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14/12/4 智乃花

黒柳「智乃花伸哉さんですよくいらしてくださいました。まあ「先生、先生」という声が土俵にかかった方でいらっしゃるんですけども9月の28日に国技館で断髪式がありまして、そして今のような。まだこれにおなりになってまだちょっとですけども


智乃花≪そうですね


「どんな気持ちで?


≪なんかちょっと寂しいですね。


「やっぱり


≪普段ついていましたのでね。あのちょんまげが。ときどきこう触ったときにあれっていうような感じで


「そうですよね。


≪ついてないという感じですけどもね。


「でもまた笑いになったりするときが楽でいいんじゃないですか?


≪そうですね。毎日髪を洗えますんで。


「キっと引っ張られているわけですよね。髪の毛がいつも。あれはやっぱりかゆくなったりするんですか


≪なります。最初は慣れない時、まげを結い始めの時は全体的に引っ張られているですよ。目までつり上がるというか


「だいたいつり上がりますよね。


≪現役時代はもうちょっと厳しい顔をしていたと言われましたけども髪を切ったら目尻が下がったものですからなんだかね情けない顔になったんですよね(笑)


「そうですよ時代物の方っていこうやって引っ張っているから目が上がっているんだ。あれは全部取るとずっと全部下がってくる。お相撲さんもそういうところがあるかもしれませんねぇ(笑)それにしてもを国技館で断髪式ができたということはもう本当に夢のようなんですって


≪そうですね。入門当時は考えてもみなかったですからね本当にあこがれていた夢がかなったといいますか。


「しかも9月28日というのはたまたまなんですかこの日国技館が開いていたからだそうなんですがお父様のご命日だったそうで。


≪そうなんですよ。まあたまたまですけどもね。ちょうど6月、辞めて半年後にだいたい東京場所が1月5月9月にあるんですけどもその東京場所後に引退相撲が行われるんですよ。9月場所が終わってから


「去年の


≪ええ、6月と思っていたんですがちょうどあのW杯もありましたし、まあお客さんが来てもらいたい、来てもらいたかったものですから9月に


「そしたらお父様の


≪そうなんですよ。そしたらたまたま重なって。


「3年前にお父様お亡くなりになって


≪ええ。


「じゃお父様はその晴れ姿をご覧になって。一応晴れ姿というか土俵でお相撲とってらっしゃる姿をご覧になって


≪見てたと思いますけどね。直接会場の方に来たというのは聞いたことはなかったんですよね。生前は。


「そうですかそれはちょっと残念で


≪まあ隠れて見ていたのかもしれないですね。


「ご存じないですか。


≪聞いてないです。


「そうなんですか。でもとにかく学校の先生をしてらして小結まで進むというのは並大抵のことじゃありませんでなんといったって入門なさったときは27歳5というですから。素質、体力そして小結になった年齢が29歳


≪そうですねぇ。29のときに。


「ですから素質、体力共に奇跡に近いと言われて、それで年齢が29歳だったんでそれがすごくて小結におなりになったんですけども。入門なさったとき27歳。ですから2年間であっと言う間にまあを小結におなりになった


≪はい。


「(写真)これはだから今髪の毛がちょっと似ているんですけども全然お入りになったときのですね。


≪ハイでそうです。入門の時の写真になりますけども。


「ですから新弟子になったときが27歳。そうすると普通みんな中学生ぐらいの子供の人がいっぱいいるわけでしょう。新弟子って。そうするともう本当に教え子のような(笑)いを


≪何かちょっとね


「そういう子たちが今度は先輩になってしまう。


≪はい兄弟子ということですよね。


「そうですのねそこのところは別におつらいところはなかったですか?


≪今まではね生徒を見て生徒指導していた立場だったんですけども今度はその兄弟子といわれる逆に生徒の方から指導していただくという(笑)形になりますからね。ちょっと戸惑いましたけどね。


「でもその時は27歳で新弟子でよかったんですけどその次の年というかその年から智乃花さんが入れたときから何か年齢制限が下がったんですってね。


≪年齢の規定ができまして22歳・・・あいや20歳までに入らないといけなくなって。


「21歳ですかね。


≪20歳までに入らないといけない。


「だからあのぎりぎりだったんですよね。


≪そうですね。


「だって27歳で入れた方とですよ20歳ぐらいまでに入らないといけないという方ではずいぶん違いますよね。ですから年齢の高い新弟子検査をお受けになったということではこれはレコードですかね?昔はあったんでしょうかもっと


≪昔はどうですか(笑)なかったんでしょうね。私が初めて、規定がなかったので入れたというところもあるんでしょうけども


「年齢規定がなかったんですか。それはよかったですねまあ初めの志しをそこで通したということになるんですけども。まあ先生でいらして山口県立大津高校の体育の先生をしてらした。それでですからその時は先生ですから結婚もしていらしてお子さんも2歳になっていた。


≪はい


「その時にあの相撲に入ると奥様におっしゃって


≪はい


「そしたら奥さんは何とおっしゃったんですか?


≪いやあの学生時代から私女房を知っていますのでねブランクありまして結構やせていたんですよからだが。20キロほど。


「その前はすごいですよ平成元年にはアマチュアで1番大きい大会チャンピオンが集結する全日本相撲選手権大会で優勝をなさったんですよね。そういうの奥さんは全部見てらっしゃる。その時はもっとパンパンだったんですか。


≪ですけども体がしぼんで。体のことを心配してくれましたね逆に。プロの世界に入ってその体で大丈夫なのというようなことが心配だったみたいで


「奥様はあの頃大学生のときあのもそのころからお知り合いだったんですから先生になるもっと前からお知り合いだったんですから大学生のときは茹でたウインナーみたいにあの張りのある体だったじゃないって本当に大丈夫なのやっていかれるのって奥様がおっしゃったって


≪そうですねその一言でとりあえず3カ月はトレーニングをして頑張ってちょっと元に戻るかどうか確認したいということで


「先生をなさりながらですかそれは?


≪そうです。


「それでトレーニングをしてご覧になったらソーセージに戻ったんですか?


