かこの鑑賞日記2001年2月1日〜2月28日
1月6日〜1月31日
2月1日「利子ー!」
ワイドショーを見る。何でも来年のNHK大河ドラマのキャストが決まったようだ。松嶋菜々子・唐沢寿明・反町隆史・酒井法子・竹野内豊・天海祐希・加藤雅也・高嶋政宏…ってホント!新聞にも書いてあったように、民放で好視聴率を弾き出した連ドラに出ている人ばっかりだ。どうせなら、高嶋政宏さんじゃなくて政伸さんが出て、ついでに上川隆也さんも出ちゃえば、松嶋さんを囲む陣営としては完璧だったのにな。なーんて、思った私はドラマフリーク?あと、松嶋菜々子さんの歴史を語る上で忘れちゃいけない、とんねるずも出演させてっと。
それにしても松嶋反町のビックカップル共演という話題ばかりが先行しているけど、本当は利家を演じる唐沢さんが主役のはず。だって『利家とまつ』っていう番組なんだから。ところで、この『利家とまつ』っていうタイトル。『トミーとマツ』(無論、噂の刑事のこと)みたいで何か可笑しい。「とみこー!」ってマツが叫べば弱々しかったトミーが変わって強くなったように、「利子ー!」ってまつが叫んで歴史を変えちゃえ!!

なんのこっちゃ?

2月2日ひとつの番組が壊れる時
『ウリナリ!』(NTV)を見る。単刀直入に書こう。この番組がつまらない。以前から悪い方向に進み始めているなと思ったのが、ここにきて決定的になったような気がする。つまらなくなってしまった原因は何なのか、私ナリに考えてみたら、それは多分、一番なくしてはいけない部分をなくしてしまったからだという結論に至った。例によって話は逸れるが、例えば政治家。早く手を付けて変えるべき、1日も早い改革が叫ばれるべき部分を変えないで、しなくてもいいようなことをして国民の反感をかっているような。例えば世の中の出来事を見てみても、変えない方がいいのに変わって生き難くなっちゃうような。例えば「私たちが住みよい町にするにはどうしたらいいか?」を月に一度話し合わなきゃならないような状況が逆に負担になって住み難くなっちゃうような。つまりは、無理に今あるものを変えない方がいい状況を保っていられるってことが、世の中にはたくさんあるということなのだ。もちろん変えるべきことは一刻も早く変えるべきだとは思う。でも、今回私が言いたいのは、無論それを踏まえた上での、それでも変えないことの大切さなのだ。お間違えなく。
さて『ウリナリ!』の話に戻ろう。いちばん最初にあれっ?ヤバイな!と思ったのは、レギュラーが無駄に増え始めてきたときだったと思う。別にレギュラーが増えることには問題はない。でもそれによって古くからいるレギュラーが半ば邪険にされ始めたので、これはヤバイぞ!と思うようになった。案の定、それから番組は急速につまらなくなった。それを象徴するかのように、視聴率も落ち始めた。私だけではない、つまらなく感じている視聴者は確実に増えているということなのだ。そして私自身も何時の間にか1週見逃しても平気になっていたし、見られないときビデオに撮ろうとも思わなくなっていた。そして今現在はザッピング程度にしか見なくなってしまった。そして、先週ついに『ウリナリ!』は壊れてしまった。どうしてそう思ったって…?

来週につづく

2月3日とあるひとつのコントの功罪
『爆笑オンエアバトル』(NHK)を見る。静岡ではこの番組の再放送を土曜日の夕方5時30分からやっている。(大相撲シーズンと臨時ニュースが入った場合は除く)面白いネタをもう一度見ることの出来るチャンスがあるから嬉しい。TV雑誌を見る限りでは首都圏は未放送のようなので、再放送をしているのは静岡というか東海地区だけなのだろうか?あなたの地区はどう?沖縄とか北海道とかやってるのかな?
そんな訳で、今日の夕方先週分のネタをもう一度見ることが出来た。最高キロバトルの陣内智則くん。相変わらず最高!3月末のチャンピオン大会には確実に出るだろうし、出たら台風の目になること間違いなしだね。でも、こういう良いネタをする芸人さんが人気が出ると、本人をTVで見る機会は増えるけど、ネタを見られなくなるからそれが凄く残念だ。爆笑問題しかり…。はて陣内くんの行く末は如何に?
先週放送分を見ていて、改めて残念だと思ったのが、怪人社がオンエアにならなかったことだ。怪人社。その名も怪人社(事務所)に所属するIKKANと荒川禁止の二人組の芸人さんで同事務所には、かの鉄拳やちむりん(女の子二人組)もいる、私自身今大注目の事務所だ。怪人社のネタに初めてお目にかかったのも、この番組だった。その時のネタがまた鮮烈で、今でも忘れられずに覚えている。芸人のネタをバラすのは申し訳ないけど、類稀なるセンスを持つ芸人さんのネタの面白さをあなたにも伝えておきたいので、ほんの少しだけ。
砂漠にふたりがいて、飲み水がないけど喉が渇いているという設定。ひとりが「広末(涼子)の汗飲める?」と言い、もうひとりが「飲める」と即答する。その後も、芸能人の名前を挙げて汗が飲めるか飲めないかの問答が続き、「吉田美和は?」と続くのだ。そう聞くと、もうひとりがしばらく間を置いてから「飲めない。」と答える。今まで挙げた人は全部飲めるのに、吉田美和さんのは飲めない。でも、その後の「キムタクは?」は間髪入れずに「飲める」と答えるので、そこで会場のお客さんから笑いがくるのだ。聞きようによっては大変失礼なネタであることには変わりないのに、間の取り方と、その微妙な人選と、見ている人にほんの一瞬でも「その気持ち分かる!」と思わせてしまうあたりは大変巧妙で、この番組史上最高傑作に近いネタであると私自身は思っている。そんな怪人社のネタが見られなかったのは、本当に残念だったと思う。
そういやこの怪人社のネタ。私の中では未だに尾を引いていて、あれから吉田美和さんを見たり、ドリカムの歌を聴いたりすると、どこからともなく「汗飲める?」と尋ねる声がして、しばらくして「飲めない!」と答える声まで聞こえるので少々複雑な気分だ。嗚呼!ドリカムの歌好きだったのになあ。もう台無し。いい歌聴いても全部「汗」になっちゃ、もうどうにもならん!しかもその汗飲めないんだし。さあこれを読んだが運の尽き。あなたも今日からドリカム聴いたら汗を思い出すこと間違いなし。なんだかパブロフの犬みたい。

ところで…吉田美和の汗。飲める?

2月4日大相撲力士の豆まき情報を見るはずが…
昨日は節分。大相撲力士の豆まき情報を知りたくてTVを見ていたら、またもや遭遇してしまった。という訳なので、今年も書くぜ!「21世紀の石原裕次郎」!!
昨年末、彗星の如く現れて飽きもせず何度も何度も登場した話題のひとつが、この「21世紀の石原裕次郎」だろう。私が何故にこの話題にこんなにもそそられるのか考えたところ、整い過ぎているが故の可笑しさがあるからなのだという一応の結論に達した。つまりどういうことなのかと言えば、「21世紀の石原裕次郎」はそれだけでもう大きなブランドだ。極端なことを言えば、ほんのわずかの乱れさえも許されないような感じがある。あまり他人と比較するのもどうかとは思うが、例えば木村拓哉さんだったら、もしも何かの弾みで公の場でパンツが見えてしまうというアクシデントがあったとしても、特に本人のダメージに繋がる訳ではないように思うし、ダメージになるどころか逆に履いていたパンツが人気を博すような気さえしている。それが「21世紀の石原裕次郎」だとどうだろうか。公の場でパンツが見えるというアクシデントに見舞われた場合、履いていたパンツが人気を博すどころか、そんなアクシデントがあったことさえ封じられ報道することを禁じられるのではないだろうか。世間的には同じ「いい男」という括りでも、これは大きく違うことを意味している。不謹慎にも、このふたりのどちらが本当にこういうアクシデントに見舞われたら可笑しいかということを想像してみよう。ぜひあなたも一緒に想像して欲しい。どうだろうか。思いは私と同じだろうか。うん。きっと同じだと思う。だとしたら何故そちらの方か可笑しいのか考えてみて欲しい。そうしてみると、きっと何か見えてくるはずだ。
「21世紀の石原裕次郎」がびしっとスーツ姿できめてTVに出演すればするほど、この可笑しさ度は確実に増していく。彼らのまわりを、石原プロの先輩俳優さんが仰々しく取り囲めば取り囲むほど、またもや可笑しさは増していく。時代はより自然体を求め、自然体に装う姿が逆に不自然に見えたとしても、自然体でいることが重要視される昨今、「21世紀の石原裕次郎」は確実に時代に逆行しているような気がしてならない。
2000年1月1日にデビューしたドリームという女の子3人組のユニット(歌手)が昨年地味に話題になった。別にそれに習った訳ではないけれど、「21世紀の石原裕次郎」グランプリの徳重くんこそ、その名の如く2001年1月1日に華々しくデビューすべきだったのだ。そしてより裕次郎さんの存在に近づくためにも人々の記憶から薄れ掛けている存在を大きくする必要があったのだ。2001年。21世紀に話題になるのが、石原プロ恒例の豆まきじゃ、20世紀までと何にも変わらないし地味だって!しかも中央で豆まきしていたのは、期待の徳重くんじゃなくって、館ひろしさんだったし。ま、峰竜太さんよりかはまだ様になる?って、そういう問題じゃないって!!
時代に逆行している「21世紀の石原裕次郎」が、裕次郎さんもビックリするくらい人気が出るためには、時代に沿った体勢を石原プロが作るか、時代の流れ自体をそっくり変えなければならない。「21世紀の石原裕次郎」にパンツが見えるアクシデントが発生しても、決してたじろがず逆手にとってPR出来るくらいの。
とまあ、なんだかんだ言ってもこの先もし、キムタクと徳重くんのどちらに会えたら嬉しいかといえば、私は迷わず「徳重くん」って答えるし、握手なんかして貰っちゃったら嬉しいんだろうな。そしてまたこの日記の中で登場させるの。結局、こうやって取り上げるってことは、この話題が大好きだという紛れもない証拠なんだよね。不思議なことに取り上げると自然と愛着も湧いてくるしね。嫌いじゃ取り上げて論じる気も起こらないってーの。
全然関係ないけど、昨年末、近年稀に見る名作クイズ番組『クイズダービー』(TBS)がたった一度だけ復活したとき(昨年末残念ながらお蔵入りしてしまった番組のひとつ。書けなくて残念でした。)「この番組の司会者がもし徳重くんだったら…」と想像したら妙に可笑しかったんだっけ!キムタクを想像して見ても可笑しくもなんともないのに…。変だね。そう考えると、「21世紀の石原裕次郎」は、私が思うよりもの凄いブランドなのかもしれない。無論ブランドの意味は深く広いが。でも、この事実はきっと、真面目に明日のスターを目指して頑張っている「21世紀の石原裕次郎」たちは気が付いていないんだろうなあ。

