西暦2015年(皇紀15年)7月1日、6時40分
結局眠れなかった。
目の下に真っ黒なクマをつけ、いつもは束ねている長髪をばらばらにした、まるで幽鬼のような格好で、濃い霧に包まれた通学路を、聖亜はとぼとぼと歩いていた。
朝になると、地下から排出される水蒸気と、海から来る霧に包まれ、旧市街は白く霞む。体に害は無いが、視界はすこぶる悪い。
まとわり付く霧を払うように、聖亜はぼんやりと首を振った。
彼は、感情が高ぶったり、変に気落ちしたりすると、一睡もできなくなるという、悪い癖があった。
原因は分かっている。昨日の騒動のせいだ。はっきりと覚えていないが、黒い世界で、人間を襲う2体の人形、その人形を軽くあしらう少年、黒い獣に、黒い猫。
最初は悪い夢だと思った。だが、洗面所で顔を洗って、目の前の鏡を見た瞬間、現実にあった出来事だと確信した。
そう、首に付いている、紫色の痣を見て。
その部分を、聖亜はしばらく擦っていた。そしてそのまま、角を曲がった時、
「うわっ」
霧の中、道の端に黒い物体が目に留まる。あれは、昨日の―
「カァ」
「……へ?」
その鳴き声に、凍り付いていた少年の体は、一瞬で氷解した。
「な、なんだ、カン助じゃないっすか」
そこにいたのは、一羽の烏だった。右目が潰れており、体にも所々古い傷跡があるため、聖亜はこの烏をカン助と呼んでいた。
「けど、珍しいっすね、カン助がこっちに来るなんて」
他の都市と同様、太刀浪市にも、無論烏はいる。だが、彼らの縄張りは山の中だ。どうやら、山腹にある荒れ寺を住処にしているらしい。聖亜の通う学校は、その山の麓にあるため、よくこの烏から食べ物を奪われていた。
カン助と呼ばれた烏は、首を傾げる少年を一瞥すると、やがて歩き出した。が、数歩歩くと、立ち止まってこちらを振り向く。飛ぶ気配も無い。ついて来いということだろうか。
「えっと、何すか?」
どうせ眠れないため、いつもより早く家を出たためか、まだ時間に余裕はある。烏の後をとことことついて行くと、烏は隅にあるゴミ捨て場で立ち止まった。
「いったい何が……あ」
ゴミ捨て場の隅にいたのは、右の羽に矢が刺さった、一羽の烏だった。
「ひどい……誰がこんな事を」
慌てて駆け寄ると、その烏は途端に騒ぎ立てた。カン助と違い、あまり人間になれていないのだろう。だが、カン助が甲高い声で鳴くと、びくりと停止した。
「大丈夫、矢を抜くだけっすから」
矢が変なところを傷つけないように腕で烏を押さえると、ゆっくりと矢を引き抜く。痛みで暴れる烏の羽がびしびしと当たるが無視し、最後は一気に引き抜いた。
「これでよし、ちょっと待っててくださいっす、今包帯を巻くっすからね」
もしもの時に備え、バッグの中には包帯や絆創膏が入っている。念のため、薬は使わない。きつくない程度に巻いてやると、それを見届けたカン助が、カァっと一声鳴き、空に飛び上がった。それに続き、もう一羽も慌てた様子で飛び上がる。
「じゃあ、気をつけて帰るっすよ」
飛び去っていく二羽の烏を見送っていると、不意に睡魔が襲ってきた。
「あ~~~~~、なんかすっげえ眠いっすね」
かくんと頭を垂れ、少年は再び学校に向けて歩き出した。
西暦2015年(皇紀15年)7月1日、7時20分
その場所は、外と比べ、静寂に満ちていた。
一人と一匹が歩く小道の両端には、白い小石が所狭しと敷き詰められている。
まるで、墓石のように
「空気が重いな」
「……それだけではない。生き物の気配が、全く感じられん。まるで」
まるで、この世が終わったあとの景色のようだ。
最後は口の中で呟くと、黒猫は周囲を見渡した。
「爆発の原因は分かっているのか?」
「表向きには、病院の地下に設置されていた、大型の蒸気機械の暴走となっているが」
口を閉ざし、自分の言葉を否定するためか、黒猫は、ふるふると頭を振った。
「そんなはずは無い。都市の三分の一を吹き飛ばす爆発など、いったいどれほどの機械だというのだ。それに、他の機械の誘爆にしても、時間に差は出るはずだ。だが」
「ほぼ同時に、爆発は起こった……そこにいる人々が、逃げる間もないほど、唐突に」
「うむ、だからこそ、ここに住む者は、災厄に煉獄という名を付けたのだ。その名前の、真の意味も知らずにな」
いつもより、彼らの口数は多い。無理も無い。そうしなければ、彼らでさえ、とても耐えられないのだ。
総合病院の跡地、災厄の発生地に作られた、この森の雰囲気に。
