仙谷が流した涙と小沢の神頼み(1/2)
文藝春秋 2月10日(木)12時12分配信
新たな火種・与謝野を抱えた菅と復活を誓う小沢。先に斃れるのはどちらか――
「俺は二つの呪縛から解放されたから、今年は思い通りにやらせてもらう。権力を掌握して突き進むんだ」
昨年六月の政権発足から足かけ二年目に入った首相・菅直人は上機嫌で元旦を迎えていた。首相公邸での新年会に招かれた客人の目に「なぜかわからないほどハイテンション」に映った菅は、五時間にわたり、席を変えつつ言葉を微妙に変えながらも、強気の言葉を続けた。
菅グループの議員が恐る恐る「二つの呪縛とは何ですか」と水を向けると、すかさず菅は答えた。
「一つは参院選の呪縛。臨時国会中は『おとなしくしてください』と現場が言うからそうしていたが、もう禊(みそ)ぎは済んだ。もう一つは小沢の呪縛だ。近く小沢は強制起訴になるから、政治活動は極めて限定的なものになる。だんだんと政治的には消えゆくということだ」
内閣支持率の低迷に話題が及ぶと、夫人の伸子もこう言い放った。
「国会でも散々いじめられているのだから、一種のいじめと思えばいいのよ。(支持率が)マイナスになることはないでしょ」
そして、二週間後の一月十四日、菅は内閣改造を断行した。昨秋の臨時国会で問責決議案を可決され、改造の焦点となっていた官房長官・仙谷由人は閣外に去った。政権発足当初から菅の仙谷への信頼は絶大であり、菅にとって仙谷は兄貴分的存在でもあった。
仙谷は上司の菅を立てながらも、ときには家庭教師のように菅を諭した。今年に入ってからも、仏大統領・サルコジが財政再建の解決策を求めた元欧州復興開発銀行総裁・ジャック・アタリの著書『国家債務危機』を読むべきだと進言し、菅は次の週末に自ら東京・八重洲の書店に足を運んでその本を購入した。さらにその八日後、菅はアタリをわざわざ官邸に招いて教えを乞うた。アタリは「(借金財政が続いて)日本人は麻酔にかかった状態が続いている。麻酔の効き目がなくなったらどれだけの痛みがでるか、よく考えるべきだ」と説いた。
一方で、菅と仙谷の間に隙間風が吹き始めていたのも事実だった。昨年九月の党代表選をピークに菅内閣の支持率が下がり始めると、仙谷はしばしば周辺に本音を漏らすようになった。
「菅がダメになったら、菅は必ず国民に信を問うと言って、衆院の解散・総選挙を志向するだろうが、それはやらせちゃいかん。世論の批判はあっても、たらい回すしかないんだ。その時に引導を渡すのは俺の役割だろうけどな」
さらに菅の神経を逆なでしたのが、「仙谷がポスト菅に外相・前原誠司を想定している」と伝わり出したことだ。
今回の内閣改造にあたり、菅はかなり早い段階から、仙谷の留任と交代の両方のケースを想定して準備を進めていた。仙谷の留任を強く求めていたのは、党最高顧問・渡部恒三、党幹事長・岡田克也、行政刷新相・蓮舫らだった。そして何より、仙谷自身がギリギリまで自らの留任を信じ切っていた。
仙谷更迭の動きを察知した渡部は、一月六日に官邸に乗り込み、自身が温めていた案を菅に突きつけた。
「政権の屋台骨である仙谷を替えるべきじゃないなあ。改造で仙谷を官房長官として残すなら、俺が支える。国対委員長だってやってやる。そのときには代理に安住淳でもつけてくれ」
しかし、渡部の説得も菅を動かすまでには至らなかった。
そして十日、菅は、八日発売の『文藝春秋』で自らと仙谷を痛烈に批判した参院議長・西岡武夫を議長公邸に訪ねた。
「仙谷が残るなら、参院本会議開会のベルは押せない。これは自民党にも伝えてある」
西岡は菅に仙谷の更迭を強く迫った。菅は昨年十二月、干拓事業の潮受け堤防排水門の常時開門を命じた福岡高裁判決の上告断念を表明したが、西岡の父・竹次郎は、長崎県知事として昭和二十七年に後の諫早湾干拓事業に繋がる「長崎大干拓構想」を発案している。その息子で参院議長でもある自分に何の相談もなく上告断念を決めた菅を、西岡は許せなかった。西岡が一歩も譲らない考えを主張すると、それに追随するかのように、土壇場になって岡田もスタンスを変えた。
