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悪質勧誘にご用心 |
☆★☆★2011年02月12日付 |
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「お得な深夜電力を使って光熱費を下げる、エコキュートってご存知ですか?」 先日、わが家にこんな電話が掛かってきた。相手は、札幌市に本社を置くN社の仙台支社員を名乗る電話オペレーターの男性。午後8時過ぎに掛けてきたことから、在宅率の高い夜間帯を狙った勧誘電話だと分かった。 電話に出た妻は「うちはけっこうです」と即座に断った。その回答も織り込み済みだったのだろう、相手は「月にどのぐらい光熱費使っているかを計算し、エコキュートを取り入れた方が得な家庭にすすめているだけです。とりあえず試算してみませんか」と言ってきた。 「必要になったら、こちらから連絡するので電話番号を教えて」と妻。「発信専用電話なので教えられない」と答えた相手は「3月からは一般販売で高くなるが、今ならお得な条件で設置できる。来週中に近所を回るので話を聞いてほしい」と食い下がってきた。 妻は「とにかくは今は必要ない」と再度断り、電話を切ったが、翌日の夜、今度は営業担当の男性が電話を掛けてきた。 「一般販売に向けて実績を作りたい」。試算の結果、光熱費が下がるようならモニター価格でどうか、という勧誘内容だった。 「ご主人と2人で話を聞いてほしい。○曜日の夜はどうか」と畳みかけてくる相手に、妻は「今は考えていない。主人も忙しくて都合がつかない」と繰り返し断った。それでも相手は諦めず、「では○曜日は」「このチャンスを逃すと損をしますよ」とセールストーク全開でまくしたて、電話を切らせなかった。 そのあまりのしつこさと強引さに、普段は温厚な筆者も黙っていられなくなった。妻から受話器を受け取ると、「いいかげんにしろ!しつこいんだよ。※□#%!@(一部不適切な表現あり)」と怒鳴り、一方的に電話を切った。 その後、筆者の言葉に逆ギレしたとみられる相手から、立て続けに3、4回、嫌がらせ電話があったが無視した。その代わり、本社の連絡先を調べて電話し、非常識な電話勧誘と人に不愉快な思いをさせた社員の対応を営業部の責任者に抗議し、今回の一件を国民生活センターに通報することを告げておいた。 エコキュートは、深夜の安い電力を利用した最新型の給湯システムだ。経済的で環境にもやさしく、国の補助金制度の対象になるものもある。 ただシステムの導入には、100万円前後ともいわれる初期費用がかかる。エコキュートが普及すること自体、悪いことではないが、この高額な初期費用を狙って一儲けしようという悪質・悪徳業者が少なからず存在し、ここ数年、契約をめぐるトラブル、苦情、相談が急増していることを知っておく必要がある。 国民生活センターによると、平成15年度に200件だった電気温水器の訪問販売に関する相談件数は19年度に1343件と6倍以上に増加。「期間限定」や「先着○人」「モニターになれば割引価格」といった誘い文句で契約を急かし、検討の時間を与えない手口が目立ち、「よく考えると高すぎるので考え直したい」「調べてみたら相場より高額だった」などとして解約を希望する消費者が後を絶たないという。 こうした悪質勧誘による被害を防止するために、経済的なメリットだけを強調するような説明は鵜呑みにせず、言葉巧みなセールストークにも惑わされないこと。契約前には、複数業者から見積もりを取るなどして十分に比較検討し、契約するかどうかを最終的に判断する慎重さが必要だ、ということが今回の一件でよく分かった。 ところで、筆者の家には一昨日、またエコキュートの勧誘電話があった。A社という別の業者だったが、勧誘の方法や内容は前回とほとんど同じ。セールストークの胡散臭さも同様だった。 もしかしたら、今、気仙が悪質勧誘のターゲットになっているのかもしれない。読者の皆さん、くれぐれもご用心を。(一) |
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1年の今に考えること |
☆★☆★2011年02月11日付 |