≪いいえソーセージには戻らないですけどもね(笑)ちょっと徐々に徐々にではありますか筋肉の張りもでできたというんで


「でもお相撲のときのいいお相撲をおやりになっているのを見ると奥様としてはじゃいいんじゃないという最終的には


≪まあ私もそのプロの相撲のレベルというのがとても雲の上のレベルですけどもね。本当にうちのカミさんにしてもプロがどれぐらい強いのかというのが知らないですよね。だから本当に夢として


「アマチュアとしてはもしかしたら日本で1番強かったにしてもプロとは全然どのぐらい違うのかというのがあまり


≪ただどこまでそのいけるのか夢を持っていってみようという気持ちになったんですよね


「でも大学は日大に行っていらっしゃったんだそうですけども奥様とは日大の大学生のときにお会いになったそうですけども、あの合コン(笑)今はやりの合コンでお会いになったそうなんですけども。【写真】あのこれは日大相撲部。日大相撲部は本当にたくさんのお相撲さんを出してらっしゃいますよね。輪島、横綱の輪島さんとか荒瀬さん出羽の花さん大野海さん?舞の海さん。舞の海さんもそうですよね


≪私この時3年生なんですよ。4年生のときに入学してきましたのでまだこの時はいないんですよね。


「でも下級生ではいらっしゃるですよね。


≪はい。


「トチツカサさんとかオオノ海さんとかいろんな方がいらっしゃるんですけどもその時の奥様とデートするときのいでたちが。紫色のなんですか?


≪恥ずかしいですけどもその当時はレギュラーにならないとジャージ、紫のジャージだったんですね。


「相撲部で。


≪ええ相撲部で。でレギュラーになったら支給されるんですよ。レギュラーとしてその大会にそのジャージを着て人。でまあそのそれが誇りだったんでそれを1度着てみたいというあこがれがあったんですけども実際着たらですねもうそれが一張羅みたら感じになって(笑)そればっかりを着てたっていう。お気に入りで


「奥様のデートの時もうれしくてあこがれの紫色のジャージ。それに雪駄という格好が1番よかったんで奥様はそういう方とよくデートしていらっしゃったということになるんですが。ですが本当にいいのねということでとにかく何年間は待っててくれと。結局別々に住まなくてはならないことになるんですよねお相撲をはじめになると本当にプロになっていくことになると。


≪そうですねええ。まあ入門したときには


「立浪部屋にお入りになって


≪立浪部屋に入門しましてまあひとりで、ひとりでというかみんなと一緒に生活をしていかなくてはいけないので。まあ別々に生活をしていたんですけども。


「当時2歳の子さんがいらっしゃったんですが。立浪部屋というのは旭豊関が今


≪はい師匠で


「そうですよね。もともとは立浪部屋というのはあのお相撲さんとしては大変すごい方なんですね。


≪そうですねぇ


「羽黒山


≪はい


「私横綱羽黒山って子供のときにメンコをもってましたよ私。横綱羽黒山ってすごかったんですよね。その方のお部屋にまあお入りになりましてだけどそこで離れ離れに暮らさなければならないということがそれはまあ奥様にとっては里に子供を連れて一応帰ると。


≪そうですねぇ実家の方に


「まあとにかく新弟子の検査が受かってそれでまぁとにかくやってみるということになって奥様もそれじゃ。でもあちらの奥様のご両親という方が非常にさばけた方で


≪そうですねぇ割とですねぇ気さくでまあそこまで真剣にとらえない家庭でしたんで、まあ私が夢を持って思い切って入るときにもまあ協力していただいたんですけどもね。


「そうですってね。なるべくならサポートしてあげなさいと娘におっしゃってくださるようなご両親だったそうで。だからよかったともいえますよね。


≪そうですね。


「何だってそんなにね先生でこれでずっと行けると思ったのに(笑)途中からお相撲になるのさ!っていうお家だってあったと思いますけども。でもまあそれでもっていよいよ入ることになってまあそれから大変な10代の人を兄弟子と思ってお稽古が始まるわけですよね。でもまあ夢というものはかなうものだなとつくづくやろうと思えばと思うんですけどもちょっとコマーシャルがございますでこの先はコマーシャルの後で。





黒柳「それでまぁ教えてらした学校、初めは中学であとは高校教えてらしたそうですけども。もとは大津高校の体育の先生、山口県立。校長先生からいってらっしゃい、生徒からはみんな先生いってらっしゃいといわれて初土俵。初めてのその土俵にお上がりなったときはどんな気持ち


智乃花≪う〜ん、3月場所で初土俵を踏んだんですけどもまあ皆さん大きかったですからもすごいところに来たなと失敗したなと後悔しましたよね。体だけみたら


「そうなんですか。でも実際やってご覧になると


≪支度部屋に入ったときもからだが大きくて


「皆さんがね。


≪ええ。ですけども入った以上はで一つ一つ階段を上るようにしてやっていくしかないので本当にもう勝たないと上がっていけない世界ですから本当にこう1番1番勝ち星を積み上げていくしかないなと実感じましたね


「ただその時に舞の海さんがあの大学では後輩の舞の海さんが活躍なさっていてああいう体が小さくても、それから若乃花さんもどちらかというと体があまり大きくなかったですよね横綱におなりになったんですけども。そういうことで


≪目標にする力士でしたよね


「そういう方たちがね。さて初土俵の日が終わってお家に電話をかけになりました。赤電話からそしたら奥様の声が


≪そうですねぇ私も勝ち越してほっとしてなんとか勝ち越せたようと連絡をしたんですけどもでちょうどあの私が入門するときに子供が具合いが悪かったんですよね。で病院にちょこちょこ通っていたんですけどもに詳しくは分からなくてちょっと引っ越しとかもいろいろ重なりまして子供が体調を、肺炎だったということで


