天皇、皇后両陛下のご成婚50年にあたり、最近、私は当時の一連の出来事について、いろんな方面から問い合わせだとか取材を受けることが多くなりました。生き残っている者の務めと思って、なるべくお答えするようにしています。しかし取材に来られる方と、話が通じないことがあります。例えば、美智子妃選びについて、週間朝日の取材を受けたときに、相手は30代半ばぐらいの女性記者だったと思います。話の中で、「仲人口を利いちゃって」と言ったら、「ナコウドグチ」ってどんな字ですかとか(笑)。
また、取材班の当時のキャップは、鬼軍曹みたいな先輩でと言ったら、鬼軍曹は外国語だと思ったらしくて(笑)、それ何語ですか、と聞かれたりしました。言葉だけじゃなくて、かいつまんで当時の状況を話していても、相手の受け答えが、だんだん、とんちんかんになってきましてね。ついに、「だって私はその頃まだ生まれてもいないです。」って言われてね(笑)。やっと、これは私がまずかった。要するに、私は、歴史を語るべきなのに、現役時代の根性が尾を引いていて、昨日今日の出来事を、同時代の人にレポートしているような調子で話していたということに、やっと気が付いたわけですね。
1.美智子妃選考の背景
そこで、美智子妃選びの問題です。これも今や前世紀半ばの、完全な歴史的事実になっています。しかも、戦後の皇室の歴史上から言えば、かなり大きな節目になった出来事の筈です。ところが、私の印象では、どうも、歴史としてきちんとした記録になっていない。その事柄がどういう経過を辿って、何時そうなったのかということが、リアルに押さえられていない。少なくとも押さえようとする努力が必要な筈です。
ところが非常に不思議なことに、この件については、50年以上経った現在まで、全く手がつけられていない。あるのは、皇太子の恋物語、あるいは現代のシンデレラ物語ですかね。まあ、せいぜい、皇室の開化・開明物語。当時、「ミッチーブーム」と言われた、ムードにくるまれた物語に終わった。実際、取材に携わった身としては、非常に何か、奇異な感じがします。「封印された歴史」と言う言葉がありますけども、「閑却された歴史」と言った方がいい。
(1) 明らかにできなかったわけ
ではどうしてそうなったのでしょうか。これはまあ比較的簡単な理由でありまして、一つは、お妃選びの選考に携わった、直接の当事者。仮に「選考首脳」と言っておきますけど、この時お妃選びに係わった人は6人。小泉信三(大正・昭和期の経済学者。今上天皇の皇太子時代の師父。昭和8年〜昭和22年まで慶應義塾長。)さん、正式の責任者である宇佐美毅さん(当時の宮内庁長官)。それと三谷隆信侍従長、鈴木菊男東宮太夫(宮内庁の中で、皇太子を擁する東宮府の最高責任者)と黒木従達東宮侍従(もっぱら皇太子に仕えるのが東宮侍従)。東宮侍従は当時4人いましたが、お妃選びに関しては、黒木侍従一人が専任。まあ実際上、一番働いたというか、組み立てていったキーマンは、この黒木侍従さんだったと私は思っています。それから、もう一人が、これはもう当時は宮内庁を辞めて、宮内庁参与の前宮内庁長官の田島道治さん。この方は非常に独特の経歴、独特の人格を持った、非常に面白い方でした。この方は、最初からではなくて、一ヶ月ぐらい遅れて加わった。
この6人が、当時、選考経過の本当のことを、具体的に漏らすことは、絶対できない状況、事情があったわけです。一口で言うと、皇室のあり方について、古い保守的な考えを持っていた守旧勢力が、かなりありました。そういったものから反撃を受けて、(笑)婚約が決まる前に、そんなこと漏らしたりすると、皇室会議が開けなくて、婚約自体が成り立たないような情勢があって、本当のことを言えなかった。それも当時だけではなくて、それから何十年間か。具体的に言うと、当時の皇太子殿下と美智子さんが、天皇、皇后になられるまで(約30年位)は、非常に、弱い立場の美智子さんに対して迷惑がかかるかもしれないので、それは絶対に口外できない、という状況が続いていました。歴史として残せなかったとことの、一番大きな理由です。
それと、副次的にはこの、3、40年ぐらい経て、まあ、漏らしても、そんなひどいことにはならない、あんまり迷惑はかからない状況になった頃には、肝心の選考首脳の大部分が亡くなられている。小泉さんとか田島さんなどは、ご成婚から10年もしないうちに相次いで亡くなっています。一番若い黒木侍従、一番ことの真相を知っているキーマンも、ちょっとした事故死みたいな形で、昭和58年に亡くなってしまいました。どの方も、ほとんど、手がかりのような、例えば回想録とか、日記というようなものは残さないで、お妃選びの真相はお墓の中に持って行かれた。もう、歴史を探る手がかりは、全くなくなっていると、私は長い間、信じていました。