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昨年2月28日に気仙沿岸を襲ったチリ地震津波から、1年を迎えようとしている。昭和35年のチリ地震津波災害から、ちょうど50年の節目だった。 昭和35年の被災時は「黒い波」が市街地に押し寄せ、住民の生命を奪った。昨年は、浸水は一部地域にとどまったが、水産業で甚大な被害を受けた。数年間にわたり生育され、全国的にも高い評価を誇るカキやホヤなどは、施設とともに多くが廃棄処分となった。 被害を受けた漁業者は、復旧作業に追われた。行政や関係団体は、漁業者らの負担を増やさないよう財政支援といった部分に心血を注いだ。被害直後の対応としては、当たり前のことである。 半面、被災時に補償を受けられる共済制度加入の重要性を挙げる関係者もあった。加入率向上へ掛け金の漁業者負担軽減、対象品目の拡大が話題にはなった。 また、昨年6月、大船渡市内で地域安全学会が開催された。全国から集まった防災関係者や大学教授らによる研究発表の中には、津波と養殖施設被害の関係性をテーマにしたものもあった。 津波の流速に着目し、秒速1b以上の海域で流出被害が大きかったといい、養殖施設を固定するために海底に設置する係留アンカーの重量について言及していた。流出物は航路妨害といった2次被害も懸念され、行政機関も一体となった対策を強調していた。 共済も養殖施設の防災対策も、充実の必要性を挙げる声はあったが、地域全体で問題を共有し、具体的な行動に至る流れにはならなかった。話題が行動に移るかどうかは、タイミングと優先順位の要素が大きい。被災直後の最優先事項だった復旧作業は今、一段落がついている。地域住民全員に生々しい記憶が残る今、こうした問題や対応策がもっと注目されるべきではないだろうか。 防災においては「住民の生命・財産を守る」という言葉が使われる。今後もその充実を目指すのならば、生命と財産をそれぞれ切り離し、双方の分野で細やかな対策を考えることも、一つの選択肢と思う。防災というだけでは抽象的で、対応策を練る段階においては、逆に論点が整理しにくくなる部分もあるのではないか。 生命を守る点では、「まず逃げる」という大原則は変わらない。今は、沖合での観測や緊急地震速報などによって、情報がすぐに届くシステムが整いつつある。 しかし、避難先で物資や情報が充実していなければ、住民は不安を抱えたまま過ごすことになる。不安を和らげる方策は、どうあればいいのか。自主防災組織は、どのような役割を果たすべきか。今後は住民の安心感を高めるための対応が、求められる。 行政側は、昨年の津波発生時において、避難率の低さや避難先での混乱といった実態は把握しているようだが、重要なのはその先に見出す対策である。結論に至るには難しさが予想できるからこそ、今から行動すべき課題と言える。 また、財産を守るという点では、例えば防波堤が挙げられる。防波堤はすぐ整備できるものではなく、膨大な費用がかかる。大船渡湾口防波堤は、昭和35年の被災を契機に整備が始まり、完成には5年以上の歳月を要した。 財産や産業を守る観点で湾口防波堤を考えた時、今の構造状態は万全と言えるのか。老朽化が指摘され、低気圧による高波で一部破損したこともあった。建造の歴史をふまえ、改良の余地はないのか。将来への議論が必要となる。 多くの尊い命が奪われた昭和35年の被災以降、住民の生命・財産を守る防災整備や情報の充実が進んだ。現代ならではの問題が浮き彫りになった昨年の被災を教訓として、今後行動すべきことは必ずある。災害の悲しみを乗り越え、平時に戻りつつある今、もっと防災について考え、議論する機会が増えることを願う。(壮) |
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ご当地ナンバープレート |
☆★☆★2011年02月10日付 |
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自動車の「平泉」ナンバー実現を目指し、胆江、両磐地区5市町の官民組織「平泉ナンバーを実現させる会」が先月末、発足したことが県内各紙で報じられていた。平泉の世界遺産登録推進に絡め、地域が一体となって運動を展開しようという熱意が紙面からも伝わってくる。 ご当地ナンバーは、国土交通省が自動車のナンバープレートに表示する地名について、対象市町村の区域を限定し、新規の自動車検査登録事務所の設置によらずに独自の地名を定めることにした制度。これまでに「仙台」や「富士山」「鈴鹿」など19件が認められている。 ご当地ナンバーをめぐる動きは、平成に入ってから火がついたと記憶している。当初、本県の沿岸自治体でも、エリア内に自動車検査登録事務所の開設を求める運動を展開。地域にゆかりの名称を取り入れたナンバーを誕生させ、地域おこしや観光振興につなげようとの狙いだったが、具体的な成果がないまま時間が経過した。 その後、国交省は車検所を開設しなくても新規にナンバーを設けることができる、いわゆる「ご当地ナンバー制度」を創設。それを受けて岩手、宮城両県の三陸沿岸自治体が、ご当地ナンバーとして「三陸」の導入を目指したこともあった。 しかし、その条件とされたエリア内の自動車登録台数が10万台に達しないなどの理由で、「三陸」ナンバーは今も棚上げ状態となっている。 