軍艦島:徴用の韓国人、65年ぶり上陸 「史実見つめて」

2011年2月13日 9時42分 更新:2月13日 11時28分

端島の模型で、暮らしていた工員住宅を指さす崔さん(左端)=長崎野母崎町の軍艦島資料館で、蒲原明佳撮影
端島の模型で、暮らしていた工員住宅を指さす崔さん(左端)=長崎野母崎町の軍艦島資料館で、蒲原明佳撮影
終戦の発表を聞いたかつての事務所前に立つ崔さん(右から2人目)。奥に見えるのは、崔さんが地下で暮らした工員住宅=軍艦島強制連行韓国人被害者調査会提供
終戦の発表を聞いたかつての事務所前に立つ崔さん(右から2人目)。奥に見えるのは、崔さんが地下で暮らした工員住宅=軍艦島強制連行韓国人被害者調査会提供

 世界遺産登録を目指す動きがある長崎市の端島(通称・軍艦島)。戦前その炭鉱に徴用され、長崎原爆投下後に被災地のかたづけにあたった韓国在住の崔璋燮(チェ・チャンソプ)さん(82)が65年ぶりに島に上陸した。「世界遺産として島の本当の歴史を見つめて」。多くの観光客が訪れる島に願いを込めた。【蒲原明佳】

 崔さんは市民団体の招きで来日。11日に約2時間上陸し、市の許可を得て島北部の病院前に立ち入り、廃虚と化した工員住宅を眺めた。「死と隣り合わせだった島がこんなに変わった。寂しく、悲しいような複雑な気持ち」と記憶をたぐった。

 朝鮮半島南部の益山(イクサン)に暮らしていた1943年2月徴用された。14歳だった。妹と駅まで見送りに来た母が深々と頭を下げ、息子の無事を祈る姿に「涙が出ました」。

 汽車と船を乗り継ぎ端島にたどり着いた。朝鮮人の住まいは、工員住宅の地下。3交代で1日12時間、深く狭く息苦しい炭坑で、ふんどし1枚でつるはしを振るった。食事は1日2回、豆かすのおにぎり。労働の後、そびえ立つ防波堤に寝転び、けいれんする筋肉を海風で冷やした。四方は海。逃げようにも逃げられない。筏(いかだ)を組んで“脱出”を試みた仲間7人は、あえなく捕まり、ムチで打たれた。「人生、どうしてこうなったのか」。自殺を何度も考えた。

 45年8月9日。非番で自室にいると稲光のような光が10秒ほど続き、窓ガラスが割れた。市街を見ると海も山も赤く染まっていた。「♪若い血潮の予科練の--」。島の子供たちはそれでも軍歌を歌っていた。

 終戦。炭坑長が悔し涙を流しながらも優しい言葉をかけた。「皆さんは故郷に帰れるから安心してください」。18日、多くの朝鮮人が被爆した長崎市街のがれき撤去にかり出された。帰郷したのは11月中旬だった。

 09年に「九州・山口の近代化産業遺産群」の一部として、世界遺産国内暫定リスト入りした端島。崔さんは「登録を目指すことは否定しない」と話す。そしてこう続けた。「世界遺産にすることは、本当の歴史をそのまま表現する場所でなくてはいけない。ここに生きた人の人生をなかったことにしないで」

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