第1話
新しい季節、新しい学校、新しい家。応じて新しい環境が始まると人は緊張、または期待する。
まだ見ぬ友人、まだ見ぬ授業、まだ見ぬ周辺。全てが期待を膨らませる。人というのは新しい何かという刺激を常に欲する。
バイクを駐車場に止め、ヘルメットを脱いで深呼吸する青年。眼は僅かに釣り目気味であるが銀縁の眼鏡が青年の僅かに鋭い視線を柔らかくしている。バイク用の革のジャケットにジーンズ。スラっとした長い手足だが、細すぎるわけでもなくボディビルをしているような太すぎる手足でもない極中間。ピアスも刺青も見当たらない極平均的な青年。そんな青年が高校から大学に上がり、独り暮らしになり、見知らぬ土地に来た。
期待に胸膨らませて、見知らぬ環境に怯えている……様子は一片も見られない。視線は常に前を向き、揺らぎのない足取り。唯、眼に僅かな倦怠感が滲ませている。十代後半の若者にしては些か覇気が無い。
目線は常に前に、淡々と、何に対しても平常に、揺れ動く心が無いかのように、
青年は新居となるアパートの階段を登っていた。期待も不安も抱かず、淡々と。最奥まで進み、これから住む場所のドアを開ける。
僅かに香る、新品の畳の匂い。その先に見えるのは殺風景な部屋。生活必需品の家電製品と机など引越しを済ませた後の家にしてもその部屋に住む住人を連想させる品は少ない。趣味と思わしくモノは灰皿とコーヒーメーカーのみだけだった。
見る人間が見れば分かってしまうだろう。その空間に過去の積み重ねはなく、これからの生活に期待があるわけでも無い事を。
その部屋の住人もその部屋から連想させられるように望んでいた。無機質な部屋がさらに積み重ねられる予定。死んでいないだけの日々が積み重なっていく。
そうだと思っていた。
「これで、やっと親元を離れられたか」
声に喜色は無く、表情は一ミリも動いていない。部屋の主である彼もこの部屋同様に無機質な空気を出していた。
年は18歳。現役で大学に入学し、今年から大学生になる人物。髪は特徴があるとはいえないセンター分け。染められた事のない黒い髪。 背は175cmと標準より少しばかり高いが高すぎるわけではない。彼の雰囲気を除けば人ごみの中に簡単に紛れ込んでしまえそうな青年。
日本という国では珍しくも無い存在。
「これで独りになれる」
呟いた声は僅かな喜び。だが、それは心の底から打ち震えるモノではない。煩わしいものから解放されたといった程度の喜びでしか見られない。この年頃特有の覇気というものが声にも姿勢にも常に現れていない。
覇気がないというのに何故彼は独りを望むのだろうか?
独り。人は常に孤独を嫌う。確かに人は日常の合間に一人になれる事を望むが、常に独りでいる事は望まない。コミュニティに属して、会話をし、絆を構築して孤独である事を避ける。それは人というか生物として当然の行動である。
だが、彼は独りである事を望む。独りでいる方が気楽だからではない。独りでいないと耐え切れないという人種に近い。何故なら、彼は人を信じられないからである。人を信じないが故に彼は独りを望む。
だが独りになるといいながら彼が今いる場所は都心のアパート。人が雑多に入り混じる場所。他人との関係が簡単に構築される場所である。しかし、都心であればあるほど家の近くに住人への近づきは薄れる。特に学生である彼に対しては周囲の住人もそれ程目にかけない。人ごみと呼べるほどに雑多な人間がいる都心であるからこそ、その中にいるたった一人は特別視されない。この人が溢れつつある日本という国においては人ごみの中以上に一人になれる場所はないのかもしれない……
独りでいる事を望んだ彼は大学入学を期に親から決別する事を随分前から決めていた。理由などそれこそありきたりで彼が実の親というモノを好んでいない、それだけだった。唯、この青年にはそこに憎悪や嫌悪という感情が差し込まれていないのだが。
ある事件の時に彼は、親を戸籍と血液的な繋がりしかない他人とみなした。否、それ以前からそういう見方をしていたが、ある事件が加速させたという方が正しいだろう。独りで生きていく事を己とかつての大切な人に誓った。それ故に、例え普段はめったに会わない親とはいえ、その親が建てた家に住み続ける扶養され続けるという事が苦痛だった。
この日を実現させる為に、彼は努力した。高校入学と同時に彼はアルバイトに汗を流し続けた。休みの日などほぼなく、アルバイトに勤しみ続ける毎日。無論、学生らしい交流もあったがそれ以上に彼は独り立ちする事を望み、金を求めた。
求めて、求め続けて、努めて、勤め続けて。大学へ独力で通えるほどに金額が溜まり、家から離れた大学に漸く入学できた。
無論、大学への入学金、授業料は彼がそのバイト代から出している。念のために奨学金補助まで願って親からは一切金を受け取らなかった。彼は、文字通りの意味で自分の力で大学に通っている。