ただ、私は当時、取材に携わったとき、非常に簡単なものですけど、日誌をつけていました。その日誌(10冊のノート)には、自分のやったことだけではなくて、取材チームがやったこと、聞いてきたこと、それを通じて選考首脳の動静なども、ちょこちょこと書いていました。それを今、読み直してみると、非常に漠然たる・・・まあ、頼りない形ですけども、一種の、選考首脳たちのとった行動について、仮説が立たないでもない状況を感じていました。現職を退いた前世紀末ぐらい、ちょっと暇になってから、この問題をいろいろ考えてみました。
(2)田島日記
ところが、私の手持ちの材料だけでは、漠然たる仮説は浮かびますが、少し実体的な推論の手がかりがなくて、非常に困っていたのです。ところが、さっき申し上げた田島道治、前宮内庁長官の伝記が、突如、2002年に出ました。加藤恭子さんが「昭和に奉公した男 田島道治伝」を出版された。それを読んでみますと、田島道治さんは、一種のメモ魔であって、亡くなる寸前まで、もう自分だけの心覚えのつもりで書いた日記が残されていることがわかりました。「皇太子妃選考時代」という短い一章を加藤恭子さんは書いていて、そこに、田島さんの皇太子妃選考に関わった日記を引用している。しかし、これは加藤さんも書いていますけど、本人が心覚えのためだけに残した、仮メモみたいなものです。加藤さんも、この意味がわからない、ということをしきりに書いています。
加藤さんの関心は、田島さんの宮内庁の長官時代。これは、まだ占領下で、GHQと皇室との大変なせめぎあいがあった。それはそれでもう、大変面白いストーリーです。加藤さんは、そっちの方に重点を置いて、ほんの付け足しの感じで、このお妃選考時代の田島日記を紹介しているわけです。ですから、普通の人が読んだら全くつまらない、何のことかわからないものですが、私のように、それに携わった者が見ると、ああ、そうだったのか、と思うようなところがかなりあります。私は、自分なりに悩みながら組み立てていた仮説に、大変大きな援軍を得たような感じになって、その日記と読み合わせながら、もう1回、そのときの選考の過程で知り得たことを繋ぎ合わせてみると、かなりハッキリした脈絡が浮かんできました。
(3)選考首脳のジレンマー恋愛結婚かアレンジド・マレッジかー
先ほど、恋物語に終わっていると、申し上げましたが、あの結婚は実際、恋愛結婚だったのか、それとも、この選考首脳がお膳立てをして、皇太子さんに、言わばあてがった、アレンジド・マリッジなのか。ということは、実は非常に重要なことだと思います。しかし、それが詮索された歴史は全く無く、まことに曖昧なことになっています。当時から現在に至るまで、あれは、ほぼ恋愛結婚だったと、多くの方が思っておられる。しかし、恋愛関係はなかったと、公式の場で、少なくとも2回、当時の最高責任者である宇佐美宮内庁長官は、言い切っています。
一つは、婚約発表のときの公式会見ですね。皇室会議で宇佐美さんは、自分の方から「皇太子様が、正田嬢とテニスコートで数回お会いになったことはあります。しかし、世上で一部に噂されたような、恋愛関係はない。」と、はっきり言っています。あの結婚は公式的には、恋愛関係ではなかったことになっているわけです。
それからもう一つ、これは、婚約が発表されて、ご成婚になるまでの間、昭和34年2月6日衆議院の内閣委員会、ここで自民党の平井義一代議士が、宇佐美宮内庁長官に向かって「新憲法のもとで、恋愛は自由だ。皇太子も人間だから恋をする、とおっしゃる。しかし国民の象徴が、自分のしたいことをしても、国民は尊敬するでしょうか。いろいろ探したが無かった、民間からもらっていただきたい。」と。さらに平井代議士は「あなたから進言されたのならいいが、伝え聞くように、皇太子殿下が軽井沢のテニスコートで見初めて、自分からいいというようなことであったとするならば、我々の子どもと変わりはないではないか。そういうことで、国民の象徴として尊敬されると思っているのか。」と質問。
それに対して宇佐美長官は、「殿下は非常に慎重な方で、ご自身の義務については、はっきりした考えをお持ちだ。世上、一昨年(昭和32年)あたりから、軽井沢で恋愛が始まったように伝えられているが、その事実は全くなく、テニスを一、二度なさった程度のことです。昨年(昭和33年)の春頃から、いよいよ何人かの候補者に絞り、そのうちから我々もご推薦申し上げ、殿下もご冷静に観察なさって、ご決心になさった。世上に伝わるような浮ついた態度というのは、実際に全然、認めることはできません。」と、こう答えていますね。