…で、結局、こんなことを考えていたら私が一番見たくて知りたかった、大相撲の豆まき情報は見られませんでしたとさ。あっちゃー。

2月5日「顔」で知る心の中
新聞のラテ欄を見る。鑑賞日記を書いているとき、「自分はどんな顔をしてこの日記を書いているのだろう?」と気になってそのままの状態で、鏡の前にいき、自分の顔をまじまじと見たことがある。特にどんなときにやるかといえば、話題に煮詰まった時や、書きながら妙に可笑しくなった時などだが、一番多いのは嫌なことを書き始めている自分に気がついた時だ。書きながら感情的になり過ぎている自分に気がついたら、そのままの状態で鏡の前に向かい、今私はどんな顔して書いているのかを確かめてみる。すると大概、嫌なことを書いているときの自分の顔というのは嫌なものだ。特に目。これが一番出る。人間というものは、他人から受ける嫌な印象には敏感なくせに、自分が発する嫌な印象には鈍感なものだ。もっと自分が発する嫌な印象を取り払う努力をした方がいいと思うのだが…。だからといっていつ何時でもいい顔していればいいかといったら決してそんなことはないんだけど。いつもいい顔している奴の笑顔ほど信用ならないものはないし。
私が折に触れそんなことをしているのには理由がある。「今書いたことをそんな顔して相手に言ったらどんな気持ちになるか?」を自問自答するためだ。「そんな顔して相手に言ったら絶対に良くないぞ!」と常に自分に言い聞かせるためもある。
今日ワイドショーのラテ欄に「衝突男性死亡フジ若手アナ現行犯逮捕」という文字を見つけた。無論フジ以外のTV局のワイドショーのラテ欄にだ。直感で確実に悪意があって書いたラテ欄だなと思った。もし自局のアナだったらこういう書き方は決してしないだろうからね。このラ・テを書いた人は、どんな顔して書いたのだろうか。まさか!他局のスキャンダルを喜んで笑顔で書いたんじゃないでしょね?ラテ欄を書いているときの顔のまんま、その話題を他人にしたら、どんな気持ちになるのか良く考えて、ラテ欄を書いて欲しいと思う。たかがラ・テだと侮る勿れ。立派な番組の顔なんだから。そう「顔」なのだ。

2月6日クラスのマドンナの未来
『3年B組金八先生5』(SBS・再)を見る。全編ビデオに撮ったのにもかかわらず、再放送が始まったらまた見ている。今日のお話は「ガラスの少年2」。言わば今シリーズの核を成すお話だ。たった1年前のことにも関わらず、思いきり懐かしい。
金八先生を見ながらスポーツ紙を開いたら、川上麻衣子写真集の広告が大きく掲載されているのを発見した。何だか妙な気分だ。川上さんといえば、パート2に迫田八重子役で出演し、ある種マドンナ的存在だった生徒だ。そんな彼女が、かのような写真集を出しているという現実を目のあたりにながらその広告の写真をまじまじと見つつ、一方では金八先生のパート5を見つつしている状況というのは、如何ともし難いものだ。今の金八先生に出演している生徒も後何年かしたら…とあらぬ想像をしてしまうじゃないか!!
クラス一美人で優等生だった子と久々に対面した場所が★★★だったみたいなショック感。「お前!なんでこんなところにいるんだ!」と驚いて、一気に萎えてまた元気になるみたいな。…なーんて、こんなこと思ってる私は今、どんな顔してこの文章を書いているんでしょ。果たして人に見せられる顔なのか?うげっ!やばっ!

2月7日あ!被ってる!
『速報!歌の大辞テン!』(NTV)を見る。今日のゲストの赤井英和さん。裏番組の『大家族スペシャル』にも出ていた。これは基本的には良くないことなんだけど、ここまで正々堂々と被ってしまうと、『速報!歌の大辞テン!』のゲストの多さに、どっちが大家族なのか良く分からなくなってきたぜ!

2月8日35歳は「もう?」「まだ?」
『彼女たちの時代』(テレビ静岡・再)を見る。視聴率は然程良くなかったけど、名作の呼び声高いドラマの再放送が今日終わった。再放送を見終えて主人公たちの境遇が切なくて思わず目を背けたくなるようなシーンも多かったけど、心に残るセリフといっぱい出会えたドラマだったと思う。最終回で、今まで辛いことばかりだった椎名桔平さん演じる佐伯啓介が義父と釣りに行った河原で「今いくつだ?」「35歳です。」「大丈夫まだ間に合うさ。」と言われて大泣きするシーンは、名作中の名シーンだと思う。20歳になったらもうおじさんおばさんで、30歳になったらもう人生終わっちゃったかのような発言をする人にこそ聞かせたいセリフだと思った。私は別に何歳だからと言うことはあまりないと思っている。確かに、正式に何かになるためには定められた年齢というのはあるし、年齢をオーバーしてしまうとなれなくなってしまうものはある。でも、視野を広く考えてみると、長く続けてそれをライフワークに出来るものというのは然程年齢は関係ないような気がするんだな。年齢を気にせず出来るものの方が、世の中には必要なのだし、窮屈にならずに生き生きとしていられるような気もするし。定年のことを考えてみても…ねっ!
ところでこのドラマに出ていた中山忍さん。随分といい雰囲気を出していたのに、これ以来見ていない。また連ドラに出るといいのにな。脇で上手に光る女優さんとしての腕はピカイチなんだから。

2月9日ひとつの番組が壊れる時(2)
『ウリナリ!』(NTV)を見る。1週間(?)お待ちどうさま!先週のつづきだよ〜ん。(だよ〜ん=死語)壊れたなと思ったのは、新聞のラテ欄だ。手元に金曜日の新聞がある人はぜひ見て欲しい。(TV雑誌じゃ駄目。ちゃんとした新聞のラ・テ。)このタイプのラテ欄を最初に書いたのは、私が知る範囲では多分『ニュースステーション』(テレ朝)が最初だったと思う。残念ながら今は書き手が変わってしまったのか、番組の方針が変わってしまったのかは分からないけど、もう昔の興味深いラテ欄の面影はない。でも昔の『ニュースステーション』的ラテ欄は、他の番組に受け継がれ今に残っている。でも残念ながら残ったどのラテ欄からも、かつての『ニュースステーション』が持ち合わせていたような、洒落っ気が感じられない。その代わりにあるのは、妙に高いプライド意識とちょっとした皮肉だけだ。嗚呼!『ニュースステーション』的ラテ欄はすっかり過去の遺物になってしまったのだろうか。(このあたりの考察は2000年10月24日付日記でもしていますので、よろしければ再読を!)
たかがラテ欄と侮るなかれ!「外見で人を判断するな!」と言う人は多い。でも、判断してもいいときもある。いや!どちらかといえば出来た方が便利で自分の身を守ってくれるときだってある。それをきちんと分かっていての「外見で人を判断するな!」なのか、それとも、何があろうといつ何時如何なる場合でも決して外見で他人を判断しないのかでは大きな差がある。番組内容を短い言葉で表すラテ欄は言わば番組の外見だ。「私を見て!」と毎日たくさんの外見が並んでいる。スーツに身を包んだ人もいれば、ラフな格好の人もいる。着物の人もいるし、背中を向けている人・目を合わせてくれない人もいる。そして中には、丸裸で立っている人も…私たちは外見で「あ!面白そう!」とか「これじゃ見なくてもいいな!」とか判断する。外見にそそのかされて見たら、ガッカリで期待外れで全然良くなかったなんてこともある。外見に騙された!なんてことは数しれず。ある程度毎回見ている信用できる場合は外見が何であろうと気にせず見る。そんな番組に不祥事が起こったりすると、裏切られたようで愕然とする。お堅い番組に突然ソソラレル映像が出てくると、意外性に驚いて★★★ちゃったり!ふっふっふっ…もうこのあたりは人との付き合い方とそっくりじゃないか!
私は多分、それを職業としている人以外では、物凄くラテ欄を隅々まで見て日々研究している方だと思う。日記を書く前には必ずラテ欄とにらめっこ。自身の極みとしては、ラテ欄で番組内容の奥深いところまで判断出来るようになれればと思っている。ソソッテいるその外見に果たして素直にソソラレてもいいものかと。だって判断出来た方が便利だし、自分の身を守ってくれるから…
『ウリナリ!』は壊れた。そのことはラテ欄にも如実に表れている。この番組がこのラテ欄を続ける限り、きっと番組は面白くならないだろう。逆に言えば、ラテ欄がいい方向に変われば番組もきっと面白くなっているはずだ。一刻も早くいい方向に変わるべき、変えるべき事項なのだ。ラテ欄は紛れもなく番組の姿勢を表す、番組そのものなのだから。
本当は変えるべきではなかったことを沢山変えて、結果壊れて落ちぶれてしまった番組を今、なんとか復活させるにはどうしたらいいのだろうか。愛着があった番組なだけに、今の状況が残念でならないので、別に誰に頼まれた訳じゃないのに考えてみた。

しばし熟考…

またしても、来週につづく

2月10日この時代に生まれたからには
『幻のペンフレンド2001』(NHK教育)を見る。自分が生まれる時代は残念ながら選べない。でもこの時代に生まれてしまった現実は変えることが出来ない。それでもほんの少しの贅沢を言うならば、同じ時代ならあと2.3年くらい、場合によっては5年くらい早く生まれていたかった。どうしてそんなことを思うかと言えば、今まで振り返ってみると私の世代から急に事態が一変してしまうことが多かったからだ。昨年まではこうだったという例があったとしても、いきなり今年から変更になり、今までのことが何の役にも立たなくなってしまうような、そんな経験が物凄く多かった。私は多分、他の人より変化の多い日々を送ってきたと思う。だからある意味羨ましかったりする。変化が欲しいと思えるほど、落ち着いて過ごせる日常がある人が。
と、それがひとつの理由ではあるけれど、もうひとつ鑑賞日記的にも大きな理由がある。1970年代初頭に生まれた私は、勿論その当時流行っていたTVの記憶はない。この2年半、様々な番組と向き合って過去に放送されていた番組についても追求しているうちに、私が生まれた1970年代初頭というのは、TV番組を語る上で物凄く重要な時代であることが分かってきた。昨年の鑑賞日記に私が生まれた日の新聞のラテ欄を見て書いたものがある。時代はちょうど白黒からカラーに変わりつつある重要な時期だ。私がある程度物心ついた時は既にTVはカラーだった。もう少し早く生まれていれば、この重要な変化の時代を物心ついて実体験出来たのにと思うと残念だ。そして、この時代に放送されていた番組というのは、今伝説になっているものが多い。まだビデオもない、リアルタイムで見なければ、もう一生見ることが出来なくなってしまう番組を、当時の人々は今よりずっと尊いものとして捕らえていたに違いない。だから多分、当時小学生くらいだった今の30代半ばから後半にかけての人々の心の中には、それより下の世代の人たちより、思い出深く忘れ難い番組の記憶が多いような気がしている。ずしりと重く甦ってくる、思い出が。

