調査報告書V(H12.7.31.作成)
        「電気事業の創始から公益事業体制の確立-九電力会社の誕生まで-」

1,我が国電気事業の創始

1-1 東京電燈の創立
 東京電燈は、我が国初の電気事業者である。明治16年(1883年)2月15日会社設立許可を取得、明治19年(1886年)7月5日に開業、翌明治20年(1887年)11月東京・日本橋の発電所から送電を開始した。世界最初の電灯の一般供給事業が、米国ニュ−ヨ−ク市パ−ル街に開業した1882年(明治15年)から僅か5年後に、我が国の首都東京市でも電灯が点灯されたのである。以来、東京電燈は幾多の障害を克服し発展をつづけたが、昭和13年(1938年)「電力国家管理法」の施行によって解散するまで、我が国電気事業推進の指導的地位を占めていた。

 我が国電気事業の始まり、すなわち東京電燈創業の発端は、工部大学校(東京大学工学部の前身)通信科の学生であった藤岡市助が、英国人教師エルトンの薫陶を受け、在学中から電灯の研究に従事し、卒業後も同校において電気工学の講義と実験を行っていたが、欧米の電灯の事業化情勢にも興味深く注目し「我が国においても電灯は国民の灯火とすべきである」という感想を抱き、電灯の事業化について関係者に提唱し協力を求めたことからである。
 この藤岡の提唱に、東京貯蔵銀行頭取の矢嶋作次郎が理解を示し、電気事業の将来性を認め、しかも欧州情勢を調査するなどして、大倉喜八郎、原六郎、三野村利助、柏村信、蜂須賀茂韶らと諮り、この6人が発起人となって明治15年(1883年)3月18日「東京電燈創立願書」を、東京府知事を通して山田顕義内務郷に提出した。

 この東京電燈の創立計画と同じ頃、大倉組幹部・横山孫一郎と大倉喜八郎は、米国ブラッシュ社の技師ポッタ−の指導とすすめによって、東京市内への電灯供給を目的とする、日本電燈会社の創立計画を進めていた。この両者の計画は資金的にも技術的にも重複する点が多く、結局、両者は合同することになり、明治15年(1883年)7月、東京・銀座の大倉組事務所に仮事務所を設け、発起人として前記6名に益田孝、横山孫一郎、喜谷市郎右ェ門の3名を加えた計9名の発起人により、資本金20万円の東京電燈会社の設立願書を改めて東京府知事に提出した。

 東京電燈の「東京電燈会社創立願」と日本電燈の「日本電燈会社設立趣意書」には、電気事業の先覚者たちがどのような意気込みで事業を興そうとしたのかをよく表している。
 前者「創立願」には、灯火としての電燈が石油ランプやガス燈よりも優れていることを強調し、アメリカ、イギリス両国の事情を調査し、装置が軽便で費用も僅少であることから、電燈が日を追うって普及しつつあると述べている。その一端を紹介すると、「一昨年以来、欧米に於て電気燈の進歩は実に驚くべきものにて僅々に年を出でざるに海港、公園、官省、市街、寺院、学校、博物館、旅館、集会堂、音楽堂、商店、鉄道……争て之を使用するに至れり。因って我輩有志者相謀り、先ず資本金弐拾万円を以て一の電燈会社を設け試に東京府下の一部より着手し漸次京坂其他の各地に及ぼさんと欲す。
 果して其功を奏するに至らば、我国永く不夜の楽土となり崔符姦究(すいふかんき)の迹絶へて警察の務甚だ簡に百般の職業皆労費を減じて営業資本と生産を増益し輸入物の巨擘たる石油は復た給を仰がずして千百万金を外に省き火災其数を減じて許多の家屋と人命を内に救ふ。富国の計豈に此より愈る(まさる)ものあらんや……」と、述べている。