「じゃあ、やはりあの爆発は、奴らの……と、着いたようだな」
不意に、彼らはぽっかりと開いた空間に出た。
「……気付いているか、ヒスイ」
ふと、黒猫が低く唸った。
「ああ、まったく、何が“澄んでいる”だ、濁りきってるじゃないか」
頷いて、首を右に逸らす。半瞬後、今まで首があった場所を、何か冷たい物が通り過ぎた。
「ふん、スフィルにもなれぬ死霊の集まりか、どうする? ヒスイ」
「見過ごすわけには行かないだろう」
胸ポケットからペンダントを取り出したヒスイを見て、黒猫は、呆れて首を振った。
「やれやれ、死霊を相手にするなど、面倒なだけだ。これからの事を考えれば、体力の消耗は控えたほうが良いのではないか?」
「分かっている。けど、このまま放置していれば、こいつらはもっと数を増やして、終いには街に溢れ出す……それに」
辺りに漂う死霊の群れを見渡し、ヒスイは悲しげな表情を浮かべた。彼らは皆、苦悶と絶望の表情をし、飢えている。
「それに、早く開放してやりたい」
「……ふふ、相変わらず“こういった存在”には優しいの。先程の男達など、弁明する機会も与えなかったくせに」
「黙れ、私はああいう、自分を律する事のできない奴が一番嫌いなんだ。とにかく、さっさとやるぞ」
黒猫の軽口に、不機嫌そうに言い返すと、ヒスイはペンダントから現れた“それ”を、一気に引き抜いた。
西暦2015年(皇紀15年)7月1日、7時40分
柳準(やなぎじゅん)は、その端正な顔を、嫌悪感たっぷりに歪ませ、目の前でだらだらと喋る男を睨み付けた。
「何度も言っているだろう、断る」
「だ~か~ら、こっちも何度も言ってるじゃないか。僕の父は大会社の社長で、しかももうすぐ市議会議員になる。その息子であるこの僕と付き合えば、いろいろと贅沢をさせてあげるよ」
にやにやと下品に笑う男の目は、先程から、自分の胸に注がれていた。
吐き気がする。
中学の時は、一人を除き、自分に話しかけてくる男はいなかったくせに、中学の終わりごろから急に育ち始めたこの胸のせいで、彼女は一日に3度は必ず告白された。しかも、その全員が、不機嫌そうな自分の顔ではなく、大きく育ったこの胸を、にやにやと下品な顔で見るのだ。
見られている方の気持ちなど、考えもせずに。
「悪いが、私は贅沢なんて興味ないし、お前にはもっと興味が無い」
そう、自分に触れていい男は一人だけだ。彼のために、自分は女である事を受け入れたのだから。
きびすを返し、学校に向かおうとした彼女の肩を、男は慌てて掴んだ。
「ちょ、ちょっと待てよ、話はまだ終わってねえぞ!!」
「……離せ」
「ふん、知ってるぜ、お前の男って、あのへたれだろ、あんなちびのどこがいいんだか。大体、あいつ今は下町に住んでるけど、本当はスラムの出身だってうわ」
「離せと言っている!!」
めきょっと音がして、振り向きざまにはなった褐色の足が、男の股間に食い込んだ。
「……あ…………がっ」
「俺の“唯一”を侮辱するなら容赦しねえ、まあ、あいつが聞いたら、その時点でお前の命なんざ無くなってるだろうがな」
口から泡を出し、がくがくと崩れ落ちる男を無視し、準は再び歩き出したが、男の体が完全に見えないところにくると、強く舌打ちをした。
「……潰れなかったか」
「ん?」
準が彼に気付いたのは、もう少しで学校に着く時だった。自分の前方を、誰かがふらふらと歩いている。小柄で、伸ばした髪があたりに散らばってる姿をを見て、準は嬉しそうに笑った。
「せ~い、こんな所でなにやってんだよ」
「うわっ、じゅ、準、重いっすよ」
少女に思いっきり伸し掛かられ、聖亜はばたばたと手足を動かした。その拍子に、小さな頭が準の胸の間にすっぽりと挟まる。
「お、おい、こんな所で……ふふ、なあ、このまま一緒に学校に行くか? って、何だよ聖、お前、目の下真っ黒じゃないか」
「や、その、大丈夫っすよ? その、あんまり、眠れなかっただけっすから……ふぁっ」
「眠れなかったって、お前な……ほら、さっさと学校に行って寝ろ。ふふ、それとも」
胸の中で欠伸をされるくすぐったさに笑いながら、準はますます少年を抱きしめた。
「それとも、学校なんかサボって、そこいらの森で、私と一緒に寝るか?」
「え? い、いやその、が、学校に行って寝るっす」
「なんだよう、あの女の方が良いのかよう」
可愛らしく口を尖らせて、準は半ば少年を抱きかかえながら、学校への道を急いだ。