ここ数年、行政の簡素化、役人の天下り先の削減、市町村合併による地名改称など社会情勢の変化に伴い、ご当地ナンバーは今後、増やす方向にはないという関係者の指摘もある。それだけに、今回の「平泉」ナンバー実現に向けた取り組みは、ぜひ実を結んでほしい。 今年は平泉の世界遺産登録再挑戦の年でもある。悲願達成、そして「平泉」ナンバー実現となれば、地域の活性化、知名度アップに大きな効果が期待されることは言うまでもない。 沿岸住民の1人として、まだ「三陸」ナンバーの夢を捨てたわけではないが、「平泉」というネームバリューも捨てがたい魅力がある。もし気仙を含む県南全体にまで範囲を広げることが可能であれば、「奥州平泉」の4文字ナンバーも検討してもらいたいものだ。 一方、その土地ならではの個性的なデザインの原付(原動機付き自転車)ナンバープレートも続々誕生していると聞いた。ご当地の名所や名物などをプレートに採用したもので、125t以下のバイクなどのナンバーは乗用車やトラックと異なり、地方税の課税を示す標識として市町村が独自に制定できるという。 この原付プレートは、司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』の主人公の出身地、愛媛県松山市では平成19年に雲形のナンバープレートを全国で初導入した。北海道北見市ではカーリングのストーン形、宮城県登米市は米粒形にするなど全国的な広がりを見せている。 山形県東根市はサクランボ、同じく天童市は将棋の駒、昨年人気を集めたNHKの朝の連続テレビドラマ「ゲゲゲの女房」の舞台となった東京都調布市では、ゲゲゲの鬼太郎をプレートに描いている。 お隣の宮城県気仙沼市では、昨年8月から海の町らしく愛らしいサメのイラストをデザインしたものに変更し、サメの水揚げ日本一を誇る気仙沼をアピールしている。同市議会で、ご当地ナンバー導入の提言があり、庁内の検討会議を経て決定した。 少ない費用で地域をPRする効果があると、評判がいい。ケセンならツバキや気仙杉、黄金カラーのプレートもいい。単独自治体で無理ならば、気仙広域で考えてみてはどうだろうか。 地域をアピールしながら、観光振興、運転マナー向上、郷土愛の醸成などに結びつくならば、金看板≠ノ化けるかもしれない。(孝) |
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住田型中高一貫の未来は |
☆★☆★2011年02月09日付 |
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先ごろ、住田町で「中高一貫教育推進講演会」という催しが開かれた。県立の中高一貫教育校設置運動を展開する住田町と同町教委が企画したもの。 同町では、平成13年度から県立住田高校を中核とした中高一貫校設置へ向けた検討を開始。「県土の約8割を占め、県民の約5割が居住し、約4割の純生産をあげている中山間地域の中等教育のモデルに」と、県教委への提言書やアクションプラン提出など働きかけを継続しているが実現には至っていない。 新たに学校、学科の配置を盛り込んだ第2次県立高等学校整備計画策定への動きが進む中、構想の核となる住田高校は過去の再編において「条件付き存続」とされた経緯があり、将来に不安要素を抱える状況に置かれている。 こうした中、同町で中高一貫教育に関する催しが開かれるのは昨年2月のシンポジウムに次ぎ4度目。中高一貫教育校設置に対する意識啓発や魅力ある学校づくりの可能性を探ろうとの狙いを持たせたもの。町民や町内外の教育関係者ら約200人の出席のもとで開かれた。 当日は佐賀篤町教育長による同町の取り組みの説明報告、小中高一貫教育を導入する北海道鹿追町教委学校教育指導室の横山利幸室長による事例発表、文部科学省初等中等教育局教育制度改革室の小谷和浩室長による「中高一貫教育の現状と課題について」と題した講演の3部構成。 このうち、鹿追町教委の横山室長は、町立の小中学校と道立高校が連携して繰り広げている取り組みについて話した。 鹿追町は十勝地方に位置し、人口6000人ほど。然別湖(しかりべつこ)という資源を持ち、年間60万人もの観光客が訪れるという。 にぎやかさの一方、町内唯一の道立高校である鹿追高は慢性的な定員割れから「条件付き存続」となり、町民の間で存続運動が始まった。小中高一貫の取り組みもこれがきっかけになっている。 同町の小中高一貫教育は、15〜23年度の3期9カ年で学習指導要領によらない教育課程編成ができる文科省の研究開発学校指定を受けて進められている。その目標は国際理解、ふるさと教育、在り方・生き方教育の三本柱に基づく「真の国際人育成にある」のだという。 