 その構想は極めて大きく、経済、社会の発展に寄与し、富国の計として勝るものなしと、その自負心の強いことを知ることができる。こうして、明治16年(1884年)2月15日、東京府知事名により東京電燈会社設立が許可され、我が国最初の電気事業者の誕生となった。これは英国や米国の電気事業の開始に比べて、僅か2年の遅れにすぎなかった。設立許可を得た東京電燈は、社長に矢嶋作郎を推し、当時、工部大学校助教授であった藤岡市助を技術顧問に迎えた。当初の重役は矢嶋社長のほか、原六郎、柏村信、大倉喜八郎であった。電灯の需要先としては、市街地、公園、官庁、寺院、学校、劇場、駅など公共的な場所や工場、鉱山など、生産現場に重点をおいて考えられている。

 これを後者の「設立趣意書」によると、「千戸の職工徒に長夜の夢を結び万街の商売頻りに闇路に彷徨するは誠に代の一大欠点と謂ふべし、然るに今や電気を利用して至善至便の光線を作為し以て此暗夜を白昼たらしむるの運に達せるは、真に千歳の一時歓喜に堪へざる所なり」と述べている。

 東京電燈はこの「設立趣意書」を順守し、設立から開業に至るまで、横須賀造船所、村田銃製造所、千住製絨所、内閣官報印刷場などの官営工場への発電機据え付け工事を行った。また、電灯需要者喚起のためには、宣伝用移動式発電機を用いて、前述の東京銀行集会所開業式での点灯をはじめ、各所で臨時点灯を行うなど宣伝に努めた。しかし、電灯事業は当時としては漸新的なものであったから、世間一般の見方としては事業としての将来性に疑問を抱くものが多かった。また、当時の経済情勢に松方デフレの影響もあって、株式募集は容易ではなかった。株式については 500株、うち5万円分を発起人が持ち、残りを募集した。募集に当ってはこの情勢下苦慮したが、熱心に説明勧誘した結果、賛同者も次第に増加し、明治19年(1886年)5月には株式引受けは完了した。 これを以って、東京電燈は銀座の大倉組内の仮事務所を撤収し、東京市京橋区富島町4番地に事務所を設置して、明治19年(1886年)7月5日開業した。開業に際して事務所内と屋上に白熱灯およびアーク灯を点灯し、東京府知事や各界の名士を招いて電灯の効用の説明と、東京電燈設立の目的が、これらの電灯を一般社会へ供給することを使命としている旨を説明し、披露した。

1-2 東京電燈初期の事業活動

(1)開業当初の営業活動
 開業当初の営業活動は、移動式の発電機を用いて臨時灯を供給すること、及び東京、京阪神、名古屋などの各地で、自家用や電燈会社の発電機の設置工事の請負いが主なものであった。まず、臨時灯供給について主なものを挙げると、明治20年(1887年)1月、当時の社交場鹿鳴館に白熱灯の点灯を行った。これが営業用として最初の供給であった。これが手始めとなって、同年中に宇都宮製糸場、栃木小学校へア−ク灯を、また、東京牛込揚場町の榛原商店へア−ク灯と白熱灯を点灯、さらに、伊藤首相官邸の仮装舞踏会の照明と井上外相私邸で行われた団十郎の展覧演技の舞台照明などに、ア−ク灯と白熱灯をそれぞれ点灯した。また翌年、明治21年(1888年)5月には、陸軍省ご用として靖国神社にア−ク灯を点灯した。

 次に、自家用の電灯請負工事としては、明治19年(1886年)9月大阪紡績会社三軒家工場に25kWのエジソン式直流発電機を据え付けて試験点灯に成功した。つづいて陸軍士官学校、大津麻糸紡績、日本綿繰、浪花紡績、天満紡績、尾張紡績、八幡紡績などの自家用電灯工事を次々と完成させ、開業当初の営業活動のほとんどは全国に及んだ。
 さらに、同社は関西地方(京阪神)の実業家を勧誘して電燈会社の企業化を推進した。神戸、京都においては、矢嶋社長の尽力によって電燈会社が設立され、これらに対してエジソン式直流発電機据え付け工事を行うなど、我が国電気事業の草分けとして指導的役割を果したのである。