二人が通う学校―市立根津高等学校は、旧市街の北に広がる山脈の麓にある。元々は、明治初期に建てられた師範学校を改築したもので、それから100年以上、生徒達を受け入れ、そして卒業させていった。
だが、戦後も幾度か改築をした建物も、老朽化が進み、10年ほど前に、それまでの校舎の隣に新しく校舎が建てられた。以来生徒達は第二校舎と名づけられた新校舎で学んでいるが、第一校舎と呼ばれるようになった旧校舎は取り壊されずに残っており、屋上にある、師範学校時代にイギリスから送られた記念の鐘「平和の鐘」も、鐘楼の中にしっかりと安置されている。
「まったく、眠れなくなったらすぐ来いって行っただろうが」
「あう、す、すいませんっす。氷見子(ひみこ)先生」
第二校舎の一階、その右端にある保健室の主、兼聖亜の担任である植村氷見子(うえむらひみこ)は、ベッドに横たわる生徒を見て、呆れたようにシュガーチョコを噛み砕いた。
「ま、一時限目はあたしの授業だから、ここでゆっくり寝てな。けど、二時限目からはしっかり出席するんだぞ。とくに、三時限目は口うるさい教頭の授業だ。お前が遅れたら、あたしが説教されるんだ。だから、絶対に出ろよ。いいな」
癖のある黒い長髪をがしがしとこすっていた氷見子は、不意ににやりと笑った。
「……それとも、この前の話、受けてみる気になったか?」
「えっと、この前の話っていうと……」
自分に伸し掛かってくる、獲物を狙う美しい雌豹を見上げ、聖亜は顔を真っ赤にして俯いた。
「だからさ、あたしの婿になるって話。学校なんか中退で大丈夫だって。姉貴も妹も、そんなの気にしない奴らだから、さ」
白い頬をなぜられ、準よりさらに大きな胸を押し付けられる。その胸を押し返そうと、しばらくもがいていた聖亜のその瞳が、ふと細まった。
「……すまない、氷見子。もう少しだけ考えさせてくれ」
先程までの弱々しいそれとは違う、鋭く凍てついた視線が、自分に容赦なく突き刺さってくる。本当に親しい人間か、容赦しない敵にしか見せない少年の、それが本質だった。
「うあ、わ、分かった、じゃ、じゃあ、あたしは行くから、ちゃ、ちゃんと眠れよ」
体の底から湧き上がる恐怖と、特別と思われている事への悦びから、保健室を出た彼女の体は、がくがくと震えだした。
西暦2015年(皇紀15年)7月1日、9時30分
その子供は、今日も泣いていた。
自分が何でここにいるのか、子供には分からない。覚えているのは、強烈な熱さと痛み、それが過ぎ去った後に訪れた、どこまでも続く寂しさだった。
《熱いよう、怖いよう、お母さん》
暗い地の底で、子供は他の“人”達と一緒に、ぐるぐると渦を巻くように動いていた。だが、ある日上から、僅かなな光が差し込んだのだ。
その光の向こうに、母親はいる。そう思った子供は、周りの“人”と一緒に、光の中に飛び込んだ。
だが、光の中に出た子供を待っていたのは、母親の温もりなどではなく、先程まで感じる事の無かった、圧倒的な飢餓だった。
飢えと孤独に苦しむ霊は、死霊になりやすい。その例に漏れず、子供の霊も、何時しか死霊へと変化していった。
その日も、半ば死霊と化した子供は、耐え難い飢えを満たすために、獲物が来るのをひたすら待っていた。
そんな時だ。
―リンッ
誰かに呼ばれたのは。
熱が自分を包み込む。だが、それは子供が体験した、地獄の業火ではなく、むしろ、母親の温もりに似た、柔らかな温かさだった。
《お母さん?》
―リンッ、リンッ
困惑しながらも、自分を呼ぶ声に、ゆっくりと近づいていく。その先に、ぼんやりと誰かの姿が見えた。
《ああ、お母さん!!》
子供は、目の前にいる母親に、胸を嬉しさでいっぱいに満たし、抱きついた。
「…………ぐっ」
漂う死霊の群れ、その最後の一体をペンダントの中に吸い込むと、ヒスイはがくりと膝をついた。だらだらと脂汗が流れる。吐き気がする。強く噛み過ぎたのか、唇の端から赤い液体が一筋、流れた。
ぶるぶると震える手から、先程まで鳴らしていたそれ―金剛鈴が、ぽとりと落ちた。
「無事か、ヒスイ」
「……ああ。けど、300はさすがに、きつい、な」
「まったく、刀で祓えばいいものを。ヒスイよ、そなた、なぜこうも自分の肉体を痛めつけるのだ」
「……うるさい、刀では、駄目だ。刀では、彼らが、また、苦しむ」
ヒスイが行ったのは、いわゆる浄化と呼ばれるものだった。死霊を鈴の音色で引き寄せ、自信に取り込む事で、その苦しみと絶望を肩代わりし、昇天させる。もちろん、現在では自分の体ではなく、道具を使うが、それでも300という数は、その反動だけでも、並大抵のものではなかった。
