頓挫した県外の理念 徳之島拒否で窮地に

政治主導実現できず

2011年2月13日 09時15分この記事をつぶやくこのエントリーを含むはてなブックマークLivedoorクリップに投稿deliciousに投稿Yahoo!ブックマークに登録
(23時間45分前に更新)

 【東京】米軍普天間飛行場の移設先をめぐる鳩山政権の検討過程は、県外・国外という理念を表明したものの約2カ月ほどで名護市辺野古にUターン。2009年12月、鳩山由紀夫前首相の肝いりで決着を先送りしたが、最後は徳之島(鹿児島県)に望みを託すしかない窮地に追い込まれた。

 09年11月には来日したオバマ大統領と会談。「トラスト・ミー」発言で米側は辺野古案に戻ると考えた。一方で、鳩山氏は米側、沖縄双方が理解する解決案を作れるという期待感をまだ抱いていた。

 しかし防衛、外務などの官僚の厚い壁に阻まれ、次第に県内移設の包囲網が強まる中、12月上旬に辺野古移設の決断間際まで追い込まれたが、鳩山氏の独断で来年5月末の決着期限を設定した。

 その直後、首相側近の牧野聖修衆院議員から徳之島への移設を打診され、水面下で検討するよう指示した。

 その後「腹案」として可能性を模索したが地元の猛烈な反対で頓挫した。

 年明けから連立3党で県外移設先約40カ所を検討してきた平野博文元官房長官は、勝連沖埋め立て案を有力視し、米側や地元関係者と頻繁に接触していた。図面も含めた具体案を固めつつあったが、鳩山氏から徳之島を検討するよう指示され、勝連案を諦めた。

 鳩山氏が辺野古回帰を決断したのは4月末。同月28日に徳之島出身の徳田虎雄元衆院議員と面会し、同島への移設を断念した直後だった。

 それでも自民党時代の現行案に戻ることに難色を示し、くい打ち桟橋(QIP)方式や環境共生型の埋め立てなど、工法で違いを出し、活路を見いだそうとしたが、具体化しなかった。

 結局、09年12月時点で感触をつかんでいた沖縄の負担軽減策をさらに肉付けした形で、辺野古移設を明記した日米合意を結んだ。

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