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創価の同志

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Thread List
1みんなの広場(757)
2守護国家論 赤鬼の教学室(62)
3御書講義 青鬼の教学室(573)
4光線のわが友に贈る(保存版)2(51)
5女性に贈ることば365日(384)
6光線のわが友に贈る(保存版)(1000)
7自己紹介(50)
8御義口伝講義 赤鬼の教学室(1000)
9とkkりの教学部屋(47)
10青鬼の教学室(1000)
11赤鬼の教学室(1000)

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1 / みんなの広場 (757)
1Tommy ◆L66fmP/Ue6 :2008/12/27(土) 19:53:09
掲示板を作成しました。


751赤鬼 ◆EtcmJTqYfU :2010/11/18(木) 14:25:55
ネズミ君の書き込みのお部屋移動しました。


752備前 ◆TtzwqSGci2 :2010/11/23(火) 13:30:28
  へ〜い!何時の間にやら、座布団全部毟り取られてるゥ〜 (;_; シクシク
  久ぶりに訪ね見れば、千個みんな埋まっているからと思えば、さすが二つは切り取りに使われている (^0^; ♪ イヤハヤ南都も・・
  転載、三年目っすか、ご苦労様です m(__)m


753ノラ :2010/12/12(日) 21:57:23
青鬼さん、お疲れ。

次は、どこの講義?


754EUPA :2011/02/09(水) 13:50:00
はじめまして、そしてお礼を言わせてください。
赤鬼さま、青鬼さま、いっぱいいっぱい勉強させてもらいました。
ありがとうございました。


755赤鬼 ◆EtcmJTqYfU :2011/02/10(木) 04:57:00
EUPAさんお早うござます。
読んでいただいた御様子、ありがとうございます。
この板は閉鎖しますが、私の勉強は他の板で継続していきます。
http://jbbs.livedoor.jp/study/9219/
ですので、そちらにお越しください。


756備前 ◆TtzwqSGci2 :2011/02/14(月) 09:06:37
 で、赤鬼さん、どォ〜すんの?強制休止になってしまってるよ (^^;


757ポン吉 :2011/02/14(月) 09:43:18
赤鬼君は3月からプロバイザーを一つにするため、二つの掲示板(同じアドレス)管理ができません。したがってここは閉鎖するとのことです。
ブログを開設されたので、そちらに以降されるのでしょう。
http://blog.livedoor.jp/inae_sokagakkai/


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2 / 守護国家論 赤鬼の教学室 (62)
1赤鬼 ◆EtcmJTqYfU :2010/12/13(月) 08:44:03
守護国家論    正元元年    三十八歳御作
第一章 三悪道に堕ちる諸因を明かす(0036〜0036−04)top

0036top
守護国家論    正元元年    三十八歳御作
01   夫れ以んみれば偶十方微塵の三悪の身を脱れて 希に閻浮日本の爪上の生を受け 亦閻浮日域・爪上の生を捨て
02 て十方微塵・三悪の身を受けんこと疑い無き者なり、 然るに生を捨てて悪趣に堕つるの縁・一に非ず或は妻子眷属
03 の哀憐に依り 或は殺生悪逆の重業に依り 或は国主と成つて民衆の歎きを知らざるに依り 或は法の邪正を知らざ
03 るに依り或は悪師を信ずるに依る、

 そもそも考えてみると、たまたま十方微塵の三悪をまぬかれて、たまに閻浮提・日本の爪上の生を受け、また閻浮提・日域の爪上を捨てて、十方微塵の三悪の身を受けることは疑いないのである。
 しかるに、生を捨てて悪趣に堕ちる縁は一つではない。妻子・眷属の哀憐によって、あるいは殺生・悪逆の重業によって、あるいは国主と成って民衆の嘆きを知らないことによって、あるいは仏法の邪正を知らないことによって、あるいは悪師を信ずることによってである。


56赤鬼 ◆EtcmJTqYfU :2011/01/16(日) 08:46:44
法華経の序品に放光瑞の時・弥勒菩薩.十方世界の諸仏の五時の次第を見る時文殊師利菩薩に問うて云く、「又諸仏聖主師子の経典の微妙第一なることを演説し給うに其の声清浄に柔軟の音を出して諸の菩薩を教え給うこと無数億万なることを覩る

仏が最初に説いたのは華厳経であることを証明する文として、まず法華経序品第一から引用されている。
「放光瑞」というのは序品において法華経説法の序品として六つの瑞相が現われるが、そのうちのひとつである。
これは、仏の眉間の白毫から光が放たれ、東方万八千の仏国土を照らすもので、瑞相であるところから方光瑞という。
この光によって東方のそれぞれの仏国土の様子を霊鷲山の衆生はいながらにして見たのである。すなわち、それぞれの仏国土に六道の衆生や諸々の仏が存在うるのを見えたり、それらの諸仏が教法を説法するのが見えたりするのである。
この放光瑞の不思議さに疑問を感じた弥勒菩薩は文殊師利菩薩に質問をするのであるが、それについて偈頌には次のようにある。
すなわち「諸仏、聖主師子を覩たてまつるに、経典の、微妙第一なるを演説したもう。其の声清浄に、柔輭の音を出して、諸の菩薩を教えたまうこと、無数億万に、梵音深妙にして、人をして聞かんと楽わしめ、各世界に於いて、正法を講説するに、種種の因縁をもってし、無量の喩を以って、仏法を証明し、衆生を開悟せしめたもう」と。
この文はあくまでも偈頌の冒頭の一部分であるが、これについて天台大師は法華文句巻三上でつぎのように解説している。
「此には広く説法の相を明かす。謂く頓教を説いて大根性に逗ず。聖主師子とは、即ち此土に廬舎那の像を現ずるが如きなり。教法微妙第一を演説すとは、即ち此土は先ず高山を照らし、華厳経を演ぶつが如きなり」
すなわち、天台大師によれば、この偈頌自体が説法の相、つまり五時の次第を明かしており、ここに引用した偈頌の冒頭の部分は五時のうち頓教を説いたことを示しているというのである。ここで“聖主師子”とは廬舎那、すなわち華厳経の教主の毘廬舎那仏のことである。
仏の説法の第一が華厳経であることを示す文証として法華経の序品の弥勒菩薩の問いの偈頌を引用されたのは、あくまで天台大師の釈に基づかれているのである。


57赤鬼 ◆EtcmJTqYfU :2011/01/16(日) 09:24:03
王及び諸天帝釈・護世四天王及び大自在天並に余の諸の天衆・眷属百千万・恭敬合掌し礼して我に転法輪を請ずと」

次に引用された方便品の文は、釈尊が悟りを達成した菩提樹の下で坐して三七日間にわたって思惟したときの内容を説いたものである。
すなわち、釈尊は、自分が悟った智慧は深遠で細やかで、凡夫の智慧では到底、およばないことにおいて第一であるのに、目先の欲望にとらわれて何も見えなくなっている多くの衆生を、その智慧で解脱させることができるであろうか、と逡巡した。
そのとき、諸の梵王や天帝釈、護世四天王、大自在天、その他百千もの天界の衆生とその眷属たちが、恭敬合掌しながら釈尊に礼しつつ転法輪を講じた。すなわち、悟りの内容を説法してほしいと要請した。というものでる。
天台大師は、仏がこの諸天たちの要請に応じて説いた最初の経こそ華厳経であるとしている。故に、方便品のこの文を文証として揚げられたのである。


58赤鬼 ◆EtcmJTqYfU :2011/01/16(日) 09:26:11
亦方便品に仏自ら初成道の時を説いて云く「我始め道場に坐し樹を観じ亦経行す、乃至・爾の時に諸の梵王及び諸天帝釈・護世四天王及び大自在天並に余の諸の天衆・眷属百千万・恭敬合掌し礼して我に転法輪を請ずと」

次に引用された方便品の文は、釈尊が悟りを達成した菩提樹の下で坐して三七日間にわたって思惟したときの内容を説いたものである。
すなわち、釈尊は、自分が悟った智慧は深遠で細やかで、凡夫の智慧では到底、およばないことにおいて第一であるのに、目先の欲望にとらわれて何も見えなくなっている多くの衆生を、その智慧で解脱させることができるであろうか、と逡巡した。
そのとき、諸の梵王や天帝釈、護世四天王、大自在天、その他百千もの天界の衆生とその眷属たちが、恭敬合掌しながら釈尊に礼しつつ転法輪を講じた。すなわち、悟りの内容を説法してほしいと要請した。というものでる。
天台大師は、仏がこの諸天たちの要請に応じて説いた最初の経こそ華厳経であるとしている。故に、方便品のこの文を文証として揚げられたのである。


59赤鬼 ◆EtcmJTqYfU :2011/01/17(月) 19:04:27
華厳経の巻第一に「毘沙門天王(略)月天子(略)日天子(略)釈提桓因(略)大梵(略)摩醯首羅等(略)

華厳経の第一巻、世間浄眼品の冒頭において、会座に集まってきた大衆を列挙しているくだりから、とくに天界の衆生達の代表名を挙げられているところである。
なかでも毘沙門天王は多聞天ともいい、四天王の一つである。釈提桓因は帝釈天、摩醯首羅天は大自在天のことである。
ここに、華厳経の冒頭から諸天の代表名を挙げられたのは、この前の方便品の引用文を挙げられている天界の衆生と一致していることを示されるためである。
すなわち、諸の梵天王や天帝釈など百千の天界の衆生たちが釈尊の最初の説法 華厳経 を要請したというのが方便品の引用の内容である。
それと、華厳経の冒頭で、説法を要請した衆生として列挙されている諸天たちの名とが合致していることを明らかにされたのである。


60赤鬼 ◆EtcmJTqYfU :2011/01/17(月) 19:37:01
涅槃経に華厳経の時を説いて云く「既に成道し已つて梵天勧請すらく唯願わくば如来当に衆生の為に広く甘露の門を開き給うべし、乃至・梵王復言く世尊・一切衆生に凡そ三種有り所謂・利根・中根・鈍根なり利根は能く受く唯願わくば為に説き給え、仏言く梵王諦に聴け我今当に一切衆生の為に甘露の門を開くべし」亦三十三に華厳経の時を説いて云く「十二部経・修多羅の中の微細の義を我先に已に諸の菩薩の為に説くが如し」


涅槃経から二つの文を引用されているところである。
前文は同巻27・獅子吼菩薩品大11からの引用である。内容は、先の法華経方便品の引用文と同じく、釈尊に説法を要請した有名な梵天勧請の場面でるが、そのとき梵天王が釈尊に要請した際の問答である。
すなわち、衆生といっても利根・中根・鈍根の三種類のあるうち、利根の衆生なら釈尊の悟りの説法を理解できるであろうから、利根のために説法してもらいたい、と梵天王が要請したのを承けて、釈尊は、自分は今から一切衆生に甘露の門を開くであろう、と言って説法したのである。
後の文は同経巻33・迦葉菩薩品第12の文である。
その内容は、経典を12種類に分類したうちの“修多羅”すなわち散文によって教説を叙述した類にあたるなかで、とくに微妙で細やかな法義を釈尊はまず最初に諸の菩薩のために説いた、というものであるが、それが華厳経の説法を表しているといわれているのである。
この引用文を承けて「此くの如き等の文は皆諸仏・世に出で給いて一切経の初めには必ず華厳経を説き給いし証文なり」といわれているのは、「十二部経」の分類は一切の仏の説法に説法に当てはまるからである。


61赤鬼 ◆EtcmJTqYfU :2011/01/20(木) 21:51:04
問うて云く無量義経に云く「初めに四諦を説き、乃至・次に方等十二部経・摩訶般若・華厳海空を説く」此くの如き文は般若経の後に華厳経を説くと相違如何、答えて云く浅深の次第なるか或は後分の華厳経なるか、法華経の方便品に一代の次第浅深を列ねて云く「余乗有ること無し(華厳経なり)若は二(般若経なり)若は三(方等経なり)」と此の意なり

