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選択式夫婦別姓議論と「日本人の姓/名字」の歴史

[ICON]絵文録ことのは

松永英明提供:絵文録ことのは

夫婦別姓をめぐる違憲訴訟がついに東京地裁に提訴された。

私自身は「選択式夫婦別姓」に賛成である(詳細は別稿にて述べたいが、私はさらに改姓・改名の自由を求める意見を持っており、その過程として選択式夫婦別姓に強く賛成する)。一方で「選択式」であるにも関わらず、同姓でない夫婦が生まれることを「家制度の破壊」であるととらえて反対する人たちも少なくない。

しかし、その家制度は本当に日本の「伝統」なのだろうか。私が調べた限り、そうではない。現在の戸籍制度は明治時代に民法によって作られた新しい制度だ。名前こそ「戸籍」という律令制由来の名称ではあるが、明治以前の「戸籍」の伝統を受け継ぐのではなく、むしろ明治維新後にヨーロッパ大陸法に基づいて徴税や徴兵を目的として作られた、たかだか150年の短い歴史しか持たない新しい制度であって、日本古来の伝統などとは到底呼べない。

ただ、一方でネット上では「明治以前は夫婦別姓だった」という記載も見られるが、こちらも正確ではない。

結論から言うなら、明治以前の日本の制度は「姓氏は出身氏族のものなので一生変わらないが、一家は同名字(兄弟でも分家すれば別名字)」だったのである。氏・姓・名字/苗字はすべて別のものであったが今はそれらがごっちゃになっている、という最低限の知識がそこには必要である。

日本人の「ファミリーネーム」の歴史:氏と姓と名字と苗字



「姓」と「氏」はもともと別のもの

ややこしいことに、今「名字/苗字」と「氏」と「姓」という言葉はほぼ同じ意味で使われているが、もともとはまったく別のものだった。「中国では夫婦別姓だ」というのだが、中国には姓はあっても名字はないから、日本の「夫婦別姓」とは事情が異なる。

もともと、古代から日本人は「氏(うじ)」と「姓(かばね)」を持っていた。氏名(うじめい)というのが本来の氏族名である。たとえば蘇我氏というのは蘇我という氏名(うじめい)を持つ一族だった。同様に物部とか大伴とか中臣とか、時代が下って藤原とか源とか平とか橘というのが氏名にあたる。

一方、姓(かばね)というのは本来はファミリーネームのことではなく、その氏の代表者への尊称から転じて家格あるいは序列のようなものとなった。蘇我氏の場合は「大臣(おおおみ)」が姓名(かばねめい)ということになる。大連、国造、村主などが姓名にあたる。

つまり、蘇我大臣馬子というのは「氏+姓+名」という構造になっていたわけである。

しかし、その後、姓(かばね)は廃れていく。天武天皇の「八種の姓(ヤクサのカバネ)」は姓を八種類にまとめようとした改革であった。その後、律令制が定まったころから姓(かばね)にはほとんど意味がなくなり、姓と氏の境界がなくなって、やがてそれまで「氏名(うじめい)」と言っていたものを「姓名(せいめい)」とも言うようになってしまったのである。少なくとも鎌倉初期には、源平藤橘の四つの「氏」を「四姓」と呼ぶ例がみられる(一方、仏教語としての四姓もあるが、こちらは四つのカーストであって、本来の意味の姓=カバネの意味に近い)。

氏・姓というのは出身氏族のものであるから、夫婦であっても氏・姓が変わることがないのは当たり前といえば当たり前の話である。

「称号」から「名字」の誕生

平安時代、姓氏とは別の名前が貴族の間に生まれた。何しろ、都の貴族と言えばかなりの率で藤原氏である。区別するために、邸宅の地名で呼び合うようになった。これが「称号」であり、建物を表わす「殿」を地名に付けて呼んだ。一条殿、三条殿、堀川殿、山科殿といった具合である。住む場所が変われば称号も変わるのである。

一方、鎌倉時代に入るころに状況が変わる。それまで母系制だったのが父系制となって一箇所に定住することになり、称号も世襲されるようになった。摂関家の場合、近衛殿、鷹司殿、九条殿、二条殿、一条殿という五つの屋敷の相続者たちが五摂家となった。こうして称号が世襲されたものが「名字」である。
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松永英明

文士・事物起源探究家による探究・意見。

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