姉妹町であるカナダのストニィプレイン町との連携を生かした英語教育「カナダ学」、町のエネルギービジョンと結び付けた環境教育「地球学」といった12年間一貫の独自カリキュラムを設け、高校1年生時には希望者全員がストニィプレインに短期留学できる制度も。小中高それぞれの教員が相互に入って授業を行うなどしており、「学力向上や進路の実現、問題行動減少などに一定の成果が表われている」とのことだった。 こうした魅力づくりの中でも、鹿追高の定員割れはいまだ続いているといい、高校への各種補助で町費年間6000万円ほどを拠出し、教育関係者らが中学3年生の家庭訪問をして学校の魅力を発信するなど、町ぐるみで地道な努力も継続しているという。 住田の提案にあるよう、本県において中山間地は県民の暮らしのメーンステージになっているといっても過言ではない。それだけに、時に「実現の可能性は低い」とも揶揄される住田の提案はもっと評価され、真剣に議論されてもいいのではないだろうか。 同町と人口規模が近く、学校教育の環境も似た状況にある鹿追の取り組み事例は大きなヒントとなるもので、こうした材料を生かしながらの粘り強い情報発信に期待している。(弘) |
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ケータイの驚くべき七変化 |
☆★☆★2011年02月07日付 |
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ケータイ(携帯電話)を使うたびその便利さに感慨を禁じ得ないのは、少なくとも固定電話時代の変遷を自分の目で見てきたからだろう。その電話が「移動体通信」形となり、それがあっという間に世界に普及するというその進歩の早さをまた自分の目で確かめて、一体この先どうなるのだろうと考えてみるが、もう想像もできないような進化を遂げることだけはまちがいあるまい。 物心ついた頃から電話の存在を知っていたのは、印刷会社を経営していた伯父の工場にそれがあったからである。壁掛け式で、四角な箱の上に着信を知らせるためのベルが目玉よろしく二つ付いていて、その下の鼻のあたりにメガホンのような黒い送話器が固定されている。受話器は左側に別に線でつながっており、それを片耳にあてて聴くという仕組み。右側にあるハンドルを回すと交換手が出る。「もしもし○○番に」と告げると、ややしばらくというよりは忘れた頃につながる。市内はともかく、市外ともなると一風呂浴びられるほど(まさか)待たされた。だから「電話」ではなく「出ぬわ」という別称もあったほど。ある意味ではまことにのどかな時代だった。 それが卓上型の黒電話になり、送受話器が現在のような形となって無味乾燥な箱となったのも進歩というものかもしれないが、ダイヤル式となるまでには時間がかかり、しばらくの間はハンドルを回すタイプだった。一般家庭に電話が普及しだすのもこの黒電話登場のあたりからだが、それでも浸透するまでのテンポはかなり遅かった。「呼び出し電話番号」という存在もあったのはそのためである。電話のない家が、電話のある近所の家などに取り次いでもらう、呼び出してもらうための、いわば電話の名義的「間借り」で、日本という国もそれだけ貧しかったのである。 移動体通信としての電話は車載用が最初で、通話代が高いから一般は手が出ず、結局は普及せぬまま携帯電話に席を譲った。その携帯も初期のそれは固定電話の送受話器をさらに大きくしたような図体で、まずは業務用として、あるいは個人でも「新し物好き」が得意になって見せびらかす程度の微々たる存在でしかなかった。 だが、移動しながら電話を送受できるという魅力に人類は抗えない。その後のボディーの軽薄短小化はめざましく、同時に比例して世界規模の普及速度になるなど、元々その需要度がいかに高かったかを如実に物語っている。 ケータイの最大の功績は、固定電話の普及に要する巨大社会資本の投入を省いたことだろう。これが新興国にも電話の普及を早める原動力となった。むろん、電気と電話の布設は車の両輪であり、通信ケーブルが世界の隅々まで網羅される時代の早急な到来が望ましいが、遠隔通信の手段が取りあえず容易に入手できるようになったのはまさに文明のおかげというものであろう。 その〈文明〉はとどまるところを知らず、めまぐるしいテンポで世代交代を繰り返している。小欄が所持しているケータイなどはもはや〈ロータイ〉で、いまや「スマートフォン」略称「スマホ」が主流になりつつある。世界最大手だったフィンランドのメーカー「ノキア」が、その時流に乗り遅れて苦戦し、高速通信技術ではピカイチだった日本が、そのスマホで韓国メーカーの後塵を拝しているのも一瞬の気の緩みだったとはしても、それだけ潮流が急で、その流れに乗ること自体が大変だということであろう。 ケータイにカメラが付いているのはジョーシキだが、カメラにケータイがついた形の機種も登場した。これが韓国製で、日本勢はアッと驚いただろう。かと思えば、ボタンが1個だけついた機種も来月発売されるという。いわばポケベル式ケータイだが、子どもの安全確認のための必須用具としてこれは普及しそう。もっとも浮気防止用に持たされるようになる可能性も否定できないが…。 などなどと書いてきたが、当方のケータイはめったにベルが鳴ることもなく、ほとんど固定電話で用が済んでいるから、本来なら不要不急の道具であり、持つとしたら緊急連絡用に上記の〈ポケ・ケータイ〉で十分なのかも知れない。呵々。(英) |