ここでは、華厳経が般若経の後に挙げられている無量義経の文を挙げて、最初に華厳経が説かれたとするこれまでの論との相違をどう考えるのか、という問いをまず挙げられている。
無量義経の文は説法品第二で、次のとおりである。
「善男子、初め四諦を説いて声聞を求むる人の為にせしかども、而も八億の諸天来下して、法を聴いて菩提心を発し、中ごろ処処に於いて、甚深の十二因縁を演説して辟支仏を求むる人の為にせしかども、而も無量の衆生菩提心を発し、或いは声聞に住しき、次に方等十二部経、摩訶般若、華厳海空を説いて、菩薩の歴劫辟修行を宣説せしかども」と。
この内容は、釈尊が成道後、四十余年にわたって、さまざまに説法してきたことを述べているところである。
すなわち、声聞を求める衆生に対しては四諦の法門を、辟支仏を求める衆生に対しては十二因縁辟の法門を、更に菩薩道を求める衆生に対しては方等十二部経、摩訶般若波羅密経、華厳経を辟それぞれ説いて導いたというものである。
ここでは、華厳経は辟四諦、十二因縁の法門や般若経の後にその名が挙げられている。これは華厳経を釈尊の最初の説法とする文証と大いに異なっているが、この点をどのように考えるかと問うている。
これに対して、無量義経の文の四諦→十二因縁→方等十二部経→摩訶般若経→華厳経の順番は「浅深の次第んるか」、つまり、説法の順番ではなくあくまでも経の内容の浅きから深きへと配列したものであるのか、あるいは「後分の華厳経なるか」、つまり、釈尊が成道後21日間にわたって説法した華厳経ではなく、その後さまざまな時と場所において頓経を求める機根のために説いた華厳経のことであるか、であると答えている。
すなわち「舎利弗、如来は但一仏乗を以っての故に、衆生の為に法を説きたもう。余乗の若しは二、若しは三有ること無し」とある。この文を大聖人は「一代の次第浅深を列ねた」ものと仰せられている。
だが、同じ浅深の次第でも、無量義経の文とは逆に、ここでは一仏乗→余乗→二→三と高きより低きへと次第している。
故に、大聖人は「余乗」に華厳経を、「二」に般若経を、「三」に方等経を、それぞれ配置されているのである。
また「余乗の若しは二、若しは三有ること無し」との文から、余乗は、二、三いずれにもかぶさることが分かる。したがって「後分の華厳経なるか」という裏づけとも考えられるのである。


62赤鬼 ◆EtcmJTqYfU :2011/02/09(水) 08:09:09
掲示板「創価の同志」は今月末にて閉鎖します。
同掲示板の講義内容は
http://www.geocities.co.jp/inae_sokagakkai/
で見ることができます。
なお「法華経の研究」は掲載していません。
必要な方は各自コピーしてください。


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3 / 御書講義 青鬼の教学室 (573)
1青鬼 ◆waPcLJwOb. :2010/01/01(金) 08:30:13
07            がうじやうにはがみをしてたゆむ心なかれ、 例せば日蓮が平左衛門の尉がもとにて・うち
08 ふるまい・いゐしがごとく・すこしも・をづる心なかれ、わだが子となりしもの・わかさのかみが子となりし・将門
09 ・貞当が郎従等となりし者、 仏になる道には・あらねども・はぢを・をもへば命をしまぬ習いなり、なにと・なく
10 とも一度の死は一定なり、いろばしあしくて人に・わらはれさせ給うなよ。
だからあなた方は信心強盛に歯をくいしばって難に耐え、たゆむ心があってはならない。例えば日蓮が平左衛門尉の所で、堂々と振舞い、いい切ったように、少しも畏れるような心があってはならない。北条氏との戦さで敗れた和田氏の子、時頼と戦って敗れた若狭守泰村の子、あるいは天慶の乱の平将門の家来、前九年・後三年の役の阿倍貞当の家来となった者は、仏になる道ではなけれども恥を思うゆえに命をおしまなかった。これが武士の習いである。これということがなくても、一度は死ぬことは、しかと定まっている。したがって、卑怯な態度をとって、人に笑われてはならない。

「強盛に歯をかみしめて、弛む心なかれ」

信仰ゆえに苦境に立たされた池上兄弟に対して「断じて恐れる心、へつらう姿があってはならない。「たゆむ心があっては絶対にならない」と重ねて励まされています。
私たちの信仰の目的は、何があろうと揺るがぬ、悠然たる幸福の大境涯の確立です。
大聖人がここで池上兄弟に示そうとされたのも“どんな苦難を前にしても、少しも揺るがぬ人格を今こそ築きゆけ”との激励であったと拝されます。
日蓮仏法は師弟の宗教です。師匠が師子王であれば、師子の子である弟子もまた師子王にならなければならない。“私を見よ”“私に続け” それが師匠の厳命です。
「例せば日蓮が平左衛門の尉がもとにて・うちふるまい・いゐしがごとく」と仰せのように、“私が厳然と戦ったように、あなたがたも堂々と戦いなさい”と不二の実銭を貫くように指導されているのです。
ここで、大聖人の平左衛門尉の前で振る舞いとは、文永8年(1271)9月の竜の口の法難の際の国主諫暁そして、佐渡流罪赦免後の文永11年(1274)4月の国主諫暁を指されています。
大聖人は、竜の口の法難の際、平左衛門尉に対して師子吼されました。
「日蓮は日本国の棟梁なり予を失なうは日本国の柱橦を倒すなり」(0287−11)
さらに、佐渡赦免後の諫暁でも仰せです。
「王地に生れたれば身をば随えられたてまつるやうなりとも 心をば随えられたてまつるべからず」(0287−15)鎌倉幕府治めている地に生まれ合わせた以上は、身は幕府に随えられているようであるが、心は随えられることなど絶対にない。
まさに「恐れる心」「へつらう心」を一切振り払った、威風堂々の大宣言です。そうした師匠の戦いを“模範”として立ち上がった不ニの弟子に、恐れるものなどありえません。“私のように戦いなさい”との師の戦いに直桔することで、自身の無限の力有を引き出すことができるのです。
なお、この撰時抄の一節はユネスコが編纂した『語録人間の権利』にも収録されておいます。
さらにまた「なにと・なくとも一度の死は一定なり」と仰せです。
これは、私の半世紀以上にわたる信心のなかで深く感銘を覚えた御聖訓です。
人としてうまれてきたからには、いつかは必ず死ぬ、いかなる人間もこの道理から逃れることはできません。大切なのは、一度しかないこの命を何に使うか、ということです。
大聖人は青年・南条時光に対して「をなじくは・かりにも法華経のゆへに命をすてよ、つゆを大海にあつらへ・ちりを大地にうづむとをもへ」(1561−03)と述べておられます。
戸田先生は、「死は一時、生は永遠である、創価学会も同志も、いまや広宣流布の大旗を掲げて立ったのである。いまや広宣流布の秋せある。勇まなくてはならない」と、ただ一人、妙法流布の旗をもって立ち上がり75万世帯の折伏を完遂されました。
先生は「霊鷲山で、釈尊の弟子方と同座した時“末法の青年はだらしがないな”と笑われては、地涌の菩薩の肩書が泣く」とも教えられました。まさに「異驢馬悪しくして人に・わらはせ給うなよ」との御指南通りの叱咤出でありました。


567青鬼 ◆waPcLJwOb. :2011/02/03(木) 09:54:30
法華経こそが真実の「報恩経」

自分を育くんでくれた父と母。天の如き父の恩、大地の如き母の恩を大聖人は強く感じておられます。とりわけ、悲母の恩は報じがたいと仰せです。母の恩は、報じ尽くすことができないほど大きい。
大聖人は、他のお手紙でも「父母の御恩は今初めて事あらたに申すべきには候はねども・母の御恩の事殊に心肝に染みて貴くをぼへ候」(1398−15)と仰せです。
そして大聖人は、この悲恩を報ずることの経典を求めれば、それはただ法華経しかないことを明かされています。ゆえに、すべての母、すべての女性に、この法華経の題目を教えたいとの誓願に立ち上がったのだと述懐されているのです。
誓願は、人生を生き抜く根源の力であり、あらゆ逆境を撥ね返す発条となります。開目抄では、日蓮大聖人が、一切衆生を救うために、いかなる大難が競い起ころうと不退の誓願に立ち上がることこそ、そして、佐渡流罪の嵐の中でも、この誓願の炎は消えるどころか、日本の柱たらんとの誓いはいやまして深まり、断じて破られることはない、との大確信が綴られています。この「開目抄」で述べられた民衆救済の誓願の根底には、悲母への報恩と一切の女人の成仏を願う心があったことを、本抄ではしめされていると拝されます。
仏法はどこまでも、一番苦しんでいる人の味方です。それまでの仏教で否定されていた女性を成仏させてこそ、末法の一切衆生を救う真実の教えとなります。
広宣流布とは、すべての女性が生きる喜びに包まれる時代を築く闘争であり、世界中の母たちが最も幸福になるために戦う、仏の誓願の実現でもあります。
もっとも身近な「悲母」を救うことができてこそ、「一切の女人」を救うことができます。“今ここ”の一人は、仏法の縁起の視点からみれば、全世界のすべての人々につながっています。
仏典には、帝釈天の宮殿に壮麗な網状の装飾があるとされます。網の結び目ごとに宝珠が飾られ、一つの珠には煌めく他の珠の輝きが映し出されている。一つの珠が風にゆれれば、すべての珠が千変万化の煌めきを見せます。
これと同じく、私たち一人一人は、まさにいくつもの縁起のつながりの糸の結び目に当たるといえます。この中の一つの結び目が動けば、すべてが大きく動きだす。まさに、すべては「一人」から始まるのです。これが一念三千の変革の法理にほかなりません。
また、日蓮大聖人の誓願の本質は、自身の悲母の恩を報じたという、人間としての心情から出発されたということも重要な点です。戸田先生もかねがね、親を愛することは、仏の慈悲の境地を得る実践であると教えられていました。いつも青年たちに、親を大切にすべきことを訴えておられた。親不孝の青年に対して、「母の涙を知らないのか!」と烈火の如く叱られたこともありました。
ある時、戸田先生が、私の母の近況を尋ねてくださったことがあります。元気な様子を申し上げると、先生は慈顔で語られました。
「母の笑顔は、一生涯、心から消えない。僕もそうである。同じだろう」
戸田先生自身も、お母様のお心を大切にされていました。上京の時に贈られた一枚のアッシ織りの袢纏を生涯、手放すことはありませんでした。青雲の志で郷里を離れる若き先生に、お母様が「これさえあれば、どんな苦しいことがあっても、これを着て働けば、何でもできるよ」と語られた袢纏です。
先生が軍部政府によって投獄された時もそうでした。出獄後、わが家に帰り、アッシの袢纏が無事であったことを知った先生は、「あのアッシが無事であるからには、私は大丈夫だ」と語ったとうかがいました。どこまでも母の祈りを大切にされる恩師でした。
有名な「青年訓」には、「青年は、親をも愛さぬような者が多いのに、どうして他人の愛せようか。その無慈悲の自分を乗り越えて、仏の慈悲の境地を会得する、人間革命の戦いである」と示してくださっています。
私は、青年には絶えず親孝行を呼びかけてきました。親孝行ができる人は、社会のため、人のために尽くす人に成長できるというのが私の信念です。親孝行は、人間革命の一つの重要な指標なのです。