(2)電燈局の設置と電灯需要の増加
 白熱灯を東京市内に一般供給するため、明治19年(1886年)末から東京市内5ヶ所に火力発電所の建設を始めた。電源開発の第一歩というべきものであろう。当時、発電所を電灯局と呼称し、そのまま発電所と呼称するようになったのは、明治25年(1982年)以降である。5ヶ所の電灯局というのは、第一電灯局は麹町区麹町、第二電灯局は日本橋南茅場町、第三電灯局は京橋区新肴町、第四電灯局は神田区錦町、第五電灯局は浅草区千束町であった。また、明治20年(1887年)1月、「電気灯営業仮規則」を制定し、官庁の許可を得るなど、着々電灯供給体制は整えられていった。この間、電灯需要の申し込みが増加し、これに応ずるために電灯局の建設を速め、予定を変更して明治20年(1887年)11月、第二電灯局に発電機を仮据え付けをし当面の電灯需要増加に対応した。
 この第二電灯局は、直立汽缶、30馬力の横置汽機、25kWエジソン式直流発電機1台を運転し、電圧210V直流三線式の架空電線により付近の日本郵船会社、今村銀行、東京郵便局などへの屋内、屋外の一般供給を開始した。これが我が国初の架空配電線による電気供給であった。次に、第一電灯局が明治21年(1888年)6月に完成、7月から文部大臣官邸をはじめ、市街の一般需要者へ供給を開始した。つづいて第五電灯局が同年10月に、第三電灯局が同年12月、第四電灯局が明治23年(1890年)にそれぞれ完成した。また、電灯局建設と並行して、明治19年(1886年)12月新たな皇居造営に伴う電灯設置工事の用命を受け、東京電燈は直ちに外人技師を雇い入れ、麹町の第一電灯局を一層整備するなど電灯供給を万全なものとし、明治22年(1889年)1月から点灯を開始した。もう一つは、この一年前の明治21年(1888年)1月から宮城外の桜田、馬場先、和田倉三見付内および半蔵門から竹橋に至る道に常夜灯の点灯を開始した。

 このように電灯需要は日増しに増大し、第二電灯局開設の明治20年頃は、僅か 138灯に過ぎなかった電灯需要は、明治23年(1890年)には5、565 灯、翌明治24年(1891年)には1万灯を突破したのである。

(3)初の動力需要
 電力としての需要の始まりは、明治23年(1890年)11月、東京・浅草に建設された12階建ての凌雲閣のエレべ−タ運転用電力として、7馬力電動機に供給したのが初めてであるが、間もなく当局からエレベ−タは危険であるとの理由から運転中止を命ぜられた。次いで明治25年(1892年)には朝日新聞社へ 7、5馬力、都新聞と東京新報の2社へは3馬力の電動機をそれぞれ納入し、同時に電力の供給も開始している。

(4)浅草発電所の建設
 東京電燈の開業直後は、低圧直流式の発電機を用いた市内各所の電灯局から、それぞれその周辺の需要家に直接供給する方式をとり、その後の需要家の増加に応じて発電設備の増設、高圧交流式の採用(明治24年下期から)などをもって対応していた。しかし電灯局が人口密度の高い市街地の中心に位置しているため、排煙の問題が発生するなど、しだいに発電設備の増設は困難な情勢となったのである。
 この頃、技術面においては画期的な200kW大容量発電機の実用化の見通しが得られていた。こうした発電技術の進歩から同社は、従来の供給方式を一新することとし、市内各地の発電所(電灯局)を一箇所に集中することを目論み、浅草区南元町に高圧交流式の大規模な火力発電所を建設し、各配電所を経て需要家へ供給することとした。
 この浅草発電所の建設は、明治26年(1893年)に着手した。一期工事は明治29年(1896年)12月に完成、二期工事も明治30年(1897年)下期には完成し、発電所は竣工した。この完成により、従来の電灯局を配電所(現在の変電所)に改めた。
 完成した浅草発電所には、石川島造船所製作の単相交流式発電機( 2,000V、出力200kW)4台とドイツのアルゲマイネ社製作の三相交流式発電機( 3,000V、出力 265kW)6台が設置された。この中、前者は我が国大容量発電機の先駆けと称され、しかも米国でさえも 100kW以上の発電機製作は難しいといわれていた頃であり、この出力 200kWの単相交流式発電機は大いに注目された。
 浅草発電所の発生電力は、高圧交流で配電所へ送電し、需要家へ直流配電する方式と、配電所を経由せず、直接 3,000V交流で配電する方式が同時に実施された。この新しいこの配電方式の導入により、同社は従来の局地供給から、地域的に広がりをもつ面的な供給を行うことが可能となった。