要するに、恋愛関係はなかったと、ここでも断言しているわけです。この世間一般に長らく信じられている「恋愛結婚だった」ということは、公式の場で、二度にわたって、責任者である宮内庁長官が否定しています。要するに、一般世間の印象と公式発言との食い違いというのは何であろうかが、今日のお話の一つのテーマであります。
(4)ジレンマの真意
これは、今までの話から薄々おわかりのように、選考首脳部の置かれた立場は、当時、「皇太子に恋愛結婚などさせたら承知しないぞ。そんな、はしたないことは、あっていいものか。」という守旧勢力がありました。具体的に言いますと、当時の女子学習院出身者で構成している「常磐会」です。ここには当時の皇族の宮妃殿下とか、その娘さんとかをはじめ、旧華族の奥さん、あるいは娘さんなど、かなり有力者の華族もいれば、宮中の「奥」というところで厳然たる勢力を持っている女官長、女官、あるいは侍従などの奥さんなどが構成。その会長が、秩父宮妃殿下のお母さんの松平信子さんです。
この人は、皇后さんにも大変信任があって、しかも宮内庁参与という肩書きも持っており、少し前には皇太子の教育係の一員にもなっていました。皇室に関係する事柄について、女性ながら相当な発言権を持っている人が会長になっている「常磐会」。女性ばかりですけども、有力な団体。これが象徴的なもので、それを取り巻いて、男性でも、侍従、それから宮内庁の旧華族出身の職員の一部とかですね。そういう、隠然たる、しかし、恋愛結婚には必ず強い反対をするであろうという勢力が、はっきり目に見えていたわけです。
それから、世間一般でも、平井代議士の質問にみられるように、今の感覚で言うとおかしいけど、恋愛結婚を当たり前とはみていない空気が、まだ濃厚に残っていたのです。当時、既に憲法では「婚姻の自由」というのは明らかに謳われていたのですが、一方で、良家の子女は、お見合いとか紹介で結婚するのが当たり前というか、そのほうが望ましいという感覚は、かなり根強く残っていた時代ですね。だから、保守勢力の考え方が、甚だしく時代遅れという感覚は、まだなかったので、選考首脳としても、そこは、相当慎重に、考えなければいけない事情が強くあったわけです。
また、非常に難しかったのは、お妃の選考が絞られてきて、皇族はもちろん、有力な華族関係にも、適任者はどうもいないようだ、という状況になってきた。民間まで範囲を拡げなければと考え出したのは、だいたい昭和32年の秋ぐらいからだと私たちは見ています。その頃になると選考首脳は、逆にもう一つ考えざるを得なくなってしまう。というのは、恋愛結婚じゃなくて、選考首脳が民間出身者を選びお膳立てして、そして皇太子殿下に是非これをと推薦するようなことになった場合、保守勢力は、皇族、または華族関係から出るのが当然だ、と思い込んでいるわけです。これは当時の皇后様まで含めてそう思っていることは、極めてありありとわかっていたわけです。
そうすると、皇太子さんが恋愛感情の全くない人を、自分達があてがうと、これが皇族・華族なら、保守勢力は大満足ですけど、それが民間だと、これは、一大事ということになるわけですよ。だから、「これは、私たちというよりは皇太子殿下が望んでいる。」という形へ持って行かざるを得ない。平たく言うと、やっぱり、自分達の選ぶ候補者に、皇太子さんが恋愛してもらわないと困る。特に、保守勢力への顧慮だけではなくて、実際問題として、民間出身者を選んだ場合、最後は皇太子さん本人にやってもらわないと出来ないということを、その頃までの選考作業の経験で、選考首脳はわかってきていました。
もう一つ、候補者本人へのプッシュ。つまり、まわりの者が、民間出身の本人あるいは親御さんに承諾をとることが、ほとんど至難の業だということは、それまでの選考作業の経験で、はっきりわかっているわけですね。だから、唯一の道は本人から本人へ口説いてもらわないといけない。で、本気になって口説くのは、やっぱり、恋愛してなければそれはできないですよね。俗に言えば惚れていないと。
(5)皇室会議
それと、実際上の問題として、婚姻を認めてもらう皇室会議があります。これは規定上、皇族が2名入って全部で10人です。総理大臣、衆参両院の議長・副議長、それから最高裁長官と最高裁裁判官、宮内庁長官という構成で。皇族の2人が、当時は高松宮殿下と秩父宮妃殿下です。
この高松宮殿下と秩父宮妃さんに対しては、仮に候補が民間出身者であれば、この2人が否定的な場合は、宮内庁長官がいくら言っても説得しきれないのです。どうしても皇太子ご本人が説得しなければならない。美智子妃の場合も、現実に最後は皇太子さんが、秩父宮妃と、高松宮殿下のかわりに高松宮妃の2人を、揃って皇室会議の前に招いて、根回しのため3時間半かけて説明された。そういうようなことで、どうしても本人に恋愛してもらわなきゃならない。選考首脳は、非常に難しい綱渡りのような作業を、後から考えると、奇跡的といっていいほど、周到にうまくやったというのが、私の推論です。