568青鬼 ◆waPcLJwOb. :2011/02/03(木) 09:56:45
15   今日本国の仏法も又かくのごとし色かわれる謀反なり、法華経は大王.大日経・観無量寿経・真言宗・浄土宗.禅
16 宗・ 律僧等は彼れ彼れの小経によて法華経の大怨敵となりぬるを・日本の一切の女人等は我が心のをろかなるをば
17 知らずして我をたすくる日蓮を・かたきと・をもひて大怨敵たる念仏者・禅・律・真言師等を善知識とあやまてり、
18 たすけんとする日蓮かへりて大怨敵と・をもわるるゆへに・ 女人こぞりて国主に讒言して伊豆の国へながせし上・
1313top
01 又佐渡の国へながされぬ
今、日本国の仏法もまた同じである。形のかわった謀反である。法華経は大王・大日経・観無量寿経・真言宗・浄土宗.禅宗・律僧等は、それぞれの小経によって法華経の大怨敵となっている。そうであるのに、日本の一切の女人は自分の心の愚かなることを知らないで、自分を救おうとしている日蓮を敵と思い大怨敵である念仏者・禅・律・真言師等を善知識とあやまっている。救おうとしている日蓮を、かえって大怨敵と思われるゆえに、一切の女人はこぞって国主に讒言をして伊豆の国に流したうえ、また佐渡にも流したのであった。


569青鬼 :2011/02/04(金) 18:16:14
いかなる大難にも誓願を貫く

法華経弘通に立ち上がられた日蓮大聖人に対して、経文通り僣聖増上慢が出来し、流罪等の迫害を加えてきます。問題なのは、この僭聖増上慢の悪僧の影響によって、女人成仏に立ち上がった大聖人を陥れようとする女性たちがいた。ということです。
女人成仏のために戦う大聖人を、日本国の女性たちが怨嫉する。不条理な話ですが、こうした転倒の構図を造ってしまうところに謗法の恐ろしさがあります。
当時は念仏の信仰が広がっていましたが、念仏者たちは法華経に敵対し、法華経への謗法を重ねていました。そこで大聖人は、日本中の母たちを救うために“阿弥陀仏には「仏になる種」がないゆえに成仏はかなわない”と強く破折されていきます。
しかし念仏者たちにたぶらかされた女性たちは、大聖人の文証・理証・現証に基づいた破折が自分たちへの単なる悪口としか聞こえなかった。それゆえに、大聖人こそ仏の大怨敵であると思うようになってしまったのです。
大聖人は、伊豆流罪にせよ、佐渡流罪にせよ、その背後に女性の讒言があったと指摘されていきます。とりわけ佐渡流罪の時には、極楽寺良観らが陰謀をめぐらし、執権・時宗の母である尼御前をそそのかす。そして女性たちが権力を動かし、大聖人への迫害が企てられるようになったのです。
まさに謗法の悪僧たちは、女性の一途な信仰心を利用して、正義の人への弾圧を企てる。この姿こそ法華経の敵、すなわち民衆仏法の敵であり、一切の女性の敵であるといわざるをえません。そえとともに、権威に利用され、一切の女性の成仏のために尽くされている大聖人にかえって怨をなす女性たちについても、大聖人は「我が心のをろかなるをばしらず」と厳しく喝破されています。
謗法によって目が曇り正法を信じられない心の愚かさほど恐ろしいものはありません。人々はこの無明を打ち破り、最終的には自分を迫害する人をも救っていきたい。その大いなる慈悲の折伏戦に立ち上がられたのが日蓮大聖人です。したがって、大聖人の女人成仏実現の闘争は、いかなる嵐があろうとも、止むことはありませんでした。
元来、法華経は男女が平等に尊極な存在であることをうたいあげた経典です。法師品には、善男子・善女人が、仏に代わって法を説くことが説かれている。また、不軽菩薩が敬った相手も四衆です。このことは、出家在家を問わず一切の女性も、仏性を持っており、讃えられるべきことを雄弁に物語っています。
しかし、仏教の歴史の中で、長く、この尊き真理は忘れられ、結果的に女性たちを苦しめてきた。それゆえに、大聖人が徹して女人成仏の実現のために戦い抜かれた意味はあまりにも大きかった。
「末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず」(1360−08)との御文にも示されている通り、民衆救済に戦う地涌の使命と実践は、全き男女平等の人間観・世界観に立脚しているのです。
今日、創価学会の実践もまた、この日蓮大聖人の誓願のままに戦う精神闘争にほかなりません。仏教本来の万人尊敬の精神を継承する民衆運動の展開は、後世の歴史に燦然と輝くことは間違いありません。


570青鬼 :2011/02/04(金) 18:17:21
10   而るに日蓮・佐渡の国へ流されたりしかば彼の国の守護等は国主の御計らいに随いて日蓮をあだむ・万民は其の
11 命に随う、念仏者.禅・律・真言師等は鎌倉よりも・いかにもして此れへ.わたらぬやう計ると申しつかわし・極楽寺
12 の良観房等は武蔵の前司殿の私の御教書を申して弟子に持たせて日蓮を・ あだみなんと・せしかば・いかにも命た
13 すかるべきやうは.なかりしに・天の御計らいは・さてをきぬ、地頭・地頭・念仏者.念仏者等・日蓮が庵室に昼夜に
14 立ちそいてかよう人もあるを・まどわさんと・せめしに・阿仏房にひつを・しおわせ夜中に度度・御わたりありし事
15 いつの世にか・わすらむ、只悲母の佐渡の国に生れかわりて有るか。
しかるに日蓮が佐渡の国へ流されてみると、かの国の守護等は執権の計らいにしたがって日蓮をあだんだ。万民はその命に従った。念仏者・禅・律・真言師等は、鎌倉からも、どのようにしても、鎌倉に帰らないように計るよう申しつかわし、極楽寺の良観房等は武蔵の前司殿の願って、私製の御教書を申し受けて、弟子に持たせて日蓮を、迫害しようとしたから、どうしても命が助かるはずはなかったが、天の御計らいは別として、地頭という地頭・念仏者という念仏者等は、日蓮の庵室に昼夜見張を立て、通う人を妨げようとしたのに、阿仏房に櫃を背負わせて、夜中に度々お訪ねなったことを、いつお世に忘れようか。ただ亡き悲母が佐渡の国に生まれ変わったのであろうか。


571青鬼 ◆waPcLJwOb. :2011/02/04(金) 18:18:23
下の尊き戦いに感謝

大聖人はあらためて、佐渡流罪の地で、千日尼が不惜身命の信心で、大聖人の身を守ったことに対して感謝を述べられています。あまりいも不思議なことに、悲母が佐渡の国に生まれかわって現れたようだとも仰せです。
大聖人は千日尼のことを“過去に十万億の仏に供養した女人であろうか”と賞讃されています。そして、遠く佐渡の地から、変わらぬ真心を尽くす千日尼の信心を“何と深い志であろうか”と讃えられています。
正法をまっすぐに実践する女性門下たちは、法華経の行者を守り支える強き働きを発揮します。女性ならではの、こまやかさや機転、心配りや、同志を大切にする心を、大聖人は本当に尊重され、また、感謝されています。まさに、女性門下の「法」を守る信心のなかに、悲母の慈悲と智慧が発揮されるといえましょう。
一方で「法」をゆがめ、愚かさから大聖人を迫害する女性たちがいる。一方で「法」を素直に持ち、広宣流布の戦いに参画する女性たちが続々と誕生しています。そのこと自体、悪世にあって貧瞋癡の三毒に支配されている人々を救い、万人の境涯を高めていく広布の活動が着実に前進している何よりの証しともいえます。末法広宣流布は、一人また一人と粘り強く、本来、誰もが持つ地涌の使命を呼び覚ます闘争でもあります。大聖人とともに戦う女性門下は、末代悪世の女人成仏の草分けであり、言い換えれば女性解放の先駆者であったともいえます。
大聖人の門下にはさまざまな方たしがいました。若くして夫に先立たれた女性、最愛のわが子を亡くした女性、自分の病気、夫の病気で悩む女性、子供がいない女性、姑の看護をする女性、夫の信仰が不安定で悩む女性、等々、皆、健気に広宣流布に戦い、各自の宿命と戦うなかで、仏法の女人成仏を実証媒する偉大な闘争を繰り広げています。
宿命に泣く女性から、使命に立ち上がる女性へ、一切の女人の幸福を願う大聖人のお心をまっすぐに受け止めて、幸と使命の大道を歩む弟子たち、この師弟の世界がある限り、一切の女性の幸福が拡大如あれゆくことは必定です。


572青鬼 ◆waPcLJwOb. :2011/02/04(金) 18:21:22
門下の無事に心から安堵

さて本抄の最後には、どこまでも門下の身を案じる大聖人の御心情が綴られています。当時、日本中に疫病が流行し、実に多くの人が亡くなっていきました。それでなくとも、再び蒙古襲来におびえる、世情の不安定な時代です。大聖人は、流罪の折に命懸けで守ってくれた、遠く離れた佐渡の地の門下のことが心配で仕方なかった。疫病のゆえもあったでしようか。佐渡の人々との交流も途絶えがちになっていたようです。前年の建治3年佐渡の門下に与えられた御書は残っていません。大聖人は、門下の無事を祈られつつも、気がかりな思いが募る一方だったに違いありません。そこへ、突然、身延の庵室を阿仏房が訪れた。
大聖人が開口一番、皆さんは無事でしょうか、阿仏房が、ええ、幸いなことに疫病にかかっていませんと、安否を会話がなされたことが記されています。
大聖人は、皆が無事であることを喜ばれ「盲目の者の眼のあきたる・死し給える父母の閻魔宮より御をとづれの・夢の内に有るをゆめにて悦ぶがごとし」(1314−14)とまで仰せになっています。
師匠は、いかなる時も絶えず、弟子一人一人の安全と健康が気がかりであり、常に弟子の成長を祈り続けています。佐渡の門下の人々もまた、そうした大聖人のお心と直結したからこそ、佐渡の広布は発達したと確信します。
この温かくこまやかな配慮にあふれたお手紙をいただいた千日尼は、門下を思う大聖人の御心情に、どれはど感激したことでしょうか。また、大聖人は、このお手紙を読む「佐渡の悲母」というべき千日尼の笑顔を懐かしく思いうかべながら、こうした阿仏房とのやりとりを綴られたのでしょう。
日蓮大聖人の仏法が現代に蘇った今日、日本の各地に、千日尼の如く「同志を守る悲母」「青年を育む賢母」そして「広布の母」として慕われている方々が大勢いらっしゃいます。最高に尊貴な方々です。私はいつも、そうした母たちに合掌する思いで感謝の念を捧げています。「広布の母」は、また、多くの女性の幸福を築いた「地域の母」であり、末代の女人成仏の道を開いた「人間主義の母」ともいうべき存在です。
世界中の母たちの慈愛が人々を照らし、また母たちの平和を願う心を人々が大切にする時代が来れば、現代文明の質それ自体が大きく変わります。
「創価の母」の連帯を、世界中の人が讃える時代になりました。池田華陽会のスクラムも、はつらつと続いています。「生命尊厳の世紀」「女性の世紀」「平和の世紀」の盤石な基盤ができあがったと、私は恩師に報告ができます。
「悲母の恩を報ぜんために」この大聖人の女人成仏の誓願を胸に、私たちも立ち上がりました。世界中の母と子が平和で幸福な社会を築く。ここに創価の三代の師弟の誓願があります。また、、この誓願実現の闘争を皆に託したいのです。
(千日尼御前御返事 完)


573赤鬼 ◆EtcmJTqYfU :2011/02/09(水) 08:08:22
掲示板「創価の同志」は今月末にて閉鎖します。
同掲示板の講義内容は
http://www.geocities.co.jp/inae_sokagakkai/
で見ることができます。
なお「法華経の研究」は掲載していません。
必要な方は各自コピーしてください。


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4 / 光線のわが友に贈る(保存版)2 (51)
1鉱泉 :2010/11/21(日) 21:56:48
光 線さん。どうぞ


45鉱 泉 :2011/01/04(火) 22:03:22
あけましておめでとうございます(^-^*)/

さあ創立100周年へ

我ら青年学会の

希望の旅立ちだ!