さて例によって前振りが随分と長くなったけど、この『幻のペンフレンド2001』は眉村卓さんの『まぼろしのペンフレンド』が原作で、1974年4月に少年ドラマシリーズとしてNHKで一度ドラマ化されている作品だ。今では映像も台本も残っていないまさに幻の作品なのだという。(ちなみに放送全9回。明彦役に山賀裕二・和彦役に広中雅志・伊原久美子役に池上季実子が出演。少年ドラマシリーズについては1999年7月3日鑑賞日記を参照して戴けるとより分かりやすいと思います。)
今回27年ぶりのリメイク版では、明彦役に内山眞人・和彦役に斎藤亮太・伊原久美子役に谷口紗耶香・明彦和彦の父、和明役にダンカン・母、悦子役に星野知子、その他、佐藤正宏・長田融季(りあるキッズ)・デビット伊東ら(敬称略)が出演している。内容は……うーん。どこまで書いていいものか。基本的にSF作品なので、現実離れしたお話であることに違いはない。「パソコンで理想の女の子を作り上げた主人公 明彦に届いた謎の手紙。怪しげな男たち。あちこちに出没する自分そっくりの偽者。そしてほのかに描かれる明彦とアンドロイドとの少女の恋…。」と手元にある雑誌で紹介されていたので、そのまま引用させていただいた。もしも自分そっくりの偽者が現れて、自分と全く同じ容姿で同じ記憶を持っていたら、自分が本当の自分であることを相手に証明するには、どうしたらいいのだろうかと考えずにはいられなくなってしまう。僕が僕である、私が私である、自分が自分であることを、突き詰めていくと今まであまり考えたことのないような部分にまで行き着いて、闇の中に吸い込まれてしまいそうになる。
このドラマを見ていると、30年くらい前に考えていた近未来のイメージと、実際になった21世紀の現実とのギャップに笑ってしまう部分が多い。発達しているだろうと思った部分が案外未発達で、予想もしなかったような文明の利器が登場していたりとか、現実はどうなるか分からないものだなあと考えさせられる。小道具・セット等もこのドラマの見所だ。30年後はどんな世の中になっているのだろうか。いくら想像してみても、きっと現実に想像は敵わないだろうしね。それより私は30年後、どんなにか文明が発達するより、今よりもっとみんなが思いやりの持てる世の中になっていて欲しいと思う。この時代に生まれて本当に良かったと心から思えるような。目に見える文明より、目に見えない心を大切にしたいな…なーんて言葉で締めちゃ、ちょっとカッコ良すぎるか。

2月11日水の授業・命の授業
『課外授業ようこそ先輩』(NHK)を見る。今日の先生は、元五輪水泳選手の長崎宏子さん。1月28日の日記の中で私は次のようなことを述べている。【有名な先輩がいるのはいいけど、自分のとても苦手なジャンルの先生だったら、いないほうがいいのかもしれない。いや!でもいて、苦手を克服出来るなら、いた方がいいのかも?いや?その恥部を全国放送にさらすのはどうかと…。うーん。小学生だとしたら、やっぱ辛いかなあ…】と。このことをそのまんま受け止めると今日の先生は、なるべくいて欲しくない先輩になるのだろう。この番組に自分が不得意であるジャンルの先輩が訪れた場合など特に、このクラスでもきっと私みたいに苦手な子は嫌だなあと思っているんだろうなあと思って見てしまう。スポーツなど得手不得手が露骨に表れるから、不得意な子はホント辛い。

さて今日の授業は勿論「水泳」。だから私は、単純に泳げない子を泳げるようにさせたりするんだろうなと思って見始めた。でも全然違った。長崎さんが授業で子供たちに教えたのは、まず「水」についてだった。各班の代表者が、服を着て靴を履いたままプールのなかに入り、実際に泳いでもらうことを試みさせたのだ。そうしたら水着では上手に水の中を泳ぎ回れた子も、一旦服や靴を身につけると全く身動きが取れなくなってしまうのだ。実際に起こる水の事故というのは、その殆どがそのような状態の時に起きているのだという。長崎さんは、動き辛そうにしている子供たちに、靴を脱いでみることを勧めた。そうしたら、さっきまでが嘘のように一気に身動きが取れやすくなった。どうしてなのか、冷静な頭で考えれば理由は分かる。でもいざというときはなかなか活かしきれなくて、結果溺れてしまうのだ。このことを知っているのと知らないのとでは大きな違いがある。ふと、一昨年起きた中州の事故のことを思い出した。あの時みんな流された。流されたよな。昨年も静岡で似たようなことが起こったし、今年の夏もまたどっかで起こっちゃうんだろうな。あーあ。未然に防げる事故なのに…。
自分自身のことを考えてみても、水の怖さを教えてくれた先生はいなかったように思う。体育で水泳を教えてくれた先生も、顔を水に付けられない子に対して「水は怖くないのだ。」とだけ呪文のように教えてくれた。確かに水に慣れさせることは大切なことだとは思う。でも、水は時に人の命を奪う凶器にもなることを教えることは大切なことだと思うのだ。その上で身を守る術を教えた長崎さんは伊達に水泳のプロではない。本当の授業っていうのは、例えば水泳だったらむやみに早く泳げるようになることばかりを教えることだけではないと思う。水は怖いことをちゃんと教え、それでも上手に付き合えば素晴らしいものだと教える。その後、泳ぎ方を教えればいいのだ。「水」の恐怖を実体験で教えられるのは、水泳しかないんだから…。このクラスの子供たちは、この先もしも同じような状況に陥ったら、今日のことを思い出すだろう。そしていざというとき命が救われれば、今日の授業は格別なる意味を持った授業だったことになる。
今日の授業は私が心配していたほど得手不得手が露骨に表れるような授業展開ではなかった。それよりきっと、水泳が得意な子も苦手な子も、「水」に対して、いい勉強が出来たのではないだろうか。それが学べただけでも、物凄く意義のある授業だったのではないだろうか。こんな授業だったら、私も受けたかったかも。そう思えるようになった自分がなんか嬉しい。

2月12日また登場の、この名前
『HEY!HEY!HEY!MUSIC CUMP』(フジ)を見る。田村亮・田村亮・田村亮子…そして遂に、村田亮まで登場しちゃって、芸能界似たような名前ばっかりだ!

2月13日終わりの感情
『学校へ行こう!』(TBS)を見る。世の中には、やること以上に、それをするタイミングの方が重要になってくることがあるということを、私は鑑賞日記の中で幾度となく書き綴ってきた。どんなにいいことでも、タイミングがずれると良さも半減してしまうのでタイミングは本当に大切なのだ。鑑賞日記で誰かを取り上げようと思った時も、タイミングをかなり重視している。ずっと気になっていても、なかなかタイミングが合わず取り上げない人もいれば、一目見たその日に取り上げて書いている人もいる。その違いは何かと言われても、うーん。インスピレーション以外の何物でもないのかなあ?正直自分でもよく分からない。
今回このタイミングでこのネタを取り上げたことが、果たして良かったのかどうかは分からない。でも少し温め過ぎてしまったかなという感はある。『学校へ行こう!』内コーナー「東京ラブストーリー」。見ていた人はどのくらいいるのだろうか。気がついたら面白くて、この番組の中で一番好きなコーナーになっていた。こう言っちゃなんだが、やっていることは実にしょーもないことなのだ。でも面白いのだから仕方がない。基本的に、女の子ふたりを巡る男3人のラブストーリーという形を成しており、出てくる人が皆個性豊かな人ばかりだったのが功を奏して(?)好きになった。いつか取り上げよう!いつか取り上げよう!と私はずっと思っていて、そうこうしているうちに気がついたら1年も経ってしまった。そして今日、遂にコーナーも最終回を迎えてしまい、今日取り上げなければ、確実にお蔵入りしてしまうので慌てて書いているというのが実状だ。やっぱり遅かった…ね。
最初は「坂西」という名前だったにもかかわらず、話す語尾にいつも「〜だぜ!」をつけるから、いつの間にか呼び名(名前)も「だぜ」になってしまった慶大生の男の子がいた。私は5人の中でもこの子が一番好きで、濃いメンツの中にありながらも、独特の雰囲気を醸し出しているのが堪らなく良かった。このコーナーで彼を見た後はしばらく自分の口調まで「だぜ!」調になってしまいそうな勢いで全く困ったぜ!
と、ここまで書いて他に何を書こうかと思いあぐねたところ、今まで見たいろいろな場面を走馬灯のように思い出して可笑しくなった割には、ここで紹介出来ることなど何もないことに気がついて愕然とした。

…ふと、過ぎ去ってしまった学生時代を思い出した。あの頃、友達とよくいろんな話をして笑っていたな。でもどんな話だったかは具体的なことは全く思い出せないや。でも、確かに楽しかったんだ。悩みもいっぱいあったけど、楽しいこともいっぱいあったし、今よりたくさん笑っていたし。その思い出は何物にも代え難い大切な宝物なんだ。その感じとこのコーナーの感じはとても良く似ているような気がするな…
結局1年続いたというか、1年で終わったこのコーナーは、あの頃の訳もなく楽しかった思い出そのものだったのかもしれない。終わってみたら何ひとつ語れるようなものは残らなかったけど、楽しかったことだけは間違いなく自分の中に残っているから、それでいいんだ。それにあんな楽しい一瞬は、この先もう二度とやってこないんだろうし。人はこの一瞬のことを、きっと青春と呼ぶのだ。だから青春なんて、案外実態がない幻のようなものなのかもしれないね。
いろんなことを考えたら案外このタイミングで取り上げたことは、良かったことのような気がしてきた。何故ならば、そんな楽しい瞬間だったことは、終わりがきて、もう二度とやってこないことを知った時に初めて実感するのだし、それに終わりを知った今だからこそ分かる感情があるから、私はこんな日記が書けているのだし。
終わるって、自分が納得していない場合は辛いし淋しいことだけど、終わりがあるってことは素晴らしいことなのかもしれないね。「終わる」っていう感情を知るだけでも、十分意味があると思うんだ。そういや昔、どこかで誰かも同じようなことを言ってたな。それが誰だったかは、青春の中に隠れてすっかり忘れちまったぜ!
嗚呼。この鑑賞日記はいったいどんな「終わり」を迎えるのだろうか。「終わりの感情」を知った今、ふと日記の終わりについて考えずにはいられなくなった。たぶん、殆ど反応が無くなって、読者数が極端に減ったのを実感したら、その時この日記に「終わり」は来る。きっと来る。