何とか息を整え、がくがくと震える足で立ち上がると、ヒスイは前方にある、巨大な木に目をやった。先端が二又になっている大きな杉の木だ。この辺りが吹き飛んで、一年後、鎮魂祭を執り行った時、屋久島から樹齢800年の杉の木を取り寄せ、鎮魂樹として植えたものらしい。元々、二又木は神木としてあがめられている。それが“穴”を塞いでいる限り、死霊など生まれないはずだが。
「ふん、穴を無理やり塞いだ代償か。見ろ、根の一部が腐れている」
「……キュウ、修復はできるか?」
「うむ、少し待て」
根を見つめる紫電の瞳が、金色に輝く。やがてその光が治まると、黒猫はほっと息を吐いた。
「これで良し。半ば死んでいた細胞を活性化させた。もう死霊は吹き出ないし、後2,3日で切り口も塞がるだろう」
「そうか……ありがとう」
疲れたのか、目をぱちぱちと動かす黒猫を、ヒスイはゆっくりと抱き上げた。
「まったく、我らの使命は、奴らの討伐だというのに。ヒスイよ、以前指摘したと思うが、そなたは使命と情に挟まれれば、どうも情に流されやすい。悪い癖だぞ」 その胸に抱かれ、黒猫はしばし愚痴をこぼしていたが、やがて、ゆっくりと目を閉じた。
「……自分が未熟なのは、自分が一番良く知っている。それでも」
眠りについた黒猫をそっと降ろし、ヒスイはゆっくりと杉の木に歩み寄った。見下ろすと、丈の長い草に隠れている、小さな鉄板が目に映った。
「……」
胸に挿してある白い花を引き抜くと、その上にそっと置く。そのまま、ヒスイは鉄板に刻まれた文字を、指でゆっくりとなぞった。
「それでも、私は戦う以外の道を知らない。他の生き方なんて出来ない。だから」
立ち上がり、ゆっくりと頭を下げた。
「だから、安心して眠ってください。災厄は、二度と起こさせませんから……絶対に」
ヒスイ達が立ち去った後、杉の木の葉が、ざわざわと揺れた。
一筋の風も、吹かなかったのに。
西暦2015年(皇紀15年)7月1日、10時45分
聖亜が目を覚ましたのは、二時限目が終わった直後だった。授業の終わりを告げる鐘の音が、ぼんやりした頭に響く。どうやら、2時間ほど熟睡できたらしい。氷見子先生の姿は見当たらないが、枕元にジャムパンが置いてあった。それを見て、急にお腹が鳴る。そういえば、麻からほとんど何も食べていない。
ジャムパンをかじりながら教室に向かうと、窓から外の景色が見えた。山の麓という事で、あまり広くないグラウンドから、クラスメイトが次々に校舎の中に入っていく。その中に、準達の姿を見かけ、そういえば、今日は持久走の試験があったな、などと思いながら、角を曲がった時、
「うわっ」
「……おや?」
ドンッと、誰かとぶつかった。
「あ……す、すいません、校長先生」
「ああ、いえいえ、いいんですよ。君は……確か、星君でしたね」
ぶつかった相手は、腹の突き出た、50歳ほどの男だった。狸山六郎(たぬやまろくろう)、ここ、根津高等学校の校長を務めている。朗らかで優しく、多少の校則違反は見逃すため、生徒からの評判はまずまずだ。
「植村先生から話は聞いています。いいですか、体調管理はしっかり行ってくださいね。健康第一、ですよ」
笑いながら去っていく校長を見て、聖亜はほっと息を吐いた。
確かに、“甘い”校長ではあるが、自分はどうもあの先生が苦手だった。まるで、内心を隠し、笑顔の仮面を無理やり張り付かせているような―
ぼけっとしている聖亜の耳に、授業5分前を知らせる鐘が響いた。慌てて残りのパンを口に押し込むと、少年は、教室に向かって駆け出していった。
「先週も説明したとおり、イギリスで第一次産業革命が起こると、ワットの手により蒸気機関の雛形、すなわちプロトタイプが作られ……」
厳しい声が、しんと静まる教室に響く。この授業で、というより、この先生の前で私語をする生徒はいない。もし、私語をしたら、その生徒の昼休みと放課後は無くなってしまうだろう。
「蒸気は、長い間代替品が見つからなかった事もあり、二百年の間、電力と共に主要なエネルギーとして活躍してきた。現在は次世代のエネルギーとして、ガス、及び原子力が注目されているが」
声の持ち主は、40台後半の厳しい顔をした男だった。鍋島進(なべじますすむ)、彼は教頭を勤める傍ら、こうやって世界史も教えている。