妙法の太陽を胸に

勇気と正義の大行進!


46鉱 泉 :2011/01/04(火) 22:11:46
こんばんは(^-^*)/

「願くは我が弟子等・

大願ををこせ」

新年の決意が

一年の勝負を決する!

地湧の同志よ立て!


47鉱 泉 :2011/01/06(木) 08:57:03
昨日の おはようございます(^-^*)/

会って語る!

それが広宣流布だ

弾む声、弾む命で

平和と友好の

スタートダッシュを!


48鉱 泉 :2011/01/07(金) 08:01:16
昨日の おはようございます(^-^*)/

風邪・流感に要注意!

手洗い・うがいを行い

健康第一で進もう!

「前前の用心」を

皆で声掛け合いながら!


49鉱 泉 :2011/01/09(日) 20:08:45
世界広布の 

永遠の基盤を築く 

新時代の夜明けだ! 

「今一重」の信心で 

勇敢に勝ちまくれ

私は光線さんではありません。代理人です。


50鉱 泉 :2011/01/09(日) 20:10:31
邪・流感に要注意! 

手洗い・うがいを行い 

健康第一で進もう! 

「前前の用心」を 

皆で声掛け合いながら!
1月7日


51鉱 泉 :2011/01/09(日) 20:12:03
2011年 1月8日]

受験生 負けるな! 

“もう5分”の努力で 

自身の壁を突破せよ! 

ベストを尽くし 

悔いなき挑戦劇を!


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5 / 女性に贈ることば365日 (384)
1光 線 :2009/07/11(土) 23:30:28
7月11日


自分は、自分自身の指命を帯びて生まれてきた。

それを、人のうわべの姿だけを見て、人と自分を比べ、あの人は幸福そうで、私は貧しいと比較する。

それは、最も愚かなことだ。


378ネズミ :2010/11/20(土) 18:52:58
第97話 曼珠沙華の咲くころ
2009/03/04 水 11:50
houwa-sato
 この間、病いをおして遠くから訪ねて来た知り合いの老人が、「もう会えないだろう」と感慨ぶかげにいうので、名残りを惜しんで羽田空港まで見送った。
 いつもは気ぜわしく乗り降りしている空港だが、その日は見送りでもあり、時間もあったので見送りデッキに登った。

 こんなにひろかったのかと思われる滑走路わきの緑の空気をゆるがせ、爆音高く飛び立つジャンボ機が、澄んだ大空の彼方に消え去るのを見ていると、ふと「ああ、夏も終わったなァ」という感じが頭をよぎった。

 額には汗がにじんでいるが肌にふれるここちよい風はもう秋を告げている。
 夏が去れば秋は日一日とかけ足でやって来て、曼珠沙華が眼にしみるような赤い、妖しいまでの美しさを競うのも間もないことであろう。

 ご承知のように曼珠沙華は彼岸花ともいわれる。
 彼岸とは、現実の此岸、こちら岸に対する理想のことであり、同時にまたその彼岸に到達すべく努力精進することをいうのであり、仏法の一大事は彼岸の二字に集約することができるのである。
 しかし、彼岸の行事はインドや中国にはなく、日本独特のものである。
 きびしい寒さから解放された三月と、酪農の夏を過ぎた九月の、寒暑平均、昼夜等分の春秋二季にこれを設けた私どもの祖先の叡知はまことにすばらしいものである。


379ネズミ :2010/11/23(火) 20:52:13
第96話 三界万霊
2009/02/25 水 11:49
houwa-sato
 寺には三界万霊牌がある。
 境内に三界万霊牌の石塔のある寺も少なくない。
 三界とは私どもが生まれかわり死にかわりするこの世界のことであり、万霊とはありとあらゆる精霊のことであるから、三界万霊牌はこの世のありとあらゆる精霊を合祀した位牌のことである。

 どの寺でも三界万霊牌を祀っているということは、我が家の先祖だけでなく自地平等、すべての精霊に供養することの大切さを教えるものである。

 私どもの先祖は二十代溯ると実に百万人を超すのである。
 それだけ多くの先祖の方々がこの世に生存していた間、現に私どもがそうであると同じように、数多くの人々と親しい交流をもたれたことであり、その数は数え切れないものであろう。

 これらの、我が家の先祖と親しい間柄にあった方々のすべてが子孫に恵まれておればよいのだが、すでに子孫が絶えて供養してもらえない精霊の数は実に多いのである。
 そうした恵まれない精霊を先祖と親しい間柄にあったご縁をもって供養してあげることは人間的にみて誠に奥床しいことである。

 それだけではなく、仏教では怨念平等といって敵味方共々に平等であるという立場から戦争の時など敵味方のわけへだてなく供養し、供養塔を建てたのであるが、残念ながら今日はそうしたおおらかさがなくなった。

 せめて先祖供養と共に有無両縁の精霊に供養する施餓鬼の意義を忘れないでほしいものだ。


380ネズミ :2010/12/06(月) 21:38:53
第95話 お彼岸
2009/02/18 水 11:48
houwa-sato
「暑さ寒さも彼岸まで」といいまして、たいへんしのぎよい季節となりました。※
こういうと彼岸とは季節の代名詞であるかのようにひびきますが、そうではありません。

 こよみをみると、
「緑の週間」
「愛鳥週間」
「××週間」
「○○週間」
と実に多くの週間が設けられてますが、彼岸はそのはしりで、聖徳太子の頃からはじまった修行週間であります。
 修行は毎日欠かすことのできない大事なことですが、お互い生活に追われているのでなかなか思うにまかせません。
そこでせめて年二回、春秋のもっともよい季節に集約的におこない、修行の意義を忘れないように、と設けられたのが彼岸であります。

 彼岸とは読んで字の如く、向こう岸のことであります。仏教では、こちら岸、此岸から彼岸に渡るべく努力することを教えるのであります。
 彼岸に渡るには、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六つの徳目を実践しなくてはなりません。
これを六波羅蜜といいます。
 亡くなった人をあの世に送るとき、六文銭を持たせてやりますが、これは三途の河の渡し賃だといわれます。
三途の河とは貧・瞋・痴という心の三毒のことであり、六文銭は六波羅蜜のことであります。
心の三毒を六波羅蜜で乗り切ってはじめて彼岸に到達できるのであります。
 亡くなってから仏になるのでは遅いのであって、生きてるうちに心の三毒を制して彼岸に悟ることが大切であります。



※ このお話は、昭和63年3月頃に書かれたお話です。


381ネズミ :2010/12/08(水) 12:35:41
第94話 六道
2009/02/11 水 17:40
houwa-sato
 六道とは、私どもが生活している心のことである。
 地獄は最低最悪、苦しみの極限の世界、餓鬼はいくらあってもまだ足りない、まだ足りないとイライラ、ガツガツしている貪りの世界、畜生は自分で自分をコントロールすることができず、本能のままうろつく世界、修羅は争いの世界、人間は苦楽相半ばする世界、天上はいわば極楽だが、しかし、よろこび楽しみの長続きしない世界のことで、私どもはこの六道を駆け巡って生活しているのである。

 子供に例をとってみると、野球の試合に勝って意気揚々、天上界に登った気持ちになって家に帰ると、
「こんな遅くまでなにしてた」
と叱られる。
"せっかくいい気分になって帰ったというのに、少しばかりおくれたからってなんだ"と腹を立てて途端に地獄に堕ちる。
挿し絵  しかし、"遅くまで無断で遊んで来たんだから親も心配するのはあたり前だ"と反省して人間となる。
 それにしてもお腹が空いてたまらん。
 戸棚をあけて餓鬼のようにパクついていると妹がやってきて、
「おかあさん、おにいちゃんが・・・」と注進に及ぶ。
「余計なことを言うな!」と蹴飛ばして修羅となる。
 満腹するといい気持ちになって勉強も忘れてグウグウと、コントロールを失って畜生となる。
 このように一瞬一瞬定めもなく地獄から天上までの世界を駆けずりまわっているのが私どもの日常である。
 六つの世界のどこへでも定めなく趣くという意味で六道のことを六趣ともいう。


382ネズミ :2010/12/19(日) 18:15:11
第93話 涅槃会に思う
2009/02/04 水 17:37
houwa-sato
 まさに度すべきところの者はすでに度し終わって、大勢の弟子、仏教守護の神々、そして多くの獣物にまで取り囲まれ、嘆き悲しまれて涅槃に入りたもうお釈迦様ほど偉大な別離の光景を演出した方は歴史上かつてなかったし、今後もないことでありましょう。
 この間、80歳の老母を亡くしたお医者さんが、「それはもうひどいものですっかりもうろくしてご飯をなんぼでも食べるんです。私、医者ですから、つい『そんなに食べるんじゃないよ』といって箸を取り上げたことが何度もあるんですが、それがくやまれましてねぇ・・・」

と述懐しておりました。
 そこで私が

「ワシントン・アービング『スケッチブック』に"人は死別に際してどうしてそんなに悲しむのか。
それは永遠の別れということもさることながら、生前のあれ もしてやればよかった、これもしてやってやるべきだったという悔恨の情が人を悲しませるのだ"というくだりがありましたが・・・」

というと、

「そうです。そのとおりですね・・・」

といって涙をふいておりました。


 年々歳々、涅槃会に相逢うて、歳々年々に「遺教経」を読んでは
「汝等比丘、我が滅後においてまさに波羅提木叉を尊重し、珍敬すべし・・・これは是れ汝等が大師なり・・・」
というお示しに違背している自分の姿を見出し慚愧にたえません。

 亡き母に対するいたらなかった自分への呵嘖が生涯続くであろうそのごとく、お釈迦さまのみ教えのままに生きられなかった歎きは生涯続くことでありましょう。


383ネズミ :2010/12/21(火) 20:44:28
第92話 人間の好時節
2009/01/28 水 17:34
houwa-sato
春、百花あり。
秋、月あり。
夏、涼風あり。
冬、雪あり。
もし、閑事の心頭に挂ることなくんば、すなわちこれ人間の好時節。

 これは、禅門で有名な「無門関」にある偈(詩)です。

 春は百花爛漫として咲き綻び、秋は月が美しい。
 夏は涼しい風が吹き、冬はすがすがしく雪が降る。
 つまらぬことにあれこれ思い煩うことがなかったら、春夏秋冬、いつでも人間にとって好時節である、というのである。
 春夏秋冬、それぞれ趣があって、誠に結構な四季の移り変わりですが、それなのに嘆き悲しみ瞋り、悩むのは一体どういうわけでしょう。
 それは、余計な分別、要らざる計らいがこころの中にモヤモヤしているからで、これさえなければ春夏秋冬いつでもすがすがしい好時節であり、極楽浄土だというのであります。

 では、いらざる分別や妄想をなくするにはどうするのか?
それは一切をみ仏にお任せすることであります。
道元禅師の「正法眼蔵生死」に、

ただ我が身をも心もを、はなちわすれて、仏のいへになげいれて、
仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、 こころをもつひやさずして生死をはなれ仏となる

とありますように、一切を仏にお任せすればおのずからそこに人間の好時節が訪れてくるのであります。


384ネズミ :2010/12/26(日) 20:29:11
第91話 南無あぶ陀仏
2009/01/21 水 17:30
houwa-sato
 今から二百年ほど前、風外本高という風変りな坊さんがいた。
 この和尚の絵がまた素晴らしく蛸風外といって世に珍重されている。

 大阪、円通院に住持していた頃の話。
 この寺は破れ放題に破れた荒れ寺だったが、風外は一向頓着もなく坐禅と揮毫に余念がなかった。
そこへ、大阪屈指の豪商川勝太兵エがやってきた。
 彼は大きな悩みを抱えて進退窮し、風外に指導を仰ごうと思ってきたのだった。

 彼は自分の苦しい現況をるる述べるのだが、和尚は真面目に聞いてくれない。
 というのは、和尚は先刻からあらぬ方向を見つめている。
 一匹の虻が障子にぶつかっては落ち、また飛び上がっては障子にぶつかって落ちる。
 それをジーと見つめている。 たまりかねた太兵エ、

「方丈様はよほど虻がお好きと見えますなァ」

というと
「おお、これは失礼」
と言い、

「太兵エどの、よくごらんなされ。この破れ寺、どこからでも外に出られるのに、あの虻、自分の出る処はここしかないとばかりに障子にぶつかっては落ち、飛んではまたぶつかる。
 このままだとあの虻、死んでしまう。しかし太兵エどの、これと同じことをやっている人間も多いでのう・・・」

 この言葉を聞いて太兵エ、グァーンと頭を殴られた思いだった。

「ああ、そうだった。わしはこの虻と同じだったんだ」

と風外和尚の教えを身にしみて感じ取り、厚く礼を述べると、
(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)


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6 / 光線のわが友に贈る(保存版) (1000)
1鉱 泉 :2009/11/02(月) 11:44:47
2007年12月より、破戒板及び勇気板に書き進めららた「わが友に贈る」をまとめます。
尚、当スレの書き込みは、関係者(光線さん及び鉱泉)に限定します。


994光 線 :2010/11/17(水) 06:51:36
おはようございます(^-^*)/


個人会館のお宅

会場提供者の皆様に

深い感謝の言葉を!