東の50Hz(サイクル)と西の60Hz(サイクル)の始まり 
 当時、発電機の周波数は各種のものが存在していたが、この浅草発電所で採用したアルゲマイネ社製の発電機が50Hzであったため、その後、同発電所への系統連絡の必要から東京電燈の供給区域では、50Hzが広く使われるようになり、昭和期に入って東日本の標準周波数として50Hzが採用された。また、西日本では大阪電燈が米国のゼネラル・エレクトリック社製の60Hz発電機を採用したことから、京阪神地域を中心に60Hzが普及し、これがこの方面の標準周波数となり今日に及んでいる。

1-3 各地における電気事業の勃興
 東京電燈開業後の明治20年代(1887年〜1896年)の前半は、同社の事業発展に刺激されて、東京、横浜、京都、大阪、名古屋などの大都市を中心に電気事業が勃興した。さらに電気の効用の認識が深まるとともに、日清戦争(明治27・8年)後の好景気に伴って、年を追うごとに各地に電気事業が興っている。こうして、明治29年(1896年)末頃の全国の電気事業者数は、火力を電源とするもの23、水力を電源とするもの7、水力火力併用のもの3を数えるに至っている。この時期が我が国の電気事業の創始期であり、電源は火力が主体となっていた。なお、水力については、自家用事業者として明治23年(1890年)に栃木県下の下野麻紡績所および足尾銅山が小規模ながら発電を行ったのが最初であるといわれている。

 次に、東京電燈創業に続く関東地方、そして我が国の電気事業史を東京電燈とともに飾った関西地方(京阪神)及び名古屋地方などの電気事業の勃興と普及状況などを概観する。

(1)東京電燈に続く関東地方の電気事業者
 品川電燈:明治23年(1890年)4月開業、本社・東京市芝区高輪、供給区域は芝、赤 羽以南、 500灯用交流発電機2台設置、資本金20万円。
 深川電燈:明治23年(1890年)12月開業、本社・東京市深川区木場町、供給地域は江 東方面、 650灯用交流発電機1台設置、資本金15万円。
 帝国電燈:明治24年(1891年)7月開業、本社・東京市麻布区笄町、供給区域は麻布 地区、 500灯用交流発電機1台等設置、資本金13万500 円。同社は明治29年(1896年) に品川電燈に買収された
 なお、東京市ではこの他に明治20年代初め、日本橋、本所方面を供給区域とする日本電燈(資本金25万円)の開業準備が進められたが、東京電燈との間に競争を惹起するおそれがあったため、東京府知事の斡旋により、昭和23年(1890年)1月東京電燈に合併された
 横浜共同電燈:明治23年(1890年)10月開業、本社・横浜市常磐町、供給区域は横浜 市関内および外国人居留地、エジソン式直流発電機設置、資本金30万円。その後、同社は伏島泰次郎などの発起で設立された横浜電燈を吸収合併し、営業区域を横浜市全域ま でに拡大した。また、横浜共同電燈の設立許可の後に、英国人サミュル・コッキングが 横浜市の外国人居住地一帯に電灯供給の許可を得て開業した、コッキング発電所を明治29年(1896年)に買収した。

 これら4電燈会社のほか、明治20年代後半には、関東各地に小規模な水力発電会社が次々に設立されている。まず、明治25年(1892年)6月、箱根湯本の箱根電燈所が従来の水車場を利用して出力20kWの発電を行い、湯本への一般供給を開始した。次いで、明治26年(1893年)10月、日光電力会社が大谷川に出力30kWの日光発電所を竣工し、日光町へ電灯供給を開始した続いて明治27年(1894年)5月には、群馬県において前橋電燈会社が用水路を利用して出力50kWの植野発電所を竣工し、前橋市内に電灯供給を開始した。これと同じ時期に、桐生町にあった日本織物会社が、出力50kWの自家用水力発電所の余剰電力を同町へ電灯供給するため、桐生電燈を設立した。また、明治28年(1895年)4月には八王子電燈が設立され、当初は水力発電であったが、明治32年1月から火力発電により電灯供給を行っている。さらに、火力発電では明治29年(1896年)5月、神奈川電燈が開業し、横浜市周辺部への電灯供給を行っている。