「そこのところ最近なんですけども奥様がちょっと婦人公論という雑誌に今だから話せるということで書いてらっしゃるんですね。ですからそこをちょっと後でびっくりなさったと思うんですけどもちょっとご紹介してよろしいでしょうか奥様ごめん遊ばせ。”引っ越し準備や連日の取材攻勢が続き私の不注意で息子の風邪をこじらせてしまったんです。生活がいきなり1度にへ180度変わってしまって自分自身も毎日何をしているのか分からない状態でした。息子の熱は1週間も下がらず大きな病院で紹介されたものの教師を辞めたばかりで保険証がなかった。場所中の主人にこちらから連絡を取れない、向こうから電話がきても初めての土俵だから相撲に専念させてあげたい。心配をかけちゃいけないでも保険証を一刻も早く用意してもらいたい。どう切りだそうとなかなか本当のこと話せなかった。息子はとうとう肺炎で入院をすることになってしまいました。今まですべてのことを主人に相談して2人で解決してきたのにそれができなくなってしまった。一気に自分の肩にズシンと重いものがのしかかってきたような気がしました”とこんなふうに書いてらっしゃるんですけどもびっくりなさいましたでしょうその時は後でお聞きになったときは肺炎にまでなっていたというのは


≪そうですね最初は言わなかったんですよ。保険証をとにかくちょうどあの先生のときの保険証は返しましたからで入門したときに協会の保険証があるんですけどもまだ手続き上遅れていましたのでね。ちょうど重ならなかったですよね。


「その奥様も保険証、保険証とおっしゃるのは月給がですねお相撲になった時に60,000円になっちゃったんですって。これはちょっとね思ってもみないぐらいに少しになっちゃうんですね。


≪ただやっぱり保険証保険証というからなんでそれだけにこだわるのかなと思って。まあついつい言葉が詰まって泣き出したものですからね電話の向こうで。で実はコウコウでということで私も何をしているのかなと思いましたよ。自分も落ち込みましたしね


「まあそれがバネになってやらなければと。へんでもまあとにかくお子さまは肺炎はうまく乗り越えて?


≪そうですね。


「それはよかったですね。とてもお元気で。【写真】これは何のときのお写真ですかかわいいの


≪これはちょうど私がアマチュアの全日本選手権をとって、とった年の記念写真で一緒に子供と一緒に撮ったんですけども。ちょうど生まれたときですね。


「ねぇ赤ちゃん、ウンと赤ちゃんですよね。でも子供が赤ちゃんなのに何かうれしいということが分かるんですかね(赤ん坊の顔が笑っている)。うれしくしていますよね。なんか本当に笑っているような感じで。このお子さんもずいぶん大きくおなりですよね。


≪はい。今は全然かわいくないですけどもね(笑)


「今はかわいくない(笑)いくつぐらいおなりになったんですか?


≪もう13歳になりました。


「もう中学生。あっという間ですね。そうなんですか。じゃいろんなアマチュア時代にはいい成績をたくさんとっていらっしゃったんですね。(写真)少し大きくなったころのお坊ちゃんですけども、まあアマチュアとしては本当にナンバーワンというところまでいらっしゃったんですけどもとにかく先生をやることになったんですけども目標がないと。そしたらなんか叔父様という方がすごくお相撲がお好きだったんですって


≪はいアマチュア相撲ではおじさんがやられていたんですよね。


「おじさんもアマチュア相撲


≪そうですで大学まで


「ちょっとお相撲が好きだったけども野球をやったりなんかしてらしたんですけども何かお父様がいらっしゃらなくなって


≪そうなんですよね。家庭の事情がありましてね離れ離れになったんですよ。まあそこでおじさんの所に一緒に居候


「めんどうをみてをもらいになるようになったらおじさんがお相撲がお好きだった。


≪それまで知らなかったんですよお相撲やってるってね。


「そこでまた相撲をやりたいというふうに。


≪無理矢理というか


「そうか初めはそんなではなかったんですか。


≪私も小さかった、子供とき小さかったですけどもね


「からだが


≪おじさんが相撲をやっているということでお前もちょっと体を作るために相撲をやれというような感じで


「その時におじさんが相撲を進めてくれなかったらお父様のこともあったしお母様と離れて暮らすとかいろんなことがあってもしかしたら悪い道に行ったかもしれない


≪今の自分はなかったですね。


「そう


≪それほどやっぱり今まで相撲に対してもね


「じゃあもしかしたら違う道のうーんと悪いというか(笑)不良少年のようになったかもしれないだけどもそこで叔父様がとにかくそれのためにもとにかく相撲やれ相撲やれということで負けて悔しいということで結局高校も相撲部にお入りになるというふうにだんだんになっていって、だけどそこであれですよね先生になったからといって、先生になるときね相撲の方にはいかないで先生におなりになったというのはやはりお体のことでしょうかね大きくないという


≪まあそれもひとつありましたけどもやはりその大学の4年間でもう燃焼しましたね。


「日大に入って、日大の相撲部でですねさっきも申し上げましたように日大はたくさんのお相撲さんを出してらっしゃるんですけども。そこの相撲部でですね全日本学生相撲選手権5連覇というのを達成したその、その5連覇を達成した時にいらっしゃってこれはすごいことなんですってね。


≪そうですね。もう本当に


「(写真)真ん中にいらっしゃるのが今日のお客様ですけども


≪日大は常にこう優勝しないといけないという、まあ強い大学ですけどもそこで必ず優勝しないといけないという立場にあるんですよ。


「その時しかもキャプテン、主将。主将をやってらしたそうです


≪4年のときに主将を任されて戦後初の5連覇というのでずいぶん悩みましたね。私も今年で38になるんですけども、この時ほど真剣に悩んでも負けたらどうしよう死ぬしかないなというぐらいに悩んだことなかったですね。


「だからあの時あんなにうれしそうにしてらっしゃるんですか。ちょっと写真をもう1度。あの写真がとてもうれしそうなんです。やっぱりさっきの前の写真と比べるとやっぱりうれしい。


≪嬉しかったですね。これが1番今まででも1番。このときほどうれしいことはなかったですね。


「すいません。左の人は腕をつっているんですけどもけがをしたんですか?