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「春来る鬼」を待 |
☆★☆★2011年02月06日付 |
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大船渡市三陸町吉浜に残る小正月の風習「スネカ」を初めて見たのが3年前。これまで3度取材させてもらい、今年は同町越喜来崎浜の「たらじがね」を取り上げる機会にも恵まれた。 大学生時代、自分の生まれ故郷である岩手と「鬼」のかかわりが思いのほか深いことに気づき、詳しく調べてみたことがあった。いま改めて、広義に「鬼」と呼ばれる存在の、民俗学的な面白さを感じている。 県名の由来からして鬼が登場するのは言わずもがな。朝廷から「まつろわぬ者」と蔑まれ、鬼と同等に扱われてきた…東京都国立博物館蔵の「清水寺縁起絵巻」にも、蝦夷は鬼そのものとして描かれている…その歴史的背景もある。 郷土芸能や伝統行事の観点からも鬼と岩手の関連は根深く、到底一口では語り尽くせない(ので、後日別稿で語ることがあるかもしれない)。中でも、当時印象的だった文献の一つに、民俗・国文学者である折口信夫(しのぶ)の書いた『春来る鬼』があった。 スネカなどの名は実はこのときに知り、「いつか実物を見たい」と思うきっかけとなった。折口の美しい文体と「春来る鬼」という言葉の持つ強さは、長く私の心に留まっていたのである。 今では鬼というと『桃太郎』などに登場する悪鬼を思い浮かべる。しかしそうした昔話で語られるより以前の、本来の鬼の姿について一説を唱えたのが折口である。それによると〈鬼は、村々の祖先の霊〉であり、海の彼方やこの世ならざる地から〈春ごとに来り臨む巨人〉だったのだという。 折口はこうした異界から来た存在をマレビト(稀人・客神)と表現した。その代表として特にナマハゲなどの小正月行事を挙げ、「春来る鬼」と呼んだ。家人は彼らを「春を告げ、福をもたらす使者」として礼を尽くし迎え入れるのである。 (但し。鬼をすなわち「神」や「祖霊」とする説には異論も多い。スネカ保存会も「スネカは神でも鬼でも獣でもない」としており、折口説は全肯定しかねる部分もあるのだが、ここでは便宜上「鬼=マレビト」とする) 節分の鬼もマレビトの一種であると言える。「いや待て、節分の鬼は追い払われるべき存在なのでは?」と思われるかもしれないが、実はそう断言はできない。古来からの宮中儀式であった「追儺(ついな)」では、鬼は「厄や災害を追い払う強い力を持つ者」だった。それがいつしか、厄災を負う穢れそのものとして扱われるようになった…と考えられている。 同市盛町の盛保育園児が節分に行っている「鬼行列」でも、子どもたちは「鬼は〜外」と言いながらその実、自分たちも鬼の面をつけているのが面白い。単に「行事のためのかわいらしいコスチューム」と言ってしまえばそれまでだが、ここにも元来の鬼の姿があったのではないかと、勝手ながら想像しておきたい。 ただ恐ろしいだけの存在ではなく、春を連れ、豊かな実りを運んでくれる外界からの使者、「春来る鬼」。畏怖されつつも歓迎される、マレビトに対する意識というものが、本県には今も強く残っていると感じる。3年前にようやく実物のスネカを見ることがかなったとき、訪れる側・招き入れる側いずれからも、マレビトの存在を求め、守り抜こうとする気持ちが伝わってきた。 スネカの役どころを担う中学生に対し、指導者である吉浜スネカ保存会の柏概彜邁馗垢氈「靴澆犬澹世辰栃垢C擦討い晋斥佞ョ]櫃忙弔襦@屬「犬い気鵑笋「个△気鵑鬚呂犬瓠△澆鵑覆」好優C魍擇靴澆紡圓辰討い襦C修Δいμノ呂△訛減澆世箸いΔ海箸鯔困譴覆い任曚靴ぁ廖C覆爾@△匹Δ靴討C叛睫世魏辰┐襪泙任發覆@⊃諭垢凌瓦砲賄「燭蠢阿隆恭个箸靴董崕嬪茲覽粥廚魄Δ「靴狄瓦「△襪里世抜兇犬拭@蔑ぁヒ |
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「無財の七施」とか |
☆★☆★2011年02月05日付 |