(2)関西(京阪神)・名古屋地域の電気事業の始まり
 関西の主要都市においても、電気事業は次々と創設された。
 明治21年(1888年)9月に、東京電燈につぐ我が国第二番目の電燈会社である神戸電燈が発足、つづいて翌明治22年(1889年)5月と7月に大阪電燈京都電燈、明治24年(1891年)11月京都市営電気事業(水力発電)、そして明治27年(1894年)には堺電燈奈良電燈、さらに、明治30年(1897年)に和歌山電燈、明治31年(1898年)には姫路電燈がそれぞれ設立され、電燈供給を開始している。なお、これら開業した電気事業のうち、堺電燈は明治37年(1904年)大阪電燈に買収され、また、奈良電燈は明治38年(1905年)に関西水力電気(後の東邦電力)に合併、和歌山電燈も同年和歌山水力電気に合併された。さらに、姫路電燈も明治40年(1907年)姫路水力電気と合併している。これらの中、京阪神地域の基幹的な4電燈会社創業の経緯についてみることにする。

神戸電燈会社
 東京電燈の矢嶋作郎社長の勧めにより、佐畑信之、池田貫兵衛らを中心にして明治20年(1887年)10月設立された。資本金10万円、佐畑信之が社長に就任した。翌明治21年(1888年)1月営業許可を受け、神戸市栄町にエジソン第8号型2台、同10号型2台(白熱灯16燭光 400灯用)計4台の発電機を設置して営業を開始した。同年9月10日に湊川神社社頭と相生橋の袂に初めて点灯したのを始まりとして、神戸市への一般供給を開始した。
 明治21年(1888年)末には、点灯数 642灯であったが日清戦争後は需要が増進し、明治33年(1900年)4月、1万灯記念祝賀会を開くまでになった。また明治35年(1902年)には、須磨村(現在の須磨区)に送電開始するなど営業区域も拡がり、明治41年(1908年)末には需要灯数4万灯に達している。さらに、明治39年(1906年)からは電力の供給をも開始し、同年末には電動機22台、馬力数72、5馬力の契約を受け、以後は、神戸方面の商工業の発展に反映して順調に需要は伸展したのである。

大阪電燈会社
 神戸電燈に次いで関西地方では、第二番目に設立された電燈会社である。鴻池善右衛門住友吉左衞門をはじめ、大阪の財界人20名が発起人となり、資本金40万円の「大阪電燈会社設立願」を明治20年(1887年)11月大阪府知事に提出した。同年12月に設立認可を得て翌明治21年(1888年)設立した。社長には土居通夫が就任した。すでに東京電燈は営業開始しており、この事実から電燈事業の将来性も認められるようになっていたから、資金の調達も順調に進んだのである。技師長には、工部大学を藤岡市助の1年後に卒業した岩垂邦彦を招いた。当時、岩垂は工部省を辞して渡米し、エジソン電気会社で実地修業中であったが、技師長就任を受けるとともに大阪電燈が採用すべき発電機として、トムソン・ハウストン電気会社製の単相交流発電機(1,150 V)が優れていることを報告、推薦してきた。当時、米国においてエジソン社製直流低圧発電方式とウエスチング社製交流高圧(1000V)発電方式との間で優劣が争われ、また、我が国においても直流、交流論争が行われていた。大阪電燈は岩垂の推薦もあり、交流高圧の利点に着目し、我が国で最初の交流高圧の採用となったのである。大阪電燈はその岩垂推薦の交流発電機を採用すると同時に、トムソン・ハウストン電気会社のゴッダ−トを技師として雇用し、西道頓堀に発電所を建設して発電機の据付けを行わせた。