その事実を両親が喜んでいるかどうか青年は知らない。書置きで事後通達して、後は全てを自らで賄った。両親に対しては無関心を貫いている。彼にとって、両親とは血が繋がっていれども他人だった。
そんな彼が大学に通うのは学歴が必要だったからに他ならない。親でさえ拒絶する彼。人の傍にいる事を拒むのに、人間であることを捨てられない彼は人ごみしかない社会で生きるために学歴が必要だった。
ただ、それだけだった。
これまでは…………
「一応、隣には挨拶をしておくかな?」
部屋で無機質に夕食を終らせた彼は、元いた場所の名産品を手に持ち、僅かに倦怠感を滲ませながら隣の部屋へと向かった。
青年は特に隣に住んでいる人物と仲良くなりたいとは思っていない。だが、挨拶をしに行かなくては礼儀を重んじる日本においては非難を買う。また、相手を知らなければどれ程、己の生活に食い込んでくるか見極める事が出来ない。そこに彼の感情はなく、合理的な思考しかない。
持ち主の意向なのか、必ず住人の名前がドアに明記されている。ネームプレートを見て、このアパートに足を踏み込んでから初めて青年が表情を変化させた。僅かな驚愕に。
そこに書かれている名前が記憶の片隅に残っている知人のモノと全く同じだった事に顔を顰めた。苗字こそ、違うが同名の隣人。そう、岬茜という名前が、しっかりとネームプレートに書かれていた。
僅かな驚愕だった。だが、それもすぐに消える。もはや埋没してしまった記憶の欠片。何よりも脳裏に浮かべた人物の当時の苗字と違う。過ぎ去った日々はもう一度始まりはしないと苦笑を浮かべて、青年は心を落ち着けた。
そして、緊張した様子を欠片も見せずに呼び鈴を鳴らした。
「はいは~い」
ドア越しの声。くぐもっているが女性の声だという事は確認できる。声が成人女性と比較しても高いことから若いということが推測できる。
だが、その声を聞いたとたんに青年の表情が曇った。僅かな驚愕しか浮かべなかった青年の表情が誰から見ても分かるほどに眉をしかめている。機械と思わせるほどに無機質だった青年の表情はドア越しに聞こえる声だけで曇った。
ドア越しに聞こえた声。それは青年が少年だったときによく聞いたとても大切な人の声にとても良く似ていた。
「どちらさまでしょうか~?」
ドアからひょっこりと現れる低身長な女性。目測だけでも150は超えていないことが分かる。ソバージュの掛かった肩まで届く栗色の髪に、とろんと垂れた穏やかな瞳。身長とは対比的に胸は豊満で、腰は折れそうな程に細いアンバランスな肢体。そして、警戒心の浮かんでいない笑顔。その笑顔から太陽の様な優しく暖かい印象を受ける。
身長だけ見れば、少女にしか見えない。だが、青年には直感的に目の前の人物が少女ではなく女性である事を嗅ぎ取っていた。
目の前に現れたその姿に青年は息を呑んだ。青年が知っている人に目の前の女性は似ていた。青年が少年だった頃、信じてきたモノが崩れ去ったときに救ってくれた女性に、初恋を抱いた女性に、温もりを与えてくれた女性に。
そして、少年が再び人を信じられなくなったきっかけを与えた女性に…………
「…………お姉ちゃん…………」
ふと漏れてしまった。あまりにも青年の今に関わりすぎている人に似ていたから。あまりにも青年の過去に甘く優しい思い出を、苦く苦しい傷を付けた人に似ていたから。その人の事を忘れるはずは無い。忘れられるはずがない。
今の彼を形成する事を決定付けた人物にとてもよく似ている女性。その出会いは青年に綻びをもたらす。
似ているだけなら、変わっていたかもしれない。否、変わらなかったかもしれない。今まで青年が過ごしてきた日々とこれからの日々は。
「ん? ん~?」
青年が呟いた言葉は意外な事に女性に効果を示した。背伸びをして青年の眼鏡を取って、下から覗き込むように顔をマジマジと見て身長を測ってみたりと、様々な事して、
近すぎる距離。だというのに青年は不快感を抱けなかった。人を信じられないのに、親友と呼べるたった一人の人物以外は信じる事を止めたのに、目の前の女性には危機感を抱けなかった。
近すぎる距離から見える女性の顔は記憶の中にある少女と瓜二つ。だが、青年は目の前の女性があの時の少女だという可能性を切り捨てようとしていた。
青年と女性が別れた年月を考えれば目の前の女性は若すぎる。記憶の中にいる少女と離れて九年。全てが記憶にある当時のままの訳がない。そして、この一億を越える人間がいる日本で偶然で再開できる可能性など皆無に等しい事を思えば可能性など簡単に切り捨てられる。
青年は結論付けると同時に、目の前の女性は何か納得したのか手をポンっと叩いて。
「悠ちゃん!!」
抱きついてきた。
青年は突然の事に対応できずに抱きしめられた。突然という事もあったがそれ以上に彼は『悠ちゃん』という名前に衝撃を受けていた。
切り捨てた可能性だった。可能性が限りなく低い偶然が目の前にあった。
青年を『悠ちゃん』と呼んでいたのは今までで唯一人しかいない。