真心の宝城ありて

80周年は輝きけり!


995光 線 :2010/11/18(木) 06:47:47
おはようございます(^-^*)/


友のため 広布のため

わが身を捧げてきた

全同志に感謝合掌。

「ただ心こそ大切」

これが創立の魂なり。


996光 線 :2010/11/19(金) 06:50:26
おはようございます(^-^*)/


創価万代の勝利へ

青年学会の出発だ!

全人類の幸福こそ

誇り高き我らの使命!

師弟な凱歌の劇を!


997光 線 :2010/11/20(土) 18:36:37
こんばんは(^-^*)/


80年の勝利を支えた

婦人部の友に感謝!

広布の母を讃え

守り抜くならば

万年の未来が開ける!


998光 線 :2010/11/21(日) 21:24:01
こんばんは(^-^*)/


大聖人の仏法は

宇宙を貫く大哲学。

学び 語り 実践し

生命を磨き抜け!

幸福博士に大喝采!


999ぞろ目 :2010/11/21(日) 21:57:34
リーチ


1000ロン :2010/11/21(日) 21:58:11
ツモ


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7 / 自己紹介 (50)
1Tommy ◆L66fmP/Ue6 :2008/12/28(日) 17:42:04
本板の管理人Tommy
年齢不詳
関西在住
入信歴45年です。
楽しい掲示板にしていきましょう。


40ポン太 :2009/12/03(木) 19:06:03
あっ!!ほんとだ。(@_@)


41光 線 :2009/12/03(木) 21:59:38
とkkりさん、スレたってるぞ。。(^0^)


42瞬香 ◆6k2fUm1lIg :2009/12/06(日) 21:08:10
みなさん、初めまして。
瞬香と申します。
タンポポさんに誘って頂いて、参りました。
関西女子部です。
どうぞよろしくお願いします。
タンポポさん、こちらでもお世話になります♪


43光 線 :2009/12/06(日) 21:22:01
おっ!瞬香さんだ。

光線です。よろしくね。
沖浦さんの板のカキコ いつも見てますよ。


勇気村へも 遊びに来てね♪


44青鬼 ◆waPcLJwOb. :2009/12/06(日) 21:34:06
瞬香さんいらっしゃい。

当掲示板の主催者、青鬼です。
よろしくです。


49光 線 :2010/10/21(木) 20:15:51
あべひさん

御書講義 青鬼の教学室へのカキコはダメ!!

言いたいことがあるんなら、最初にここで挨拶なり自己紹介なさいな。

お行儀悪いわよ。

管理人さん

御書講義 青鬼の教学室
296:あべひ


削除!


50ポン吉 :2010/10/21(木) 20:26:29
>>TOMMYさんのHPからのコピペですね。


もう一つ言い換えれば


青鬼さんのHPからのコピペですね。

てか(^−^)


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8 / 御義口伝講義 赤鬼の教学室 (1000)
1赤鬼 ◆EtcmJTqYfU :2010/01/01(金) 06:52:56
御義口伝講義

南無妙蓮華経
0708top
御義口伝
01   南無妙法蓮華経
02   御義口伝に云く南無とは梵語なり此には帰命と云う、 人法之れ有り人とは釈尊に帰命し奉るなり法とは法華経
03 に帰命し奉るなり 又帰と云うは迹門不変真如の理に帰するなり 命とは本門随縁真如の智に命くなり帰命とは南無
04 妙法蓮華経是なり、 釈に云く随縁不変一念寂照と、 又帰とは我等が色法なり 命とは我等が心法なり色心不二な
05 るを一極と云うなり、 釈に云く一極に帰せしむ故に仏乗と云うと、 又云く南無妙法蓮華経の南無とは梵語妙法蓮
06 華経は漢語なり 梵漢共時に南無妙法蓮華経と云うなり、 又云く梵語には薩達磨芬陀梨伽蘇多覧と云う 此には妙
07 法蓮華経と云うなり、薩は妙なり、 達磨は法なり、 芬陀梨伽は蓮華なり蘇多覧は経なり、九字は九尊の仏体なり
08 九界即仏界の表示なり、 妙とは法性なり法とは無明なり無明法性一体なるを妙法と云うなり 蓮華とは因果の二法
09 なり是又因果一体なり 経とは一切衆生の言語音声を経と云うなり、 釈に云く 声仏事を為す之を名けて経と為す
10 と、 或は三世常恒なるを経と云うなり、 法界は妙法なり法界は蓮華なり法界は経なり蓮華とは八葉九尊の仏体な
11 り能く能く之を思う可し已上。
南無妙法蓮華経について、日蓮大聖人の恩義口伝には次のように仰せである。
「南無」とは梵語であって、これを漢語に訳せば「帰命」という。その帰妙する対境・対象に「人」と「法」とがある。「人」とは文底の釈尊即人本尊たる日蓮大聖人である「法」とは末法の法華経であり、法本尊であるところの南無妙法蓮華経である。すなわち人法一箇の大御本尊に帰命することが、真実の中の真実の帰命なのである。
また「帰」というのは、迹門不変真如の理に期するのである。「命」とは本門隨縁真如の智に命くことなのである。南無妙法蓮華経は、宇宙本源の絶対真理である。ゆえに妙法と唱えることによって、宇宙の本源に合致できうるのである。したがって、不変真如の理に帰したことになる。そして、その偉大なる妙法の力がわが生命活動に、生活の上に、顕現してくるのである。これ隨縁真如の智に命いたことになるわけである。結局、帰命とは、南無妙法蓮華経のことになるのである。
釈には「隨縁不変・一念寂照」とある。隨縁真如の智も、不変真如の理も、ともに実在しているのが、生命の実体であり、本質なのである。これを妙法というのである。これすなわち、三大秘法の南無妙法蓮華経である。この御本尊に帰依することによって、絶対的幸福境涯たる成仏がかなうのである。
また「帰」とは、われわれの色法を意味する。「命」とは、われわれの心法を意味するのである。この色法すなわち肉体・物質と、心法すなわち精神・心の働きが不二であると説く、日蓮大聖人の色心不二の生命哲学こそ、最高唯一の哲学なのである。この日蓮大聖人の、大宗教に帰依することによって、成仏の境涯、すなわち、色心ともに、絶対の幸福確立をなすことができるのである。
また、仰せには、南無妙法蓮華経の「南無」とは梵語であり、妙法蓮華経は漢語である。梵漢共時に南無妙法蓮華経というのである。また、妙法蓮華経とは、梵語の薩達磨・芬陀梨伽・蘇多覧(サダルマ・フンダリキャ・ソタラン)を翻訳したものである。薩は妙を意味し、達磨は法を意味し、芬陀梨伽は蓮華を意味し、蘇多覧は経を意味するこの薩達磨・芬陀梨伽・蘇多覧の九時は、八葉九尊を意味するのである。これを生命論に約していえば、九界即仏界を表しているところである。
妙法を無明・法性に約して説けば、妙は法性であり悟りである。法は無明であり迷いを示す。したがって妙法とうとき、すでに無明法性一体であることがあらわされている。蓮華とは、因果の二法を示し、因果一体、すなわち因果俱時をあらわしている。
経とは一切衆生の言語音声をいうのである。しかして、章安大師が「声仏事を為す之を名けて経と為す」といっているように、南無妙法蓮華経こそ、最高の経なのである。また、生命が、過去、現在、未来の三世にわたって、永遠に続いていくことを経というのである。所詮、大宇宙も、わが生命も、森羅万象ことごとく妙法であり、蓮華であり、経なのである。宇宙生命の根源のことを、妙法蓮華経というのである。この中で、蓮華とは、八葉九尊という形式で示されている。以上のことを、よくよく思索しなさい。


801赤鬼 ◆EtcmJTqYfU :2010/09/11(土) 22:26:30
講義

 再演法華とは、復習のようなものである。全体を要約してまとめ、最後を締めくくるのである。したがって、人の一生に譬えると、最初の序品第一は、生まれ出ることであり、この勧発品第二十八は、死んでいく姿ともいえる。
 この生と死を一念におさめて、妙法蓮華経と名づけたのである。
 同じことは、二十八品のおのおのについてもいえる。初めの題号が生であり、各品の終わりは死である。こうして、各品ごとに、生死生死と繰り返すわけである。しかして、この生死の間の人生において、なすところの生命の振舞いが妙法蓮華経である。
 すなわち、人生の根本法こそ妙法であり、誰人も、これから逃れることはできない。否定しようとしても、最後は、これを認め、戻って来ざるを得ないのである。それに目覚め、妙法にかなった振舞いであれば、その人の一生は、自在の幸福境涯となるのである。
 この根本法を、バラモン教ではブラーマンと呼び、老子は自然法爾といい、孔子は仁と称した。また、西欧の人々は神の御意といい、カントは「わが心の内なる道徳法則」と呼んだ。だが、いずれも、その実体がいかなるものかを探ることは、ついにできなかったのである。もし、彼らが日蓮大聖人の南無妙法蓮華経を知ることができたとしたならば、必ずや、歓喜の叫びをあげていたに違いないと確信するものである。

如は生の義・去死の義

 如とは如如といい、瞬間瞬間、縁にふれてらわれる生の生命活動であり、去とは大宇宙に冥伏した死の状態である。また、大聖人は「法界を一心に縮むるは如の義なり」とも申されている。すなわち、法界とは宇宙であり、この宇宙の物質と、宇宙の森羅万象のもつ特質、機能を集めて、生命は形成されるのである。如とは、似せる、従う等の意があり、宇宙をなぞらえ、宇宙を縮めたという意味をあらわすのである。 
 妙楽大師は「此の身の中に具さに天地に倣う事を知る」と述べ、人体と宇宙諸現象の関係を細かくあげていることは、三世諸仏総勘文抄に拝されるとおりである。
 日蓮大聖人自身「人身の本体委く検すれば是くの如し」(0567-17)と、認められ、さらに「五行とは地水火風空なり 五大種とも五薀とも五戒とも五常とも五方とも五智とも五時とも云う、只一物・経経の異説なり内典・外典・名目の異名なり、今経に之を開して一切衆生の心中の五仏性・五智の如来の種子と説けり是則ち妙法蓮華経の五字なり、此の五字を以て人身の体を造るなり本有常住なり本覚の如来なり」(0568-01)と、説き明かされている。