≪そうですねぇこの大会でちょうどけがをして


「お気の毒でしたね。この方は今お相撲をやってらっしゃるんですか?


≪今高校の先生で相撲部の監督も


「あ!そう今日見てらしたらね生徒さんがこの先生と先生はお友達だったんですよ。


≪まあ副キャプテンだったんですけどもね


「え?


≪彼が副キャプテン。


「そうなんですか。懐かしい写真ですよね。そういうのって





黒柳「で奥様と子供さんと一緒に住めるようになったのはどれぐらいたってから?


智乃花≪えっと11月に新十両になりましても12月にすぐに


「じゃ割とすぐに。じゃよかったですね。お相撲を取りになった中の成績の中で1番いいのはどれかなと私は思ったんですけどもちょっと取り直しはあったんですけども横綱曙さんの1戦がすごかったですよね。


≪まあ記憶にありますね。


「やっぱりあの方は大きいですか?


≪大きかったですね。


「だいたい2メートルぐらいおありですからね。


≪そうですね。私のちょうど目線がちょうどこのミゾのあたりに


「みぞおちのあたりに。岩のようですよね。


≪そうですねぇとにかくあの手も長かったですし。すごい方でしたね。


「でもその時はとり直しがあったんですけどもしかしてあなたが勝ったかもしれないといういうふうに思った人もずいぶん


≪まあ取り直しで負けましたからね(笑)


「まあ取り直しで負けるということはあると思うんですけども倒れこんだときに同体というね同じということなんですかね。だから見ていた人は勝ったんだ曙を、倒したんだって思った方もいらっしゃったようでしたけどもまあそれはやっぱり覚えてらっしゃる


≪覚えていますね。まあ横綱が1人でしたんでひとりで結びの1番というので記憶にありますね。


「でもまあそれにしてもケガが多くて右ひじ剥離骨折、足のじん帯断裂、頚椎も悪くなり腰もずっと悪くなり背筋股関節足首も全部悪くなりという感じで(笑)万全という体制でお出になったときはあまりなかったんですね。


≪あんまりないですね。もう場所ごとにだいたい1カ月半2カ月あるんですけども、15日間場所がありますんでねだいたいそれを1カ月半ぐらいで治療しながら直していかなければいけないで本当に直す時間がなかったですね。


黒柳「いずれにしましても平成での相撲ブームを引っ張ってらしたお一人であることは間違いありません。先生からお相撲さんになったということで先生、先生という声がも本当にああやって響いたんですから。何かそういうことをご本にお書きになったんですって?


智乃花≪そうです。”不屈”という本をですねまあこれは自己満足なんですけどもね(笑)まあひとつの節目としてですね何かちょっと本に1冊の本にまとめたいなと思いまして


「やっぱりやりたい夢が現実のものとなりそしてたくさんの人々に勇気を与えたということでは本当に智乃花さんがなさったことは素晴らしいと思います。ちょっとあの今のお仕事うかがはなかったんですけども今親方でいらして


≪はい、立浪部屋の部屋付き親方として準親方としてですね


「若い人たちを。奥様はどうですか今はほっとしていらっしゃいます?人にん


≪何かとやっぱりバタバタと


「それまたは親方の奥さんですからね。やっぱりそれはそれでお忙しい。


≪何かしらで用事があるみたいですね。


「それにしてもご自分の夢だったお相撲さんに本当に土俵に上がったときのやっぱり喜びは?


≪そうですねまあこれからまた何かその夢を持って頑張っていきたいと思いますけどね。


「そうですね。生徒さんたちも皆そう思ってらっしゃると思いますけども。やっぱりであの先生先生という声が今も忘れられません。ありがとうございました(拍手)


≪いいえいいえ(笑顔)


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14/12/5 福岡 翼

黒柳「福岡翼さんですよくいらしてくださいました。


福岡≪こんにちは。


「本当にこう言ったテレビなどの芸能ニュースのまあ草分けの方でいらっしゃるんですけども、まあいろんなお話しを伺うんですが大変面白いのは大失敗をなさった話をまずちょっと最初に中曽根ミキさんという方がいらっしゃったんですね。


≪あの川流れるという大ヒット曲を持ってらっしゃる方で沖縄出身の歌手ということで大スターだった時期があったんですが。その方が2度目の結婚して事業をやってらしたんですけども事業が立ちゆかなくなったというんでその取材に走り回りまして本人の取材と旦那さんの取材のテープをもちましてちょうど番組が本番中だったんです。僕はこのテープを担当のディレクターに渡してスタジオに駆け込んだんです。それでその時にテレビのADさんというアシスタントディレクターに中曽根ミキさんの顔写真だけは用意しておいてと叫んでスタジオに入ってそうするともう自分のコーナーが始まったんです。で実は中曽根ミキさんの取材をして今戻ってまいりました。中曽根ミキさんという方はこういう方ですと顔をどうぞと言ったつもりがスタジオのカメラマンがパーと中曽根ミキさんの顔を取るためにカメラをこう動かしてクククって肩が震えたんですよ。え!と思ってあの画面を見ましたら中曽根康弘さんと三木武夫さんの顔が映っていたんですよ。


「そうですって。そんなことって考えられないですけども。聞いた人は中曽根、三木っとも思ったんですね。元首相の2人が。


≪ですから芸能界よりも政治の世界が好きなADさんだったかもしれないですが。あとでね中曽根ミキという名前を聞いて三木武夫さんと中曽根康弘さんの顔が浮かんできて顔写真を選べたねとほめてあげましょうということになりましたけどね。


「それはすごいですね。考えてみれば中曽根ミキさんと私たちは平気でいますがその時にどちらも総理大臣をなさった方だとは思いませんよね。


≪中曽根さん、三木武夫さんとわね


「それびっくりしました。でも見てらした方は驚いたでしょうね(笑)。なんかのね事業の失敗で


≪でも僕も次の言葉が出てこなかったんですよ(笑)。どういうふうにリポートするかと思って。


「そうですよねこれが出ちゃったことをどうごまかしていいのかごまかしようがありませんよね(笑)