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漫画家の手塚治虫さんが10年の歳月を費やし、仏教を開いたお釈迦様の生涯を独自の解釈で描き上げた『ブッダ』。手塚マンガの最高傑作とも言われるその作品が劇場用アニメとして映画化され、5月に『手塚治虫のブッダ―赤い砂漠よ!美しく―』と題して公開される。興味のある方は公式ホームページをご覧いただきたい。 などと紹介している私自身、恥ずかしながら『ブッダ』を読んだことがない。その私がなぜ、書いているのか。実は知人がこのアニメの仕事にかかわっているのだ。 我が家は代々仏教を信仰してきた。両親も祖父も信心深い信徒だった。それに引き替え、私は不肖の息子(孫)≠ニ言わざるを得ない。生まれてこのかた、仏教のことはほとんど知らずにきた。 何年か前、取材であるお坊さんにお会いした。お坊さんいわく、「悪いことはしないで、善いことをして、人のために尽くす。この三つが仏教の基本であって、一番の中心なのです」 では、悪いことをしないとは何か。自分がされて嫌だと思うことは人にしないこと。善いことをするとは何か。自分がされて嬉しいと思うことは人にもするということ。そう教えてくださった。 目から鱗が落ちる思いだった。しかし、その時はそれだけで終わってしまった。 最近なぜか、仏教についてを調べてみる気になり、インターネットで読みあさるようになった。 なんでも、普通の生活をしながら仏教に帰依する在家の信者には守るべき五つの戒めがあるという。「五戒」と言われるものだ。 一 生き物を殺してはいけない 二 盗みをしてはいけない 三 邪で淫らな行いはしない 四 嘘をつかない 五 酒類を飲まない 酒類禁止の理由は分からないが、そのほとんどは一つの世界でみんなが幸せに暮らしていくために最低限必要な、当たり前のルールに思えてならない。ただ、いつの世も当たり前のことを当たり前に実行することが一番難しい。 仏教には「布施」というものがある。読経などの謝礼にお坊さんに手渡すお金なども布施という。 布は分け隔てなくあまねく、施は文字通り、施すという意味とか。「施しは無上の善根なり」という言葉もある。善根とはよい報いを招くもとになる行いのこと。 大辞泉によると、布施には金品を施す「財施」、仏法を説く「法施」、恐怖を取り除く「無畏施」がある。 もとより私には仏法を説いたり、恐怖を取り除いてあげることなどできるはずもない。金品を惜しみなく施せる大金持ちでもない。 そんな善根を積むことのできない私でも、しようという心さえあればいくらでもでき、人々に喜んでもらえる布施があるという。それが『無財の七施』だ。 一 優しく温かいまなざしで人に接する(眼施) 二 明るく、優しいほほえみをもって人に接する(和顔施) 三 心から優しい言葉をかける(言辞施) 四 肉体を使って人のため、社会のために働く(身施) 五 心からともに喜び、ともに悲しみ、感謝する(心施) 六 自分の座席や場所、地位を譲り合う(床座施) 七 雨露をしのぐ場所などを分け与える(房舎施) もっとも、七つの全てを常に行える自信はない。しかし、一つでも実行していこうと毎日心がけ、努力することはできそうだ。 年末に父が不慮の事故で逝き、四十九日も無事に済ますことができた。父が身をもって私に宗教や生き方を考える機会を与えてくれたのかもしれない。 仏教はどのようにして生まれ、その教えとは何なのか。アニメを通して手塚さんの解釈を知りたいと思い始めている。(下) |
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由緒≠る姉歯橋 |
☆★☆★2011年02月04日付 |
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陸前高田市気仙町の気仙川に架かる「姉歯橋」(延長147・2b、幅7・3b)。昭和7年の建設後、すでに喜寿を過ぎて今年で79年目を迎えている。いまでは住民生活に欠かせない橋として親しまれ、市は本年度から2カ年の計画で補修工事をスタートさせた。本年度は車道部分の補修で、来年度は歩道部分の工事が予定されている。 細長い部材を三角形につないだ珍しいトラス橋で、つり橋を連想させる。当初の路線名は国道45号だったが、58年の高田バイパス開通と同時に国道340号に変更。平成12年3月から市道今泉高田線となった。 建設当時は部材が赤く染められていたが、50年代に真っ青な空の色に塗り替えられ、今回は地区民と協議の上で淡い緑の若草色に化粧直しすることになった。また、常に潮風を受けることから下地にさび止めを施し、ボルトやナットを交換することによって、今後さらに50年利用できる橋に生まれ変わらせる。 一見すると川に落ちてしまいそうな「骨」ばかりの弱々しさを感じさせるが、トラス橋の特徴は橋げた部分を三角形に並べて造ってある点。