2月14日神戸浩さんのことを知っていますか?
『徹子の部屋』(テレ朝)を見る。今日のゲストは俳優の神戸浩さん。「こうべ・ひろし」ではなく「かんべ・ひろし」と読む。ところであなたは神戸さんをご存知だろうか?多分、顔は知っていても名前は知らないという人が多いのではないだろうか。神戸さんのことを少し説明しておこう。代表作に映画『学校T』『学校U』がある。Uでは助演男優賞(知的障害を持つ養護学校の生徒・佑矢役を好演)に輝いている。ドラマや映画等のチョイ役では時々目にすることも多く、例えば『金田一少年の事件簿』(NTV)や『がんばっていきまっしょい』(映画)にも出演している。一度見たら忘れられない役者さんのひとりといっても過言ではないだろう。
さてこの神戸さん。実は私のなかで昔から気になることがひとつだけあった。それは彼の喋り方だ。神戸さんをTV等で見かけるたびにちょっと気になる喋り方をしているので、あの喋りは「演技」なのか、それとも「地」なのかということだった。その昔「気になることがあったら聞くように。もしも聞けないのだったら、あれこれ思うな。」という言葉を聞いたことがあって、そりゃそうだよなと妙に納得したことがある。誰かに会って不思議に思うことがあったら、あれこれ余計な妄想を浮かべないで聞く。そうすれば殆どの場合答えは得られる。聞けないのならあれこれ思うなと。この言葉は私自身結構気に入っていて、直接聞けないようなことは誰に対してもあれこれ思わないようになった。身近な人はそれでいい。でもTVで見る人は、なかなかそうはいかない。神戸さんの一件もそうだ。気にはなっていたものの、なかなか答えを得られる場がなく今までいた。今回この番組に神戸さんがゲスト出演すると知ったのは、今朝の新聞のラテ欄で、私はもしかするとこれで数年来の謎が解けるのではないかと期待を持った。
前回この番組を取り上げた時、私は番組について以下のように記している。【「ゲストが一番緊張するトーク番組」という位置づけは変わらないけど、もうひとつ「ゲストが一番話しやすいトーク番組」だと思う。ゲストにとっては、黒柳さんがちゃんと自分のことを調べていてくれるし、そういった意味では案外あの部屋は居心地のいい場所なのかもしれない。そう!『徹子の部屋』は「とても居心地のいい緊張感が味わえる、日本で唯一の部屋」なのだ。】と。そうなのだ。【黒柳さんがちゃんと自分のことを調べていてくれる】のだ。黒柳さんが神戸さんのことを調べていない訳がないのだ。そして期待は裏切られることなく、数年来の答えは得られた。
神戸さんは軽い脳性マヒの障害を持っているそうなのだ。だから普通に走ったり、歩いたり、上手に喋ることが出来なかったのだ。ところであなたは「脳性マヒ」という病気のことを、もしかして勘違いしてはいないだろうか。黒柳さん曰く「脳性マヒは別に脳がマヒしている訳ではなく、脳はしっかりしているのだけど、脳から他の器官に伝わる機能があまりよろしくない。(*)」とのことなのだ。だからセリフとかはちゃんと覚えられるし、仕事も覚えられる。でも勘違いしている人が多いので、いい機会なのでちゃんと皆にも言っておきたいのだとも説明していた。
現に神戸さんも俳優さんになりたくて、劇団に電話をすると「そんな話し方では舞台に立つことは無理」と言われてしまったそうだ。そんな数々の困難を乗り越え、今は超個性派俳優になっている。人間思いがけないことが功を奏することってあるものだ。欠点なんか欠点じゃない!そもそも欠点って何?
神戸さんは現在俳優とホテルマンの営繕の仕事を両立させているそうだ。俳優の仕事が入るとホテルの仕事を休ませてくれるのだとか。ホテルに来たお客さんも神戸さんを発見すると驚きつつも喜んでいるそうだ。どこのホテルかは分からないけど、私だって逢えたら嬉しいよ。
気になることはあれこれ思わずに、妙な妄想を浮かべないで聞く。聞けないのだったらあれこれ思わない。神戸さんの謎が解けて良かった!分かれば別になんということもないしね。神戸さんのことを書いていたら、久しぶりにドラマで神戸さんに会いたくなった。神戸さんが登場すれば、カッコつけ・気取り屋の主演俳優も、どんなにかいい味を出している脇役さんでさえも、全部吹き飛んでしまいそうな存在感で圧倒さ!ゆけ!ゆけ!神戸浩!

(*)いい機会だったので、私もこの病気についていろいろと調べる機会を持ちました。いろいろと勉強になりました。

2月15日何と呼ばれると嬉しいですか?
ニュースを見る。人を呼ぶ時の名前がある。例えばあなたは普段他人から何と呼ばれているだろうか。名字?名前?フルネーム?愛称?肩書き?立場?…といろいろ書いてみたけど、いまいち実感が湧かないので、誰かを例にとって考えてみよう!とは言うものの、いきなりここにあなたの名前が書かれていても焦るだろうから、手っ取り早く私を例にとって考えてみたい。
まあ誰しも一番一般的なのが名字で「久野さん」だろう。後は名前で「貴子さん」とか。フルネームで自分から名乗ることはあっても呼ばれることは滅多にないが、名字と名前が仮名で4文字の人(檀ふみさんとか。加護亜依ちゃんとか。)はフルネームで呼ばれがちだ。名字或いは名前を略して呼ぶ場合もある。流石に「久さん」と呼ばれることはないが、実は私の学生時代の友人が私を呼ぶ時は旧姓の上の部分だけだ。最初は違和感あったけれど、クイズ仲間からそう呼ばれることはないので(当たり前だ!旧姓知らない人が殆どだし。知ってるよ!っていうあなたラッキーだぜ!)そう呼ばれると学生に戻ったような気分になる。あとは名字の下の部分のみ。私だったら「野さん」なのだけど、ちょっと有り得ないから別例をとると「渡辺さん」が「なべ ちゃん」のような。あとは、名字を微妙に崩して、「内村」でウッチャンのような場合もある。これは名字のみならず名前にも共通して言えることなんだけど。
人を呼ぶ時、名字より名前のほうが親しみやすく感じはしないだろうか。思い出してみよう。金八先生はいつも生徒を名前で呼んでいたし、先生ばかりではなく、生徒間でも3年B組は名前で呼び合っている。どうして名前で呼ぶ方が親しみやすいのかな?と考えたら、きっと行きつく先に「家族」があるという結論に達した。考えてもみよう。家族間は必ず名前で呼び合っている。名字で呼び合う家族を想像するとなんか変だ。昨今は男女別姓もあるから一概には言えないが、家族は同じ名字である場合が殆どだ。だから名字で呼び合う訳などないのだ。だから、きっと名前の方が親しみやすく感じるのだと思う。互いを名字で呼び合うと、一気に他人感が加速する。
名前の方はよりバージョンが様々だ。実際自分が呼ばれるか呼ばれないかは別として、貴子の場合、可能性としてあるのは「貴子ちゃん」「貴ちゃん」…そういや友人の「たかこちゃん」は「たこ」って呼ばれていたんだっけ!で、私は「たかこ」で「かこ」。これじゃなんだか、「渡辺」の「なべちゃん」とパターンは同じだな。
とまあ、どんな形であれその人個人のフルネームの一部を呼ぶのは、私自身いいことだと思っている。確かに名字は少々他人行儀かなという気もするけど、それでもまだいい。そう、妙な肩書きで呼ぶよりかは。

実は、とある場所では私は「先生」になる。とはいえ、その場所に集まる人は全員先生なので、多くの人が互いに先生先生と呼びあう訳で、その光景はある意味滑稽で、学校の職員室もこんな感じなのだろうかとついつい想像して可笑しくなる。そんなこともあるからか、私は基本的に肩書きで呼ばれるのが好きではない。確かにその場所では先生で間違いはないのだけど、出来たら名前で呼んで欲しいなと思ってしまう。だから他人に対しても出来る限り名前で呼びたいなと思う。こういう考えって、これだけ読むといいなと思うかもしれない。でも、こういう考えは、必要以上に肩書きにこだわり、一部の権力を振りかざす人には嫌われちゃうんだよね。「社長」と呼ばれる人だって、別な人が「社長」になればただの人じゃん!って私なんか思ってしまうんだけど。うーん難しいね。でもね。肩書きの使用頻度で、どれだけ調子良く他人と付き合っているか否か(無論悪い意味で)というのが大体読めるというのは、かなり核心を突いていると思うのだけど、如何なものだろうか。例えば職場の上司とか…さあ思い浮かべてみよう!!
呼ばれ方について考察してきたので、長くなるが良い機会なのでもう一歩踏み込んで考えてみたい。例えば、誰かに別の誰かのことを説明しようとする時、名前が分からない場合などどんな風に説明してあげるだろうか。その日着ていた服の色などでの表現もあるだろう。でも、時にこういう言い方はしないだろうか。「太った人」とか「眼鏡をかけて髪型は七三分けで」とか「色の黒い子」とか「目が細い子」とか云々…。体格とか、髪の毛の特徴とか、肌の色とかは、知らない誰かに説明する時には重宝する特徴になる。では、自分がそのターゲットになった場合、なんと他人に表現されているのか考えてみたことがあるだろうか。実はこれが考えない訳ではないんだろうけど、殆どの人が考える機会を持っていないのではないだろうか。他人のことは平気で「★★★な人」と表現するくせに、自分のことは考えてもみないなんて、ヤバイんじゃないかい?自分は何と形容されているのか考えることは、客観的に自分自身を見詰め直す良い機会になる。もし答えが出ないんだったら、もっとヤバイかも。だって何らかの方法で誰かに自分が説明されているわけよ!冷たいことを言うようだけど、「カッコイイ人」「美人で可愛い子」なんていう表現で通じるわきゃないんだから。ふー。
そんなことを考えてみると、自分のことを名前で呼んでくれる人はわずかしかいない、貴重な存在であることが分かる。何度も日記の中で触れてきたけど、相手の名前を覚えて名前を呼ぶ行為って大切なことなのだ。「社長!」と呼ばれいい気になってたって、「社長!」と呼んでる人が社長の名前を知らないなんていう笑い話だってあるほどだ。自分がどんな状況になろうと決して変わることのない名前を、肩書きよりも大切にしたいと思う所以はそんなところにある。この考え、何か間違ってる?(肩書きで呼ばざるを得ないのなら、せめて肩書きの上に名前を!)
随分と前振りが長くなり、前振りが本題のような日記になってしまったけど、結局何が言いたいかといえば、ニュースの中でも「柔ちゃん」と呼ばれ続ける田村亮子さんの扱い方は、このままでいいのかということだ。人を呼ぶ時忘れちゃならない、もうひとつが愛称(あだ名)。確かに親しみ やすい。でも、公の場で使い続けるのは果たして如何なものだろうか。私はやっぱり「田村亮子」という名前の方を大切にしたいと思う。TVの中でいかにも親しみ深く「柔ちゃん」なんて呼んでいる人に限って、全然親しんでいないように感じられるのは、きっと前述のような理由があるからだ。みんなが「柔ちゃん」って呼んでるから、自分も取り敢えず呼んどけ!みたいな精神、私は嫌だな。だからこの先もしも、他の人が「柔さん」と田村亮子さんのことを「亮子さん」って公の場で呼ぶ人(無論肉親友人は除く)が現れたら、私はこの鑑賞日記のなかで勝手に「かこ賞」を贈りたい。「柔ちゃん」とは、果たしていつまで続くのやら?
こうなったら「柔ちゃん」だけを特別扱いしないためにも、全ての著名人に愛称をつけるか。うん。我ながら名案。そうすりゃニュース全部が親しみやすくなるに違いない。ついでに歴史上の人物や政治家・凶悪事件の犯人にも全員愛称をつけちゃえ!そうすりゃ、政治も選挙も親しみやすくなって、投票率も一気にアップだぜ!あ!訂正。凶悪事件の犯人が親しみやすくなるのは駄目だ。あれ?ってことは、歴史上の人物で事件を起こした人はどうなる?阿部定のことを「あべちゃん」って呼ぶのは駄目?あ!駄目か?政治家で事件を起こした人は?やっぱり愛称制度撤回。何でもかんでも親しみやすくなればいいってもんじゃないのだ。公の場では田村亮子。これで行こうじゃないか。ついでに、花田勝さんを「おにいちゃん」と呼ぶのもやめにしない?
それにしても谷さん。所詮は男と女のこと。この先何があるかわからないけど、何があろうと、もう逃げられませんなあ…。
と、ここまで書いたら、私のことを「久野さんの奥さん」とか呼ぶ奴について考えずにはいられなくなった。(でも、この件に関して書くと長くなるので割愛させて戴く。ただ取り敢えずこれだけは言っておきたい)あのー。私も「久野さん」でいいのですけど…。本当は苗字じゃなくて名前の方が嬉しいんですけどね。

