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Nay’s Diary

2005-08-02 白馬(スマラン)事件

 日本軍による慰安婦の強制連行の証拠としてたびたび持ち出されるのが、この「スマラン事件」ですが、強制連行肯定派、否定派ともにこれを”事実”として議論をしています。

しかし、皆さん、ちょっと頭を冷やして考えてみて下さい。


 この「事件」を裁いたのは、オランダによって開設された「バタヴィア臨時軍法会議」です。第二次世界大戦後の日本軍戦犯裁判は、A級戦犯を裁いた「東京裁判」でさえあの体たらく、ましてやBC級裁判にいたっては何をかいわんや、です。


 さらに、BC級裁判のなかでも、もっとも酷かったのがオランダによるものです。日本人捕虜虐待、誘導尋問、証拠原則の無視、デッチアゲ等はあたりまえ。オランダ本国では賞金つきで証人を募集したり、当時のインドネシアに在住していたオランダ人は証人として名乗り出ることが半強制的に求められたとも(もちろん、これらの証人は、日本側に不利な類の証言をすることを、当然のこととして求められたのでした)。


 ただし、オランダ側からすれば無理もない話かもしれません。なにしろ、東アジアの重要な植民地を日本に奪われ、しかも、終戦後には、インドネシア独立運動(闘争)にかなりの数の日本軍人が参加していましたから。ただ、この運動に参加した日本軍人のなかには、日本人捕虜に対する虐待があまりに酷いので、脱走し、オランダに対する反発から独立運動に参加した者も少なくなかったとのこと。


 こういう情況の中で、裁かれたのが「スマラン事件」なのです。この裁判のいい加減ぶりを、2、3示しましょう。


  • S.I.陸軍大佐;スマランで慰安所が開設された当時、S.I.陸軍大佐は公用のため東京におり、慰安所開設には一切かかわっていないのに、懲役15年の刑を言い渡されている。

  • S.N. 陸軍大尉(軍医);S.N. 陸軍大尉はこの慰安所(「将校倶楽部」)の慰安婦の検梅(花柳病すなわち梅毒の検査)の任にあたっていたのですが、S.N. 陸軍大尉の任務は”検査”のみであって、”治療”には一切責任も権限もなかった。しかも、S.N. 陸軍大尉が検査したなかには梅毒患者は一人もいなかった。しかしながら、後にオランダ人慰安婦の中から梅毒が見つかったので、その責を問われて、16年の刑が言い渡されています。この梅毒にかかった慰安婦は、他所で”商売中”に感染した可能性があるのでは。

  • 陸軍は「将校倶楽部」の開設にあたっては、慰安婦の募集・慰安所の開設を現地人たるスマラン州長官に依頼し、それを受けて州政庁の役人がジャワ島に抑留中のオランダ人女性の中から希望者を募って慰安婦としたものです。実は、日本軍が侵攻する前、オランダ軍相手に売春をしていた女性が少なからずいて、彼女らの一部はそのままジャワに取り残されて抑留されていたのです。抑留者を管理していたのは、もちろん日本軍ですので、募集にあたっては、日本軍司令部の許可を(慰安婦本人のサインと承諾所をえることを条件として)受けています。しかし、この募集に最も重要な役割を果たしたスマラン州長官や役人は、一人として、逮捕されるどころか法廷に証人として呼ばれてさえいません。その理由は、もちろん、オランダ側としては、これら慰安婦は「強制連行」されたものであると一方的に決めつけ、日本人を処罰する目的・必要があったのであり、スマラン州長官や役人に真相を暴路されることを恐れたためでありましょう。裁判とは、名ばかりのものです。

  • オランダ政府は、この事件を扱った裁判の記録を一切公表していません。朝日新聞の記者や吉見氏や桜井氏がみたというのは、オランダ政府による裁判記録の”要約”です。この裁判では、岡田陸軍少佐が死刑になっていますが、もし冤罪であったとすれば、オランダ政府がわざわざそのような証拠を公開するはずなどないでしょう。

 なお、この慰安所が閉鎖されたのは、オランダ人の体臭などが原因で、客足が全く絶え、商売がなりたたなくなり、自然閉鎖されたとのことです。


北の狼ファンクラブ・スマラン事件より引用