「だが、世界の約半分の国々、特に中東やアフリカは、未だに蒸気と、そしてそれを動力として動く蒸気機関に頼っているのが現状だ。それはなぜか……星、答えなさい」
「え? あ、はい。えっと、気化石の発明があったからです」
「その通り。正解なのだから、もっと堂々と答えるように」
びしりと釘を刺され、聖亜はすごすごと席に座りなおした。どうもこの教頭は、校長とは別の意味で苦手だった。
「日本人発明家、黒塚鉄斎により発明された気化石が、世界に与えた影響は大きい。なぜなら、この石一つで石炭の数十倍のエネルギーを生み出す事が可能で、さらに排出されるのは、人間の体になんら害を及ぼさない水蒸気だ。だが、これが発明された当初は、そのあまりのエネルギーに絶えられる蒸気機械は存在せず、そのため耐久性を中心に、蒸気機械は次々に強化されていった。その例が、今でも空を飛んでいる装甲飛空船の開発だが、第一次蒸気大戦中は、この飛空船に武装を積み込み……」
それでも、聖亜はこの先生が嫌いではなかった。確かに厳しいが、それは生徒を思ってのことであり、彼らを好きにさせている校長とはまるで違う。
話し続ける教頭の顔を眺めていると、やがて授業終了を告げる鐘の音が聞こえてきた。
「よう聖、今日遅かったじゃねえか」
「そうそう、なにやらかしたんだよ」
四時限目が終わり、学生食堂に来た聖亜に、二人の男子生徒が話しかけてきた。
「何でもないっすよ、秋野、福井」
「ったく、何でもないなら持久走サボるなよな」
「そう言うなって秋野、どうせ、保健室で植村先生といちゃついてたんだろう」
金髪の男子、秋野茂(あきのしげる)が、スプーンを咥えたまま愚痴をこぼすと、その隣で、2杯目のカツ丼を頬張っていた福井敏郎(ふくいとしろう)が、にやにやと笑いながらちゃちゃを入れた。
「別にそんなんじゃないっすよ。って、福井、何か昨日と髪型変わってないっすか?」
「おいおい、気付くのが遅いぜ、聖ちゃんよ」
笑いながら、福井は自分同様、長く伸びた髪をさらりと撫ぜた。確か昨日まではアフロだったはずだ。
「なあ、聞いてくれよ、聖。敏郎の奴、また彼女変えたんだぜ」
「ああ、それで」
「おいおいしげちゃんよ、誰も彼女を変えてなんかないっての。ただ、もう一人増えたってだけ」
「……これで何人めっすか、福井」
へらへらした友人を、呆れたように眺め、聖亜は二人の向かい側に座った。この大男はなぜかもてる。女好きで、軟派な性格だが、やはり堀の深い顔つきと、体格がいいくせに、お菓子作りが趣味のためなのだろうか、女子と話しているのを良く見かける。
「そんなの三人から数えてねえよ。何だ二人とも、女が欲しいのか? ならさ、今度合コンして見ねえか? お膳立てぐらいしてやるぜ」
「お、それいいな。なあ聖、お前も……」
笑いながら自分のを見た秋野の顔が、びしりと固まった。
「ん? どうしたっすか? 秋「聖をくだらない事に巻き込むんじゃない。この凸凹コンビ」……あ、準」
褐色の肌を持つ女子生徒が、何時の間にか自分の後ろに立っていた。縮こまる二人を一瞥すると、いつもの席―聖亜の隣に腰を下ろす。
「ほら、お前の分」
「あ、ありがとっす、準」
渡されたチャーハンに、早速蓮華を伸ばす。はふはふとおいしそうに食べる少年を幸せそうに眺め、準もラーメンに取り掛かった。
「ちぇ、なんだよ柳、凸凹コンビって」
「実際に凸凹コンビだろ。まったく、福井、合コンなんて言葉、栗原が聞いたらめちゃくちゃ言われるぞ」
げっと大げさに飛びのき、デコ―180を越す長身の福井は、おそるおそる辺りを見渡した。だが、そこに彼らのクラス、1年E組の、鬼のクラス委員の姿はない。
「おいおい、あんまり福井を脅かすな。栗原の奴、今日はソフトボールの県大会で公欠だろ」
親友の慌てる姿を見て、ボコ―聖亜よりは幾分背が高いが、それでも170に届かない秋野は、二人に向き直った。
「まあ、合コンの話は置いといて、それより、そろそろ七夕が近いだろ? 恒例のパーティー、今年もやろうぜ」
「恒例って、まだ去年一回しかやってないじゃないすか。まあ、いいっすけどね。準もどうっすか?」
「ん? ああ、大丈夫だ。けど福井、お前、当日は“ナヌカボシ”で忙しいんじゃなかったのか?」
「へ、ありゃ元々寺の仕事だ。それを親父の奴、神社でもやるなんて言い出しやがって」
ふてくされながら、三杯目のカツ丼に手を伸ばす神主の息子を見て、準は呆れたように頭を振った。
西暦2015年(皇紀15年)7月1日、12時30分