青年を救って青年を壊した少女唯一人。彼の初恋の少女唯一人。
瞬間、今まで封じていた、意図的に思い出そうとしなかった思い出が脳裏に明滅する。
「悠ちゃん。遊ぼーー」
「お姉ちゃん。僕、今、勉強してるところ」
かなりの年が離れた少女が少年に構って構ってと遊んでオーラを出していた。少女の年齢は十五歳。少年の年齢は八歳。だというのに、少女は天真爛漫に少年にねだっている。
明らかに逆。
「悠ちゃん、お勉強ばっかりしている将来つまらない大人になっちゃうよ?」
そんな子供らしくない少年の年相応の姿が見たいが為に少女は子供っぽくしている。
天然のような気がするのは気のせいだと思いたい。
「それでもいいよ。僕は一人で生きていくから」
少年はこの時、一人で生きていかなければならなかった。頼る人物など誰もいなかった。無条件に信頼できるはずの親が仕事で滅多に帰宅する事がなかったために、少年は誰にも頼れなかった。
「ぶぅ、そんな事いってないの~。ほら、遊ぼ~!」
そんな読書をしている少年の腕を強引に引っ張り公園に連れて行こうとする少女。少女の態度に何時もの事だと少年は諦めていた。
少年は、自分が少女に引っ張られている時にどこか嬉しそうに笑っている事に気付いていなかった。
両親共に働いていて家には誰もいないから尚更に嬉しかった事を少年は気付こうとしていなかった。
「悠ちゃん、これ着てみようか?」
手にヒラヒラしたワンピースを持ちニヤニヤと笑いながら詰め寄ってくる少女に冷や汗を流したこともあった。
「桜、綺麗だね~。悠ちゃん」
「綺麗だけど…………お弁当にがっつかないでよ。花より団子じゃないんだから」
「悠ちゃん、似合ってる?」
「お姉ちゃん。水着でそんなポーズとって恥ずかしくない?」
「ふ~ん、そんな態度とるんだ。というか、こっちを見てからそういう事言ってくれるかなぁ、悠ちゃん?」
「栗ご飯、美味しいね~」
「お姉ちゃん、食の秋といっても自分でやろうよ? おばさんが作ってくれないからって僕に頼るのは女性としてどうかと思うよ?」
「悠ちゃんが作ってくれるから、それで全てOKなんだよ!」
「ぬっくぬっくのおこた~。悠ちゃん、みかん食べたい」
「はいはい。筋は自分でとってね」
「やぁ、悠ちゃんが取ってくれたのが食べたい」
「わがまま。はぁ~、とかいいつつ、僕は何で取ってるんだろうなぁ~」
美しい思い出。輝かしい思い出。全てが、全てが愛おしいかつての起こった出来事。
そして、全てを決定したあの時。
白い病室。
何もかもが真っ白に塗りつぶされ、白以外を認めない病室。そんな中に少年は包帯を頭に巻いて佇んでいた。何をするわけでもなく、唯々呆然と世界を虚ろに見続けていた。
「悠ちゃん。やっほー。元気~?」
そんな白以外を許さぬ部屋に、全てを拒絶している部屋の主に明るく声をかける少女。
「何?」
この部屋と同じように全てを拒絶している少年。そこにいるのは人間ではなかった。精巧に作られた少年の人形。
「そんなに暗い顔しないの! ほらお姉ちゃんが付いてるから!」
だが、そんな全てを信じられずにいた少年に光をくれたのは少女だけだった。
毎日のように少年の病室に来て語りかけてくれた。
思い出すには僅かに苦い少年が一度壊れたあの事件。
「悠ちゃん。ごめんね……私、どうしても好きな人と一緒にいたいんだ」
その言葉に少年は悟ってしまった。少女は己ではなく他の誰かを取ったのだと。
「そっか、仕方ないね。…………幸せになってね、お姉ちゃん」
少年は諦めた。諦めてさよならを告げた。
「うん、頑張って幸せになるよ! 絶対にまた悠ちゃんに会いに来るから!」
少女は少年が病室にいた時のようになっていることを気付いていた。
だが、それでも少年がもう全てを拒絶しないと信じていた。
別れの記憶には少女の笑顔。辛そうでありながらも幸せそうな笑顔。
彼を再び壊した、苦味しかない別れ。
閉ざしていたはずの記憶が蘇る。思い出さないようにしていた記憶が戻ってくる。
だから、彼は抱きついた女性を押しのけた。
女性は間違いなく今の青年を壊す存在。今まで頑なに護ってきた何かを壊す存在。壊される訳にはいかないのだ。そうである為に、生きてこられたのだから。そうだから耐えてこられたのだから。
だからこそ跳ね除けて拒絶するしかない。
「失礼ですが、初対面の男に抱きつくのは世間体を傷つけてしまいますよ」
身体を押しのけ、初対面だという事を強調する。何もかも思い出してしまった。甘い記憶も、辛い記憶も、全て全て。だから、初対面である事を装う。全てゼロにして何もかも隠し、これからの接点も封じ込める。
だというのに、目の前の女性は何を言っているのか分からないとばかりに首をコテンとかしげる。目の前の女性の年齢を考えれば年不相応のはずなのに、女性の雰囲気の為か妙に似合っている。
「悠ちゃん、何言ってるの? 悠ちゃんは悠ちゃんだよ~」
「残念ですが、僕に貴方との面識はありません」