2.ご婚約までの推移
(1)民間人のお妃候補
それを、この年表に沿って、具体的に説明したいと思います。
お妃選びはいつ頃から本格的に始まったのか。これは、だいたい昭和30年頃からだろうというのが、定説にはなっていました。しかし、この田島日記によって、それまで推測であったものが、はっきり裏付けられました。
美智子妃選びのchronology
昭30.3.25
[田島道治日記」宇佐美から東宮妃探しに
ついての協力を頼まれる。両陛下もその意
向とのこと。
消極的、部分的にはお手伝いする。
民間によい人があればその意見に従う。
と返事。
昭32.8.19
軽井沢テニスコートで、
ダブルストーナメント四回戦で
たまたま皇太子組と美智子さん組が対戦。
昭32.10.21
[田島日記]Kの名前出る。
大賛成、周囲も賛成のよう
昭32.10.27
調布市の日本郵船コートで学友たちと
時々やっていたテニスの試合に、
皇太子が美智子さんを誘う。
試合後写真を撮る。
昭33.1.15
[田島日記]Kについて−、こまずいこと。
昭33.1.25
[田島日記]Kはダメに。
昭33.2
皇太子、小泉に「正田さんも調べてみたら」。
昭33.2
皇太子、美智子さんに写真届ける。
昭33.2
皇太子、麻布ローンテニスクラブに特別会員として入会。小泉の勧め、紹介?
昭33.3
正田美智子さん、麻布ローンテニスクラブに
入会、知人(?)の勧め。
昭33.3.3.1フ.40〜23.15
小泉邸で選考首脳会議。Kに代えてHを調べることに(田島日記)。他に数候補。
小泉「殿下のご意向をお汲みして、
それでは正田さんも候補に加えるこ
とにしたらどうでしょう。」異議なし。
昭33.4.1
[田島日記]宇佐美、ソニーに来訪、
「Hは新規蒔き直しになった」
昭33.4.12
[田島日記]
「ShodaSoyejima調ベヨクバ賛成イフ」
昭33.5.2
長官公舎で選考首脳会議。
ほとんど正田美智子さん一本に
しぼられ調査を本格化することに決定。
他に二三の予備候補。
昭33.5.7
皇太子、調布市の日本郵船コートのテニス会に再び美智子さんを誘う
昭33.5.20
佐伯、正田英三郎氏に会う。
昭33.5.21
正田夫妻、小泉信三に面会申し入れ。
小泉、ソニーに田島を訪れ、正田夫妻に
どう応対すべきかの意見を求める(田島日記)。小泉、宇佐美と会談。
●の2
昭33.5.22
[田島日記]小泉から「S会見ノ結果ノタメアヒ
タシトノコト」と電話があり、すぐ会いに行った。
昭33.6.2118:CO〜22:CO
小泉邸で選考首脳会議。
昭33.7.23
宇佐美、小泉、鈴木東宮大夫、
葉山で両陛下に正田美智子さんにしぼって
調査を進めることを報告。
昭33.7.24
報道協定
昭33.8.15
宇佐美、那須で両陛下から、正田家と交渉を始める了承を得る。
軽井沢の皇太子、美智子さんを細jll邸コートでのテニス会(17日)に誘う。美智子さんOK。
昭33.8.16
小泉、軽井沢で正田夫妻に申し入れ。
正田側拝辞するも、小泉は17日以後も交渉継続を要望。
美智子さん、テニス会招待を断わる。
昭33.8.19
正田夫人帰京、聖心ブリット学長と
美智子さん外遊を決めてしまう。
昭33.8.22
小泉邸選考首脳会議
[田島日記]「大体決定問題は勝沼の意見」
昭33.9.3
美智子さん、外遊に出発。
昭33.9.18
黒木従達東宮侍従、正田家を訪問、
直接、皇太子の求婚を伝える。
正田夫人の緊張度高まる。
昭33.11.13
正田家、小泉に承諾を表明。
昭33.11.27
皇室会議、婚姻承認。婚約発表、報道解禁。
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3月25日に、宮内庁長官を退官し、ソニーに移っていた田島道治さんに、宇佐美長官が選考首脳に加わってくれ、両陛下も了承している、手伝ってくれと依頼しています。多分この何日か前に、ひょっとすると一ヶ月ぐらい前かもしれないけれど、田島さんを除く他の5人の選考首脳のトップのチームができて、本格的に始めることに。
それとかなり注目していいのは、田島さんはこの時、民間に良い人があればその意見に従うと宇佐美さんに答えています。しかし小泉さんは、初めから民間からの候補を検討してはいない。やっぱり旧華族から始めているのです。民間からの候補は、かなり後で1年ぐらい経ってから、選考首脳部の中で、民間志向の比重が高まっていったと、我々は思っています。