「それで、ヒスイよ、これからどうする?」
お昼時、鎮めの森を離れたヒスイ達は、再び蜘蛛の巣を歩いていた。街は相変わらず灰色の煙と汚水に包まれ、じめじめと蒸し暑い。
「そうだな、まず拠点に決めた場所に行こう。そこで休んだ後、この街を中心にエイジャを探す」
「ふむ、ならば問うが、なぜこの街なのだ?」
黒猫の問いかけには、疑問を投げかけるというより、生徒の答えを確認する、教師のような口ぶりだった。
「先日の“狩り”を見ると、奴らはこの都市で人を襲う事に慣れていた。つまり、すでに何人かの犠牲者は出ている。けど、新市街、それに旧市街でも、警戒している様子は全くなかった。なら」
路上に並べられた、縄だか紐だか分からない細長い物をまたぐと、それを並べていた男がじろりと睨んできた。
「人間が消えてもおかしくない、この歪んだ街で狩られているということか、ふむ、50点」
「……随分と厳しい評価だな」
ヒスイが苦笑すると、キュウはまだまだだな、という風に首を振った。
「この街を狩場に選んだのなら、なぜわざわざ川の向こう側、旧市街に出現した?奴らの目的は不明だが、なぜ気付かれる危険をわざわざ冒す?」
「それは……必要な数をそろえたか、旧市街でなければならない理由があったのか」
「狩りを終えたのなら、奴らは速やかに次の行動に移る。つまり、そこでなければならない理由があったのだ。つまり」
話を続けている黒猫のお腹が、クウと鳴った。
「どういう理由にしろ、人間を襲ったエイジャを討つことに変わりはない。それより、“教会”に行く前に何か食べよう。朝から歩き通しだからな、さすがにお腹が空いた」
小さく笑い、きょろきょろと周りを見ると、さほど遠くない所に、一軒の“めしや”が見えた。
西暦2015年(皇紀15年)7月1日、18時20分
旧市街で人気のスポットはどこか。そう聞かれたら、皆3つの場所を答えるだろう。デパート通り、神社前の土産物売り場、そして、空港の前、喫茶店が軒を連ねる、空船通り(そらふねどおり)を。
夕日が射す中、通りの一角にある二階建ての喫茶店「キャッツ」で、そのウエイトレスはうんざりした顔で給仕をしていた。
「聖ちゃ~ん、お水頂戴」
「あ、ずるいぞお前、ちゃんと注文しろよ。“聖華”ちゃ~ん、俺はレンジジュースね」
カウンターが1つ、他にテーブルが4,5席あるだけの小さな店内は、今日も客(大部分は男)で混み合っていた。メニューが豊富で、しかもお手ごろ価格という事もあるが、それ以上に彼らが楽しみにしているのは、この店の看板娘を見ることにあった。いや、正確には、“娘”じゃないんだが……。
「……はぁ」
その看板娘(?)黒い猫耳と、同じ色の尻尾をつけた小柄なウエイトレスは、客を一通りさばき終え、物陰でげっそりと息を吐いた。
「あらら、な~に勝手に休んでるのさ、看板娘のせ・い・かちゃん」
「……祭(まつり)さんまで、チャン付けで呼ばないでくださいっす、気持ち悪い」
もうお分かりだろうが、聖華―ウエイトレスの格好をさせられた聖亜が愚痴をこぼすと、茶色い耳と尻尾を付けた活発な大学生は、へっとはき捨てるように笑った。
「あらら、いいのかな、口答えして。この前、スケベな客に迫られてたの、誰が助けてやったんだっけ」
「……祭さんっすよ、すいませんね、口答えして」
「あはは、謝らなくていいよ、聖ちゃん、祭ちゃん、ただ不貞腐れてるだけだから」」
そこに、お揃いのピンクの耳と尻尾を付けた小柄なウエイトレスが二人、両手に汚れた食器を持ってやってきた。
「あ、昴(すばる)姉、北斗(ほくと)姉、お疲れさまっす」
「「うん、お疲れ様、聖ちゃん」」
「お疲れさんと、けどよ姉さま方、不貞腐れてるはねえだろ、不貞腐れてるはよ」
「「だって、女の子の祭ちゃんより、男の子の聖ちゃんのほうが人気あるんだもの。不貞腐れるのは当然よ。ね~」」
姿形だけでなく、声まで同じな双子に笑われ、祭は小さく舌打ちしたが、すぐににやりと笑った。
「ああ、でも一番はやっぱりお姉さま方だよな。なんたって、この中じゃ一番の古株なん、だ……から」
その瞬間、周りの空気が、びしりと変わった。
「……あ? だれが10以上も年上のおばさんですって?」
「そうそう、誰が若作りしなきゃ彼氏も出来ない婆さんなのかしら」
「え? いや、誰もそんなこと言って……」
「言い訳禁止。聖ちゃん、ちょっとマスターを手伝ってきてくれる?」
