WASEDA UNIVERSITY
創設者 大隈重信
教育者大隈重信
致遠館
東京専門学校の誕生
  「学制」実施への尽力
  大隈重信と同志社大学
  大隈重信と日本女子大学
  白瀬南極探検隊と大隈
  早稲田野球部のアメリカ遠征
  文明協会・国書刊行会

HOME

教育者大隈重信

大隈重信と日本女子大学 BACKNEXT

 今日、本女(ぽんじょ)の愛称で親しまれている日本女子大学ですが、同校の創設に大隈は深くかかわっています。

大隈と成瀬仁蔵(前列左から2番目)

 日本女子大学の創設者、成瀬仁蔵は、アメリカ留学から戻ると「女子教育」を著して、その女子教育に対する考えを世に問うとともに、女子大学設立の計画を立てました。当時の首相伊藤博文に協力を求めた成瀬は、伊藤から発起人の一人として大隈を推薦されます。それまで全く面識もなかった二人の仲介役を果たしたのは島田三郎であったといわれています。

 成瀬から日本女子大学創立の趣旨を聞いた大隈は、「女子大学の創立は、東洋はもちろん西洋においても非常に困難である。特に、日本ではそうしたことに冷淡であるだけに、大胆な企てと言わねばなるまい。しかし、だからこそそれを行う意義は大きいのだ」と言って成瀬を励ましました。

 大隈は常々女子高等教育の必要性を強調していました。その方面に関する論述も多く、ある会合では次のように述べています。

 「従来、日本では女子を軽んじることが多かった。封建時代にはあるいはそれでよかったかもしれない。しかし、今日では男女複本位でなければ社会の進歩、文化の向上は望めない。今後の日本は、女子にも高等教育を授けて、婦人の知識を高め、社会の各方面でその能力を発揮させなければならない」と。

 発起人として成瀬を支援することになった大隈は、近衛篤麿が設立委員長を辞退するや、自ら設立委員長となって計画を推し進めました。加えて、渋澤栄一、岩崎弥之助、大倉喜八郎といった財界人に対して、女子大学設立への協力を求めたのです。当時の模様を三宅雪嶺は、「大隈が日本女子大学校設立にあまり熱心なので、肝心の早稲田がおろそかになるのではないかと早稲田の関係者が心配している」と述べています。

 1901(明治34)年、日本最初の女子大学である日本女子大学の開校式が行われました。当日、創立委員長として祝辞を述べた大隈は、開校後も同校の評議員としてその運営に協力し続けました。

(『エピソード 大隈重信』より)

top

お問い合わせ | サイトマップ| 著作権について
Copyright(C) Waseda University.