「野党の抵抗で国会冒頭から空転すれば、暫定予算に追い込まれる」
と、仙谷更迭論に与(くみ)したのだ。
■閣議で浮いた与謝野
菅は従前から仙谷を交代させた場合に誰が政権の重しになりうるのかを考えていた。菅の考えは、新党改革代表・舛添要一とたちあがれ日本共同代表・与謝野馨のサプライズ起用だった。かつての自民党のスター議員をスカウトして、社会保障と消費税を任せようという発想だった。だが、舛添には東京都知事選出馬の選択肢を残しておきたい思惑もあり、提示された厚労相のポストに首を縦に振らなかった。菅は与謝野に狙いを絞った。
「与謝野に三顧の礼を尽くしても、閣内に迎えたい。力を貸してほしい」
菅から与謝野への使者となったのは、岡田と防衛相・北澤俊美だった。岡田が年末に東京・四谷の与謝野の個人事務所を訪れると、北澤も一月六日に都内のホテルで与謝野と接触した。政権との対決姿勢を崩さないたちあがれ日本の中で孤立し、離党間近と目されていた与謝野はこう答えた。
「自民党から厳しい批判が沸き上って、かえって政権の足を引っ張ることになるかもしれない。菅にそこまでの覚悟があるのか」
北澤が「十分脈がある」と伝えると、菅は腹を決めた。与謝野のポストは経済財政担当相となり、海江田万里はあおりを食って経済産業相に横滑りした。与謝野と同じ選挙区の海江田は組閣当日、「人生は不条理だ」と嘆いたが、二人の間には「東京一区の公認候補は海江田、与謝野は一期限りの約束で民主党の比例代表から出馬」との密約が交わされたとも囁(ささや)かれている。
そして、十四日夜の初閣議。何の衒(てら)いもなく与謝野が首相官邸の閣議室に入ってくると、真っ先に声をかけたのが国家戦略相・玄葉光一郎だった。
「いやー、与謝野さん、ぜひ一度ご一緒に仕事してみたいと思っていました」
与謝野に露骨にゴマをするかのような玄葉に海江田は刺すような視線を浴びせたが、たしかに閣議のメンバーのなかで与謝野は明らかに浮いた存在だった。
――(2)に続く
(文藝春秋2011年3月特別号「赤坂太郎」より)
「俺は二つの呪縛から解放されたから、今年は思い通りにやらせてもらう。権力を掌握して突き進むんだ」
昨年六月の政権発足から足かけ二年目に入った首相・菅直人は上機嫌で元旦を迎えていた。首相公邸での新年会に招かれた客人の目に「なぜかわからないほどハイテンション」に映った菅は、五時間にわたり、席を変えつつ言葉を微妙に変えながらも、強気の言葉を続けた。
菅グループの議員が恐る恐る「二つの呪縛とは何ですか」と水を向けると、すかさず菅は答えた。
「一つは参院選の呪縛。臨時国会中は『おとなしくしてください』と現場が言うからそうしていたが、もう禊(みそ)ぎは済んだ。もう一つは小沢の呪縛だ。近く小沢は強制起訴になるから、政治活動は極めて限定的なものになる。だんだんと政治的には消えゆくということだ」
内閣支持率の低迷に話題が及ぶと、夫人の伸子もこう言い放った。
「国会でも散々いじめられているのだから、一種のいじめと思えばいいのよ。(支持率が)マイナスになることはないでしょ」
そして、二週間後の一月十四日、菅は内閣改造を断行した。昨秋の臨時国会で問責決議案を可決され、改造の焦点となっていた官房長官・仙谷由人は閣外に去った。政権発足当初から菅の仙谷への信頼は絶大であり、菅にとって仙谷は兄貴分的存在でもあった。
仙谷は上司の菅を立てながらも、ときには家庭教師のように菅を諭した。今年に入ってからも、仏大統領・サルコジが財政再建の解決策を求めた元欧州復興開発銀行総裁・ジャック・アタリの著書『国家債務危機』を読むべきだと進言し、菅は次の週末に自ら東京・八重洲の書店に足を運んでその本を購入した。さらにその八日後、菅はアタリをわざわざ官邸に招いて教えを乞うた。アタリは「(借金財政が続いて)日本人は麻酔にかかった状態が続いている。麻酔の効き目がなくなったらどれだけの痛みがでるか、よく考えるべきだ」と説いた。
一方で、菅と仙谷の間に隙間風が吹き始めていたのも事実だった。昨年九月の党代表選をピークに菅内閣の支持率が下がり始めると、仙谷はしばしば周辺に本音を漏らすようになった。