4月16日一芸に秀でた人が教えてくれたこと
ニュースを見る。一昨日、歌手の三波春夫さんがお亡くなりになったというニュースが飛び込んできた。TVのニュース速報で第一報を知った私は「昨年TVで元気な姿を見たばっかりだったのに…」と酷く驚いてしまった。鑑賞日記を書き始めてまもなく3年が経とうとしているけれど、正直3年も書き続けると、自分で書いている日記にも関わらず忘れてしまっているものも多い。毎年年末に改めて1年間に書き記した日記を読み返して思い出すような日記もある。だけど自分自身がとても印象的な出来事を記した日記はどんなことがあろうと絶対に忘れてはいない。仮にそれがいつのことだったかは忘れたとしても、書いたという事実は絶対に忘れてはいない。これは基本的に記憶力が悪い私にしては珍しいことだ。
さて一昨日、このニュースを聞いた瞬間、私は確かに書いた一編の日記のことを思い出した。あの日私は、静岡県のTVとラジオに立て続けに出演した三波さんを見て、その立ち居振舞いに酷く感銘を受け、思いを日記に書き記している。昨年末のベスト作品集にもその日の日記はきちんとピックアップされていたので、私は容易にその日記を見つけることが出来た。改めて読み直してハッとした。その日記の中には、まるでこの日が来ることを危惧するかのような一文が書かれていたからだ。私にとってはきっと感じたままに書いた何気ない一文だったのだと思う。でも、あれから9ヶ月後の日記に今こうしてこのような日記を書いている現実に直面してしまうと、その一文がとても重いものに感じられてしまう。
偶然と言うのは、偶然であるが故に時に切なく辛いものだ。このニュース速報が飛び込んできた時、鑑賞日記の最新作としてアップされていた日記が上記の「何と呼ばれると嬉しいですか?」と題した、名前について書いた日記だった訳で、偶然にも三波さんのことについて書いた日記と同じ名前の大切さについて書いたものだったのは、ただの偶然とはいえ、偶然意外の何かを感じずにはいられなくなってしまう。名前って大切なものなのだ。きっとあなたが思っているより、そして私が思うより本当はもっともっと大切な物なのだと思う。三波さんは私にそのことを教えてくれたのだ。名前すら大切に出来ない司会者がいる番組で、偶然にも。
いつもは2ヶ月遅れでアップしているけれど、この日記だけは2ヶ月も待てない。今読むのがきっと一番のタイミングだとの私の判断で早々公開に踏み切った。例によって、まあある意味予想通りの展開で国民栄誉賞云々の話が出始めている。亡くなってからしか貰えないこの賞は本人にとっては一体どれくらいの価値があるものなのだろうか。別に「国民栄誉賞」=「亡くなってから貰う賞」だったらまだいいのかもしれない。でもスポーツ選手に限ってはこの賞を生きているうちに貰える矛盾感(例外もいるが)。何とかならないものなのかと毎回思う。でもなかなか改善されること無く悪夢は繰り返されている。死んでから貰える賞なんて嬉しくないから私はいらない。死んでから、もう逢えなくなってから「いい奴だった。」なんて涙を流しながら1000回言うくらいなら、生きているうちに「お前っていい奴だな。」って一度でも言っておけ!

2000年7月13日。これがあの日の日記です。ぜひぜひもう一度読み返して下さい。三波さんが教えてくれた大切なことを忘れずに生かしていくこと。それは国民栄誉賞云々よりも大切な、もっと大切なことなのだと思います。心よりご冥福をお祈り申し上げます。

2月16日「答えを出す」ということ
『ウリナリ!』(NTV)を見る。またしても1週間(?)お待ちどうさま!先週のつづきだよ〜ん。(だよ〜ん=死語。でもある意味新鮮)

その昔NHKの朝ドラで『ひまわり』という作品があった。今をトキメク松嶋菜々子さんがヒロインの弁護士を目指す女性を描いたドラマだ。このドラマを見て不覚にも弁護士に憧れたのも今は遠い思い出なのだが、このドラマ、実は私にもうひとつ後々まで残る重要なことを教えてくれたドラマでもあるのだ。松嶋菜々子さん演じるヒロイン・のぞみが司法試験に合格し、その後の研修の場面で、こんなエピソードがあった
(以下、但し、記憶で書いているので違う部分があるかもしれないことご了承下さい。)【研修で裁判の判決を実際に書いてみるという課題が与えられた。のぞみはなかなか判決が書けずに悩み、それでも課題なので提出しなければならないので何とか遣っ付けで課題を仕上げて提出する。しかし教官(先生)は、のぞみが提出した課題を遣っ付けだと見抜き、こう叱咤するのだ。「時間内に仕上げられないなら、書きあがった途中までで提出したほうがまだいい。時間が無いからと言って、遣っ付けで仕上げるなんて一番良くないことだ。実際に自分が検事になった時、ひとりの人間の人生がかかっている判決文を遣っ付けで仕上げようとするのか!」と。】
『ひまわり』というドラマを思い出す時、私は何よりも先にこのシーンが浮かぶ。見ていた当時は特に何と言うことも無いシーンだったはずなのに、今でもはっきりと覚えているということは、それなりに胸に迫るシーンだったということなのだろう。
先週から1週間。この番組を復活させるには、どうしたらいいのだろうかと私なりに熟考してみた。でもたった一週間でいい答えなど出るはずもなかった。それでも何とか答えを出したいと思っていた矢先に、『ひまわり』のエピソードを思い出した。適当で遣っ付けな答えを出すくらいなら、出さないままの方のほうがまだいい。たとえそれがどんな答えにせよ、「答え」として出すのなら無責任に出すべきではないのだ。そしていつか納得できる答えが出たら、その時こそまさに書くべきタイミングなのだ。その日が来るまで待って欲しい。でも、本当は私の答えが出るより先に、番組が立ち直って面白くなってくれるとそれが一番嬉しいんだけどね。

2月17日消えた!
『ほんパラ!関口堂書店」(テレ朝)。ラテ欄に大ベストセラーの「チーズはどこへ消えた?」が80万部突破したことが記されていた。実は最近この本が見たくて、書店を巡って探しているのだけどなかなか出会えずにいる。この本はどこへ消えた?

2月18日幸せになるための場所〜幸せってなんですか?〜
『テレビアーカイブス「新日本紀行・幸福への旅〜帯広」(1973年放送)』(NHK)を見る。最初に断わっておく。これは先週放送された番組だ。先週取り上げようと思ったのだが、別に取り上げたい番組があったので、1週遅れで登場と相成った。ちょっとお蔵入りさせてしまうには勿体無い番組だったので、悪しからず。

「幸福駅」。行ったことはなくとも、名前くらいは聞いたことがあるのではないだろうか。私が幸福駅の存在を知ったのはいつだったか、もう遠い昔のことなので忘れてしまったけれど、多分中学生くらいだったような気がする。「愛国から幸福行き」の切符が飛ぶように売れていること。幸福駅に関する事柄で、多分そのことを一番最初に知ったのだと思う。
幸福駅は今は廃線になった北海道の帯広線にあった。帯広から5つ目の駅が幸福駅。廃線にはなったけど、今でも駅舎やホームは観光施設として保存され年間7万人の観光客が訪れているのだという。今日の番組は1973年に放送された番組の再放送だ。
この番組が放送されるまでは「幸福駅」は地元の人間や鉄道マニアしかしらないような小さな無人駅だったそうだ。この番組を制作するきっかけともなったのは、「幸福」という名前を持つ町に住む人はどんな人たちなのかという疑問が湧いたことだったらしい。なんだかこれって「幸子」という名前を持つ人は本当に幸せなのか?とか、「美」が名前につく人は美しいのか?とか、「誠」は誠に生きているか?とか、「ひとみ」の瞳はきれいなのか?とか、「優子」ちゃんは優しいのか?とか、「明彦」は明るい男なのか?とか、そういや知ってる「みゆき」と「あけみ」の名前を持つ人はみんな明るく元気な子が多かったっけ!とか、「三郎」は本当に三男なのか?とか、「翔」という名前を子供に付けたのはアノ漫画がきっかけなのか?とか、悪魔くん(あくちゃん)は今何歳?とか…って最後の方はちょっと違う方向に行ったけど、まあそれと良く似た単純な疑問ではある。
当時の幸福駅周辺の集落は、北陸から入植した開拓地で全部で52戸あったという。雪深い北海道の原野を切り開いて作った村の話を聞いて、私は『大草原の小さな家』のことを思い出した。あの家族が住む町ウォールナットグローブも開拓地だ。どこもそうだと思うのだが、開拓地の歴史はとても辛くて厳しかったはずだ。「幸福」とは程遠い日々を送らなければいけないこともたくさんあっただろう。村に住む人々のエピ ソードの中で、村にたった1頭になってしまった馬を手放さない男の話があった。その瞬間この話、どこかで聞いたことが…と即座に思って、即座に答えが出た。そう!これと全く同じエピソードがアノ名作ドラマ『北の国から』(フジ)に描かれている。ドラマでは周りの人たちが皆「馬を手放せ!手放せ!」と言うのに手放さないおじいさんがいた。でも、その後、雪に埋まって身動きが取れなくなってしまった純くんたちを助けたのが馬で、でもやっぱり結局、馬を手放すことになり、その後おじいさんは亡くなってしまうという何とも悲しいお話だ。私はふと『北の国から』を書いた倉本聰さんは、この番組を見て1頭の馬のエピソードを知り、そしてドラマの中に活かしたのではないだろうかという気がしてならなかった。現に『北の国から』の第1回がスタートしたのは1981年。倉本さんが『北の国から』の構想を練ったのは4年前からだというけれど、どこかに記憶されていたという可能性は十分あるような気がする。違ったらゴメン!でもあまりにも酷似していたものだから。
数年前、とある雑誌に掲載されていた写真で「幸福駅」の現在の駅舎を見た。「幸福」という名にあやかって、訪れた人々が残した落書きやシールが貼られた駅舎は、摩訶不思議な空間に見えた。「幸福駅」。特別行ってみたい場所でもなかったけれど、もし機会があったら訪れてみるのもいいかなと、今日の放送を見て思い直した。この放送がきっかけで例の切符が売れたり、一大ブームになったのも頷ける。だけど、決してあの1頭の馬のことは忘れてはいけないんだ。あの馬がいてこそ、今の「幸福駅」があるのだ。
別に「幸子」という名前なのに特別幸せに感じられなくても、「美」がついているのに美しくなくても、誠くんがちょっとくらい不誠実でも、ひとみちゃんの目が細くて瞳がよく確認出来なくても、優子ちゃんにいじわるされても、おとなしい明彦くんがいても、三郎が長男でも実は女性でも(あ!これはちょっと)、別に構いはしない。それは幸福駅を訪れた人に全員、自分が望むような幸せが訪れるとは限らないのと同じことなのだ。それでも人々は昨日より少しでも幸せになれるようにと、幸福駅を訪れる。そして幸福駅で「幸せってなんだろう」と考える機会が持てたら、それはとても素敵で意義のあることだと思う。幸福駅がその為に存在するのなら、素晴らしいじゃないか!!
きっと幸子ちゃんは、他の人より多く幸せについて考えていると思う。名前は、つけてくれた人から自分に託された、一番短い言葉で表された願いなのだから…