田島日記を見ると、民間に候補を拡げることを伝えたのが宇佐美長官ですね。いろいろ、思い合わせてみると、宇佐美長官と黒木侍従、この2人は、ある段階から、小泉さんより以前に民間志向だったようですね。やや意外なことですけど、この官僚の宇佐美長官の方が、民間志向は早くから持っていたような感じがします。
(2)軽井沢テニスコートで偶然の出会い
次が、人口に膾炙した話。軽井沢テニスコートで、皇太子組と美智子組が対戦した。ご成婚50周年記念番組なんかで、テレビがその問題を取り上げるとき、もう判で押したように、この32年8月の軽井沢テニスコートを写し出して、このテニスコートで恋が芽生えた、と報道するのが定番になっています。しかし、ここですぐ恋愛が芽生えたのではないことは、はっきりしておかねばなりません。
その根拠はあります。このころは、お妃探しがちょっと行き詰っていて、皇太子さんも若干、焦りを感じている頃でしょうから、もしここで一目惚れしたのであれば、それから時間を経たないで、アクションが起こっていた筈です。
ところが、次の皇太子側の美智子さんに対するアクションは、10月27日に、調布の飛田給の日本郵船コートです。これは大変いいテニスコートらしいので、かなり前から皇太子さんが時々、学友達でやるテニスの試合でよく使っていたところです。そこへ、この学友を通じて、美智子さんを誘っているのですが、それが8月19日から、2ヶ月以上後です。どうも、皇太子さんが恋愛感情を持っていたにしては、ちょっと間隔が空きすぎています。
それから一方、美智子さんの方では、9月に聖心女子大の同窓会があって、そこにテニスの時の写真を持参しているのです。試合をした時、お母さんが慌てて人に頼んで、撮ってもらった写真ですが、この写真を同窓会に持参し、同窓生たちに皇太子さんを負かしちゃったわと言っています。
これは、美智子さんが、この試合で皇太子さんに恋愛感情を持って、ひょっとしたら私がと考えていたとすれば、それを、同窓会に出て写真を見せびらかすなんてことは、考えられないわけですよね。むしろ、なるべく隠そうと思うでしょう。だから、そのときはほとんど、恋愛感情みたいなものは、美智子さんは持っていなかった。両方から見て、8月19日が恋の出発点だったという説は、全く否定していいと思います。
(3)旧華族への対応
それでは、なぜ、この10月27日に皇太子さんが美智子さんを誘ったのか。ここで、私は選考首脳の最初の動きが察せられるところです。田島日記にKの名前が出てきます。このKには、田島さん自身は大賛成となっています。Kには思い当たる名前があります。
しかし、まだ生存されている人ですから(笑)、あえて伏せておきますけど、華族のご出身。ただし、守旧勢力が当初、皇太子さんの相手としてはこの範囲でと言っていた、旧華族というのか、明治の皇室典範時代の規定には、「皇族のお妃には、皇族か又は特定の華族」とある。
特定の華族というのは、たとえば五摂家の子孫だとか、それから徳川家関係、それから大大名だったもの。小大名は、もう相手にしてもらえなかったのですけど、K嬢は、華族創設のときになった旧華族と違う、まあ新華族ぐらいでした。しかし旧華族のイメージを持っていたわけで、このKと、それから少し後に出てくるHがありますが、いずれも松平信子さんの推薦です。
このころは、行き詰っていて、松平さんも特定の華族という主張を少し譲歩したけれど、しかしやはり華族出身に強いこだわりをもって、それで、新華族のKさんはどうだ、という話ですね。それで多分、この10月21日より少し前に、松平さんが宇佐美長官、黒木侍従に推薦したと思われます。ところが、宇佐美、黒木両氏にしてみると、さんざん、努力してきて、おそらくこのKなんかも、検討済みだったと思います。ですから、これは、本来は、ダメだと言いたいのですが、とにかく腫れ物をさわるように扱わなきゃならない松平さんのことだから、一応、調べることにしようと顔を立てているんですね。
そして、田島さんは、この選考首脳の中では一番、松平さんとは親しかった。つまり、田島さんを選考首脳に加えたのは、中核にいる宇佐美、黒木両氏の相当な信望もあり、自分達の進歩的な意見も十分受け入れてくれる人で、旧勢力とも、コンタクトもあり、信用ある人。だから、旧勢力の抑えにも使えるだろうと入れているんです。したがって、田島さんのところに松平さんから、また推薦がありまして、これを調べますと、松平側に伝わることを期待して報告に来て、それが日記にあるわけです。
(4)大学に推薦を依頼