だが、女性は類稀なる嗅覚で気付いている。目の前の青年が過去に出会った少年である事を。そして青年は気付いていなかった。己が、目の前の女性と共に過ごしていた時の一人称に戻っている事に。
「ぶぅ~、じゃあ、貴方の名前は~?」
「っつ、鈴木 義明」
胡散臭そうな瞳を向けられてとっさに名前が出てきたのは高校時代、名簿の後ろだった知人としか呼べないような人物の名前だった。明らかに偽名だが、確認する術が無ければそれが正解となる。そう、確認する術が無ければ、
「え~? でも悠ちゃんの部屋のネームプレートは鈴池悠樹ってなってるよ~?」
目の前の女性が指差す先には自室ネームプレート。そこには動揺しすぎた為にそんな些細な事さえ忘れていた。プライベート保護法に引っかかるような事をしている家主に呪詛を送る。届くなんてこれっぽっちも思っていなかったが……
「ぶぅ~。悠ちゃんの嘘つき~」
「僕は貴方に悠ちゃんと呼ばれるほどに過去の面識はありません。きっと同姓同名です」
「うわっ、名前を誤魔化してたのに、さらに同姓同名とか言って嘘つこうとしてる!」
「気のせいです」
尚も言い訳をしようとする悠樹。誤魔化しきれるなどと思っていない。しかし、拒絶の意志は通じると思っている。拒絶し続ければ女性も以前のような付き合いに二の足を踏むと考えていた。
引いて欲しかった。壊して欲しくなどなかった。だから、目の前の女性が過去と同じように甘えてきても拒絶する。
「悠ちゃん、もしかして私のこと嫌いになった?」
だが、目の前の女性には届かない。女性はよく悪くも純粋だった。九年以上の歳月が重ねたというのに、茜は変らず純粋だった。涙眼になって見上げてくる女性は子供だった。大人になってもその心は悠樹が少年だった頃と変わらずに子供だった。
「そもそも初対面ですから……」
涙目に良心が軋む。どんなに心の傷を目の前の女性に負わされたとしても好きになったという過去は変わらない。心の中に刻み付けられた好きという感情が消えるわけではない。あの時から凍っていた心が融かされてしまう。
「うぅ~。やっぱり嫌いになったんだ~! 悠ちゃんに嫌われた~~~~~~~~!!」
涙目から一転、本当に泣きだしてしまった女性。しかも本気泣き。
「あのっ」
「子供の頃は素直だったのに~~~!! お姉ちゃん、お姉ちゃんって付いてきてたのに~! ホラー映画見て一人で寝るのが怖くて震えて、私の所に来た悠ちゃんは何処にいったの~~~!!!」
「ちょっ!? 何捏造してるんですか! それにホラー映画を見て、布団の中に潜り込んできたのそっちでしょっ!?」
「悠ちゃんの馬鹿ーーーーー!!!」
男の尊厳を踏みにじられるような記憶の捏造に悠樹が我慢できずに叫んでしまった。直接的ではないにしても認めたに等しい発言をしてしまったことに悠樹ははっとするが、泣き叫んでいる茜は全くと言っていいほどに気づいていない。
女性が泣き叫ぶ度に近所の人たちが何事かと覗きに来る。
そこで見えるのはもちろん、泣いている女性と泣かしていると思わしき男。行き着く答えは違うかもしれないが、決していい想像はされない。
「認めます! はいっ、僕が鈴池悠樹です! 高橋茜さんの幼馴染の鈴池悠樹です!」
「昔みたいにお姉ちゃんって呼んでくれないんだ~~! やっぱり悠ちゃんに嫌われたんだーーーーー!!」
「恥ずかしいからです! 嫌ってなんかないです! だから泣きやんで?!」
必死になって泣きなだめる悠樹。周り全てが信じられなくても、周り全てに関心がなくても世間体は気になるのだ。それ気にしないと人の中では生きていけない……
「ぐすっ、じゃあ私のこと好き?」
「なにこれ!? なんでここで幼児退行!? というかなんで嫌いじゃなかったら好きって言葉を求められるの!?」
「やっぱり嫌いなんだーーー!!」
「好きです! えぇ、子供の頃は好きでした!」
泣き止ます為に普段の悠樹からは考えられない言葉が出る。彼の親友が見れば眼を見開くであろう光景が目の前に広がっていた。それ程に悠樹の頭の中は一杯一杯だった。世間体の死守と、目の前の女性に泣いてほしくないと言う微かな願いがあった為に、取り乱してしまった。
「今は嫌いなのーーーーー!!」
「そんな事ないです! 茜さんの見た目、昔とちっとも変わってないです!」
「それは成長してないってことなのーーーー!!?」
何故か茜が暴走して悠樹の首を絞め始める。身長の事は当時からのコンプレックスだという事をうっかり悠樹は忘れていた。九年以上前の事なので仕方ないといえば、仕方ないのだが。
背伸びをして涙目になりながらうーうー言っている姿は、傍目から見ればじゃれついていて可愛らしく見えるのだが、首を絞められている本人は辛い。だって、頚動脈と気道が凄い勢いで閉められているのだ、正直に言って滅茶苦茶苦しい。
「ぐぇえっ!? いえ、そんな事ないよ! 綺麗になったよ!」
「えへへ~、そっか~。悠ちゃんから見て私綺麗になったんだ~」