2月19日ポルノグラフィティが与えた影響
『HEY!HEY!HEY!MUSIC CAMP』(フジ)を見る。最近、DA PUMPを見ることが出来る音楽番組が殆どない。『ミュージックステーション』(テレ朝)や『うたばん』(TBS)にはまず出ないし、最近『ポップジャム』(NHK)にさえ出なくなってしまった。何故なのかは言わずもがなであるけど、なんともまあ淋しきことよ。そんな訳なので、この番組は彼らが出演できる貴重な番組になってしまった。この現状は本人たちにとっても、ファンにとってもはさぞかし辛いだろう。どうしてこうなっちゃうのか、理由を知らない人が知ったら嫌になるぞ。全く。実際私もいやーな気分になったし。嗚呼!DA PUMP…

その他、今日のゲストにセックスマシンガンズがいた。セックスマシンガンズ。もうかなりキャリアがあるのに、最近いきなり露出が増え、どうしちゃったのかな?という感じだ。一瞬あれっ?と思うバンド名が、今まで受け入れられずにいたけれど、昨年のポルノグラフィティのブレイクで、免疫がつき、やっと受け入れられるようになったのだろうか。こうなったら、次はオナペッツでもブレイクさせるか。ダウンタウンの浜ちゃんが番組の最後に来週 のゲストを紹介する場面で「さて、来週のゲストはポルノグラフィティ・セックスマシンガンズ・オナペッツ」なーんて紹介される日が来たら、しばらく日本は安泰だ。

2月20・21日(合併号)脚本家の遊び心に気が付いてくれたなら
『スタジオパークからこんにちは』(NHK)を見る。『オードリー』(NHK)を毎日面白く見ている。「あれ?」と思う部分も確かにあるけれど「面白い」と感じられる朝ドラ(NHK朝の連続テレビ小説のこと)は久しぶりだ。私が朝ドラを見始めたのは、もう随分前のことになるけれど、今みたいにコンスタントに見るようになったのは、多分『ひまわり』あたりからだろう。それ以降で私が一番好きだったのは須藤理彩ちゃんの『天うらら』。無論それぞれに好みはあるので、一概には言えないけど、こりゃ駄作だなあと思うものも確かにあったからね。
さて『オードリー』のことである。私は面白い!と思って見ているのだけど、残念ながら視聴率は朝ドラ的には然程でもない。(ちなみに先週は22%ほど。まあ、民放の連ドラだったら万万歳な数字な訳だけど、50%の数字を取っても、紅白歌合戦の場合然程でもないのと一緒。)まあ理由は様々なことが考えられる。その一つ一つを解明していっても、仕方がないような気もするので割愛させていただくが、これだけは言っておきたい。ヒロインが苦労すればするほどいじめられればられるほど同情を買い視聴率が上がるという図式は私自身好きではないので、無理にそういうシーンを散りばめて視聴率をあげようとしない『オードリー』の姿勢は素晴らしいと思っている。本当はもっと皆が、このことに気がついてくれると良いんだけどな。
『オードリー』が面白いことは昨年の11月20日の日記でも書いている。その中でも触れている通り、何故私が『オードリー』を面白く感じるかといえば脚本家に遊び心があるからだ。脚本家は大石静さん。私が今までで一番気に入った台詞は、「この脚本覚え難いなあ。誰だ?おおにししずお?(記憶で書いたので微妙に違うかも。でも大意はあっている。)」これは『オードリー』の中で、人気役者・幹幸太郎を演じている佐々木蔵之助さんの発した台詞である。全く大石さんったら、自分の名前「おおいししずか」に似た名前を使って〜と、可笑しくて凄く良かった。他にも、沢田研二さんが出演している場面で、他の登場人物に鼻歌で『♪勝手にしやがれ』を唄わせて、それを微笑んで聴いている沢田さんの姿を見せたり、同じ台詞を繰り返し用いることで効果的に見せたりと、その術は抜群だ。そして遂に21日放送分では、 仁科貴さん演じる晋八に「川谷拓三!(*)」と叫ばせモノマネをさせるシーンが登場したので、私は逆に焦ってしまった。(*仁科さんは川谷さんの息子さん。故(ゆえ)に似ていないはずがないのだ。)。
『オードリー』は、こういう素敵でオシャレで遊び心がたっぷりつまったドラマだ。主軸の「映画」「テレビ」「女優」などの裏側もきちんと描かれているし、今にも通じ考えさせられるようなこともたくさん描かれている。いくら台詞に遊び心があっても、肝心の主軸がしっかりしていないとなにもならないのでこの辺は間違えないように。
私は脚本家ではないし脚本など一度も書いたことがないので、これはあくまで私の想像なのだけど、脚本家は、主人公ではない脇役の誰かに自分自身を投影して、その人に自分の一番言いたいことを言わせたり、あと、実は登場人物の中に一番好きな人がいてその人を使ってドラマの中で軽く遊んでいる人が案外多いような気がしている。例えば前作『私の青空』では脚本家の内館さんは、渡辺えり子さんが演じた登場人物に自分を投影していたはずだ。だからそういった遊び心はなるべくたくさんの人に気がついて欲しいと思う。気がつけばきっと、ヒロインが苦労すればするほどいじめられればられるほど同情を買い視聴率が上がるなどという、朝ドラの妙な図式から脱却出来るんだがなあ。
『オードリー』は先頃、クランクアップしたのだという。毎回クランクアップすると、ヒロインは『スタジオパーク』にゲスト出演する。そんなわけで20日のゲストはヒロインの岡本綾さんだった。岡本綾。「子」を付ければプロゴルファー。毎回ヒロインのイメージと実際の女優さんのイメージが違うので、司会者やお客さんが、と惑う様子が面白い。今まで一番顕著だったのが、『すずらん』の遠野凪子さんだろう。『すずらん』の萌ちゃんとは違い随分元気だったので、司会者もお客さんも驚いちゃうし、そして私は『未成年』(TBS)のドラマを思い出しちゃったさー。今回の岡本さんも、感じが違って驚いていたようだけど、私自身は遠野さんも岡本さんも、朝ドラの方が逆に「あれ?」って感じだったから、全く違和感はなかった。でも、自分を基準にしてはいけないし、違和感を感じた人の気持ちも確かに良く分かるしね。
『オードリー』でアリキリの石井さんが幾度なく発している「御意(ぎょい)(*2)」という言葉は、番組が違ったらきっと流行語になっていたはずだ。(*2・目上の 人に向かって言う言葉で「仰せのとおり」という意味)例えば『古畑任三郎』(フジ)の西園寺刑事(*3・この役も石井さんが演じていました。ハマリ役です。)がいつも「御意」と言っていたら、今頃世間はみんな「御意御意」だらけだったと思う。「御意」は日常生活で使える要素を十分含んでいるので、そう思うとちょっと残念だ。ヒロインが苦労すればするほどいじめられればられるほど自身が得られる同情心からではなく、脚本家の遊び心が気がつけるような人が、大勢この番組を見てくれたら、きっと「御意」は流行語になる。でも事実なっていないということは、結局まだまだ朝ドラは朝ドラの枠を超えきれていないという紛れもない証拠なのかもしれない。
もしもあなたが、脚本家の遊び心が理解出来る人ならば、ぜひ『オードリー』を見て、遊び心を発見して欲しいと思う。そうすりゃ朝ドラはきっと良い方向に変わるし、「御意」もあなたの、と・り・こになる。きっとなる。

2月22日ラテ欄から感じ取れること
『お前の諭吉が泣いている』(テレ朝)のラテ欄を見る。

お前の諭吉が泣いてい
る「体重130`の私は
ダメですか」東山紀之
松下由樹 国分太一
長塚京三 石塚英彦

2月23日ラテ欄・副題の微妙な感じ
ワイドショー&新聞のラテ欄を見る。昨日の日記は別に本題を書き忘れた訳ではない。昨日の日記を読んで、あなたはきっと考えたのではないだろうか。「なんだ?今日の日記は?」と。実はそれが狙いだったのだ。日記を書くために、私は今日見た番組のことを思い出しつつ、ラテ欄を吟味している。その過程の中で、私の目に飛び込んできたのが、あのラテ欄だった。もう一度見て欲しい。まず最初にあなたは、多くの番組の中から、このラテ欄が目に留まるだろうか。留まったとしたら、その理由は何だろうか。そして、もしもこのラ・テで日記を書け!と言われたら何を書くだろうか。さあ、どうだろう…
私がこのラテ欄に目が留まったのは、「これはきっと石塚さんのことなんだろうな」と思ったからだ。そのあと「石塚さんって体重130`だったんだ〜」と改めて認識せざるを得ない状況に自分がなっていることに気がついて、ちょっと嫌な気分になった。自分が例えば100`くらいの体重があれば、あの人は100`あるかないかと別はつくのかもしれない。でも残念ながら私はその半分にも満たない体重なので、石塚さんを見たとしても何`あるかはっきりとした数字など分かるはずもない。でも別にそれでいいのだと思う。体重なんて、別に何`あろうが他人が必要以上に追求するものではないのだからね。だから私はこのラテ欄を見て、それがたとえ副題とはいえ嫌な気分になったのだ。もしこの副題が仮に体重ではなく別のものだったと仮定したら、より分かりやすく嫌な気分が伝わると思う。「身長174aの私はダメですか」「薄くなった私はダメですか」「顔の長さ30aの私はダメですか」「バスト★aの私はダメですか」「チン長★aの僕じゃあ…」あーなんか書いていたら恥ずかしい、というか案の定、嫌な気分になってきた。確かに彼は自分の体格がいいことを売りにしているし、同じようなキャラクターを持ったタレントの出現には危機感を持っているようで、それなりに縄張りがあるようなんだけど、だからといって体重だったらいいっていうものでもないんだよね。昨日私が載せたラテ欄を見てどのくらいの人がそこまで考えたかは分からないけど、時々こういうふうに嫌なのがあって「あっ!」と目に留まるんだよね。あーあ。
でも、もし仮に