 西道頓堀発電所は、米国のトムソン・ハウストン社製 500灯用交流発電機(1,150V)1台およびア−ク灯用発電機(同社製、30灯用)1台を設置し、我が国初の交流高圧式発電所として明治22年(1889年)5月に竣工、大阪電燈は営業を開始した。西道頓堀発電所の運転開始により、大阪の街の一部に初めて電灯が点灯されたのである当時の大阪市民はただ驚きの眼で見るだけで、最初の電灯申し込みは、僅か 150灯にすぎなかった。そこで同社は極力勧誘に努め、同5月末には、346灯に増加させたが、まことにささやかな営業開始であった。
 大阪電燈営業開始当初の様相について「大阪電燈会社沿革史」には、次のように記されている。
 「蓋当時に於ては一般社会の生活程度頗る低く、加之電気に関する観念も亦乏しかりし故に、之を使用するは一種の贅沢と看做され、使用範囲は僅かに一部の階級に限られたり是を以て会社は電燈の効用を普遍的たらしめんが為、社長を始め社員一同、或は縁辺知己を辿り、或は大家富豪を歴訪して、電燈の使益を説明し、勧誘大いに勤め其他宣伝の方法として会社の門前に玻璃瓶を懸け水を盛り、之に錦魚を入れ、水中に電燈を点火して衆人の注目を曳き、以て電燈の安全軽便なるを示し、又は技師長自ら千日前、道頓堀、松島等の如き熱鬧の地に出張し、大道に於て蓄電池を用いて、一般公衆に電気点灯の知識を普及する等今日より見れば殆んど児戯に類する如き、具さに辛酸を嘗めたりき」と、記している。当時大阪における電灯使用の勧誘の難しさと、電灯効用の宣伝に、全社あげて如何に辛苦の労を費やしたかを知ることができる。

京都電燈会社
 明治21年(1888年)4月設立、翌明治22年(1889年)7月に開業した。我が国で第四番目に開業した電燈会社である。京都電燈の設立については、明治20年(1887年)秋、東京電燈社長・矢嶋作郎と神戸電燈社長・佐畑信之が同道して上洛し、当時京都財界の指導者として琵琶湖疎水建設の常務員の任にあった中村栄助、大沢善助、竹村弥兵衛らに会い電燈会社設立の必要性を熱心に説いたことに始まる。その後、京都府知事北垣国道の尽力もあって、明治20年(1887年)10月、発起人11人により「京都電燈会社設立願書」を京都府知事に提出、翌月の11月1日 京都府知事の承認を得て創立委員を選任し、創立事務所を開設した。株式募集については「京都電燈会社50年史」に見られるように、「本事業は経営の区域と密接なる関係ある故、できる限り京都市民の出費を以て会社の成立を期せられたい」との京都府の意向に沿って、区長、戸長などに集会を乞い、電燈の効用を説いて町の共有金による株式応募を熱心に勧誘したところ1千株に対して2千88株に及ぶ申し込みがあるなど、その結果、各町組総代が多数株主となった。
 こうして明治21年(1888年)4月、創立総会を開き、資本金10万円、社長に田中源太郎常任監査役に西村七三郎、役員に古川為三郎、中村栄助、竹村弥兵衛が選任されて、京都電燈は正式に発足した。以来、京都電燈は、東の東京電燈と並んで昭和17年(1942年)の配電統制令による配電国家管理まで存続した会社としては、関西では唯一の電燈会社である。京都電燈の最初の発電所は、石炭の運搬に便利でかつ配電に都合のよい、京都市内の中心に当たる、備前前島町の旧土佐屋敷の跡の官有地の払い下げを受けて、建設することになった。技師長には、当時、東京帝国工科大学の学生であった小木虎次郎を雇用した。