怒っていたのが途端に上機嫌になり首からあっさりと手が離された。理不尽だと思いつつも、首をさすりながら悠樹はひとまず安堵のため息をついた。付く他なかった。
何故かうきうき気分の茜にげんなりしている悠樹。事態が収まったのを詰まらなそうにしながら近所の方々は戻っていったが、二人は気にしない。茜はそもそも気付いていないし、悠樹は諦めの境地。
「悠ちゃん。久しぶりにお茶でも飲んでく?」
「いや、僕はまだ……」
「ふえぇぇ~、もしかして飲んでくれないの~?」
先ほどと同じように眼に涙を溜めている。ここで断ろうものなら確実に泣く。そんな当たり前の事を悠樹は思い出してしまった。
(そうだった、茜さんはこういう人だった……)
悠樹はちょっとげんなりした様子で従った。人を信じすぎるその態度に僅かな危惧を覚えながら、ドアをくぐった。
悠樹は誤解しているが茜は誰の前でもこんな態度を取るわけではない。心の底から信頼できる人にだけ、心の底から許してもらえる人にだけに出せる行動。九年以上たっているが悠樹はそれでも茜に信頼されている。無条件に許されている事を悠樹は気付いていない。気づこうとしていない。
部屋の中に入って悠樹は僅かに違和感を覚えた。記憶にある茜の部屋はもっとファンシーでぬいぐるみや友人と取った写真、少女趣味な桜色のカーテンだった。だが、目の前にはシックな部屋。紺色のカーテンに灰色の絨毯。ぬいぐるみや人形が幾つか飾られているが、それも眼が痛いほどではない。
記憶に符合しない部屋の内装。部屋が違う事で悠樹は苦みばしった笑みを浮かべた。九年も経ている。九年という歳月が人を変えないはずが無い。
改めて、お互いの間で共有しなかった時間が長かった事を理解した。
そして、部屋の内装でもう一つのことを思い出した。茜と悠樹が離れる理由を。そう、目の前の女性は恋をして、愛した人と共に地元を離れていった。完全にもう一度心に、あの時の情景が浮かんだ。それが少しばかり心に痛みをもたらす。
だが、過去の事だと割り切る。これから付き合いがあるかもしれないがそれでも今、胸にある痛みは過去の残滓だと心に言い切る。すでに悠樹は九年前の子供だった時とは違う。
「悠ちゃん~。ちょっと待っててね~。今お茶とお菓子だすから~。あっ、恋歌がいるけどたぶん、大丈夫だよ~」
聞き覚えの無い名前に少し首を傾げるが、娘だと納得する。男と共に出て行って九年も過ぎている。子供が産まれていても不思議は無い。どんな子だろうと僅かに楽しげにしながらリビングに向かった。
リビングに入って眼に入ってきた人物を見て息を呑んだ。日本人としては、いや人という種としてはありえないぐらいの白さ。病的ではなく、処女雪のような穢れが一切浮かんでいない白さ。髪は白銀に輝き、蛍光灯の光を眼に痛いほどの反射している。肌もシミ所かほくろすら発見できないほどに透き通るほどの白さを持っていた。夜空に静謐に浮かぶ月のようにすら見えた。
一瞬、現実から御伽噺の中に入り込んでしまったのかと思えるほどに、現実離れした少女がいた。日本人………………というよりも人間という種としてこの彩はありえない。
「誰?」
悠樹が思考を停止している傍から少女からの声がかかる。幻想的な世界だったはずが一気に色を取り戻す。
目の前の世界との繋がりを絶ちかねない希薄感を持つ少女。だが、決してありえない事ではない。世の中には色素欠乏症というものがある。決して世の中に居ない訳では無い。確率的に珍しく当たっただけど心の中で何度も唱える。
目の前の少女に物珍しさで興味を持つなど、悠樹は己を許せなかった。物珍しさで見世物になる辛さは彼も知っているから、余計に何度も言い聞かせた。
心を落ち着けて、可能な限り笑みを浮かべる。視線だけで、表情だけで人を容易く傷つける事が出来る事を悠樹は覚えている。
「あ~と僕は茜さんの友達……になるのかな? 鈴池悠樹。宜しく、君の名前は?」
「お母さんの友達? ん、岬恋歌」
簡潔に名前だけ告げられる。少しして、信じられないような眼で恋歌を悠樹は見る。恋歌の正確な年齢は分からないが、小学生の中学年ぐらいだ。落ち着いた雰囲気からすると高学年と言われても不思議は無い。となると逆算から行くと茜は家を出た直後に恋歌を生んだ事になる。
必死になって当時の茜がお腹を膨らませていたか思い出すが、いかんせん昔の事で、且つ封じ込めていた記憶なので浮かび上がらない。
それと同時に別のことも考える。恋歌が口にした『岬』という苗字。挨拶に入る前も見えたネームプレートに刻んであった『岬』という苗字。それは茜が結婚している証だった。
初恋だったといえる人が結婚していた。駆け落ちまで行ったのだから、結婚していて当然だろう。だが、当時はまだ子供。恋愛の最終は知っていても実感は沸かなかった。それ以後は考えないように生活していたのだから……気付かなくて当然だった。茜が結婚している。誰かの女性となっている。