お前の諭吉が泣いてい
る「体重130`の私は
ダメですか」松村邦洋
森公美子 伊集院光
内山信二 石塚英彦

だったら、きっと即座に誰のこと なのか分からなかっただろう。でも別にそれでいいのだと思う。それよりなにより、このためだけの偽のラテ欄を作ったら、こんなドラマがあったら見ちゃうかも!と思って、どっかの局に売り込みに行きたい気分になった自分がまた嫌になった。ただ、このラテ欄じゃあ何故か松村さんが主役で相手役が森さんで、松村さんのライバルが伊集院さんになってしまうのだけど、そういう恋愛ドラマも、いいかなあ!『お前の諭吉が泣いている』というタイトルもまた違った意味に感じられるし。
さて、やっと本日の話題に突入!まー今日はどこもかしこも、W野口の話題ばっかりだ。W野口とは、野口隆史さんと野口奈奈子さんのふたりだ。勿論これはふたりの本名なのだけど、こう書くとなんかイメージが違って感じるから不思議だね。当然、新聞のラテ欄にもふたりの名前が目立って多い。
でもその表現方法はまちまちで『やじうまワイド』(テレ朝)・『エクスプレス』(TBS)は「反町&松嶋」。『スーパーモーニング』(テレ朝)は「反町&松嶋菜々子」。『ジャスト』『ベストタイム』(TBS)・『ザ・ワイド』(NTV)は「反町隆史&松嶋菜々子」。『ルックルックこんにちは』(NTV)・『とくダネ!』(フジ)は「反町&菜々子」。『ワイドスクランブル』(テレ朝)は「菜々子&反町」で、全部で5パターンあった。反町さんは「隆史」ではなく、やはり「反町」である訳だけど、松嶋さんは「松嶋」だったり「菜々子」だったりまちまちなので、人気があるあるって騒がれているわりには、案外、実はそうでもなかったりして!!なんてことを思ってしまった。すごーい人気があるってことだけをいつの間にか認識せざるを得ないような状況に日本国民が追い込まれてしまったような感じ。ん?この感じは、以前にもどこかで感じたような…あっ!そうだ!!これは後藤久美子ちゃんが、いつの間にか国民的美少女になってしまった時と同じだ。確かにゴクミは綺麗だったけど、彼女をイメージキャラクター(象徴)に国民的美少女コンテストが始まった時は少し焦ったね。このコンテストでたくさんの美少女が選ばれたけど、結局どの子もゴクミには敵わないというようなそういう妙な雰囲気もあったもんね。あー小原光代ちゃんどこ行っちゃったんだろ?
実像が曖昧にも関わらず人気があるとされている人は、そのことに多くの人が気がついたら、崩れ落ちるのも早いだろう。今はまだ「松嶋」も「菜々子」も松嶋さんのものだけど、この先「松嶋」や「菜々子」の名前を持った人が登場して、「松嶋」や「菜々子」のイメージがすっかりその人に渡ってしまったら、もはや「松嶋」や「菜々子」だけでは、松嶋菜々子さんは表現出来なくなってしまう。そう!篠原涼子さんが「篠原」も「涼子」も、すっかりその後に現れた子に奪われてしまったように…。だから松嶋さんは「松嶋」なのか「菜々子」なのか、ある程度ははっきりさせておいた方が、きっと今後のためになると思う。本当は両方自分のものに出来ればそれに超したことはないんだけど、難しいのでせめてどちらかをきっちり自分のものに出来る実像をこれからは作っていったほうが絶対に、いい。そんなの自分ではどうしようもないことだとお思いかもしれない。でも、出来ないことではないのだ。これの一番顕著な例は小泉今日子さんではなかろうか。彼女が自分のことを「小泉」と呼び、(これは現在モーニング娘。に継承されているのではないか?)人々からは「キョンキョン」と呼ばれ親しまれ、「小泉」も「今日子」もその後の出現を許さず、決して誰にも渡さなかったような、心構えは絶対に大切なことだと思うのだ。自分がなんて呼ばれ親しまれているのかさえ 曖昧なのは、良くない。ラテ欄は案外正直だよ。
それにしても今日のラテ欄はふたりの名前ばっかりだった。反町・松嶋・反町・菜々子・菜々子・反町…と、数えながらラテ欄を見ていたら、静岡で今、再放送されているドラマ『オーバータイム』のラテ欄にも反町隆史の名前を発見した。見つけた瞬間、私の目が一瞬点になった。なぜならば、ラテ欄に記されていた文字が…

オーバータイム(再)
「まちがい」反町隆史

だからさあ。副題とはいえタイミングが悪すぎるんだってば!全く昨日といい今日といい、副題に泣かされる日々。切ないねえ。松嶋?いやっ?菜々子?いやっ?松嶋菜々子?いやっ?野口奈奈子さま!!!

4月25日黙祷
命日のため鑑賞日記はお休みします。

2月24日1個差の悲劇
『爆笑オンエアバトル』(NHK)を見る。本日大混戦。結果。鉄拳。玉1個差でオンエアならず。でも、オンエアされた5組全部笑えなかった。鉄拳がこれ以下だったのは悔しい。あーあ。何度も言うようだけど、審査員。ちゃんと審査してる?

2月25日
『電波少年』(NTV)を見る。高田万由子・菊川怜・けいこ先生。東大出身女優。あなたなら誰にご指導願いたい?えっ?何を?って、言わせる気かい?

2月26日
『スーパーテレビ「野口五郎三井ゆり結婚披露宴」』(NTV)を最後30分だけ見る。今はまだバリバリタイムリーな話題だけど、この日記を公開するころには、こんな結婚式があったこと自体過去の産物になってしまうんだろうなあ。ふー。時の流れだな。切ないから唄うか。♪改札口で君のこと〜。あー余計切なくなっちゃったよ。ゴロンボ刑事助けてえ〜。演芸タイム終了。
さて、話題の結婚式をしょーもないなあと思いつつも、ラスト30分だけ見た。どんな芸能人が集まっているのか興味があったので、それを確認する意味もあって見たら、大半がコロッケさんのモノマネタイムだったので、一瞬、コロッケのディナーショーか?と思ってしまった。その後、著名人が舞台に上がり『♪てんとう虫のサンバ』を合唱しているのを見て、これまた一瞬、21世紀の石原裕次郎たちが唄う『♪翼を下さい』の場面が頭を過ぎった。著名人とはいえ、様々なジャンルで活躍する人が一同に会して舞台の上で歌を唄う場面というのは、どうにもこうにも私には、『24時間テレビ』のエンディングに見えて仕方がない。熱唱すればするほど、誰かがゴールしてきそうなそんな感じ。で、今回はいつにもましてその感じが強いなと思ったら、結婚披露宴の司会をやっていたのが徳光さんだった。どーりで。
今回披露宴より先にロタ島で挙式をしたというお二人。五郎さんは、ゆりさんに星のプレゼントまでしたそうだ。ゆりさんが双子座だからそれにちなんで、どーたらこーたら…(以下忘れました。)。ロタ島なんて今まで私は知らなかったけど、何故にそこで挙式をすることを選んだのだろうか。折角なら、野口五郎岳でやれば、より星に近かったのに…なんてね。ちなみに今日は大安でした。チャン!

2月27日拝啓・過去の名もない偉人様
『プロジェクトX』(NHK)を見る。私が朝起きてするのは、朝食を作ること。お湯を沸かしてお味噌汁を作って…と、一通りやる過程の中に「ご飯を炊く」という作業はない。何故ならば、お米は前夜に磨いでおき、炊飯器にタイマーセットをしておくので朝にはご飯が炊き上がっているからだ。正直、そのことについて今まで別段考えてみたことはなかった。朝起きて炊飯器にご飯が炊き上がっている状況というのは、私にとっては言わば物心ついた時から当たり前のことだったし、確かに一昔前まではそうでないことを知っていたとしても、それについて何かを考えたことはなかった。そんな私が今、この番組を見終わって、果たしてそれで良かったのかと自問自答している。