礼とは不乱の義なり法界妙法なれば不乱なり

 ここで仰せの「作礼」とは、封建的な礼法ではなく、もっと生命の本質に密着したものである。すなわち、「作礼の言は生死の闇に成しと成す処の我等衆生の所作なり」とあるように、人生の一切の振舞いである。妙法を受持したときには、それがすべて、大宇宙のリズムに合致し、自在無碍の振舞いとなっていくのである。
 三世諸仏総勘文抄にいわく「実に己心と仏心と一心なりと悟れば臨終を礙わる可き悪業も有らず生死に留まる可き妄念も有らず、一切の法は皆是れ仏法なりと知りぬれば教訓す可き善知識も入る可らず思うと思い言うと言い為すと為し儀いと儀う行住坐臥の四威儀の所作は皆仏の御心と和合して一体なれば過も無く障りも無き自在の身と成る此れを自行と云う」(0569−18)と。
 これこそ最高の自由である。また、封建的、君主制的な絆、束縛から解放されるというだけの消極的な自由ではなく、自ら主体性を打ち立て、過なく振舞っていけるという、積極的な自由である。
 「過も無く」とは、自ら、その行動において過失がないということである。「障りも無く」とは、他からの障害がないという意である。古来、欧米において唱えられ、近代化の原動力となってきた“自由”の概念は、ようやくこの「障り無く」を意味するのみであるように思われる。
 そこに今日、自由主義世界が行き詰まっている。きわめて深刻な諸問題が生じてきた。いわゆる、人間性の喪失であり、主体性と連帯感を失った大衆化の現象等である。しかして、青年不良化の問題なども、そこから出ていることは、誰も異存はあるまい。底の浅い自由を絶対と信じ込んだところ、さまざまの「過」を生み出し、多くの人々を不幸に陥れているのである。
 所詮、妙法による真実の「自由」のみが、21世紀への、現代から未来にわたる人類の理想であり、世界史上空前の大革命ののろしであると訴えたい。


808赤鬼 ◆EtcmJTqYfU :2010/09/12(日) 07:47:00
末法弘通の要法唯此の一段に之れ有るなり、此等の心を失うて要法に結ばずんば末法弘通の法には不足の者なり剰え日蓮が本意を失う可し、日蓮が弟子檀那別の才覚無益なり

 末法に弘通すべき日蓮大聖人の仏法は、南無妙法蓮華経であって、それ以外の才覚は無益であるとの仰せである。大聖人の弟子として、最も深く、強く、明瞭に、心に刻むべきことである。
 経王殿御返事にいわく「日蓮が・たましひは南無妙法蓮華経に・すぎたるはなし」(1124−12)と
 種種御振舞御書にいわく「かかる日蓮を用いぬるともあしくうやまはば国亡ぶべし」(0919−16)と。
 日蓮大聖人こそ、末法主師親三徳を具備せられた、御本仏であられることは明々白々である。しかして、その御説法は、ただ南無妙法蓮華経の七文字に帰着するのである。
 この南無妙法蓮華経が根本であり一切の要諦であることを忘れたならば、末法の民衆救済は思いもよらず、かえって、御本仏日蓮大聖人の本意を失うこととなり、無間大城に落ちる大謗法となってしまうのである。
 いま、化儀の広布の時にあたって、あらゆる文化活動が展開され、立体作戦、応用戦を繰り広げている。だがその根底は、あくまでも南無妙法蓮華経であり、信心が基盤である。「法華経に勝る兵法なし」の御金言のごとく、信心より出発し、信心に帰るのである。題目で出発し、題目に帰るのである。すなわち、第三文明の建設も、福祉社会実現も、その根底は折伏によって成し遂げられることを知らねばならない。
 折伏の闘志こそ、大聖人の弟子の中の弟子であり、わが学会員は、全員、信心の英雄であっていただきたいことを心より念願するものである。


809赤鬼 ◆EtcmJTqYfU :2010/09/12(日) 09:11:33
子父の法を弘む世界の益有り

 教相の立ち場では、子は地湧の菩薩であり、父とは久遠実成の釈尊であるが、大聖人の観心の立ち場では、父とは日蓮大聖人御自身であり、子とは大聖人の正義を受け継いだ弟子檀那である。ここは、師弟不二の大精神を示されているものと拝する。
 仏法において、最も重要なことは、師弟相対であり、真の弟子の道を実践することである。
 華菓成就御書にいわく、
 「よき弟子をもつときんば師弟・仏果にいたり・あしき弟子をたくはひぬれば師弟・地獄にをつといへり、師弟相違せばなに事も成べからず」(0900−08)
 また経に「在在諸仏土常与師俱生」と。
 日蓮大聖人は師匠であり、われわれは弟子である。ゆえに、大聖人が、あらゆる大難を一身に受けて、師子王のごとく振る舞われたように、師子の子として、いかなる難があっても莞爾として受けきり、生涯、永久に師匠の教えを疑わないのが師弟不二である。
 また、大聖人の御精神は末法万年尽未来際まで、あらゆる民衆をわが子として、成仏せしめんとのお心である。この大聖人の御精神を、自己の精神として、一生涯、広宣流布のため、戦いきっていくことが、師弟不二である。
 さらに、師匠は一人の人をとおして、全体に指導していくものである。ゆえに、師匠の指導は、自分一人で止めておいては、師の心を握りつぶす行為となる。弟子として、その師匠の心を実践し、また実現してこそ、師弟不二といえるのである。
 祈祷経送状にいわく、
 「法華経の行者は信心に退転無く身に詐親無く・一切法華経に其の身を任せて金言の如く修行せば、慥に後生は申すに及ばず今生も息災延命にして勝妙の大果報を得・広宣流布大願をも成就す可きなり」(1357−05)と。
 「一切法華経に其の身を任せて」とは、御本尊を絶対と信じて、微塵も疑わないことである。
 「金言の如く」とは、日蓮大聖人の教えのままに、実践することである。「信心に退転無く身に詐親無く」とは仏法も世法も、また色心の二法共に、純真に、まじめに生きていくという意味である。
 このような信心実践を貫いていくならば、成仏できることは間違いないし、今生においても、大功徳を受け、さらに広宣流布、全民衆救済の大願も成就できるとの御金言である。
 いま、末法において、御本仏日蓮大聖人の教えを御金言どおり、如説修行しているのは、創価学会以外にはない。われらこそ、大聖人の子として、弟子の中の弟子として、誇りと襟度をもって、師子の子らしく、逞しく前進していこうではないか。
 なお「世界とは日本国なり」とは、日本の国が一閻浮提広布の中心となり、基盤となる。この一国の広宣流布が規範となって、三大秘法抄の「三国並に一閻浮提の人・懺悔滅罪の戒法のみならず大梵天王・帝釈等も来下してフミ給うべき戒壇なり」(1022−17)と仰せのごとく、全世界の指導者が、民衆が、これを見習うようになるのである。
 したがって、もとより、大乗有縁の国は日本のみである。だが、依正不二の原理で、日本の広宣流布が達成されたときには、全世界が大乗有縁となるのである。
 さらに、現代の歴史の動向をながめるならば、世界が一つの運命共同体であり、緊密に結びあった一つの機構となりつつある。もはや世界から切り離してのにほんではなく、日本を論ずれば、世界にも通ずつことは、必定といえると思う。


810赤鬼 ◆EtcmJTqYfU :2010/09/12(日) 09:14:48
御義口伝講義 完
 2010:9:12 竜口法難の日に
             赤鬼


998鉱 泉 :2010/09/22(水) 15:37:06
おっ♪♪大キリやないか(^O^)


999赤鬼 ◆EtcmJTqYfU :2010/09/22(水) 19:29:54
そ     ろ      つ


1000オヤジ :2010/09/22(水) 19:35:59
た!!


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9 / とkkりの教学部屋 (47)
1青鬼 ◆waPcLJwOb. :2009/12/03(木) 21:48:20
それではご自由にどうぞ。


29とkkり :2010/02/09(火) 22:15:18
チト、変化球。


今日はゆっくりお話しできないのが残念ですが、私が皆様に申し上げたいことは、「うんと長生きしてください」「たくさんお題目を唱えてください」ということです。
特に、大きな悩みに直面している方は、五十万遍、百万遍、二百万遍と、真剣に、着実に、祈り抜いていくことです。
(新人間革命10巻、幸風)


30とkkり :2010/02/20(土) 21:54:58
☆新時代第28回本部幹部会でのスピーチ
大切な宝「無冠の友」
学会のリーダーは、この尊き方々を、仏の如く敬っていくのです。
いつも、平和と文化の機関紙を届けていただいている。最大に感謝を捧げていくのは、当然のことです。
広布を担う新聞配達は、健康と社会勉強の道でもある。すべてにわたって、自身を磨き、勝利しゆく道である。
感謝の心を表すことは、価値を創造しゆく重要な人間学

真実の「平和」とは、「正義」と一体でなければならない。
ゆえに、正義を阻み、人々を不幸にする邪悪とは、断固、戦わねばなりません。

不正を糾し、正義が打ち勝ってこそ、晴れ晴れと、人々の幸福を護り、真の平和を実現できる可能性が生まれる。

師子は、仏法における「師匠と弟子」に通ずる。
師匠と弟子が一体の、偉大な「弟子」を目指す。これが仏法です。人生の大きな目的であり、「人間革命」です。

師子とは、「何ものも恐れない」生命、そして「絶対に負けない」生命の異名です。
師子とは、勝利者の誇り高き栄冠の象徴なのであります。

師子は怯まない。
師子は負けない。
師子は嘆かない。
師子は速い。
師子は吼える。
そして、師子は必ず勝つ

権威を振りかざす人間にも強いのが、本当の師子

◎自分の一念が変わる時、自分のいる世界が変わる。それが仏法の変革の方程式


31とkkり :2010/02/20(土) 21:59:04
☆新時代第37回本部幹部会でのスピーチ 2010.02.06
何のための「人生」であり、何のための「信仰」か──。
喜びに生きゆく人生。
苦しみに生きゆく人生。
悲しみに打ち砕かれていく人生。
不幸という縄に縛られて生きていく人生。
生き生きと勝ち抜いていく歓喜の人生。
人の生き方は、さまざまである。
社会が悪いからという理由もあるだろう。
一家が貧しいから、そうなってしまうということもあるにちがいない。
勝利の遊楽と、敗北の地獄の苦しみ──。
人生はさまざまである。境遇もさまざまである。
人生の成功と失敗、楽しみと苦しみの境は、いったい、何によるのか?
それは複雑であり、微妙である。
しかし、南無妙法蓮華経は、「絶対勝利」の法である。
「常楽我浄」の悠然たる長者の生命となりゆく仏法なのである。
南無妙法蓮華経を持つことは、いかなる財宝を持ち、大邸宅を持つよりも、ずっとずっと裕福なのである。
南無妙法蓮華経は、大宇宙の生命であり、根源の法である。それを唱えているのだから、何の心配もない。
日蓮大聖人の仰せには、絶対に嘘はないのである。
幸福と勝利のための我らの信仰であり、信心である。
永遠唯一の御本仏であられる大聖人の仏法の実体である。


32とっくり :2010/02/21(日) 21:25:46
『正義』
人間として生きているかぎり、最高善の実践に生きるべきである。最高の善に対して反対すれば最高の悪となり、最高の善に賛同し共に行動すれば、自らもそれに連なっていくことができるのである。 (h1.3.22)


33とっくり :2010/02/21(日) 21:27:35
『正義』
信心の世界には、引っ込み思案や遠慮は無用である。組織上の権限や役職があるとかないとかではなく、それぞれの立場で明快に悪は悪、善は善と、言いきっていかねばならない。それが学会を、ひいては自分自身を守ることになる。 (h1.8.24)


34とっくり :2010/02/21(日) 21:29:56
『正義』
大聖人は「瞋恚は善悪に通ずる者なり」(p584)と明快に仰せである。単に、怒ってはいけない、批判してはいけない、というのではない。瞋恚すなわち怒りは、善悪の両方に通じると教えられている。感情にまかせた私憤は、自身も他人も傷つけることが多い。しかし、正法を破り、民衆を苦しめ、信徒を蔑む大悪への怒りは、“正義の怒り”であり“大善の怒り”である。それを今、創価学会は実践している。牧口先生、戸田先生の指導通りである。大聖人の御聖訓の通りである。 (h5.11.18)