そう、改めて実感してしまった。
「えっと、恋歌ちゃん。ちょっとばかりお邪魔させてもらうね?」
「恋って呼んで」
「えっと、恋ちゃん?」
「恋」
心を覗き込むような、真っ直ぐで透き通った視線。吸い込まれてしまいそうな、心の奥底まで覗かれているような感覚すら受けるほどに、綺麗な視線だった。その視線に一つの感情が込められている事にやっと気付く。
「了解だよ。恋」
「ん」
僅かに喜色を浮かばせて短い返事。それだけで恋歌は手に持っている本を読むことに戻った。
嫌われたかな? そんな事が頭に浮かぶがどうでもいいことだった。先程、不躾な視線をしないように気遣ったが、己の為に近い。何よりも悠樹は今日のお茶が終われば関わろうと思っていなかった。嫌われていても構いなどしない。
お茶が出てくるまで手持ち無沙汰な為に部屋を物色するしかなかった。女性の部屋をジロジロと見るのはあまりよろしくないと分かっていたがそれ以外にする事がなかった。
一つ気づいた事はこの部屋に男っ気が全く無いということだ。第一に、玄関に入ったときに男性用の靴がなかった。そして、男性用の櫛がない。男物が一つとして見当たらない。
そう、結婚した相手の痕跡が感じられない。『岬』というきちんとした証はあるのに痕跡は感じられなかった。無論、単身赴任という事も考えられる。長距離トラックの運転手という事を考えれば男っ気がないのも納得できた。唯、そうではないだろうと悠樹には何となくだが分かっていた。
「悠ちゃん~。お茶淹れたよ~」
湯飲みに並々と入れられたお茶が目の前に置かれる。客人に出すにしても入れすぎなお茶を見つめて悠樹は苦笑した。昔からこの人はお茶をこうして入れていたと懐かしく思い出してしまう。
「ありがとうございます」
「め~!」
「はい?」
「かしこまったしゃべり方はダメ~。昔みたいにしゃべって♪」
前かがみで腰に手を当てて、人差し指をピンと一つ立てる。幼子を叱る様な姿なのだが、童顔の茜が行うと僅かにミスマッチを呼ぶ。背伸びをしている子供に見えなくも無い。
だが、それは悠樹以外の人間が見た場合。九年前は確かに茜に上からの視線でこうやって偶に、極偶に叱られていたのだから。効果は抜群だった。だが、それでも茜の言葉に戸惑ってしまう。悠樹はこの九年間で確立した人との接し方というモノがある。
もちろん、心の底には入れさせないための拒絶に見えない拒絶という接し方を。
それを今更崩せといわれても難しい。
「ですが……」
「もしかして、もう昔みたいに話してくれないの?」
涙を浮かべながら純粋な眼で茜が悠樹を見つめる。その純粋な瞳が悠樹には辛かった。何処までいっても茜は悠樹の初恋の人。孤独から、絶望から、唯一救ってくれた人…………
「分かったよ」
「ん、よろしい♪」
ニコニコと笑う茜に居心地の悪さを感じた。何よりも不快だった。茜の視線が、ではない。昔の話し方で話す事を不快と思わない己が不快だった。例え、一時的な事にすぎないとしても、不快だった。
そんな己の心を隠すためにずず~と行儀悪くお茶をすする。文句の付けようはいくらかあったがそれでも美味しかった。
行儀悪く茶を啜る悠樹と、ニコニコと湯飲みを両手で持って冷ましながらゆっくりと飲む茜。お茶に目もくれず静かに本を読み続ける恋歌。
ふと、恋歌と悠樹の視線がぶつかり合う。だが、お互いに何事もなかったかのようにゆっくりと視線を元の位置へと戻す。
「意外~。恋歌が悠ちゃんを気に入るなんて~」
二人の姿を見ていた茜がぽつりと心情を漏らす。だが、茜の言葉に悠樹は耳を疑った。どこからどう考えても恋歌の反応は興味が無い状態だ。現に今も悠樹と茜、茶菓子にも目もくれず、本を読んでいる。
「何処が?」
「恋歌はね~。気に入らない人だったら容赦なく追い出すんだよ~。ついでにそこそこしか気に入らない人はず~~~~っと睨んでるし。気に入った相手の前でしか恋歌は本を読まないんだよ~?」
「そっ、そうなんだ…………」
とても分かりにくい好意の表現の仕方である。何となく、世間からずれている茜の子供らしいと悠樹は心底思った。
「恋歌~、お茶入ったよ~」
「わかった」
読んでいた本を手放し、湯飲みに手をつける。
微妙な沈黙が部屋を占める。
悠樹は話題を振れない。この部屋にないモノがあることに気付けてしまった彼は容易くそれに触れられるほど無神経ではなかった。茜も話題を振れない。再会したときは口走ってしまったが二人の過去は思い出すには最後の思い出が辛すぎる。彼女は天然だが、それでも人を思いやれないほど馬鹿ではない。人を思いやれる優しい女性だからこそ、悠樹は心を開いたのだから。
「悠樹とお母さんって最初どうやって会ったの?」
茜と同じように、湯飲みを息で冷ましていた恋歌が顔を上げて、話題を振り出した。この絶妙に気まずい空間で話題を話題を振り出せるのはまだ純真な恋歌だけだ。