三角形は外から力が加わっても変形しにくく、少ない材料で軽くしながら強度を保つことができるという大きなメリットがある。 名前の由来だが、宮城県の北部にある金成町(現栗原市金成)にある地名「姉歯」と深くかかわっている。 というのも、用明天皇(585〜587年)のころ、朝廷は諸国から女官を広く募った。陸奥からは気仙郡高田の里(現陸前高田市高田町)に住む武日長者の娘・朝日姫も選ばれた。 誉れ高い朝日姫は、郷土の栄誉も担いながら上京。しかし、なれない船旅で体をこわし、陸路で都を目指そうとしたが旅の疲れからか姉歯の里で病に伏せ、ついに亡くなってしまった。その後、里の人たちによって手厚く葬られた。 そこで、姉の代わりに妹の夕日姫が都へ上ることになった。旅の途中、姉歯の里に立ち寄った夕日姫は、見知らぬ地で逝った姉の墓参りをして松を植えた。これが「姉歯の松」と言われている。 この松は、伊勢物語で「栗原やあねはの松の人ならば 都のつとにいさといまわしを」(在原業平)と歌われ、平安朝物語文学では、みちのくの枕歌とされている。さらには芭蕉の「奥の細道」にも記されるなど、いまでは観光地となっている。 気仙町の「姉歯橋」は、朝日姫と夕日姫がそれぞれ都へ向かう途中、気仙川の橋を渡り、高田の里に別れを告げた地であろうとその名が付けられたという。 橋の周辺では、時折ハクチョウが羽を休めるのどかな風景が広がっている。以前は親子でパンなどのエサを与えに訪れる姿が多く見られたものの、ここ数年は渡り鳥による鳥インフルエンザの感染が心配され、近寄る人がめっきりと減ってしまった。 優雅で美しい鳥が「厄介者」のように思われることを、朝日姫と夕日姫は天空で嘆いているに違いない。これからも由緒≠る橋を大切にしていきたいものである。(鵜) |
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カナダ移民史に学ぶ |
☆★☆★2011年02月03日付 |
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人口爆発が続くアジアの中で、ひとり人口減が進む日本。市場の縮小で経済が右肩下がりとなり将来を危ぶむ声も出ているが、仮に人口を増やしたければ策はある。 移民の門戸を開きさえすれば、先進国のトップ集団にいる日本には、なだれを打つ流入が起きるだろう。しかし、無制限な外国人労働者受け入れには、多くの課題も伴う。半面、これほど国際化した時代には、外国と往き来する人が増えるのもまた自然の流れ。 母国から、言語も文化も違う外国に移住する時、どんな問題が起きるのか。外国人受け入れには、何を心がければよいのか。最近出版された『岩手の先人とカナダU』は、それを考えさせる労作だ。 著者の菊池孝育氏は県立高田高校教諭時代、女子バレーボール部の監督を務め、全国優勝に導いたことで知られる。その監督時代の日本代表チームスタッフとしてカナダを訪問、岩手の先人が大きな役割を果たしたことを知ったという。 カナダの面積は日本の26倍もあるが、逆に人口は日本が3・7倍多い。独立後も、隣国の巨人・アメリカに「いつ吸収されるかという不安を抱えてきた」というお国柄だが、広い国土に希薄な人口を解消するため、外国人を受け入れてきた歴史がある。 著書では、そうしたカナダ興隆期における日本人移民とのかかわりで、杉村濬(ふかし)、原敬(たかし)、新渡戸稲造の3人の県人を取り上げる。 杉村は明治20年、在バンクーバー帝国領事館初代領事として赴任。それまでの日本人移民の商売は日系人のみを相手にした商売だったことから、政府に対し本格的貿易の開始を提言。アメリカを除けば、カナダの主要貿易国の上位に日本が位置する基礎を築いた。 原とカナダとの関係は、明治25年に外務省通商局長兼大臣官房移民課長への就任だった。しかしその時には、困難な問題が発生していた。 一般的に東洋人移民は、「現地に同化しない」「出生率が高い」「経済的に競合する」ことが指摘。加えて、当時の日本人には「母国への非常な忠誠心」「中国に対して侵略的」な姿勢が、カナダでは問題視された。 明治日本は困窮民の海外移住を奨励したが、そこに移民会社が介在。仲介利益のため、誰でも送り込む風潮があった。結果、技能を持たない移民は低賃金であらゆる仕事を探して現地人の雇用を奪い、日本人排斥運動を招いた。 難題に対処するため、原は移民保護法を制定しようと苦闘する姿が著書では描かれるが、発展を目指すカナダには新技術が不可欠。しかし、自国にない技能を持つ人以外には、永住権を与えないようにしている。 新渡戸は、太平洋会議の日本側主席代表として訪れていたバンクーバーが終焉の地となったため、日加親善の象徴としてその名を残した。