≪いいわけができなかったです(笑)。


「そうですねそういうこともあったそうですがなんと言ってもいろんなことがすごいんですけども速記のA級ライセンスを持ってらっしゃると知らなかったんでやっぱりそれはスッスッと書けるんでよかった。


≪まあジャーナリストになりたいですけども四年制の大学に一定時間もお金もかかるなあ。当時は速記というのは非常に新聞社に入社するのには有利だという時代でしたから。であの高知の高校を出て東京に来て速記学校に行きまして1時間に何文字というテストを2年間学習するんですがそれで検定試験というのがあるんです。それで2年目にA級というのにうかりまして。当時はA級B級と言いました今は1級2級と言っていますがその1級に受かると速記士の日一応を免許というか会員証が出るんです。だから一応持っています。今でも速記士の1級免許証。でもねぇそのころのね速記で1級に受かるとこうして雑誌なんかの座談会で速記者が必要な時期が今でも議会はそうですけどもね。先輩からよく聞いていました芸能人の対談の速記なんかをして黒柳徹子さんが1番、例えば1分間にあの言葉をどれだけしゃべるかといったらいい黒柳さんが最高だからおっつかないようと言われていました


「本当に!悪かったわ。


≪いいえいいえ


「でも大江健三郎さんと私がやるというときに若かった時ですけども日本一の(速記者)がまいりましたというからどうしてですか?というと黒柳さんが早いから大変そうだ。大江健三郎さんは終わりのところを繰り返す癖がおありなんですよ。僕は絶望したんですね僕は絶望したんですねというふうにだもんですから。(福岡さんが速記するためにペンと紙を取る)すぐにできるですか。僕は絶望したんですね絶望したんですねといいうふうになるわけです。私はもうどんどんどんどん話をするわけですから。


≪ええ(ここで速記を読み上げる)僕は絶望したんですね絶望したんですねそういうふうになるわけです。


「すごいですね。


≪でもあのねあの時期に覚えた物って体に染み付いてます


「何かの時にやっぱりいいでしょう


≪メモを取るときにあの今でも役に立つとすればこうして話をうかがいながらインタビューをしながらマイクを向けていますけども。ちょっとなんていうのかなあとご本人に内緒のことをちょっとメモを取る必要があるときがあるんですよ。例えばネクタイが似合ってないなというときには(笑)カタカナで書いたりすると読まれちゃうから


「あの鼻水というか涙が出たぞとかね。そういうようなところが書いておけるから。でもすごいですよね。


≪でもを最近はあまり使ってないですけどもね。


「でも今ちょっと拝見しただけなんですけども、あの最後の何とか出そうというその最後のだぞというところまできちっとできるんですね。途中で止めていないで。絶望したんですね絶望したですねというふうに”ね”まで


≪何々ねとか例えば言葉尻に特徴がある人たちの場合はその部分をきちっと自分でわかるような印をつけていたりする場合があります。でも黒柳さんの言葉は早口だけれども非常に発音がはっきりしているから後でこれをいわゆる日本語に直すわけですよね。それが非常に分かりやすいと言っていましたけどもね。代議士先生の場合にはなまりがあったりあるいは早口すぎて言葉が途中で途切れたりすると自分で書いた記号なのにこれはどういう意味だったんだっけって迷うことがありますからね。


「そうですか。まあ心して。そう考えたら昔はね速記の方がそばにこのまま皆さんテープをお持ちになったりねするんで。


≪今はでワープロになってからはたとえば記者会見なんかがありまして皆さん記者会見の取材に来ている新聞記者たちは記者会見が終わったらさっとノート型のパソコン出してパパパッとやっているんです。も編集部の方に届いちゃってるんですね原稿になって。


「すごいそんな時代なんですか。さていろんなお話しを伺いたいですけども高知の土佐清水出身。私は土佐清水は四国に行ったときによく芝居で伺うことがあるんでうかがったことがあるんですけども。足摺岬の近く。そこでお育ちになってお父様が割と中学1年生のときにお亡くなりになってお母様が育ててくださったんですけどもあのお母様がお台所で何かをやってらっしゃるときにその日見てらしたかわいいの映画が大好きでお母様のそばにずっといてお母様のその御台所やってらっしゃる側で観てきた映画のお話しを


≪そうなんです。例えばねぇ当時見た映画で印象に残っているとすれば24の瞳、高峰秀子さんが小豆島の分教場に赴任して初めて受け持った生徒が12人。その生徒と一緒にある日浜で遊戯をして遊んでいたら子供たちが先生を喜ばせようと思って穴を掘っているんですね。その穴にコケちゃって怪我ちゃうんです。自分たちがそのいたずらしたことに先生に申し訳ないんだけどもその先生は学校に来られなくなって1カ月ぐらい家に帰って療養しちゃうんですよ。である時に12人の子供たちがその先生に会いたい会いたい会いたいでも港から対岸の岬に行くためには船なら近いんですが陸路時間がかかると思わないですね子供だから。で親に内証で放課後行って走ってきて走って先生にごめんねと言って帰ってを来ようと相談して12人がその学校出発するんですよ。というふうにそういうことを母親のそばに行ってしゃべっているの。


「かわいい。


≪母親が大根を刻みながらうるさいの!男の子は台所に入るんじゃないのあっちへ行きなさいといって。だけど母ちゃんかわいそうなんだよその後先生の家がわからなくて子供たちが迷ちゃって泣きそうになってどうするん帰りたいんだけども道がわからないという時にバスが来るんだよ。というと母親が大根を刻んでいたのをぱっとやめて「それからどうしたの?」って


「(笑)


≪しめしめと言ってそれから実はそのバスに先生の姿が見えたので「ああ先生だおなご先生だ」と子供たちが追っかけたら高峰秀子さんふんする先生が降りてきてあなたたちどうしたの?と言ったら先生に会いに来た。道に迷ってみんなで手をつないできたというんですよ。そうすると高峰さんがもう涙をこらえて両脇に6人ずつでしっかり12人の子供を抱き締めちゃう。というと母親がそうラストはどうなるの?っていうか