(初対面で年上を呼び捨てか……まぁ、茜さんの娘だし何処かずれてるのは可笑しくないか……)
心の中でそうやって納得する。諌めなければならないはずだが、それでもこの後の事を考えると些細な事だ。
「ん~? 私と悠ちゃん? えっとね~。私が中学の時にお引越しをしてね…………」
その言葉に悠樹はぎょっとする。昔の記憶はほとんど奥底にしまってきたのでほとんど覚えていない。精々大きな出来事ぐらいだ。そんなに昔の事など覚えていない。恥ずかしい話も、嬉しい話も……
覚えていないときの話をされる事ほど本人に辛い物は無い。
「初めて会ったときの悠ちゃんはすっごく可愛くてね~。あれだね~。恋歌と同じくらい可愛かったよ~」
「可愛い? 悠樹はどっちかっていうと格好いい方」
「そだね~。悠ちゃんはかっこよくなったね~」
二人して褒めてくるが、悠樹はそれを嘘だと思っていた。眼鏡をかけているし、眼鏡を外したらそれこそ目つきが悪い。ついでに言えば、常に老けて見られる。ファッションも疎い方だ。現に今の格好は黒のフリースにジーンズだ。爽やかさもないし、格好いいという形容詞からは程遠いと悠樹自身は思っていた。
尚且つ悠樹は目の前の二人ほど類稀な美を持っているわけではない。恋歌のような現実離れした容姿を持っているわけでもなく、茜のように多くを包み込むような優しさも、その見た目と反したプロポーションを持っているわけではない。
悠樹自身の評価は正しく、悠樹は美男と呼ばれるほどではなく、不細工と呼ばれるほどではないだけ。少々顔が整っているに過ぎない。 だが、彼女達の発言は彼女達からすれば真っ当な判断だ。審美眼が僅かに世間からずれている可能性が高いと思われる。
昔の思い出そうと思ったこともない記憶ばかりが話される。決して愉快な物ではない。だが、それでも懐かしく思った。もはや思い出すこともないと思っていたいい記憶たちも久しぶりに帰ってきた。ひっそりと記憶に海に沈んで浮かび上がる事がないと思っていた記憶はやはり、甘くもあり、苦くもある。
だが、やはり話は恥ずかしい話に持ち込まれるのは誰だって我慢がならない。
「茜さん、僕の過去ばっかり話すのはやめてくれない? さすがに恥ずかしいし。恋も僕の事ばっかり聞かないでよ」
「なんで?」
純真な視線に少しばかりうろたえてしまう。何故と聞かれても恥ずかしいとしか答えられない。それは悠樹だけの話であって、恋歌が恥ずかしいわけではないので恋歌に悠樹の言葉の意味が通じるわけではない。
そんな会話の横で茜が驚いた顔をしていた。寂しさを混ぜた、悲しい驚きの顔。悠樹の視界にも入ったが茜の表情には触れなかった。
悠樹にとっては羞恥時間がやっと終わり、お茶もちょうど切れた。
「さて、僕はそろそろ帰ります」
「そだね~。結構遅い時間だし~」
時計を見るとすでに夜の十時近く。昨今の子供が寝るには少々速いかもしれないがそれでも十分に夜。恋歌もすでに船をこいでいる事もあり打ち切りとなった。
「悠ちゃん、ありがとうね」
「僕は何もしてませんよ」
その言葉に茜は首を振る。嬉しいと悲しいの両方が混じった表情で。
「聞かないでいてくれたよね?」
「聞いていい話じゃないですし」
何を、と聞くのは野暮すぎる。十年前、出て行く原因となった男の影が無い事に気づいていた事に。そして悠樹にとっては聞きたくない話でもある。例え、どんな言葉が出てきたとしても悠樹にとっては苦痛でしかない。
「うん、でもちょっとだけ聞いてくれるかな?」
「……」
悠樹は何も答えない。話すのならば話せばいい、話したくないのなら話さなくていいという沈黙という名の優しさ。不器用な優しさ。
「実はね、家を出て行った後に恋歌を生んでね。その後、幸ちゃんと……あっ、幸ちゃんは私の旦那さんだった人ね」
そんな事は話題に出た時点で悠樹は分かっている。だが、そこに話を持っていく気にはなれなかった。茜が覚えている中で一番悲しそうにしていたから茶化す事も出来なかった。
「恋歌が生まれて四歳になるまでずっと幸せだったんだ。親子三人で幸せに……でもね、でも……幸ちゃん、通り魔に刺されて……そのまま……」
今思い返しても辛いと茜の表情が告げている。唐突に失われた幸せ。幸せを支えてくれる、幸せを象徴する人。ずっと傍にいると思っていた者が唐突に死んで、ずっと共に生きていこうと誓った人が死んで……
続くと思っていた日常は些細な事で消えた。これから幸せ一杯になると思っていたのに泡沫の如く消えた。
「実はね、恋歌の事を恋って呼んでたのは幸ちゃんだけだったんだ。幸ちゃんが言ったときだけ恋歌はその呼び方に反応したんだ」
私が読んでも返事しないんだよ?とすねた口調で、寂しそうに茜は微笑んでいた。忘れようと思っていた。過去に埋没させようと思っていた。時が癒してくれたと思っていた。だが、恋歌の『恋』と呼ばせる行為が茜に全てを思い出させてしまった。