 配電方式に関しては、当時、東京電燈採用の直流か、大阪電燈採用の交流かの直交論争の最中であったので、京都電燈では発電機の選択には慎重な検討を重ねた結果、エジソン社製、16燭光 400灯用電圧 110V直流発電機2台を東京電燈の請負工事により、汽罐、発電機の据付けを終えて明治22年(1889年)7月に開業した。その後、明治26年(1893年)に京都疎水利用の水力発電を利用できるようになったのを機に、同社もまた高圧交流方式に切り替えた。開業当初の需要家は、中村楼、鳥居本、一力といった料亭が多く、供給区域は先斗町、四条通は東は八坂神社南門から西は室町まで、寺町通は御池五条間、新京極、五条通は寺町柳馬場間という狭い範囲で需要数は 234灯を数えるのみであった。開業後はしだいに需要が増え、明治22年(1889年)末には 740灯となって、発電能力一杯となる有様であったが、明治24年(1891年)1月の帝国議会議事堂の火災は漏電によるという、電気の危険説を受けて市民の電灯熱は俄かに醒めたのである。同社はこの危険説の一掃に努めるとともに、需要の喚起を重ねるなど、多くの苦難を乗り越え、その結果、明治27年(1894年)末には 7,318灯を数え、需要は順調に伸び、明治37年(1904年) には2万2,209灯、同41年(1908年)には4万1,346 灯、同44年(1911年)には10万2,971 灯と激増した。また、明治30年(1897年)末から動力用の供給も行うとともに、大津、福井にも支社を置き、大津へは京都疎水の水力電気を4,00Vで送電、福井では足羽川宿布に宿布発電所を設けて、明治32年(1899年)5月から送電を開始した。宿布発電所は北陸地方での最初の水力発電所である。

京都市営・電気
 京都市は、琵琶湖疎水を利用した水力発電所の建設を計画、明治23年(1890年)1月着工、エジソン社製直流発電機( 550V、出力80kW)2台を設置して蹴上発電所の一部竣工により、明治24年(1891年)11月から電灯用のほか、西陣織などの京都織物会社の電力用として供給を開始した。これが我が国で最初の水力発電による一般供給であった。この水力発電の成功をみて、その後、各地に水力発電事業が勃興した。(蹴上発電所建設については後述する)

名古屋地域:名古屋電燈会社
 明治19年(1886年)政府から愛知県に対し勧業資金10万円が貸し下げられた。これを契機に、旧尾張藩の士族などによる電気供給事業設立の動きが急速に高まった。明治20年(1887年)9月会社設立の許可を受けた名古屋電燈は、旧蕃士族代表の三浦恵民、若松甚九郎らを中心に開業準備を進め、名古屋南長島町に本社を置き、同地にエジソン社製直流発電機4台を設置して、明治22年(1889年)12月、名古屋市内への一般供給を開始した。資本金7万8,880 円、社長三浦恵民である。なお、名古屋市を中心とする中部地方には、名古屋電燈のほか、明治27年(1894年)4月開業の豊橋電気と同年7月開業の岐阜電気などがあり、その地元の都市を独占的地盤として電灯供給を行った。

(3) 前記以外各地の開業電燈会社
 関東、京阪神、名古屋地域以外で明治29年(1896年)末までに開業した電燈会社は、次の通りである。
   会社名、       開業年月、   資本金、     社長
○札幌電燈舎    明治24年10月、   5万円、    後藤半七 
○北海道電燈    明治24年11月、   8万円、    岡田昌作 
○函館電燈所    明治29年1月、   12万円、    園田実徳 
○小樽電燈舎    明治28年1月、払込株金5万円、  倉橋大介 
○仙台電燈      明治27年7月、    5万円、    佐藤助五郎
○福島電燈      明治28年11月、   2万5千円、  草野喜右衛門 
○熱海電燈発電所、明治28年10月、   1万5千円、  杉山仲次郎 
○広島電燈      明治27年10月、   6万円、    桐原恒三郎 
○岡山電燈     明治27年5月、    3万円、    香川真一 
○松江電燈     明治28年10月、    3万5千円、  桑原羊次郎 
○馬関電燈     明治29年11月、    6万円、    松尾寅三 
○徳島電燈     明治28年1月、    5万円、    大串龍太郎 
○高松電燈     明治28年11月、    5万円、    塩田時敏 
○熊本電燈     明治24年7月、    7万5千円、  中村才馬 
○長崎電燈     明治26年4月、    4万円、    松田源五郎