「お母さんもすっかり見た感じになって。映画をしっかりご覧になった感じがしていますよね。そのころには。


≪そこで撮った記念写真がねぇラストシーンでまた泣かせるんだよとか言いながらしゃべっていました。


「やっぱりそんなに小さいときから人間の心の動きとか、きっとそういった視覚的な頭の中にしっかりそういうものが入ってくるとかそういう子供だったんでしょうねえきっとね。


≪きっと口うるさい子供だと思っていたんでしょうね。


「でもお母様はきっとそれで見たような気になって見なくてもいいなという感じできっといらしたんじゃないかしらと思うんだけども。小さいときから。だからやっぱりジャーナリストになりたいというのがちっちゃい時からおありになった


≪願望としてありました。新聞記者か雑誌の編集者になりたいなと思っていました。


「それで東京にいらっしゃいまして速記を習ったりしてたんですけども。女性セブンという女性週刊誌の記者を10年なさって。それからこの30年間テレビに出てらっしゃる。すごいでしょう30年間ですよ皆さん。


≪振り換えればね


「芸能レポーターの草分けなんですけども、あのまず初めに今みたいにカメラなどマイクなどを持っていって何かをうかがうということは全然当時はみんな考えていなかった。


≪まぁ週刊誌新聞紙の時はもちろんペンとカメラを持っていって話を聞いてメモして帰って伝えるでしたよね。そしてテレビでモーニングジャンボ奥様8時半です。という朝の番組があったんですが、鈴木春彦さんと宮崎房子さんが司会をしていた。それで芸能ニュースをやりたいからということになってそれまでの芸能ニュース、例えば鬼沢慶一さんがやっていたのはスタジオにこういうふうにお招きしてご結婚おめでとうございます。


「スター千一夜みたら感じで


≪そうするとゲストのスケジュールが合わなかったりすると成立しなかったり、あるいはまあ結婚の話だったらいいけどもちょっと聞きにくい不幸な話は聞きにくいということがあったりしてなかなかスタジオでの番組が成立しなかったケースもあるんですよね。それで僕がやるようになりましたのはそれを週刊誌のスタイルで取材をしに行ってこうして話すの写真を撮っていわゆるフリップで写真を見ながら紙芝居スタイルでやっていたんですよ。あの左幸子さんのお宅にお邪魔しました。話を伺ってきました。という形でそうすると梨元勝さんはこうそれをマイクを持ってエキトウですとか。飛行場で待ち伏せしてをかける。張り込みをする。そのためにはマイクとフィルムが必要だったんです。


「動くものがねぇ。あの方はそれで始めたの?。


≪そうです。


「ではっきりとお3人はですね鬼沢さんという方はご自分のところにいらっしゃるの来ていただいてお話しをするということの大先輩。あなたは雑誌の記者、というか新聞の記者のようにカメラをもっていって速記でお話しを聞いてきてそれでお話しを紙芝居のようにする。その後に梨元さんがカメラと動く今でいうビデオのカメラ持っていくと。それでそれぞれがやり始めてそれでだんだんととみんな全部がカメラを持ってマイクを持ってどこでもかこでも


≪多分ね。梨元さんも僕たちもそれで追っかけをするようになるんですが。そのころはまだフィルムだったんです。だからフィルムだから


「途中で切れちゃう。


≪そうなんです。せっかく黒柳さんあれからその後どうなさったですか?というと黒柳さんが実はこういうふうにねぇと面白く話し始めたとたんにプツンとフィルムが終わっちゃうんです。


「短かったですからね当時は。


≪もう15分とか20分単位で。そうするとフィルムを巻き直すための時間があったり取り替えるための時間があったりするとその間こうして待っているんです。あれ何だか嫌なもんですね。


「話したくない人なんかどこかへいちゃいますよね。


≪そうそうそうそうなんです。それがだんだん技術の発達でビデオができてしかもその最初のビデオというものは結構大きかったんですがだんだん簡略化されて持ち運びに便利なように


「もう何時間でも取れますからね。


≪そうなんです。しかも失敗したら次それに上にもう1回撮り直しができるようになっちゃってますから。


「戻して上に載せちゃうこともできますから。


≪だからその機械の発達がよくいうテレビのワイドショーの芸能ニュースのまあ加速していった1番大きな原因でもあったと思いますよ。だから駅で張り込んでいたり飛行場で張り込んでいて一言でも何か感想を聞かしてくださいと追っかけ回って。われわれにしてみればありがたい話だったんですがスターさんにとってはちょっと厳しすぎないというのが正直あったかもしれないですね。


「でもアレですね敵というとあれなんですけどもいつか新幹線に乗っていらしたら森進一さんと森昌子さんのことで何かあなたが乗っていらして。


≪あのねそれはね森進一さんが森昌子さんと結婚するというニュースが流れ始める前だったんですよ。それでお2人がおつきあいをしていると結婚するらしいと。ええまさかと当時は思っていましたからね。森進一さんがちょうど大阪の梅田コマ劇場に出演していて東京に帰ってくるというところを大阪駅まで行って僕たちはそのスタッフと一緒に新幹線に乗り込んだんですよ。なんとか取材させてほしいと。森進一さんはちょっとまだそれは言える時期じゃないというところをなんとか取りたいわけですよね。そうしましたらあ名古屋から梨元さんが乗り込んできたです。


「そうだこうだと言っている1時間ちょっとの間に。名古屋についちゃって。


≪それでまぁ森さんも森進一さんのほうも梨元さんと翼さんだからしょうがないかということでそれでまぁなんとか10分くらいだったら。じゃあどうする新幹線の中でフィルムをビデオを回しますかということになって僕と梨元さんは車掌さんの所にお願いに行きまして他のお客さんに迷惑をかからないようにというのが原則なんですよ。だからもちろん森さんはグリーン車に乗っていましたけれどもグリーン車の1番端っこの方にいってそれで10分間だけ話を聞かせてもらってということがありました。


「で東京駅にはいっぱい待っていたんですってね。


≪そうなんです。ああいう話というのは例えばどっかの社が新大阪まで行ったぞ名古屋まで行ったぞというのが東京でばれちゃって


「どうしてわかるんでしょうね。


≪ねえ不思議なんですけどもね(笑)で東京駅で大勢待っているらしいというのが話が入りましてそれは僕が言いだしたんじゃないですよ梨元さんが言い出したんですけども「森さんに横浜で降りたほうがいいですよ」


「そうかそうすると横浜でおりちゃえば自分たちのスクープにもなるし東京駅でいっぱい待っているからいやでしょうかということで森さんは横浜でお降りになったんですか?