好きな人が、愛する人が、夫が死んですでに幾年月。一人で恋歌を支えるには辛すぎる。二人だけで生きていくには苦しすぎる。女と子供二人で生きていくには世間は優しくない。
茜が知る悠樹という少年から青年に代わった男になら話してもいいのではないだろうか? 恋歌が『恋』と呼ばせる人がいるのなら、恋歌が無意識でも認めている人がいるのならその人に甘えてもいいのではないか……と。
そう、思っていた。
「なんにも言わないんだね」
「…………」
それに対しても悠樹は沈黙を保ったままだった。何も言えないのではなく、何も言わない。些細な違いかもしれないが、それは時に大きな違いになる。悠樹は理解している。この場で何かを言う権利を己が有していない事などとうに……
「悠ちゃんが昔言ってたよね。『言葉こそが優しさで、言葉こそが残酷だ』って」
言葉というものは容易く人を傷つける。言葉はその傷を癒す唯一の手段だ。言葉とは力がある。
「でも……ね。でもね、沈黙も優しさであって残酷なんだよ?」
涙を瞳溜めて泣きそうになりながらも精一杯に笑みを浮かべている茜の姿は痛々しかった。それはこの十年で得た茜の思いなのだろう。 黙っている事は優しさでもある。だが、黙っている事は相手を傷つける行為でもある。
言葉をかけて欲しいときに黙っている事ほど相手を傷つける行為はない。言葉をかけて欲しくない時に黙っている事ほど相手を思いやる行為はない。人と人の触れ合いは優しくなどない。
「僕に、何かいう権利は何もないから……」
悠樹は昔の茜を知っているだけで、今の茜を、今までの茜全てを知っているわけではない。茜と共に生きる事を知った相手の事を知っているわけではない。だとしたら彼が口に出せるのは気休めでしかない。
そんな傷つけるかもしれない行為を悠樹は取れなかった。
「あはっ、悠ちゃんは変わってないね。ずっと優しいまんまだ」
「茜さんも変わってないと思うよ。中身は昔のままだ」
そんな言葉に茜は悲しそうに首を横に振る。
「変わっちゃったよ。私は」
僅かに人生に対する疲労感を滲ませながら、薄く茜は笑った。九年前なら決して浮かべなかったであろう大人になってしまった笑みを。
人は変わらずにいられない。人とは雲みたいな物。時間という風を受けて日々変化していく。
「これから、ちょっとずつでいいから会ってくれないかな?」
「止めておきます。過去に浸るには茜さんは若すぎます。貴女には恋もいますしね」
お互いに笑みを浮かべる。だが、その中身は異なる。受け入れる抱擁の笑みと、拒絶を示す冷酷な笑み。
過去に浸ることは簡単で、麻薬のように快楽を伴う。過去には現在では得られない幸せがある。二度と手に入らない幸せがある。無論、幸せばかりではない。人によっては過去とは忌まわしい物でしかない。
だが、それでも過去に得た幸せは浸るだけの価値がある。今が辛く苦いのなら尚の事。
だからこそ悠樹は茜が過去に浸ることを許さない。過去だけに浸ることを許さない。今、それを行えば茜は過去に浸り続けてしまう可能性もある。茜はまだ、二十五歳だ。そして恋歌もいる。茜が過去に浸り続けるにはあまりにも若い。
「あははっ、初めて知ったよ。優しさがこんなにも残酷だなんて」
「僕は…………随分前に貴女に教えてもらいました」
茜は涙を必死に堪えながら苦笑していた。悠樹の真意を理解できなければ冷酷な言葉に聞こえる。だが、茜はその奥にある言葉の真意をしっかりと理解していた。
過去に浸ることを許さない事は厳しいが優しい。過去だけに埋没してしまわないように止めることも優しさだ。だが、茜が今欲しい物は優しさではなく、甘えられることだ。過去という届かない幸せに浸る事を許してくれる甘い人だ。
「前言撤回だねっ。悠ちゃんは昔よりも優しくなった。残酷なくらいに」
今日、見た中で最高の笑顔を茜は浮かべていた。瞳に涙を浮かべながら。その表情は否が応にも、悠樹の脳裏に刻まれた。
「それでは、さよなら」
「うん、さよなら……悠ちゃん」
そのさよならは過去との決別。もはや昔には浸れないという事を明確にするための優しい言葉。もはや昔に戻れない事を告げる残酷な言葉。
部屋に一人戻った悠樹は懐から煙草を取り出し、肺一杯に紫煙を吸い込む。
何時の頃からか吸うようになった煙草を。
「…………不味い………………」
何時もはまだ美味く感じられる煙草もこの時ばかりは不味かった。
「お母さん、どうしたの?」
悠樹との色々な意味を込めた別れで頭が一杯で、茜は恋歌のことに気付かなかった。恋歌が気にしてしまうほどに己の顔が普段とは違う事にも気付いていなかった。
「ん~とね。悠ちゃんに今度一緒に遊ぼうって言ったんだけど断られちゃった。忙しいんだって」
「そう」
恋歌がその言葉で納得したのかどうかは茜には分からない。だが、それ以上何も聞いてくれなかったことが今の茜には救いだった。
この時、まだ終わっていない事に気付いていたのは恋歌だけだった。さよならを告げられる事なく、悠樹の視野の中にまだ入っていなかった恋歌だけが――――