ところがこの宇佐美、黒木両氏、特に黒木侍従は、むしろ若干危機感を覚えて、本来自分達が志向している民間出身者をそろそろ出して、Kがいずれ潰れる時に備えておかなければならん、という感じを持ちたかったのでしょう。というのは、行き詰って、いよいよ民間出身者にも手を広げなきゃならんと、少なくとも中核にいる宇佐美、黒木お二人が判断をして、その手段として、聖心女子大、東京女子大、日本女子大、御茶ノ水、というようなところの大学の学長に、9月ごろから極秘で推薦を依頼しています。お宅の卒業生で、民間人でもいいから皇太子妃に相応しい人を推薦してくれということです。
我々がだいぶ遅れて、33年の5月ぐらいになって、学校まわりをはじめて、確かめていますから、それは間違いない。その際、順番としては、聖心女子大にまず依頼状を出している。それは、これも田島日記に出ていますけれども、かなり前に「皇太子自身が皇太子妃は、なるべくは皇族・華族ではない者の方がよいのではないか。」というふうなことを漏らしてですね。ちょっと意味は不明ですけど、「ただし、学習院、聖心・・・」と書いています。民間でいいが、やっぱり学習院出身者か聖心がいいと考えられていた。やはり、学習院に次いで、良家の子女の通う学校だというイメージが、聖心女子大にあったんでしょう。
(5) 聖心女子大学
聖心が最初に頼まれて、最初に推薦してきています。その筆頭に正田美智子さんの名前が。それを頼んだのは黒木侍従ですから、それを見て、うん、これはと思ったでしょう。そして多分、8月19日の軽井沢のことがあり、正田美智子という名前が聖心から出てきたものですから、そういえばあの時の正田さんだと、黒木侍従は感じたに違いない。それで、この10月ぐらいの段階では、これはまだ黒木さんだけで、小泉さんにもまだ相談していなかったと思われますが、黒木侍従は、美智子さんについては、相当思い入れをしていたようです。9月から10月までの1ヶ月間、かなりの調査はできていた時期ですね。
しかし、まだ、美智子さんに絞って突出しようというところまでは、進行していなかった。非常に貴重な持ち駒として考えているところに、また松平さんから、古めかしい感覚のKを出してきちゃった。だけど、まあ、検討しないわけにいかないけど、その対抗となりうるようなことで、美智子さんを立てておこうということを考えていたようです。ちょうど、日本郵船のコートでテニス会をやるということが決まっていましたから、皇太子さんに「8月にダブルスでやられた正田美智子さんを覚えておられますか」と水を向けたようですね。皇太子さんは、やはりかなり強い印象をお残しになったのは事実で、軽井沢でダブルスの試合が終わった後、「すごく強い女性だ」と、こう学友に言われた。
そして、美智子さんと、軽井沢テニスコートで2、3年から、親しい仲になっていた織田和雄君という学友がいます。しかし皇太子さんは、この軽井沢テニスコートに出たのは、この32年の8月が初めてなので、美智子さんとは、それまで面識もなかったわけです。それでゲームが終わって「あれは何というお嬢さん?」と、この織田君に聞いているのですね。ということは、やっぱり、かなり印象に残ったはずです。黒木侍従は、後からそれを聞いて、皇太子さんに言ってみたら、すぐ反応されたので「あのお嬢さんを今度、飛田給の会にお呼びになってみたらどうです?」。そこでさらに、皇太子さんとの接点を作っておこうと、黒木侍従は考えたに違いないですね。
そういうことで、10月27日のテニス会。そこで皇太子さんは美智子さんに恋愛感情を持ったかというと、ちょっとまだ言い切れない。ただ、この日の試合の時に、学友の織田君に、「おい、あの子と組ませろよ。」ということは言っています。あの子というのは、正田美智子さんです。そこで2人で組んで、ペアでやった、そしてそれが終わって、ちょっと写真を撮らせてくださいと言って、写真を撮っています。だから、まあ、いい感じではあったと察しられます。その撮った写真を、たまたま、その11月にあった東宮職職員の写真展覧会に出展されています。まあ、本当に惚れこんで、お妃候補にと思っていたら、そんなところに出すと、それはバレ、バレ。むしろ、そこまでは考えないで出展したと、思います。
後で聞いたところによると、他の社の東宮御所に出入りしていた新聞記者が、やはりその写真に目を留めて、黒木侍従に「あのお嬢さん、誰?」と聞いたとのこと。「ああ、あれは、テニスのガールフレンドの一人ですよ」とサラリと受け流すような答え。その記者は、「そうか」と、ご成婚が決まるぐらいまで、全然、念頭になかったと。だから黒木侍従がお上手であった。まあ・・・意図的にしたら、これ、大変なものですね。実際、黒木侍従も、そこまではまだ、この写真展の段階では考えていなかったという感じはします。
(6)K嬢の係累に身体の懸念が