≪そうなんです。横浜で森さんを降ろしちゃったんです(笑)新横浜で。


「そういうし烈なね。それもありますし記者会見ということになりますとだれがどこに座るというのがあると思うんですよね。有名なレポーターの方がねぇ。あれ何で決めているですか?座る位置は。


≪あれはね別に何の順番も決めはないですよ。基本的には早いもの勝ちなんですがあのそうすると1時間も早く来る社が出てきたんです。そこで今はねディレクターさんたちがジャンケンでするか。あるいはであみだくじで決めるんです(笑)。それで中央の席はだれそれひっこの席は誰それ。発言の順番も成り行きなんです。


「だからとても有名な方の声が遠くの方から聞こえたりもするんですよね。あれどういうふうになっているのかなと思っていたんですが。


≪割り込むタイミングがあるんですよ。


「そうですかそのお話し大変ですよ皆さんも本当にこちらはこちらででどんどんどんどんお聞きにならなければいけないしこっちはこっちでそのことは聞かれちゃ困るということもあるかもしれないし。それはちょっと面白いんですけどもちょっとコマーシャルです。







黒柳「まあ芸能ニュースをご専門にやってらっしゃるとそこにスターの方がお座りになって記者会見。そこで座る順はこの頃では担当のディレクターのくじ引きまたはくじ引きではなくてジャンケン


福岡≪あみだくじ


「あみだくじで決まるんですけどもその質問なんですけどもこれがなかなか難しい。


≪そうですね質問もね1番最初に聞くのは梨本さんで2番目は翼さんで3番目は例えばどなたかというふうに決まっているんですか?とよく言われるんですが全然フリートークなんですよ。ただあのまあ限られた時間の中で必要なことだけを先にきいちゃおうと思うちゃいますからでどうしても質問がぶつかったりあるいは声の高い方がかったりとかそういうことはあるんですけどもね。


黒柳「まあ芸能ニュースをご専門にやってらっしゃるとそこにスターの方がお座りになって記者会見。そこで座る順はこの頃では担当のディレクターのくじ引きまたはくじ引きではなくてジャンケン


福岡≪あみだくじ


「あみだくじで決まるんですけどもその質問なんですけどもこれがなかなか難しい。


≪そうですね質問もね1番最初に聞くのは梨本さんで2番目は翼さんで3番目は例えばどなたかというふうに決まっているんですか?とよく言われるんですが全然フリートークなんですよ。ただあのまあ限られた時間の中で必要なことだけを先にきいちゃおうと思うちゃいますからでどうしても質問がぶつかったりあるいは声の高い方がかったりとかそういうことはあるんですけどもね。


「私見てて思うのはねその方がねかなりの質問をどなたがなさってその方がどうしようかないってしまおうかなと思う瞬間にその時間が長いとこらえきれないでだれかが違う質問をしてしまうことがあるんですね若い人たちが。残念見てる方では(笑)


≪それでねぇ僕もね記憶に残っているのがね美空ひばりさんがまだ健在だったですが。ちょうどデビュー何10周年かのパーティーがありまして、その時にお母さんが病床にあったんです。それでそれなのにひばりさんの晴れ姿を見てみたいということでお母さんが車いすでそーっと遠くからひばりさんをご覧になっていたんです。それをひばりさんはご存じだったわけ。そのパーティーが終わった後に記者会見があってみんなひばりさんとお母さんの中の良さというのは知っていますからねだから今日お母さんが晴れ姿を見てもらってひばりさん嬉しかったですよね?というふうに聞いたんですよね。そうするとひばりさんがあのひばりさんがぐっと詰まったんですよ。答えに。多分いろんな思いが去来したんでしょうね。ふっとねひばりさんの目に涙が盛り上がっていたの。ああひばりさんが泣くんだというふうに僕たちが質問を控えようという形でみんなシーンとなったんですよ。で多分ひばりさんが涙をこぼすなと思っていましたらそのシーンとなった瞬間を狙ったように「ところで新曲の話なんですが」と割り込んできた新人の方がいたんです。でひばりさんはフッと涙をこぼしそうになったひばりさんがすっと背筋を伸ばしていわゆる戻ちゃったんです。スター美空ひばりさんに。その会見が終わった後ねそういうことは言ってはいけないですけども新人のディレクターと新人にああいう時というのは素直なひばりさんに戻ってひばりさんがお母さんのことを思って流す涙だから多分それは見ている人たちファンの人たちにとってもで非常にいわゆる思いがけない一瞬になったであろうのにという風にねみんなでお説教をしたことがありました。たった1回だけです(笑)


「そうですか。でもそういうことがあるんだと思います。でもそれにしても話したくない人に質問するときにとってもこちらのあまりデリケートでいらっしゃるとなかなか質問もね


≪そうなんですよ。もうひとつひばりさんの話ですか?