「菅がダメになったら、菅は必ず国民に信を問うと言って、衆院の解散・総選挙を志向するだろうが、それはやらせちゃいかん。世論の批判はあっても、たらい回すしかないんだ。その時に引導を渡すのは俺の役割だろうけどな」
さらに菅の神経を逆なでしたのが、「仙谷がポスト菅に外相・前原誠司を想定している」と伝わり出したことだ。
今回の内閣改造にあたり、菅はかなり早い段階から、仙谷の留任と交代の両方のケースを想定して準備を進めていた。仙谷の留任を強く求めていたのは、党最高顧問・渡部恒三、党幹事長・岡田克也、行政刷新相・蓮舫らだった。そして何より、仙谷自身がギリギリまで自らの留任を信じ切っていた。
仙谷更迭の動きを察知した渡部は、一月六日に官邸に乗り込み、自身が温めていた案を菅に突きつけた。
「政権の屋台骨である仙谷を替えるべきじゃないなあ。改造で仙谷を官房長官として残すなら、俺が支える。国対委員長だってやってやる。そのときには代理に安住淳でもつけてくれ」
しかし、渡部の説得も菅を動かすまでには至らなかった。
そして十日、菅は、八日発売の『文藝春秋』で自らと仙谷を痛烈に批判した参院議長・西岡武夫を議長公邸に訪ねた。
「仙谷が残るなら、参院本会議開会のベルは押せない。これは自民党にも伝えてある」
西岡は菅に仙谷の更迭を強く迫った。菅は昨年十二月、干拓事業の潮受け堤防排水門の常時開門を命じた福岡高裁判決の上告断念を表明したが、西岡の父・竹次郎は、長崎県知事として昭和二十七年に後の諫早湾干拓事業に繋がる「長崎大干拓構想」を発案している。その息子で参院議長でもある自分に何の相談もなく上告断念を決めた菅を、西岡は許せなかった。西岡が一歩も譲らない考えを主張すると、それに追随するかのように、土壇場になって岡田もスタンスを変えた。
「野党の抵抗で国会冒頭から空転すれば、暫定予算に追い込まれる」
と、仙谷更迭論に与(くみ)したのだ。
■閣議で浮いた与謝野
菅は従前から仙谷を交代させた場合に誰が政権の重しになりうるのかを考えていた。菅の考えは、新党改革代表・舛添要一とたちあがれ日本共同代表・与謝野馨のサプライズ起用だった。かつての自民党のスター議員をスカウトして、社会保障と消費税を任せようという発想だった。だが、舛添には東京都知事選出馬の選択肢を残しておきたい思惑もあり、提示された厚労相のポストに首を縦に振らなかった。菅は与謝野に狙いを絞った。
「与謝野に三顧の礼を尽くしても、閣内に迎えたい。力を貸してほしい」
菅から与謝野への使者となったのは、岡田と防衛相・北澤俊美だった。岡田が年末に東京・四谷の与謝野の個人事務所を訪れると、北澤も一月六日に都内のホテルで与謝野と接触した。政権との対決姿勢を崩さないたちあがれ日本の中で孤立し、離党間近と目されていた与謝野はこう答えた。
「自民党から厳しい批判が沸き上って、かえって政権の足を引っ張ることになるかもしれない。菅にそこまでの覚悟があるのか」
北澤が「十分脈がある」と伝えると、菅は腹を決めた。与謝野のポストは経済財政担当相となり、海江田万里はあおりを食って経済産業相に横滑りした。与謝野と同じ選挙区の海江田は組閣当日、「人生は不条理だ」と嘆いたが、二人の間には「東京一区の公認候補は海江田、与謝野は一期限りの約束で民主党の比例代表から出馬」との密約が交わされたとも囁(ささや)かれている。
そして、十四日夜の初閣議。何の衒(てら)いもなく与謝野が首相官邸の閣議室に入ってくると、真っ先に声をかけたのが国家戦略相・玄葉光一郎だった。
「いやー、与謝野さん、ぜひ一度ご一緒に仕事してみたいと思っていました」
与謝野に露骨にゴマをするかのような玄葉に海江田は刺すような視線を浴びせたが、たしかに閣議のメンバーのなかで与謝野は明らかに浮いた存在だった。
――(2)に続く
(文藝春秋2011年3月特別号「赤坂太郎」より)
最終更新:2月10日(木)12時12分
第144回 芥川賞発表
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