35とkkり :2010/03/09(火) 18:19:48
戸田先生は、ご自身のことを「なぜ会長になったのか。それは、私は妻も亡くした。娘も亡くした。そして人生の苦労を、とことんなめつくした。だから会長になったのだ」と話されていた。
まことに含蓄の深い言葉である。学会の会長が名誉職であるならともかく、会長職は、庶民の苦悩と悲哀をだれよりも理解できる人でなければつとまらない。「だれよりも苦労した。だから会長になったのだ」---この戸田先生の言葉を、幹部は、それぞれの立場で、深くかみしめていくべきである。そして人に倍する苦労を求め、苦労によって自身の信心の境涯を深めていきたい。
(1987.6.17)


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10 / 青鬼の教学室 (1000)
1青鬼 ◆waPcLJwOb. :2009/06/10(水) 18:17:48
青鬼の教学室です。
御書を勉強していきます


994青鬼 ◆waPcLJwOb. :2009/12/28(月) 11:55:01
07                 又第六天の魔王或は妻子の身に入つて 親や夫をたぼらかし或は国王の身に入つ
08 て法華経の行者ををどし 或は父母の身に入つて孝養の子をせむる事あり
また、第六天の魔王があるいは妻子の身に入って親や夫をたぼらかし、あるいは国王の身に入って法華経の行者をおどし、あるいは父母の身に入って孝養の子を責めたりするのである。

三障四魔を乗り越え成仏を

第六天の魔王は、「智者」だけでなく、妻子や国王、父母などの身にも入って、正法の信仰を妨げると説かれています。
「父母の身に入つて孝養の子をせむる」
池上兄弟は、この御文を身をもって実感しつつ拝したに違いありません。
兄弟に対する迫害の背景には、確かに悪鬼入其身の極楽寺良観ら、悪僧の画策もあった。その上で、実は致父・康光にも第六天の魔王が取り入り、信仰を阻まんと攻め込んできていると仰せです。ゆえに断じて従ってはならない。魔の本質を見抜けと教えられています。
「信仰」か「孝養」かの選択を迫られ、悩み苦しむ門下に対して、大聖人は、本抄や諸御抄を通して、これでもか、これでもかというほど、指導、激励を重ねらえています。真の孝養とは、最高の仏法哲理で自分が成仏し、親を三世にわたって救っていくことです。
そして兄弟は、師匠の仰せのままに信心を貫き通し、見事、障魔に打ち勝っていったのです。
今は未曾有の経済危機の中、三障四魔も盛んに競い起こっています。だからこそ、一番大事なのは、「自分自身の心に勝つこと」「唱題に徹し抜くこと」です。
「難を乗り越える信心」に生ききれば、必変毒為薬することができます。必ず宿命転換することができます。必ず、一生成仏の境涯を築くことができます。必ず広宣流布の道は大きく開かれていくのです。
さあ、深き信心に立ち、「心」で勝って「5・3」を勝ち飾り、そして一人一人第勝利の実証の姿で、明年の創立80周年を迎えていきましょう。


995青鬼 ◆waPcLJwOb. :2009/12/29(火) 07:14:12
2009:5月号より
講義

「低い山から最高の山に登る中間には、必ず、谷がある」
ある日の会合で、恩師・戸田先生はこう語られました。
「成仏を最高の山に例えるならば、初信の功徳は低い山へ登ることだ。成仏は、それよりも高い山へ登ることである。その中間の谷間に、みなさんは迷ってはならない」
「これこそ、三障四魔が紛然として競い起こる谷であり、初信の功徳に酔うべきではない。谷間を勝ち越えゆく信心であることを深く考えて、毎日の信心を怠ってはならない」
戦後の混乱がつづくなかで、この仏法にめぐりあって入会し、初信の功徳をいただいた学会員に対するご指導です。
信心の本当の功徳は何ものにも左右されない絶対的な幸福境涯を得ることである。そして、最高の山に登るためには、必ず、仏道修行の「訓練」「鍛錬」の谷を踏み越えていかねばならない。そのことを分かりやすく教えてくださっています。
この谷間から大山の頂上へ向かう途上へ向かう途上に三障四魔が競い起こるのです。
谷を渡り、急な険路を登らなければ、山の頂上を極めることはできない。三障四魔が出来しなければ、正しい仏道修行ではありません。
草創の会員たちは、戸田先生の慈愛の思いを浮かべては、師の励ましを思い起こし、三障四魔に勇敢に挑み、崩れざる幸福境涯を確立していったのです。どこまでも、魔と戦う中に一生成仏の直道がある。これが日蓮大聖人の仏法です。
「兄弟抄」では、難に直面する池上兄弟に対して、障魔を迎え撃ち、成仏に向かう信心の要諦を教えられています。
本抄では、なぜ、法華経の信仰を持つ人々に難が競い起こるのか、この法華経ゆえの苦難の意味を、3点にわたって説明されています。
第1は、難が起こるのは、「大六天の魔王」が法華経の行者の成仏を妨げるために智者・国王・父母・妻子の身に入って法華経の行者を悩ますからです。この原理については、前回に確認しました。
2点目は、修行者自身に「宿業」があるために難を受ける。ただし法華経ゆえの難は「転重軽受の功徳」にほかならないということです。
そして、3点目に、難は諸天善神による「信心の試練」であり、成仏に向かっての「生命の鍛錬」の意味がある、という観点がしめされています。
今回は2点目と3点目を中心に学んでいきます。


996青鬼 ◆waPcLJwOb. :2009/12/29(火) 08:40:26
02                  我等過去に正法を行じける者に・あだをなして・ありけるが今かへりて信受す
03 れば過去に人を障る罪にて未来に大地獄に堕つべきが、 今生に正法を行ずる功徳・強盛なれば 未来の大苦をまね
04 ぎこして少苦に値うなり、 この経文に過去の誹謗によりて・ やうやうの果報をうくるなかに或は貧家に生れ或は
05 邪見の家に生れ或は王難に値う等云云、 この中に邪見の家と申すは誹謗正法の家なり 王難等と申すは悪王に生れ
06 あうなり、 此二つの大難は各各の身に当つてをぼへつべし、
われわれは、過去において正法を修行していた者に怨wなしたのであるが、今度は反対に自分が正法を信受することになったので、過去に人の修行を妨げた罪によって本当は未来に大地獄に堕ちるところを、今生に正法を行ずる功徳が強盛なので未来の大苦を今生に招きよこして少苦に値うのである。この経文に、過去の謗法によって、さまざまな果法を受けるなかに、あるいは貧しい家に生まれ、あるいは邪見の家に生まれ、あるいは王難に値う等と示されている。このなかに「邪見の家」というのは誹謗正法の家であり「王難等」というのは、悪王の世に生まれあわせることである。この二つの大難は、あなたがたの身にあたって感ずることであろう。

大難は「転重軽受」の証明

大聖人はここで、正法を持つ者が大難を受ける理由について、それは、「転重軽受」、すなわち宿命転換の功徳であることを明かされております。
過去世において、「正法を行ずる者を迫害した罪によって「未来に大地獄に堕つ」べきほどの報いがあるところを、今生において「正法を行ずる功徳」が強く盛んであるため、「未来の大苦」を招き起こして、現世で「少苦」として受けるのである とおおせです。
日蓮大聖人の宿命転換の仏法では、まず、あらゆる悪業の根源は、妙法に対する不信・謗法でると洞察されます。「根本の悪」が明らかになることで、「根本の善」も明確になります。根本の善悪の因果が明瞭になってこそ、本格的な宿命転換が可能になるからです。
その「根本の悪」である謗法とは、すべての人に仏性があることを信じないゆえに、「万人成仏」の教えである法華経を謗ずることです。さらには、万人の仏性を開いていく行動を続ける「法華経の行者」を誹謗することです。そして「法華経の行者」と共に、万人の仏性を否定する根源的な悪とたたかうことにほかなりません。
この「護法の功徳力」にょって、未来に受けるべき苦報を現世に軽くうけることが「転重軽受」です。「地獄の苦しみぱつときへて」(1000−04)今世で一切の「重罪をけしはてて」(0233−01)晴れやかな仏界の境涯を開いていけるのです。いわば、悪から悪への流転の境涯から、善から善への生死へと、生命の軌道の方向転換することができる。それが大聖人の宿命転換の仏法です。
したがって、転重軽受によって受ける難は、「護法の功徳力」として生じたものであり、宿命転換の証しともいえるのです。
さて「兄弟抄」に戻れば、転重軽受のゆえに、今世で受ける「少苦」の具体的な内容として、大聖人は般泥オン経に説かれる八つの難のうち、「邪見の家に生れ」「王難に値う」の二つが、池上兄弟の身に当たる難であると指摘されます。
ここで「邪見の家に生れ」とは、誹謗正法の家に生まれることです。また、「王難等と申すは悪王に生れあう」と仰せです。これは、法華経の行者を迫害する権力者、社会とともに生まれあわせることです。
このように、池上兄弟が「邪見の家に生れ」「王難に値う」ことは、大聖人とともに妙法弘通の実践をしているがゆえに生じた難であり、師弟不二の実践を貫いている証明でもあるのです。


997青鬼 ◆waPcLJwOb. :2009/12/30(水) 10:16:50
11   各各・随分に法華経を信ぜられつる・ゆへに過去の重罪をせめいだし給いて候、たとへばくろがねをよくよくき
12 たへばきずのあらわるるがごとし、 石はやけばはいとなる金は・やけば真金となる
 あなたがた兄弟は、かなり法華経(御本尊)を信じてきたので、過去世の重罪の果報を現世に責め出しているのである。それは例えば鉄を念入りに鍛えて打てば内部の疵が表面にあらわれてくるようなものでる。石は焼けば灰となるが、金は焼けば真金となる。

宿命転換は、生命最後の錬磨

鉄を何度も熱して鍛えていくと、脆さの原因である内部の不純物がたたき出されます。それを、さらに鍛え打つことによって、鉄は一段と強靭になります。兄弟の信心が強盛であるため、過去世の重罪を責め出して今世に苦難の果報を受けているとの仰せです。
ここにある通り、転重軽受・宿命転換の道においては、苦難の意味そのものが深まり、「信心の錬磨」「生命の鍛錬」の意義を持つのです。
大聖人は「鉄は炎打てば剣となる」(0958−14)とも述べております。
私たちの信仰は、宿命と立ち向かうなかでこそ、磨かれ、強くなるのです。
悩みや苦しみという“業火”に焼かれた時、人間の真価は発揮されます。「弱き信心」であれば、灰となって崩れ散ってしまう。「強き信心」であれば、真金となって、ますます輝きを放っていくのです。
わが生命を鍛え抜き、強く磨き上げることが、仏法の大目的です。
磨かなければ人材は光らない。鍛えなければ本物は育たない。広宣流布のために徹定して戦う中で、過去世の宿業を転換し、わが人生を金剛不壊の宝剣のごとく、光り輝かせていくことができるのです。
鍛錬といえば、牧口先生と戸田先生、そして戸田先生と私の創価の師弟もまた、毎日が生命錬磨の日々でありました。
19歳で牧口先生との出会いを刻まれた戸田先生は大正9年(1920)4月、「若き日の日記」に、このように綴られています。
「国家の人材、世界の指導者としての大任を授かるべく練り、果たすべく磨かざるべからず(中略)今日の人のそしり、笑い、眼中になし、最後の目的を達せんのみ」
この折、若き戸田先生は、牧口先生が校長を務めておられた西町尋常小学校の臨時代用教員として採用されました。
偉大なる師と出会い、偉大なる目的を成就するために「練る」すなわち、人格、実力、心身を鍛練しいゆくことを深く決意されたのです。
私もまた、19歳の時に恩師・戸田先生の運命的な出会い、栄光の師弟不二の大道を歩み始めました。
戸田先生の事業が挫折し最も苦境の時にも、私は矢面に立って、一身に師を守り支えつづけました。
昭和25年(1950)12月の日記に、当時の心中を次のように記しました。
「苦闘よ、苦闘よ。
汝は、その中より、真実の人間ができるのだ。
汝は、その中より、鉄の意思が育つのだ
汝は、その中より、真実の涙を知ることができるのだ。
汝は、その中より、人間革命があることを知れ」
戸田先生に言い尽くせぬほど、お世話になった者たちが、手のひらを返したように、大恩を踏みにじり「戸田の野郎」などと罵詈罵倒して、去っていきました。
しかし、私は微動だにしませんでした。戸田先生と共に受ける苦難こそ誉れであり、鍛錬こそ勝利の道である。そして戸田先生に必ず第二代会長として、広宣流の指揮を執っていただくのだと祈り切って、悪戦苦闘を突き抜けていったのです。