「いいですよ。


≪その後ひばりさんが大病してわりとひばりさんを取材で何回かして古い過去のヒット曲なんかも知っているものですから東京キットもカッパブギも。そうするとインタビューはいいわよと言ってくださってたんですよ。で誕生パーティーにも呼んでもらったりしたこともあって。大病してでみだれ髪を吹き込みをしてカムバックよみがえる不死鳥と言われた時にレコーディングが終わった後皆さん、みんなとわれわれも含めてインタヴューがあったんですね。その時にひばりさんの座右の銘というのが”今日のわれに明日は勝つ”というんですよ。


「すごいわね。


≪そうそうそうそう。それを色紙に必ず書いていたんです。


「きょうのわれに明日は勝つ。すごい。


≪要するに未来を見ているですよ。それを慌ててね僕はねぇ昨日のわれに明日は勝つときちゃったんですよ。たった1日違いなんですけども”きょうのわれに明日は勝つ”は明日未来を向いている。”昨日のわれにきょうは勝つ”じゃ過去を向いちゃうんですよね。でひばりさんがあんたとしたことがという感じでジロとにらみましてボケたんじゃない?と言われまして。それ以来ずっと笑顔を見せてくれなくなったんです(笑)


「笑顔を見せてくれない


≪はい(笑)


黒柳「さて芸能ニュースの変遷なんですけども初めはそんなふうにTBSのモーニングジャンボをやっていらっしゃった朝早くとか。それからアフタヌーンショーを梨元さんがやっていたのに鬼沢さんが3時で会いましょうをやっていらっしゃったりしてなんですけどもそのうち3時戦争というのが始まって


福岡≪そうなんです。僕が3時のあなた


「フジテレビの


≪そう。それから梨本さんが3時台で日本テレビで噂のスタジオ。だから午後の3時台のワイドショーが芸能ニュースにこう力を入れるようになったんで鬼沢さん梨元さん翼さんというのが何かねぇうるさスズメのサンバガラスなんて言われるようになっちゃったんですけどもね


「でもまたその時に芸能ニュースとしては石原裕次郎さんの大手術とかももえさんと三浦智和さんのご結婚とかご婚約とかそういう大きいニュースがずいぶんあったんですってそのころ。


≪そうなんですね。あの石原裕次郎さんが大きな手術をするという日がちょうど大雨になりましてねぇ慶応病院の入り口の玄関のところで各社がわっと中継カメラを出して雨かっぱを着て中継をした記憶があるんですが。あのそれと多分そんなに時期はずれてなかったと思うんですが三浦友和さんと山口百恵さんが結婚してレイナンダ教会で式を挙げてお二方が出てきたときのパシャパシャパシャというフラッシュの音と光あれがやっぱり非常に強い印象になっているじゃないでしょうか。芸能ニュースがわっとよくも悪くもにぎやかに取りざたされたあのへんが1種のスタートですね。


「でまあその3時戦争があってで今度は朝の早い奴もあったんですけども今はなんですか夕方になってきているんですって。


≪そうですね夕方のニュース5時6時台のまあ固い政治経済事件の合間に芸能ニュースも入るようになりましたね。


「そうなんですってね。それがこのごろお父さんが早く会社から帰ってくるということもあるんですってね。


≪そうでしょうかね。あるいは奥様方ですとか会社のOLの若い女性たちが芸能ニュースに詳しい。そうすると会社のお昼休みに昼ご飯を食べたりしていても課長や部長さんは芸能ニュースについていけないと若いOLに仲間にされないだからいい一生懸命ワイドショーの芸能ニュースも勉強しておかなきゃという傾向もあるんじゃないですかね。


「それで夕方のわりと早く会社から帰ってくると芸のニュースに間に合うという。それは土曜日にお父様ためのワイドショー講座をやっている局もあるぐらいですからそういうのがだんだん遅くなってきたりしてそういう変遷もなかなか面白いんですけどもいつのまにかここのところだんだん芸能ニュースの中に政治が入ってくるようになりましたね。


≪そうですね。たとえば田中真紀子さんの出現


「そうそうあのころからね。


≪そうですね。やっぱりあの田中さんの、それから辻元清美さんのキャラクターというのもワイドショー的といいましょうか芸能ニュース的な部分もありましたからね。


「そうですよね私田中真紀子さんの私ちょっとアフガニスタンから帰ってきたときなんで真紀子さんの私的懇談会のメンバーの一員だったんですけども。たぶん政治の人は絶対聞かないなと思ったんですけども終って出てくるときにいらっしゃったんですね。でも私なんかにものをお聞きにならないと思ったら後ろの方から「お弁当何が出たんですか?」と言われたときにこれはワイドショーの人だなと思って。幕内お弁当と言ったら幕内お弁当のどういうの?と言われたからお刺身の入っていない1番安いやつといって私は出たですけども、やっぱりあとでわかったんですけどもその方は芸能ニュースの方でしたね。やっぱり政治経済の方はあまりそういうことは、真紀子さんはねお金を使うのはよくないとおっしゃる方ですからそういうお弁当が出た。ちょうどお昼だったものですからね。そういうのってあとは次々政治のねぇニュースが芸能ニュースに入ってくるようになりましたねこのごろは。


≪そういう意味では政治をわりと身近に感じる機会をつくってくれている。功罪いろいろとあると思うんですけどもね。僕は割とプラス思考で考えたいですね。


「そうですね私もそう思います。





黒柳「もう時間もそろそろないんですけども福岡さんは1番こうポリシーにしてらっしゃることってなんかありますか?


福岡≪よくねプライバシー侵害じゃないのとかやりすぎじゃないのと言われたりしてきましたけども僕はねずっと自分がこういう仕事始めたときからタレント本人は追っかけられたりな取材をされたりするのは致し方ないと。不特定多数の人に知られることによって商品価値が上がっているわけだから。でも家族ですとか子供ですとか恩師とかつまりその方と直接かかわりがあってもマスコミの前に出て商売している人じゃない場合は本人の許可なしにはインタビューしてはいけないというそれをずっと守ってきているんですよ。だからピンポンとかいって「お留守です」という声を放送するというのは伝えるべき情報が何もないのに「只今自宅の前に来ております」というのはちょっと寂しいなと思っていましたから。それはずっと守っています。


「ああそうですか。でもいろんなものやっていらっしゃってな九州の方でもテレビをやっていらっしゃったりラジオもそれからここのお昼の金曜日


≪はい


「ワイドスクランブルでもやってらっしゃるんですけども。やってみたいことって他にありますか?


≪(笑)あのね気になっている女優さんの生涯を何とか文章化したい


「そうですか。


≪田中絹代さん型か?原節子さん型かというのを女優さんに


「それは面白いかもしれない