東方/Fate 1
その光景をどう表現したら良いのだろう。
それはあまりにも不可解で、あまりにも怪異で、あまりにも美しかった。
夜空に輝く紅い月。舞い散る赤は鮮血の色。視界の全てが朱色に染まった世界に君臨しているのは、まだ年端もいかない一人の少女だった。
「言ったでしょう? こんなに月も紅いから本気で殺すわよって」
透き通るような綺麗な声。それでいて、震えが来るほどに冷たい。
彼女の声は、染み入るように場に行き渡っていた。
「どうしたのかしら? まさか、私一人に怯えているの?」
少女がクスクスと楽しそうに笑う。
けれど、この状況下で笑えることが既に異端だ。何故なら、彼女は大勢の“敵”によって囲まれているのだ。
少女を取り囲む者達は一様に鎧を纏い、手にはそれぞれ武器が握られている。
それは剣だったり、槍だったり、或いは弓だったりしたが、全てが“妖怪”をも切り裂く程度の力を秘めている。だが、それらの武器も当たらなければ意味はない。
僅かの攻防を経て、既に幾人もの敵が少女の手によって倒されていた。
「……キサマ、一体何者だ?」
得体の知れぬモノに対する恐怖からか、僅かに包囲網が広がる。
少女はそんな光景を面白そうに眺めながら、ゆっくりと小さな両腕を広げていった。
「────私の名前はレミリア・スカーレット。地獄に堕ちたのなら閻魔にでも語って聞かせなさい」
悪魔のように微笑みながら、悠然と相手を見下す少女。
その優雅な仕草からは、彼女の絶対の自信と優越感が見て取れた。
俺は彼女の足元で膝を付き、うずくまりながらも、必死になってレミリアと名乗った少女の姿を目に焼き付けていた。
──────幻想郷。
そこは僅かな人間と、数多の妖怪が共存する不思議な世界である。だが“外”の世界とは特別な結界によって隔離されていて、例え妖怪と云えど自由に出入りすることは出来ない。
そんな幻想郷においては、外の世界の常識は非常識となり、非常識が常識となる。妖精や幽霊が存在し、果ては鬼や天狗などという幻想の中にのみ存在するモノまでいるのだ。
────そう。
ここでは、現在では失われてしまった様々なものが“在る”のだ。
だから、俺のような異質な存在もここでは許容される。
「……ぐっ! 思ったより傷が深い……な」
鋭い痛みが走る脇腹を押さえながらも、俺は全速力で駆けていた。
幾度もの戦闘行為を経験した身体は疲労困憊していて、全身には掠り傷から致命傷になりかねない大きな傷まで刻まれている。それでも俺は止まる訳にはいかないのだ。
「……ああ、そうさ。俺はまだ止まる訳にはいかない」
右手に握りこんだ硬い感触。
確かめずとも分かる馴染んだ品。それは赤い宝石をあしらったペンダントだ。
ゆっくりと右手を開き、そっと視線を落とす。
これは俺が彼女によって助けられた証だ。十年間、一日も休まず注がれた思いと引き換えに助けられた。
だからこそ俺は走っている。
今一度強くペンダントを握りこむ。
「必ず助ける──────凛ッ……!」
その為に俺は、この幻想郷まで来たんだ。
「さて、何とかして彼女に接触しないとな……」
何処に行けば会えるのか。
何処まで走れば辿り着けるのかは分からない。だけど、間違いなくこの世界にいる。
罪と引き換えに地上に堕とされたという────月の賢者が。
「だが、まずは傷の治療が先決か……」
乱立する木々を避けながら、注意深く辺りに視線を巡らせる。
月の羽衣を纏って幻想郷に突入する際、この場所が湖に浮かぶ島であることは確認していた。その際に、湖畔に建物らしき影も発見している。だから今は、その場所を目指して走っているところだ。
別に知り合いがいる訳じゃないし、助けを請おうという訳でもない。傷の状態から考えて、一度休まなければ危険だと判断したのだ。
また、何かしら利用できるものが手に入るかもしれないし、情報が得られるかもしれない。追われているという現状を鑑みれば、身を隠すのにも最適だろう。
「……何とか振り切れたか?」
追われる者だけが抱く焦燥とした気持ち。俺は祈るような気持ちで後ろを振り返ってみた。
その祈りが通じたのだろうか、延々と林が続くだけで誰の姿も見えないし気配も感じなかった。そのことを確認してから僅かに安堵する。
完全に“敵”を撒けたとは思えないが、僅かでも時間が稼げたのなら幸いだ。
そう考えた時、突然視界が開けた。
続いて耳に届いたのはさざなみのような優しい音。月から降りてくる淡い光が頬に当たるのを感じる。それらを目の当たりにして、林を抜けたのだと理解した。
そして──────真紅に彩られた不気味な館が俺の前に立ち塞がった。
それは西洋風の洋館を思わせる巨大な宮殿だ。
真っ赤な壁の色を見ていると、不思議と血の色を連想させる。
「…………」