それで、Kについては、果たせるかな、その後、ダメになりました。これは具体的には、係累に色盲が出たというのが理由でした。色盲というのは、皆さんご存知でしょうけど、昭和天皇の皇后、久邇宮家からの良子さんについて、宮中某大事件といわれたことがあった。要するに、良子皇后の弟が弱視だったので、山形有朋などが猛反対して、辞退させようなんていうことになって、大騒動になった、このトラウマがありますから、この色盲というのは、これは一発でダメだろう。まあ、ひどく悪く考えれば、黒木侍従は、そのへんまで見越していたんじゃないか、というぐらいの感じはします。そして、33年1月25日に最終的にKはダメだということになりました。
ここで黒木侍従は、皇太子さんに、二つの働きかけを。一つは、「あの正田さんの写真、ご本人に送ってあげたらどうです?」と皇太子さんに持ちかけた。皇太子さんは、「それはいいな」と言うことで、当時から間に立っていた学友の織田君を通じて、2月に正田美智子さんに届けている。私が美智子さんの部屋を見せてもらった時に拝見しましたが、美智子さんは、大事に自分の居間の本棚の上に、その写真を飾ってありました。それが一つの働きかけと、もう一つ、ほぼ確かだと思いますが、黒木侍従が皇太子さんに「小泉さんに、正田さんを調べてみることをお願いしたらどうですか」と助言したようです。
(7)東京ローンテニスクラブ
それで、皇太子さんは、小泉さんに、その通り伝えるのです。それが1月25日にKがダメになって、間もなくのことですね。黒木侍従は、ここを見計らってプッシュしているわけです。しかもですよ、同じ頃、皇太子さんが、麻布の東京ローンテニスクラブに特別会員として入会した。それまで皇太子さんは、皇居の中のテニスコートと、他は、さっき言った日本郵船のテニスコート。オープンではない場所でしか入ってなかった。
東京ローンテニスクラブは、会員制ではありますけど、かなりオープンなテニスクラブです。ここは小泉邸から歩いて5分ぐらいのところにあった。小泉さんは、クラブの理事にもなっている。そこへ入会させているわけです。その後、調べてみると、小泉さんの紹介で入ったということは、はっきりしています。しかもしかも、ほとんど同時に、正田美智子さんが同じ東京ローンテニスクラブに入会している。それは知人の勧めでありました。
(8)黒木侍従がキーマン
ちょっと話が前後しますけど、黒木侍従は、昭和19年、皇太子が11歳の時から、まず傅育官として仕えて、それ以来ずうっと、日常的に皇太子さんの一番近くにいた。ほとんど毎日、部屋は別ですけど、東宮御所で一緒に生活をしていて、年は17ぐらい違うが、ほとんど兄弟同様に、仕えている人です。そして、皇太子さんの一挙一動、全部把握しているし、そうするのが責務になっていた侍従でした。もちろん、織田君という学友も、黒木侍従が認めて学友にしている。相当前から学友たちを、ある意味で、顎で使えるような関係にしいるわけです。だから、皇太子さんと美智子さんとの間の学友の動きというのは、ほとんどが黒木侍従の差し金で動いていると見てよろしい。この美智子さんのローンテニスクラブの入会も、多分そう言うことでやっていると考えられます。
皇太子さんと美智子さんは、このローンテニスクラブで、多い時は月に4、5回、会っているわけです。それも大部分は皇太子さんが、織田君を通じて、明日、何時から行きませんかという電話を入れて、美智子さんと会っている。ですから、この3月から5月ぐらいまでの間に、これもう、しきりに「デート」と言っていい状態になっているんですね。この東京ローンテニスクラブがなければ、おそらく、婚約関係は成り立たなかっただろうと思うくらいです。
(9)美智子妃が候補に
さて、美智子さんがローンテニスクラブに入会する少し前の3月3日、歴史的な選考首脳会議が麻布の小泉邸で開かれます。Kは、正式に断念することが決定され、代わりに矢張り松平信子さん推薦のHを調べることが了承されました。他の二、三の候補についても意見交換がされた後、終わりに近い頃、さりげなく小泉さんが「殿下のご意向もお汲みして正田美智子さんも候補に加えることにしたらどうでしょう」と諮り、誰も異議なく自然に承認される形になりました。あまりにさり気なく付け足しのような感じだったので印象が薄かったのでしょう。
この日の田島日記には、正田美智子に関して1字の言及もありません。ところが実はこの日、宇佐美長官、黒木侍従、そして小泉さん(遅くも2月末までには黒木侍従に同調して美智子さんを有力候補とすることにハラを決めたとみられる)としては、全くの民間人である美智子さんの候補入りという大事業の軟着陸に見事成功したのです。しかも今後の守旧派の攻撃に対抗できる「殿下のご意向」という伏線つきで。
