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津波―アンダマンの涙


書く権利について

津波―アンダマンの涙
タイトルを見てピンとくる人もいるかもしれないが、これは2004年の年末にタイ西岸部を襲った津波に際し、当時タイの人気芸能人の本を翻訳するためバンコックに滞在していた著者の白石昇さんが、日本の大手メディアの取材に報道助手として同行した25日間を、当時の日誌、取材メモをもとにして書き下ろしたドキュメントである。著者は「文章藝人」を自称し、翻訳のみならず戯文や小説などさまざまな表現方法を実践してきた人であり、みずからが見聞したものを、その見たり聞いたりしている「現場」で、すでにそれをどうやって「書くか」という問題に直結して思考している様子が、この再構成された記憶/記録の隅々にまで浸透していて、前述したような一種独特な読後感を残すのだが、それは端的にいえばブレヒトの、人は経験を容易に認識に置き換えてしまうことによって多くのものを失う、という言葉を想起させるような、あるシステムに対する思考であると言っていいかと思う。本書の中で何度も繰り返される「言葉にできない」「表現できない」という津波の被害のシリアスな現実を、しかしそこに渦巻いている「感情」を書かずにはいられない、誰かに伝えなければならない、という著者の矛盾を抱えた切迫した思いがとてもストレートに読む側に伝わってくるのだが、昔高橋源一郎が中上健次の死に際して、出来事が、それについて書かれるものがすべて紋切り型にしかならないようにやってくるときがある、と語っていたことがあり、それは、死というできごとが、本質的に「歴史(の一回性)」にかかわっているからで、著者が繰り返す「言葉にできない」という「言葉」も、そういった「紋切り型」に他ならないのだが、高橋源一郎の件の言葉を受けて、対談者の蓮實重彦は、他人の死に対して紋切り型で語るためには「権利」が必要だ(中上の死について柄谷行人は語る権利がある、と)、と答えていて、つまり白石氏が葛藤し、思考しているのは「語る権利」についてなのである。もちろん本書が語っている(実際に著者がもっとも伝えたいと願っているだろう)のは、実際に津波に遭われた方々の悲しみと、その悲しみに向けられた人々の「情け」とも「人情」とも訳される「ナムチャイ(心の水)」という言葉が示す感情に他ならないし、読み手はその感情の奔流に感動せずにはいられないわけだが、同時に、というよりもむしろ、読者にとってより本質的には、その「権利」をめぐる葛藤という問題のほうが、よりシリアスにみずからの「問題」としてずっしりと感じられるものなのではないかと思う。人は、権利上は、つねに災厄に対して「生き残る側」から思考することしかできない。それは、いうなれば「死はつねにすでに他人の死である」ということであり、そして、そのような「死」に対して、人は、いかに語ることができるのか、その経験をいかに認識に変換すべきであるのか、という「倫理」を問うことでもある。無論その問いの対する答はおそらく出ない。しかし、出ないからと言って思考を停止してはならない(問い続けることの宙づりの苛酷さを「祈ること」で一時的に癒すことはあっても)。おそらく「書くこと(の倫理)」とは、そのような「問い」を根底に有しているのであって、本書の読後感の独特な複雑さは、そのような苛酷な「問い」から由来するものだと思われる。
もちろん、災害現場での生々しい人間同士のぶつかりあいや齟齬や葛藤を感情豊かに描き出したドキュメンタリーとしての面白さもじゅうぶん備えているので、単純に「現場がどうだったのか」を知りたいという方にもオススメできる本でもあります。
(元記事を開く)

評価:星星星星星

書名:津波―アンダマンの涙
著者:白石昇
出版社:めこん

レビュアー: 渡邊利道
本を読む専業主夫。

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