「そうそう、あたし達は身の程知らずな小娘ちゃんに、ちょ~っとお話があるから」
「は、はひ、い、行って来まふ」
「「いい子ね、聖ちゃん。さ、こっちにいらっしゃい、祭ちゃん……いろいろと教育しなおしてあげるから」」
どこまでも低い双子の声に、がたがた震えながら回れ右をすると、聖亜は急いで逃げ出した。
―数秒後、店内に少女の悲鳴が響き渡った。
「はは、相変わらず女性陣に振り回されているな。いかんぞ、聖」
「……いかんぞと言われても、勝ち目ないっすよ、マスター」
調理場とは別にある、カウンターの隅にある小さなキッチンに逃げてきた聖亜を迎えたのは、「キャッツ」のマスターを務める、荒川白夜(あらかわびゃくや)だった。自分より頭二つ分の身長、30台前半の渋い顔つき、黒髪を後ろに撫で付けた、訪れる女性に大人気のクールな二枚目である。
「まったく、男子がそんな事でどうする。教えその三十三、男たるもの、女の一人や二人、立派に尻の下に敷いてみせろ」
……多少、性格に問題はあるが。
笑いながら、白夜はクッキングヒーターの上にあるフライパンを右手で器用に動かし―炎が苦手な聖亜のために、奥の調理場と違い、飲み物のつまみを作るここには、ガス台は置かれていない―空いた左手で、横にある汚れた食器を指差す。洗えという事だろう。
「けど、マスターだって市葉(いちは)さんに、頭が上がらないじゃないっすか」
「おいおい、あれは頭が上がらないんじゃない。俺が妥協してやってるだけさ」
「………………あら、そうだったのですか」
笑いながら作業を続ける二人の男、その背後から、冷たい声が響いた。二人とも、ぎぎぎっと、そろって首を後ろに回し、何時の間にか立っていた、声の持ち主を見た。
「だんな様がそんな風に思っていたなんて、知りませんでしたわ。ふふ、今度から妥協なんてされないよう、本気を出さないと」
調理場から現れたのは、艶のある黒髪をした、妙齢な女性だった。顔は穏やかだが、その目は全く笑っていない。
「い、いや、市葉、お手柔らかに頼む」
はいはい、とにこやかに笑う料理長に、ひたすら頭を下げるこの店のマスターを見て、聖亜は心の中でそっとつぶやいた。
(……師匠、だめすぎっす)
「そ、そうだ市葉、何か用なんだろう?」
「あら、すっかり忘れてたわ」
軽く両手を叩き、一度調理場に戻った市葉だったが、すぐに戻ってきた。その手に、さっきまで無かった大きなバスケットを抱えて。
「ねえ聖ちゃん、悪いのだけれど、お医者様に、いつもの頼めるかしら」
「……あの、今からっすか?」
時間は、すでに19時を過ぎている。不安げに見上げてくる少年に、市葉はすまなさそうに頷いた。
「ごめんなさい、どうしても届けて欲しいって連絡があったの。お得意様だし、断れなかったのよ」
「……まあ、お二人以外で、あの“街”に詳しいのは自分っすから、俺が行かなきゃ行けないのは分かるんすけど……分かりましたよ、行ってきます」
ごめんね、と言う市葉からバスケットを受け取ると、耳と尻尾を取り外し、聖亜は裏口からそっと出て行った。
西暦2015年(皇紀15年)7月1日、20時13分
がたごとと、調子の悪い機関(エンジン)の音が車内に響く。
整備がおざなりだな。そう思いながら、ウエイトレスの格好をしたまま、聖亜は灰色に包まれた街を、ぼんやりと眺めていた。
「いや、すまんな、聖」
「いいっすよ、先生には、俺もお世話になったっすから」
聖亜がバスケット―夜食と少量の医薬品を届けた相手は、灰色街にある蜘蛛の巣の一角で、もぐりの医者をしている初老の男だった。といっても、患者はほとんど来ない。この街で重症を負う事は、十中八九死を意味したからだ。
今日の配達は、どうやら蜘蛛の巣の有力者の娘が病気になり、その薬が足りなかったらしい。
「しかし、聖、相変わらず女装が似合うな」
「……相手しろ、なんていったら殺しますからね」
先程薬を取りに来た男達にじろじろと見られ、機嫌の悪い聖亜は、ずけずけと言いながら、ふと、周りを見た。
「なんか今日、お客さんが多いっすね」
所々ひび割れ、ほこりかぶった建物の中には、四十人ほどの患者がいた。むろん清潔なベッドなど無い。皆床や階段の隅に寝かされている。よほど重症なのか、ぴくりとも動かない。
「や、こいつらは患者じゃねえんだ。ちょっと見てみろ」
促され、聖亜は近くで寝ている一人の男に歩み寄った。彼は苦悶の表情を浮かべ眠っている。いや、これは眠っているんじゃない?