(4) 初の水力発電・蹴上発電所
 明治20年代(1887年〜1896年)前半に主要都市に興った電燈事業は、全て石炭を燃料とする火力発電であったが、これと前後するように水力発電の開発も始まった。水力発電の始まりは、自家用からであった。明治21年(1888年)宮城県広瀬川三居沢の宮城紡績会社で電燈の設備をしたのが最初とされている。続いて明治23年(1890年)栃木県の下野麻紡績所、足尾銅山などが自家産業用としての電力および照明に用うるための水力発電所の運転を開始している。この自家用に対して、一般供給を目的として我が国で最初の水力発電を開始したのは、琵琶湖疎水によって発電し、一般配電を行った京都市営の蹴上発電所である。
 琵琶湖疎水を利用して水力発電を行うに至るその発端は、京都の活性化を図るため、琵琶湖の水を京都へ送る疎水路の建設計画にあった。この計画は、湖水を疎水運河の開削によって京都に引き込むというものであった。琵琶湖の大津から京都・大阪間の舟運の便を図ることや、動力源とする水車の利用、さらに京都御所や神社仏閣等の史跡の防火、市中の下水道といった都市用水および農業用水を得ようとする、大規模土木工事であった。

 疎水工事は、明治18年(1885年)に着工、明治23年(1890年)にその一部が完成した。この琵琶湖疎水の技術上の指導に当ったのは、工部大学校(東京大学工学部の前身)土木科を首席で卒業した、田辺朔郎であった。ところで、この疎水路建設計画の当初は、水力発電については全然考えられていなかった。明治21年(1888年)になって、米国西部コロラド山中のアスペン鉱山において、水力発電が開始されたことが伝えられ、田辺朔郎はこれに習って、疎水路の落差利用による水力発電の採用も加えることを提案し、同21年(1888年)10月から3ヶ月間、自ら同地に渡航し、調査を行った。この調査には、当時の京都府議会議員の高木文平も同行している。この田辺らの調査に基づいて、疎水工事に若干の変更を加え、水力発電所を建設することになった。

 水力発電所は、明治23年(1890年)に起工、翌明治24年(1891年)11月に一部竣工し送電を開始した。これが蹴上発電所の始まりである。当初の発電所の規模は、80kWのエジソン式発電機2台であった。また、発電力の需要家は、京都時計製造会社の1馬力、京都織物会社の35馬力、および京都電燈への90馬力にすぎなかった。この後、需要の増加に応じてしだいに発電機が増設され、10年後の明治34年(1901年)末には19台の発電機を備え、各種の用途に供給できる大規模な水力発電所となった。しかし、大規模発電所となったといえども、今日の発電所と比べると、その設備は幼稚なものであった。

 これについて「京都電燈50年史」には、「発電所内の両側に電管各一条を設け、各管に何れも十個の水口直径六吋、長さ六尺のノッヅルを取り付け水車に導き、水車と発電機とは長大な調帯で連絡されて居た。この有効落差百十八尺、使用水量毎秒二百余立方尺で合計約二千馬力の電力が発生出来たが、勿論自動調整装置はなかったので並列運転が絶対に出来なかったのである。従って十九台の発電機の発電力を一台ずつ独立の送電線によって送電して居た。然も発生電力は直流と交流とあって、直流は五百ヴォルト交流は一千ヴォルトのものもあれば二千ヴォルトのものもあり、又其の周波数も五十、六十、百二十五、百三十三等と異なったものがあつて、其を受ける方の当社(京都電燈会社)では割当てられた各発電機の発電力に適応するよう配電線の負荷をを絶えず調節せねばならぬという不便至極なものであった。其の為、受電力を 100%使用出来なかったばかりでなく、発電装置が上記の如く不完全であったので、故障が続出したのみならず、水量不足の場合は発電力の減退で電圧が降下し、又降雨が続いて琵琶湖の水量が増加すると閘門密閉のため停水され、已むなく停電する等、随分不完全な配電をせねばならぬことが度々あった」と、記述されている。
 京都電燈は、明治25年(1892年)12月よりこの水力電気の受電を開始し、電燈用として一般に配電した。これまでの火力発電を廃して、もっぱら水力電気を利用することになったのである。蹴上発電所は、今日、近代的装備を施した水力発電所に変身し、現在の関西電力京都支店管内の発電所として、日夜、京都市内へ送電している。

参考資料
1)「電気事業の今後の展望」慶應義塾大学SFC 財団法人経済広報センター寄付講座
            http://web.sfc.keio.ac.jp/~tama/kiseikanwa/6-2.html
2)関西地方電気事業百年史 関西電力 1987
3)「電気の歴史」 電気事業連合会   http://www.fepc.or.jp/history.html