近ごろ目立つ「あれこれ好調な韓国に学ぼう」という話ではない。しかし日韓の関係を考えるヒントにはなると思う。
90年代初め、中年の語学留学生としてソウルに住んだ時のこと。著名な仏教寺院にも学校裏の山寺にも、墓地がないのを不思議に思った。知り合った韓国人の話では、仏教徒の場合、火葬後の遺骨もすりつぶして野山にまいてしまう。では韓国に多いという土葬の墓は何かと聞くと、あれは儒教式だという。儒教は宗教でなく道徳の教えだと思っていたので驚いた。
帰国して読んだ「儒教とは何か」(加地伸行著、中公新書)によると、もともと遺体に仏教的意味はない。遺体や「お骨」を重視するのは、霊魂が戻ってきて「よりつく」ことを想定する儒教の方式だ。仏壇の本尊を拝み、読経するのは仏教だが、祖先の位牌(いはい)に向かう慰霊や墓参りは儒教の儀礼だという。
そういえば「儒仏混合」という言葉を日本史の授業で習ったような気もするが、具体的に考えたことはなかった。
詳しい儒教論は専門家にお任せする。ともかくこの経験を契機に、私は自分の宗教観を整理することができた。
故郷の実家の仏壇には曹洞宗の本尊である釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)が鎮座しているが、隣には真言宗の開祖・空海(弘法大師)の立像もある。家の中にはほかに神棚、不動明王、えびす・大黒のコンビが同居している。裏庭には家を守る「地の神様」も祭ってある。日本では、この程度の神仏混在は珍しくないだろう。
青年時代には無節操と見えたこの「何でもあり」の伝統を私はふんわり愛することにした。その他の「整理」の結果は割愛するが、自分を見つめ直すきっかけを韓国で得たことは印象的だった。日本と「似ているけれど違う」隣国が、「鏡」の役割を果たすのだと思った。
次は摩擦の話だ。同じく90年代初め、従軍慰安婦問題が焦点となり、韓国メディアの対日批判は時に常軌を逸した。
例えば太平洋戦争中にソウル(当時は京城)の小学校6年生から選抜された児童が「女子挺身(ていしん)隊員」として富山県に送られたことを示す学籍簿が見つかると、ある大手紙は社説で「日本軍が12歳の少女たちをなぐさみものにした」と決めつけた。
同じページの解説記事には、「韓国では挺身隊と慰安婦が混同されてきた。今回判明した事例は軍需工場への勤労動員」との趣旨が明記されているにもかかわらず、である。
後にソウルで常駐勤務した間も時々噴出した歴史がらみの粗雑な報道、一方的非難には、いつも怒りを禁じ得なかった。それが多少和らいだのは90年代後半、韓国側の記者数人から「実は我々もうんざりしている」という本音を聞いてからだ。
「歴史問題で日本批判の材料があれば、強く書かねばならない。他社より穏健だと読者から抗議が来る。いったん反日の空気ができてしまうと抵抗できない。我々は縛られている」
ハタと思い当たるところがあった。「空気に縛られる」という現象は日本でもあることだ。そして自分自身の思考も完全に自由なわけではない。成長過程で身についた価値観や常識は、日韓で相当違うだろう。こちらが「韓国人は発想がおかしい」と思う状況では、先方にも強い違和感があるのではないか。
そのように思えて、批判的な見方は堅持したまま比較的冷静な対応ができるようになった。「鏡」の効用である。
以上はソウルで暮らした計9年の記憶の、ほんの一部に過ぎない。もっと強烈で「嫌韓」のタネになりそうな体験も数々ある。世紀をまたいで盧武鉉(ノムヒョン)政権時代の日韓摩擦も経験した。
だから全く正直に言って、個人的な対韓感情の平均値は「愛憎相半ばする」といったところだ。しかし自分を、日本人を、そして日本を映す「鏡」として韓国に向き合う姿勢を、90年代後半以降はおおむね維持してきた。それが韓国と韓国人を知る最良の方法でもあると考えたからだ。結果的に良き思い出は残り、不愉快な記憶は薄れた。
しかも、長い目で見れば日韓関係は大いに改善した。韓国が経済発展と自力での民主化を達成し、日本との競争に勝つ場面も増えて、人々の心に余裕ができたことが大きいだろう。もう互いを激しく憎んだり、侮ったりする時代ではない。
それでも「似ているけれど、違う。違うけれど、似ている」という関係は続く。そこが面白い。双方が、相手を「鏡」として活用すればいいと思う。
毎日新聞 2011年2月20日 東京朝刊