか。海外の映画に関しては、ずっとIMDbのデータを至上のものと思っていました。
古賀 2011/02/20 17:45 藤岡さんはちゃんと「謝罪をする勇気」をお持ちの方だと信じておりました。
考え方が違う点や自分の信念についてまでは曲げる必要はないと思います。あまりお気になさらずに。
猫まんこ 2011/02/20 18:14 藤岡様が謝罪されるのは色々熟慮されての事だと思います。
しかしながらそれ藤岡様の最初吉田豪批判が間違っていたと言う事には勿論なりません。
そこは儒学者様のおっしゃる通りです。