998青鬼 ◆waPcLJwOb. :2009/12/30(水) 12:10:38
12                                        此の度こそ・まことの御信用
13 は・ あらわれて法華経の十羅刹も守護せさせ給うべきにて候らめ、 雪山童子の前に現ぜし羅刹は帝釈なり尸毘王
14 のはとは毘沙門天ぞかし、 十羅刹・心み給わんがために父母の身に入らせ給いてせめ給うこともや・あるらん
このたびの難においてこそ、本当の信心があらわれて法華経の十羅刹女もあなたがたを必ず守護するにちがいない。雪山童子の前にあらわれた鬼神は帝釈であり、尸毘王に助けられた鳩は毘沙門天であった。同じく、十羅刹女が、信心を試すために、父母の身に入って、法華経を信ずる人を責めるということもあるであろう。

諸天善神が信心を試すゆえの難

つづいて大聖人は、兄弟の実践に「本当の信心」があらわれたので、法華経の行者を守護すると誓った「諸天善神」によって守られることは間違いないと仰せられます。そのうえで、帝釈天が羅刹となって雪山童子の求道心を試したように、また、毘沙門天が鳩となって尸毘王の慈悲心を試したように、諸天善神は、その人の信心が本物かどうかを試すことがあると示されています。
大聖人は、その原理を踏まえて、今回の勘当は、十羅刹女が兄弟の信心を試すために、父母の身に入って二人を責めたであろうと仰せです。
諸天善神がその人の信心を試すために難を起こす この原理について、大聖人は、他の御書で明かされます。
例えば、熱原の法難の折に、農民信徒たちが平左衛門尉頼綱によって理不尽な尋問を受けたことがあります。しかし、一人として退転する者はなかった。彼らは権力者の弾圧を受けても恐れる心なく題目を唱え続けました。
直ちにこの報告を聞かれた大聖人は、即座に記されました。
「定めて平金吾の身に十羅刹入り易りて法華経の行者を試みたもうか、例せば雪山童子・尸毘王等の如し将た又悪鬼其の身に入る者か」(1455−02)
大聖人は、平左衛門尉の身に十羅刹が入ったか、あるいは悪鬼が入ったか、あるいは悪鬼が入ったかと仰せです。
悪鬼が入って法華経の行者を迫害することは、前回、第六天の魔王が智者や国主、父母の身に入って迫害を加える原理として学んだ通りです。
しかし、諸天善神が平左衛門尉の身に入って熱原の農民信徒の信心を試したとは、いかなることでしょうか。
それは、「不退転の信心」こそが「成仏の因」となるからです。もとより難を受けるのは、正法である法華経を持つたゆえです。問題は大難を受けた時に、臆病な心が出来して退転してしまうか、勇気の心を奮い起して不退転を貫くかどうかです。
自分の心の弱さゆえに退転してしまえば、それは第六天の魔王に責め苦に敗れたことになります。反対に、自分の心が固いゆえに
不退転を貫けば、それは諸天の試練に打ち勝つたと振り返ることができます。
要するに、どこまでいっても自分の「心」で決まるのです。諸天善神の加護といっても、本質は、自分の信心の力です。
戸田先生は師子吼されました。
「大聖人をいじめ抜いた、極悪の仏敵である平左衛門尉に対して、御書には、“彼は、自分にとっては善知識だ”と仰せになっておられる。
敵など断じて恐れるな!全部自分自身を完成させて、仏にしてくれる、闇の列風に過ぎない」
これが、日蓮仏法の師子王の魂です。大事なことは、恐れない「心」です「一念」です。
大聖人は、幾度となく妙楽大師の「必ず心の固きに仮りて神の守り則ち強し」との一節を引用されています。信心が本物であれば、諸天善神は必ず法華経の行者を守護することは間違いありません。
先ほどの御文の続きでも、大聖人は、釈迦・多宝・十方の諸仏、諸天の加護は、法華経の会座での誓いであり、絶対に破られることはない。変毒為薬の原理から、たちまちに「賞罰」が厳然とあることも確かなことであるとおおせられています。
「心こそ大切」です。自分の信心いかんで未来の勝利は決まるのです。
「自分の運命をになう勇気をもつ人だけが、英雄である」というヘッセの箴言があります。
一切が自分の生命の変革から始まると確信した者が、真の勇者であり、永遠の幸福を築くことができるのです。


999青鬼 ◆waPcLJwOb. :2009/12/31(木) 06:10:43
14                                                    そ
15 れに・つけても、心あさからん事は後悔あるべし、 又前車のくつがへすは後車のいましめぞかし、今の世には・な
16 にとなくとも道心をこりぬべし、 此の世のありさま厭うともよも厭われじ 日本の人人定んで大苦に値いぬと見へ
17 て候・眼前の事ぞかし
それにつけても信心が弱くては、必ず後悔するにちがいない。前車が覆えったのは、後車の誡しめである。
 今の乱れた世にあっては、これということがなくとも仏道を求める心が起こるのは当然である。この世の有様をみて厭うといっても、よもや厭うことはできない。日本の人々は、定めて大苦に値うことは目に見えており、まさに眼前のことである。

「まことの時」に不退の信心で

「それに・つけても、心あさからん事は後悔あるべし」
これは、すべての門下に送られた言葉と拝されます。
「法華経を経のごとく説く人」に巡り合うことができた。この“師と時を同じくして戦える福徳”をいかに自覚するか。せっかく大事な時に、心が浅ければ、永遠に後悔を残してしまう。
難にあっている時は、実は、自分の成仏の門を永遠に開いていけるか、それとも退転によって幸福の道を閉ざしてしまうか。その最大の岐路であり、最も「大事な時」となります。
いついかなる時も、私たちは大難の時こそ「開目抄」の一節を拝して戦い抜きたい。
「我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし、天の加護なき事を疑はざれ現世の安穏ならざる事をなげかざれ、我が弟子に朝夕教えしかども・疑いを・をこして皆すてけんつたなき者のならひは約束せし事を・まことの時はわするるなるべし」(0234−07)
この御文の身読が、創価学会の永遠の生命線です。常にこの御文に立ち戻り、前進していけば、私たちの信仰は不滅の輝きを放つからです。
この御文の精神に照らせば、私たちが難に直面した時は、すべて「まことの時」です。三障四魔が競い起こった時も、自分の宿命転換の時も、広宣流布の活動の“剣が峰”の時も「まことの時」に反転攻勢できる信心が不可欠です。その信心を私たちは、日々、大聖人から教わっているという自覚に立つことです。断じて「つたなき者」になってはならない。
「心あさからん事「つたなき者」 それは生きる根本目的を持たずに浮き草のように漂う人生になってしまいます。
人間は「生きる意味」を求める動物です。
そして真剣に、その意味を探求し貫いていけば、おおずといくらでも深まっていく。学会員は、人生の意味と信仰とを常に深めていくことができます。皆、人生の哲学博士なのです。
「今の世には・なにとなくとも道心をこりぬべし」とは、当時の不安に満ちた社会事情を踏まえての仰せです。
大聖人の御在世当時は、度重なる飢饉や疫病、天変地異が相次ぐ時代でした。そうした時代だからこそ、本来であれば、人々に「道心」が芽生えるはずです。混迷の度をますほどに、深い哲学が求められます。日蓮仏法は、まさしく悪世末法の時代の闇を照らす「太陽の宗教」なのです。
ところが、日本は、その大聖人を正しく愚うするどころか迫害した国です。結果として大聖人が予言された内乱と侵略の警告が的中し、なすすべがなくなってしまった。避けることのできない悲惨と苦悩に直面したのが総罰の姿です。大聖人は二月騒動と蒙古襲来という「眼前の事」を見れば、そのことが明瞭ではないかと喝破されています。
特に文永11年の「文永の役」のあとは、日本一国をあげて、近々あるであろう再度の蒙古襲来に備えている最中であり、人々の間には大きな不安が広まっていました。
「蒙古討伐に向かった人々は、年老いた親、幼い子、若い妻、そして大切な住み家を捨てて、ゆかりのない海を守り、雲が見えれば敵の旗かと疑い、釣舟が見えれば兵船ではないかと肝をつぶす」
戦争による嘆きは、いつの時代も変わりません。愛する家族との辛い別れ、いつ命が果てても不思議ではないという、死と隣り合わせの日々、いつの時代も苦しむのは庶民です。ゆえに、絶対に戦争を起こしてはならない。これは仏法者の永遠の叫びであります。
   (続く)


1000青鬼 ◆waPcLJwOb. :2009/12/31(木) 06:13:10
「現身に修羅道をかんぜり」という現代社会です。大聖人の戦いは一面から見ればそうした“修羅道の社会”の変革であり、全民衆が幸福と平和をつかむ世の中の実現であったのです。
いずれにしても、民衆が苦しむ事態を招いたのは邪悪に加担して最大の正義の大聖人を迫害した為政者の責任です。大聖人は、池上兄弟が今、父親から責められているのも、結局は、国主が悪僧らにそそのかされて「法華経の敵」となってしまったからであると洞察されています。
仏法は勝負です。大聖人は「法華経の御利生心みさせ給え、日蓮も又強盛に申し上げ候なり」と仰せです。
師弟一体の祈りと団結で、正邪を必ず満天下にしめしていこうと、最愛の弟子へ力強くよびかけられています。
大聖人が池上兄弟に教えられている行き方は、一貫して、魔性に対して堂々と立ち向かっていく「攻めの姿勢」です。受け身になったり、弱気になれば魔は増長します。「絶対に臆してはならない」と御指導されているのです。
戸田先生は烈々と語られました。
「困難を避けるような弱虫に、何ができるか。そんな人間は、この戸田のもとには、いないはずです」
「学会は師子の団体だ、師子の集まりだ。臆病ものはいらぬ!」
  (新年度より新スレに続く)


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11 / 赤鬼の教学室 (1000)
1赤鬼 ◆EtcmJTqYfU :2008/12/30(火) 10:45:57
赤鬼の教学研究室です。


994赤鬼 ◆EtcmJTqYfU :2009/06/10(水) 18:12:18
最後に
元朝より始めた法華経の研究は、これにて終了します。
従いまして当スレの書き込み規制も解除します。
皆様の教学研鑽にご利用いただければ甚幸せです。
                      赤鬼


995ノラ :2009/06/10(水) 18:13:31
急げ大キリだぞ。


996ポン太 :2009/06/10(水) 18:32:56
ひとつアゲ


997光 線 :2009/06/10(水) 18:49:20
おっ♪♪大キリやないか(^O^)


998ポン吉 :2009/06/10(水) 18:51:31
ヤバイヤバイ


999女将 :2009/06/10(水) 18:51:54
赤鬼さん おつかれさまでした。今日はお祝いだね。


1000光 線 :2009/06/10(水) 18:52:59
ラスト〜〜〜〜( ^^)Y☆Y(^^ )


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