一カ月後の4月1日には、宇佐美長官がわざわざ五反田のソニーに出向いて、田島さんに「Hは新規まき直しになった」と報告しています。新規まき直しとは断念せざるを得ないということで、恐らく誰でも認めるような理由が付き、宇佐美長官とすれば、かねて織り込み済みの事だったかも知れません。4月12日には、守旧派の手持ち候補者のタネが尽きたのを見計らったかのように、小泉さんは田島さんに、同乗の車の中で、正面から美智子さんのことを持ちかけています。
「血統を重んじなければいけない」と言いつつも、田島さんは「正田家と副島家(美智子さんの母方の実家)の血統を調べ、良ければ賛成する」と同調します。着々と事が進行するのを見て、黒木侍従は魚が水を得たように動き出します。正田家の調査を進めることはもちろんですが、力を入れたのは先ほど述べた皇太子殿下、美智子さんご両人の接触です。
平成6年、ご成婚から30数年も経ってから、鈴木菊男東宮大夫が珍しく当時の事情をポロリと打ち明けたといった感じの一文を書いています。その一節に「昭和32年8月軽井沢でのテニス試合・・・は、全くの偶然の出会いであった。この後、陛下(皇太子ー佐伯注)はテニスのお集まりなどに皇后様(美智子さん)を招かれ、(婚約内定までに)15回ほどお会いになっている。・・・」とある。
デートの回数を鈴木さんたち(実際は黒木侍従)は、ちゃんと数えていたんですね。数えていたということは、デートの模様をその都度チェックしていたということです。皇太子さんも、黒木侍従が全身全霊をあげてお妃問題に打ち込んでくれているのが分かっているから、素直に報告していたと思われます。
「初めは伴侶にふさわしい人か、冷静に観察していたつもりだった。恋愛感情になったのは後半になってからだ。」という意味のことを、後に皇太子さんは学友に洩らしていますが、若い男女がこれだけの頻度で出会いを重ねていれば、さもありなんと思います。黒木侍従の作戦は図に当たったわけです。こうして黒木侍従は、ご両人の心の動き、特に皇太子さんのそれを逐一把握し、小泉氏や宇佐美長官、鈴木東宮大夫に報告していました。
この皇太子さんにおける恋愛の成立の確認、それと一方では次々と集まってく調査結果が何れも美智子さんの皇太子妃としての適性を裏付けるものばかりで、家系や血統に難点が認められないという事実、二つが相俟って選考に携わる人々に自信を与え、5月2日、長官公邸での選考会議で候補者は、ほとんど一本に絞られ、6月21日の小泉邸での会議で(大勢は)美智子さん推薦に決定するに到るのです。つまり私の結論は「このご成婚の本質は、責任を持ってアレンジされた恋愛結婚である。」で、単純なアレンジド・マリッジではなく、単純な恋愛結婚でもないということです。その意味で前述した宇佐美長官が言ったことに嘘はありません。
(10)ご婚約の成立―田島道冶氏の役割、綿密な準備と忍耐、対旧守派への配慮―
二律背反のような二つを奇跡的に両立させたのは、皇太子さんの自覚と、関係者特に黒木侍従の周到な手順、綿密な仕掛けで忍耐強く綱渡り作業を行なった賜物です。そこに通して流れているのは、繰り返しになりますが、守旧勢力(なにしろ、そのバックには皇后さんがおられる訳ですから)への慎重な配慮です。そのために活用されたのが田島道治さんでした。田島日記によると、ご婚約が事実上内定した数日後の33年11月15日、田島さんは、公邸に宇佐美長官を訪ね、正田美智子さん選定経過の詳細な説明を受けた、とあります。
それまでは選考首脳陣に加えられたにも係わらず、機微に触れる肝心なことは(恐らく戦略的な配慮から)知らされていなかったのです。ところが、田島さんには、不服を抱いた様子は全く見られません。それどころか11月27日の日記には「長官御苦労ニ感謝ノ念」、29日の日記には「小泉邸ニ感謝挨拶ニ行ク」とあります。田島さんは、自分の役回りをよく心得ていたのでしょう。あるときは守旧派の代弁者のような発言をし、あるときはそれへの通報者を装い、二重スパイと見られることも厭わず、黙々として守旧勢力と交流し、結果的にそれへの防波堤または緩衝材の役を果たした。そして終生、それを誰にも語ることはなかった。
あの歴史的なご婚約がつつがなく成り立った陰には、こういう田島さんの無私の働きがあったことに、私はある種の感動を覚えずにはいられません。
[表記の演題について、私は四つのテーマを用意しました。本日は、その一つのテーマだけをお話しして終わってしまいました。残りは、A偶然の神の助け、正田家に係わった小生の事態促進の触媒役。B歴史におけるdatingの重要性、
C 守旧派の新皇室構築作業、最高度の政治的配慮と人的配置の重要性などで、他日を期したいと思っています。]
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