少し近づいてみようと足を踏み出してみた。
草木を踏み締めるやわらかな感触。あの歩みに合わせるようにして、ボーンという低い音が響いてきた。一瞬、侵入者に対する結界でも張ってあるのかと思ったが、よくよく聞いてみれば時計の奏でる音なのだと理解出来た。
きっと館には、時計台でも設置されているのだろう。
どこにあるのだろうか、そう思って僅かに視界を上げた時、左腕に鋭い痛みが走った。
「────ぐぅッ!」
裂傷に続いて吹き出る鮮血。
慌てて振り返って見れば、弓を構えながら俺に狙いを付けている敵がいた。
「逃げ切れると思ったのか、裏切り者」
「ちぃッ!」
敵が番えていた矢を放つ。
その矢は光の粒子を纏いながら、俺を刺し貫くべく飛来した。
「────“投影、開始”……!」
言葉を鍵に、意識を急速に自身の中に埋没させる。
瞬間、俺の両手に白と黒の双剣が生み出された。
俺は双剣────干将莫耶を眼前にかざし急場の盾として行使した。刹那、眼前で光の矢が着弾するや激しい衝撃が全身を揺らす。その圧力は凄まじく、俺は遥か後方まで吹き飛ばされることになった。
「ぐうぅ──────ッッ!!」
吹き飛んだ先にあったのは赤い壁。
受身すら取れず吹き飛んだ俺は、激しい勢いのまま壁にぶつかって地面に崩れ落ちることになる。強く背中を打ち付けた為だろう。うまく呼吸が出来ない。けど、そんなことに構っている暇は無かった。
俺は痛む身体に鞭打って態勢を立て直すと何とか前を見据えて────その光景に愕然とすることになる。
なぜなら、既に大勢の敵に囲まれていたのだ。
敵である男達は軽装ながら鎧を身に纏い、その手には各々武器を持っている。
そして身に纏っているのは明確な殺気だ。
彼等の正体は月が誇る精兵であり、本来“俺”もそこに所属するはずだった。云わば元の味方ということになる。だが現在は裏切り者の烙印を押され、狩られる立場に変わっていた。
「脱出する隙は見当たらない……か」
包囲網の綻びを探して逃げ道を模索するが、敵も甘くはないらしい。
体調が万全なら切り抜けることも可能だろうが、今は満身創痍の状態だ。両手に握る宝具の重さも堪える。やはり、ランサーとライダーの二人を同時に相手したのは失策だったと臍を噛むしかない。
「もう鬼ごっこは終わりだ。さあ、貴様が預かった“キー”とやらを渡してもらおうか」
包囲する人垣から一人だけ進み出てくる。
彼の手には、鋼鉄すら断つという剣が握られていた。
「……キーだと? 悪いが私には何のことを言っているのか見当がつかないな」
「とぼける気か?」
「惚けるもなにも、持っていない物を渡すことなどできまい。それとも何か、君はそれが何か説明が出来ると?」
「さあな。手紙なのか宝具なのか、あるいは知識なのかは分からない。だだ俺はそれを取り返すよう命令されているだけだ」
「…………命令?」
「フン。喋りながら時間を稼いで魔力でも回復させる気なのだろうが、こちらに問答する気はない。もう一度だけ通告するぞ。大人しくキーを渡せッ!」
剣を構えながら歩み寄る男。
月の兵士達は皆かなりの技量を有しているが、本来なら敵わない相手ではない。しかし、奴の背後にはまだ幾人もの敵がいて、対抗する手段が無いのだ。
それほどに魔力を消耗し疲労している。今の俺では戦い抜くのは難しいだろう。ならば何とかしてこの場をやり過ごせないかと算段し始めるが、考えを纏める間もなく敵が眼前まで歩み寄ってきた。
「喋りたくないならそれでも良い。お前を殺してから、ゆっくりとその身体を探るだけだ」
「舐めるな……よ!」
せめて一矢。
俺は双剣を握り締めながら、何とか攻撃を受け止めるべく構えを取ろうとして……不意に全身の力が抜けた事に愕然とする。
「……なっ!?」
無様に崩れ落ちる身体。いくら踏ん張ろうとしても足に力が入らない。
一瞬地面が揺れたのかと錯覚したが、何の事はない。俺の体力が限界に達しただけだった。
無慈悲に振り上げられる敵の剣。
白刃が月光を照り返す様が目に飛び込んでくる。
それでも何とか受け止めようと双剣を頭上にかざした瞬間──────何の前触れも無く、音すらたてずに、剣を握っていた敵の腕が千切れとんだ。
「な……にっ!?」
それは正に一瞬の出来事。
男は呆然としながら失ったと腕先を見つめている。そして現実に戻ってきた時には、既に首を切り裂かれていた。
刹那にして視界が赤一色に染まる。
そして、鮮血が雨のように降りしきる世界に、少女が舞い降りてきたのだ。
「────勝手に私の庭に入り込んで、一体何をしているのかしら?」
夜の闇から染み出すように。ふわり、ふわりと舞いながら、少女は音も無く俺の前に降り立った。
透き通るような白い肌。吸い込まれそうなほどに深い紅の瞳。
