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【茨城】

江戸期の外交の記録発見 「朝鮮通信使」への接待の様子紹介

2011年2月12日

見つかった古文書を広げる尾見又一さん=筑西市で

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 江戸時代に朝鮮王から幕府に派遣されていた「朝鮮通信使」への接待の様子を示す古文書が、筑西市内の旧家で見つかった。下館藩出身の浜松藩士が使節団との筆談でのやりとりを記録に残したもので、解読した市内の県立高教諭で郷土史家の桐原光明さん(63)は「当時の外交の一端をのぞかせる貴重な史料」と話す。 (原田拓哉)

 古文書は「朝鮮使 筆談写」という題が付けられ、横十七センチ、縦二十四センチの紙五枚からなる。下館藩出身の浜松藩士・尾見与兵衛が、徳川家宣が第六代将軍に就いて間もない正徳元(一七一一)年に派遣された朝鮮通信使と、浜松藩との交流の一部を記した。与兵衛は医学などの知識があり、浜松藩に迎えられ、使節団の「饗応(きょうおう)役」を任されたとみられる。

 与兵衛は「饗応のため、駅舎(宿)に至り、この筆談を写す」と筆談写を書き出している。使節団の書記とのやりとりが始まり、書記から「この家の主人か」と問われ、「家士にあらず、浜松太守の任官なり」と答える。駅舎の場所について「東海道遠州浜松」「江戸まで七十余里」などとも説明している。

 浜松産のミカンも登場する。書記がミカンを食べて「瞬(またた)きて、此(こ)の名は何なりと」と質問。与兵衛が「日本蜜柑(みかん)なり」と返答すると、「朝鮮も亦(また)蜜柑なり」。

 贈り物の交換になり、与兵衛は銀製の石筆をプレゼントし、書記からは扇子が手渡される。お互いに好きな詩を紹介する場面も出てくる。

 最後に与兵衛は「方殊(外国)の言は異なるも、詩情は是(これ)同じ」と残し、誠心外交に尽力したことがうかがえる。

 古文書を所蔵していた与兵衛の子孫で、同市村田の尾見又一さん(80)は「今からちょうど三百年前の出来事。尾見家のルーツを探る手掛かりの一つになり、宝物として残していきたい」と話していた。

<朝鮮通信使> 江戸時代、将軍の代替わりや慶事などに朝鮮王から派遣された使節団。1607年から計12回訪れた。豊臣秀吉の出兵で途絶えた交流の復活を目指した徳川家康が働きかけて実現し、日本の文化や学術に多大な影響を与えたとされる。総勢600人に及び、九州に上陸後、各藩の接待を受けながら江戸を目指した。

 

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