1970年代生まれの私は、生まれた時から既にあらゆる電化製品が身近なものとして存在していた。TV・ラジオ・冷蔵庫・トースター・掃除機・炬燵…など、生まれた時から既に存在した電化製品のなかに電気炊飯器があった。CD・ビデオデッキ・パソコンなど、生まれた後から誕生したものならいざしらず、生まれた時に既にあったものだと、自分自身の中で「欲しい」という感情を抱かないせいか、有り難味はどうしても薄らいでしまう。
今回の番組のテーマは「倒産からの大逆転劇」と題した「電気釜」。日本の台所を劇的に変えたと言われる電気釜が発売されたのは1955年(昭和30年)のことだ。この電気釜を開発したのは、東京都大田区で町工場を営む三並義忠さん風美子さん夫婦だった。戦後、電器温水器の大量注文を受けて大々的に業績を伸ばしたものの、進駐軍が撤退した後は注文が途絶えたために倒産の危機に追い込まれてしまった。そんな三並さんのもとに東京芝浦電器の営業マン山田正吾さんが電気釜開発の話を持ち掛けた。母親が病弱で幼少から家事をしていた山田さんは飯炊きの苦労が身に染みていたのだ。三並さんは工場と家族の未来を電気釜に託すことにした。
しかし現実は厳しく、実験用に大量の米を買うために自宅や工場を抵当に入れ銀行から金を借りた。日々の実験の過労で妻の風美子さんが倒れ、開発は6人の子供たち総出の戦いとなった。家の中の家具などに次々と「差し押さえ」の札が貼られたというエピソードもあった。
開発から3年後に電気釜は東芝から発売されたが、「こんなもの使う主婦は怠け者だ!こんなもの使う女を嫁にもらいたいかね!」の上司のひとことで発売は延期とな ってしまった。山田さんは会社に反発して、実験販売を全国展開して主婦の支持を得、3年後には大ヒット商品になった。でも、度重なる過労で、妻の風美子さんは若くして亡くなってしまう。お葬式で一目もはばからず泣いたという三並さんのエピソードも印象的だ。新婚当時、とても美しい女性だった風美子さんの表情が、十数年後には嘘みたいに老けてしまう様は、紛れもなく苦労の現れだ。でも凛とした美しさは、変わらずに、まさに名前そのものように私には見えた。
いつだったかの日記に「私は主婦だけど、どうしようかと迷ったとき、同じ主婦である友達に相談するよりも、主婦から一番遠い人に相談した方が案外いい解決策が生まれるのではないかと思っている。同じだから分かり合える気持ちもあるけれど、同じだからこそ見えなくなってしまうこともきっと多いのだと思う。」と書いた。番組を見て何と言っても印象的だったのは、この電気釜を思い付いたきっかけだ。当時女性の仕事と断言されていた飯炊きを男性がやったことにより、そのしんどさが男性に伝わり開発されたという事実。これが一体何を意味するのか分かるだろうか。現在よりもっと男尊女卑の感が強かったであろう当時に、風穴を空けるような出来事だ。それを知った後で「こんなもの使う主婦は怠け者だ!こんなもの使う女を嫁にもらいたいかね!」の上司のひとことを聞くと、あまりにも…である。間違いなくこの上司と、その会議に出席していた人たちには、主婦の飯炊きの苦労が見えていなかったのだ。
だいたい似たような人が集まると碌なことはない。「人はそれぞれ違って当たり前なのだ。」という観念が薄らぎ、中途半端に似ているばっかりに比較を始め、始まる僻みと嫉妬と置いていかれたくない、違うと思われたくない感情から、時として起こってしまうショッキングな事件。様々な年齢で環境を持った人と触れ合えれば、きっと新しい考えも生まれて事件も起こることもなかっただろうに…。当時、女性の仕事と断言されていた飯炊きを男性がやったことにより、そのしんどさが男性に伝わり開発されたという事実。これは忘れてはいけない教訓なのだ。
番組の冒頭で、21歳の主婦のアカギレだらけの手が映し出された。特別な事情でもない限り、今21歳であんな手をしている人は殆どいないだろう。それよりか今の21歳だったら、手が荒れるどころか爪をより美しく見せるためにネイルケアに勤しんだりしている人の方がきっ と多い。当時の女性にはそんな余裕は絶対になかったはずだ。(ちなみに私はマニキュアはしません。理由?料理をするのに、差し支えるから。その手でお米を磨がれたくないから。以上。)
鑑賞日記の中で何度か扱っている話題に「歴史」がある。歴史についての私の見解は、何度も語っているので改めてここに記すまでもないが、やっぱり今回も思うのは、先人の苦労を知ることの意味と意義だ。知ったことにより、今すぐに何かに活かせ!とは言わない。でも今まで知らなかったことを知るだけでも十分意味のあることだと私は思う。そして後日何かの出来事に直面した時、「知った」ことを思い出し、役に立てればそれは素晴らしいことなのではないだろうか。その「知る」ことが名前を知ればいいということではないことは、今更言わずもがなだが。
今まで私はいろんなタイプの鑑賞日記を書いてきたけれど、書きながら胸がいっぱいになって、これでは感情的になりすぎるぜよ!と思い、何度も何度も途中で書くのを中断した日記は初めてだ。ここまで書き綴るのに、一体何日要しているのだろうか。今に生きる私たちが、朝、飯炊きの苦労をしなくても済むのは、命を削っても電気釜の開発に尽力してくれた家族がいるからこそだ。21歳になってアカギレだらけの手にならないでもいいのは、先人の努力のお陰であることを私たちは知るべきだし、それこそ歴史の勉強なのだし、絶対に忘れてはいけないことだと思うのだ。
「家族とのゆっくりとした時間が嬉しいです。」電気釜を使った主婦からの感謝の手紙の一文が紹介され、今まで私が当たり前のように過ごしてきた時間を当たり前のように持てなかった時代の長さを改めて知り、歴史の教科書では決して紹介されない、過去に生きた無名の女性(主婦)たちはみんな凄いことを成し遂げて来たんだなあと尊敬した。歴史の教科書に仰々しく載り、私たちが覚えることを強制された歴史上の人物だって、苦労の末に炊かれた飯を食べて生きてきたんだからね。
ただ今度は、電化製品が当たり前のように存在して家事なんか出来なくても生きていけるようになったら、マニキュアを上手に塗る方法は知っていても、お米の磨ぎ方さえ知らない人が増えたというのは、なんとも時代の皮肉なんだけど。いろいろと上手くはいかないもの…なのね。
電気釜が開発されて42年後に主婦になった私が、鑑賞日記書きに費やせる時間があることに改めて感謝します。ゆっくりといろいろと考えることが出来る時間が嬉しいです。三並義忠・風美子様御家族様。そして多くの先人の皆様。本当に本当にありがとう。

2月28日私には気を遣わないで下さいね。
『趣味悠々「はじめてつくるウッドファニチャー」』(NHK教育)を見る。久々に教育テレビでいい番組を発見した。これは広瀬光治さんの編み物教室を発見した時以来の衝撃だ。舞の海秀平。今はもう、現役を引退してタレント活動もしているが、現役時代はその小柄な身体を駆使して様々な技を披露し、技の相撲を見せてくれた力士でもある。
以前の日記で、今年になって私が相撲に嵌まっていることを書いた。あと半月程で始まる春場所をより楽しむために、現在私は力士の名前と顔と番付を一致させるのに必死だ。手元に相撲雑誌を置き、気がつけば熟読している現状というのは昨年までの私だったら考えられないことだ。今まで殆ど興味すら持たなかった世界ということもあり、今はまだ何もかもが新鮮で面白い。何と言っても中途半端に道具を使わないのがいい。力と力。技と技。一対一のぶつかり合い。正々堂々と戦う様は、うん。いい。ひとりを大勢でよって集(たか)って苛めている連中は、少しは潔い力士の姿を見習うように!!

さてさて、相撲談義に花を咲かせていると長くなりそうなのでこの辺にするとして、私が今みたいにまだ相撲に興味を持たなかった頃、名前と顔が一致する数少ない力士のひとりが舞の海関だった。スポーツ選手というのは選手生命が短い場合が往々にして多い。こと相撲に関してはそれが顕著だ。だから選手としての役割が終わった後の人生設計というのは、それ以外の職業に就いているもの以上に重く圧し掛かって来ているはずだ。力士の場合現役引退後は親方になって部屋を持ったり後輩の指導に当たったりするか、チャンコ屋を開いたりするか、あと他にもいろいろあるなかに、タレントになるという道がある。最近ではKONISHIKIさんや花田勝さんがいて、そして舞の海さんがいる。タレントとしてKONISHIKIさんがどのくらい成功しているか、花田さんがどのくらい成功するかは分からないが、私はこの舞の海さんこそ、ひょっとするとタレントとして大化けするのではないかと思っている。
「はじめてつくるウッドファニチャー」がどんな番組なのか殆どの人が知らないだろうから軽く説明しておくと、つまりは木を使った日曜大工をするという番組だ。出演は先生とアシスタント、そして舞の海さんの3人だ。3人がお揃いのエプロンを着け、黙々とウッドファニチャーに勤しむ様はなかなかのものだ。この番組の何がそんなにいいかと言えば、何と言っても先生が舞の海さんに気を遣っていないところだ。「気を遣う・遣わない」。TVにおいて、このことが実は重要なウエイトを占めているにも関わらず、今まであまり多く語られていないような気がするのでいい機会なので少しだけ触れて置こう。
「突然ですが、静岡県民の方。または静岡県在住経験がある方。こんにちは。私が静岡に来てローカル番組を見るようになって早云年経つのですが、どうしても気になることがあるのです。それは、どうしてあの男性はタレントでも芸能人でもないのに、静岡県のローカル番組にたくさん出演しているのですか?TVやラジオの出演経験が数多くあるにも関わらず、私が見るたび見るたび番組の進行を無視した俺流で出演しているのはどうしてですか?彼が出演するたびに他の出演者や司会者が必要以上に気を遣っているのが気の毒で、その男性の存在が目障りでなりません。そんなにもしてあの男性を出演させなければならない意図はいったいどこにあるのですか?教えて下さい。」
私が静岡ローカルのTVやラジオを見聞きするようになって一番驚いたのは、この男性の露出の多さだ。確かに山梨にいた頃から存在は知っていた。でも、ここまで静岡で、のさばっているとは思わなかったのでこちらに来て驚いた。聞くところによるとサインまであるそうじゃないか!!
今回の日記は、この男性の人となりを追求することが目的ではないので、あえて匿名にさせて戴いたが、この男性を例にとってみても分かるように、周りの人が必要以上に気を遣うと、また遣っているのが感じられると嫌悪感を覚えてしまう。ことにこの男性に関しては、周りが必要以上に気を遣い過ぎの感があり、それを当人も当然の如く振る舞っているので、どうにもこうにも嫌で堪らないのだ。
「はじめてつくるウッドファニチャー」のなかで、人気力士として活躍した舞の海さんに対して、先生が「人気力士だった」ということを知っていても、番組内では指導を受ける先生と生徒という立場できちんと振る舞っているのは、凄く心地がいい空間だ。舞の海さんも別に自分が人気力士だったことなんか関係ないみたいに、きちんと先生の話を聞いて制作している様はとても好感が持てる。もし先生が必要以上に気を遣い過ぎたら、きっとこのいい雰囲気はなかっただろう。
私はふと、もしこれが舞の海さんではなくて他の人だったらどうだったのだろうかと考えてみた。例えばKONISHIKIさんだったら…花田勝さんだったら…もしそうだと仮定したら、ふたりとも存在が大きすぎるから、先生ももしかしたら気を遣っていたかもしれない。現に他の番組にこのふたりがゲスト出演すると、まだまだ周りの人は気を遣っているのが良く分かる。それより何よりNHK教育の、ここで取り上げなければ殆どの人が気がつかないような小さな番組にこのふたりを起用しようなんて恐れ多くて考えも付かないんだろうし。存在が大きすぎると良いことも多いけれど、つぶしが利かない為に自分の世界を狭めているということもあるんだよね。スポーツ選手に限らず、どんな世界にいた人でも、その世界から足を洗い新しい世界に踏み出そうとしている人は、時には過去の栄光を捨て去らなければいけない時がある。そうしなければ次の成功は得られないのだ。なんかこれってこうして文章に書くと、少し冷たい感じもするけれど、大切な、とっても大切なことなのではないだろうか。周りの人が必要以上に気を遣わないでいてくれるようになるためには、何と言っても本人の心構えが一番大切なことだと思うのだ。あの男性みたいに、それが当たり前のように俺流で振る舞うのは最悪の例だ。あそこまで横柄になる理由も分からんし。それを許して起用している番組も最悪だし。…っていうか、あの男性が残した栄光って何?
舞の海さんが先生に必要以上に気を遣わせていないのは、現役時代の地位云々よりも、本人の心掛けが生んだ賜物だと思う。これは舞の海さんだから為し得た、ある種、技の妙技に他ならないのだ。本人が意識せずに醸し出される雰囲気だったら、これぞ天性。凄すぎる!!
番組の最後に出来上がった作品を見て、舞の海さんが今回の作品を作るときのポイントを説明するコーナーがある。そのコーナー名がナント!「技のポイント」。これは舞の海さんだから為し得た、いやっ!舞の海さんでなければ為し得ない、ある種、技の妙技に他ならないのだ。
後何年かしたら「え?あの舞の海さんってお相撲さんだったの?」なんていう子が出てくるくらい、タレントとしては活躍するんじゃないかと思っている。大成功しても私はこの番組のことは忘れないよ。とってもお似合いの真っ赤なエプロンをして、一所懸命に「技のポイント」を説明していた日のことを…


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