しかし、カナダには観光や講演で、生涯を通じても通算3カ月程度の滞在にとどまる。「われ太平洋の橋とならん」の言葉に代表される日本人のイメージと、「数回の訪問」程度の意識しかないカナダ国民との間には、大きな意識のズレがある。 著書では、盛岡市と友好都市関係にあるビクトリア市民の声として「新渡戸の太平洋の橋は日米間の橋を意味。盛岡─ビクトリアの橋は、私たち両市民が、ここで亡くなった新渡戸を偲んで架けるもの」との認識を紹介している。 日本とカナダの親善交流は、まさにこれからの両国民の肩にかかっているというわけだが、この言葉は日本とあらゆる外国との交流にも通じそうだ。 最後に、新渡戸が内外講演で強調した中に次の言葉がある。「日本は、外国に自国の文化をよく発信する必要がある。同時に日本は、外国の文化をよく学ぶ必要がある」。(谷) |
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悩ましいしもやけとの戦い |
☆★☆★2011年02月02日付 |
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♪かきねの かきねの まがりかど たきびだ たきびだ おちばたき 冬になると、筆者の頭の中(これを脳内BGMと勝手に呼んでいる)には、童謡「たきび」がよく流れる。とはいえ、思い浮かべるのはたき火自体ではない。2番の最後に出てくる「♪しもやけ おててが もうかゆい」の歌詞から連想されて流れてくるのだ。 筆者は毎年冬になると、おてて≠ナはなく、おあし(?)≠ェしもやけになる。足の指が真っ赤になって腫れ上がり、耐え難い痛がゆさに見舞われる。 子ども時代にもなっていた記憶があるが、若さのせいだったのか、しばらくの間は気にすることがなかった。しかし、ここ数年は晩秋あたりから何となく足の指に違和感を感じ始め、そのうち風呂やこたつなどで足を温めると、ピリピリとした痛みとともにむずがゆさがやってくる。「あぁ、今年もしもやけになってしまった」とがっかりするとともに、本格的な冬の到来を感じてしまう。 百科事典などで調べると、しもやけは「凍瘡(とうそう)」といい、気温3度前後のときに最も生じやすいとか。凍結するほどではない寒冷刺激により、皮膚の血管が収縮して血流がうっ滞。時間が経つと血管が拡張して血液の成分が漏出し、赤く腫れるために生じるのだそう。寒さで血行が悪くなるとなりやすいという。 夏生まれのせいなのか、体質のせいなのか定かではないが、筆者は人一倍寒がり。冷え性も自覚しており、しもやけはなって当たり前の季節病ともいえる。 今シーズンは初冬まで暖かい日が多く気にせずにいたが、昨年の12月中旬ごろから足先がやたらと冷たく感じるようになった。さらに年末を迎え、とうとうしもやけ第1次ピークが襲来した。 赤く腫れたり、かゆみを感じる部位に常備する市販薬を塗る。その際に脳内BGMとして流れてくるのがあの「たきび」なのだ。 薬のほかにも、就寝時には湯たんぽを使い、家の中では温かいスリッパを履く。足を冷やさないように努めていると薬の効果もあって、数日後にピークは終息。腫れや赤みも引いて落ち着いた。 しかし、1月は近年にない厳しい寒さの日が続いた。気象庁の大船渡における観測結果によると、最高気温が10度を超えた日はなく、氷点下の「真冬日」は4日間と平年の1・5日も多め。最低も連日零度を下回る寒さとなり、31日には今期一番の冷え込みとなる氷点下8・0度を記録した。 第1次ピークを乗り越え、治ったなと油断したのがまずかった。1週間ほど薬に頼らずに生活していたところ、再び足先がむずがゆくなり、耐えられない!と思ったときにはすでに遅し。両足の指はあちこちが赤紫色になり、ぷっくりと腫れ上がっていた。 再び薬を塗り始めたものの、2〜3日は急激に足下が温かくなると痛がゆさに悩まされた。仕事中もかきむしりたいほどの思いと格闘。何よりもつらいのが屋外の取材であり、足先がひんやりしてくるたびに憂うつな気分になった。 最近はとうとう、靴下にはるカイロまで使用する始末。さまざまな便利グッズの助けを借りながら、やっと第2ピークも治まろうとしている。第3ピークに襲われぬよう、予防と寒さ対策をしっかりして残りの冬を乗り越えたいものである。 二十四節気で、「冬から春に移る時節」とされる『立春』ももうすぐ。天気予報によれば、2月の到来とともに厳しい寒さも和らぐ見込みという。 早くしもやけが解消されて春になってくれたらいいなぁ…と願うものの、休むことなく次は鼻水と目のかゆみに悩まされる花粉症の時期がやってくる。体にとって、まだまだ気が抜けない日々が続きそうだ。(佳) |
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