青みががった紫髪は夜目にも鮮やかで、その身に纏ったピンクの衣装が月明かりに映えている。
けど、何よりも印象に残ったのは、彼女から感じる闇色の気配だろう。それは何者をも寄せ付けないほど強力で濃密な魔力。
「今宵は満月。そんな日に紅魔館に乗り込んでくるなんて、なんて────愚かな人間なのかしら」
突然の闖入者である少女を前にして、月の兵士がどよめく。
仲間が殺られた事実よりも、彼女の圧倒的な雰囲気に呑まれて。
「……幻想郷の…妖怪…か? まさか貴様、既に手を組んでいたのか!?」
敵の言葉を受けて、少女が初めて気付いたという風に俺に視線を落とした。
その視線が這うように俺を眺め、全身の傷を確認する。それから独り言のように言葉を紡いだ。
「────死ぬわね」
「……え?」
「放っておいたら、すぐに死ぬわ────あなた」
死という言葉が胸を貫く。
意識してなかった訳じゃない。だけど、考えたら実現してしまいそうで明確には思考しなかった。だって俺には、死ぬ前に果たさなければならない約束がある。
「……死ぬ、か。残念だが私はまだ死ねない身でね。その言葉には頷けない……」
「どうして? その傷だと手当しない限り助からないわ。仮に手当てする当てがあるのだとしてもこの男達に殺される。そういう“運命”なのよ」
────運命だと、少女が言放つ。
決定事項で覆らない。そう諭すように。
だけど、今更言われるまでも無く死が近いことは十分に理解していた。
避けようがない事実。早く楽になってしまえと理性すら訴える。
だが、苦しくても、辛くても、受け入れられる話じゃないんだ。俺にはどうしても果たさなければならない使命がある。願いがある。だから最後まで足掻いてやる。
例え敵が────運命だとしても。
「……ここで死ぬ運命なんて受け入れられない。もしそれが運命によって定められているというなら、この俺が覆すっ!」
「そう。運命を覆す────ね。あなた、それがどれほど難しいことなのか分かって言っているの?」
「難しいとか、不可能とか、そんなのは関係ない。やるべきことがある。守るべき約束がある。それだけだ……!」
相手を射抜けとばかりに瞳に力を込めて少女を見やった。
紅い悪魔と呼ぶのが似合うほど闇色に染まった少女。
彼女がどれほど強大な力を持っているのか分からない。けれど、少なくとも今の俺を殺すくらい訳ないだろう。
────なら、この少女に助けを求めてみるか?
馬鹿な話だ。
少女に俺を助ける理由などない。笑われるか、無視されるか。殺されるのが関の山だ。
なのに少女は
「────フン。よく、言ったわ」
ゆっくりと俺に背中を向けると、敵である月の兵士に向き直ったのだ。
「悪いけどこの男は私が貰った。だからアンタたちは大人しく引きなさい。そうすれば見逃してあげるから」
武装した大勢の男達を前にして、楽しい玩具を見つけたから邪魔しないでと啖呵を切った。
────結論から言えば、この交渉は決裂する。
それも当然だろう。
俺を追ってきた者達に要求を呑む理由はないし、敵が一人増えただけだ。
しかし、その選択は結果的には間違いだった。
少女と男達は戦闘状態に突入するのだが、誰が見ても分かるほどに戦力差は圧倒的だったのだ。
夜空には鮮血が舞い、辺りに悲鳴が木霊する。一人対多数の戦いながら場を圧倒していたのはレミリアと名乗った少女の方だ。
誰一人として彼女の姿を捉えられず、誰一人としてレミリアを傷つけることが出来ない。
まるで夜空に紅の軌跡を描くように舞うレミリア。
出血の影響だろうか、だんだんと意識が薄くなっていく中で、俺は彼女の戦う姿を最後まで見つめていた。
遥か遥か高台の上。
常人では辿り着けないほどの高みから、一連の戦闘行為を眺めている存在がいた。
深遠を絵にしたような闇色と、見る者を圧倒するような美しさを兼ね備える一人の女性。
彼女の名前は八雲 紫。
境界を司る“妖怪”である。
紫は音の無い世界にじっと佇み眼下を見据えていた。
行われているのは紅い悪魔と月の兵士達との戦い。しかし、レミリアが敵を一蹴したのを見届けると、おもむろに虚空に向かって腕を伸ばし始めた。
その腕に、何処からともなく二羽の鴉が舞い降りる。
「さあ、行きなさい。神酒を手に、晴れを越え、雨を越え、嵐を越えて。────そして賢者を探しなさい」
紫の声を受けて、二羽の鴉が虚空へと飛び立つ。
それをしっかりと確認してから紫は視線を戻した。その瞳はレミリアの従者によって館へと運ばれる男の姿を捉えていた。
「遂に始まるのね」
そう。これは始まり。
「美しき幻想の戦い。──────第二次月面戦争が」
かつて彼女の手によって起こされた戦いの、次の幕が上がるのだ。
紫は含むように笑ってから、そっと境界の中へと姿を消して行った。