「先生……この人は」
「三日前、排水溝近くで自警団の連中に発見された。体の所々に古傷あり。身に着けている物はボロ、と、一般的な格好だが……どうだ、おかしな所は分かるか?」
「おかしいって、どこも……って、ちょっと待ってください。排水溝の近くって言いましたよね」
「ああ」
「じゃあ、手足があるのはおかしいっすよ。あそこは“鼠”の巣に近いっすから」
聖亜のいう鼠とは、言葉通りの生き物ではない。災厄の後、街に巣食うようになった数多くの化物(けもの)の一種だ。ぼさぼさの髪と、灰色ににごった目を持つ、生物の三大欲求―食欲、性欲、睡眠欲と、もう一つ、金欲で動いている。そして食欲の主な対象は、人間だ。
「ああ、奴らは生きた人間も、死んだ人間も見境なしに“喰らう”だが、この男を含め、他の40人以上の老若男女、その全てが“喰われて”いない。つまりこいつらは、生きても死んでもいないことになる。そして、もう一つ、共通しているのは」
男の胸にかかっているボロを剥ぎ取ると、ちょうど心臓がある場所に、5つの紫色の痣があった。
「先生……これって」
「ううむ、見当がつかん。物凄い力で指を押し当てたらこういう風になるが、化物の中で、これが出来るのは狒々(ひひ)だけだが、奴らは心臓を“喰らう”。だが、見ての通り無傷だ……と、バスが来たな。ごくろうさん」
紫色の痣を呆然と見つめる聖亜の耳に、遠くからガタゴトと、調子の悪い機関音が聞こえてきた。
(あれは、たぶん昨日の奴らの仕業っすかね)
先程見た紫色の痣を見て、聖亜は無意識のうちに、首を掻いた。薄くなっているが、そこには彼らと同じ痣がある。だが、確実にそうだといえるわけではない。なぜなら―
ふと、聖亜はバスの中を見た。
復興街を走る装甲バスの中には、自分と運転手以外、誰もいない。夜になると、この街の治安は急激に悪化する。治安維持のために結成された自警団の勤務時間が終わるためだ。ある程度安全な昼と比べ、夜の街は、文字通り快楽と暴力、そして残虐な街となる。
そんな街に来たがる外部の人間は、旧市街、ましてや彼らを人間と思っていない新市街の中には、もうほとんどいない。
(災厄が起こる前は、こんなにひどい差別は無かったって、親父は言ってたけど)
そんな昔の事は知らない。聖亜が覚えているのは、差別する人間とされる人間、その間で右往左往する自分達だけだ。
「そろそろ橋に差し掛かりますぜ。お客さん」
「……ふえ? ああ、はいっす」
自分を呼ぶ運転手の声に我に返る。どうやら、考えながらうとうととしてしまったようだ。
「しかし、こっちにくるお客さんなんて、最近はほとんどいませんな。一昔前は、蜘蛛の巣で売られている薬を買おうと、結構なお客さんを乗せたもんですが」
「そうなんっすか」
「今日も、朝一番で若いお客を乗せたきりで、やっぱりこの街は時代に取り残されるんですかねえ」
「はあ……どうでもいいけど、ちゃんと前見て運転してほしいっす」
「ああ、大丈夫ですよ。この道は13年間、毎日運転してるんだ。それに、こんな街の奴ら、一匹や二匹ひき殺したぐらいじゃ、罪に問われることもな」
ふと、運転手の声が途切れた。それだけではない。いつのまにか、装甲バスも止まっている。
「あの、運転手さん?」
何か嫌な予感に首をかしげながら、聖亜は運転手に声をかけた。返事は無い。しんと静まるバスの中に、自分の声がむなしく響く。
「あの、本当に大丈夫っすか? 運転手さ」
近寄って、彼の肩に手を置いた聖亜は、何気なくバスの前を見て、
―そして、固まった。
続く