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MIYADAI.com Blog (Archive) > アメリカがかかえる逆説について渡辺靖氏とトークしました
« 真の勇者・伊勢崎賢治氏と阿佐谷ロフトでトークしました。宮台発言抜粋

アメリカがかかえる逆説について渡辺靖氏とトークしました

投稿者:miyadai
投稿日時:2011-02-04 - 11:16:12
カテゴリー:お仕事で書いた文章 - トラックバック(0)
『アメリカン・デモクラシーの逆説』という名著をお書きになった慶応大学の渡辺靖先生とトークいたしました。
宮台発言の一部を抜粋します。
全体は次号の『サイゾー』に掲載されます。



宮台◇ 対中問題は、米国を考える上での良い切り口になると思います。大統領が誰であれ、中国の台頭には現実的に対処するしかありません。ところが、特に米国の場合、現実主義的な路線を選択しようとすると––選択するしかないのですが––国民の間で理想主義という名の感情的表出が生じ、結果として国内の分裂が広がってしまう。渡辺さんの本のタイトルにもあるとおり、これまでもそうした「逆説」が繰り返されてきましたが、それが今後ますますひどくなるのかと思うと、滅入ります。
〜〜〜

宮台◇ 僕には、米国民の「コモンセンスに対する信頼」が失われているとの懸念があります。「銃のせいで凶悪犯罪が増え、それに対する防衛意識で、ますます銃が売れる」という悪循環のせいで、非合理的な水準にまで社会がセキュリティ化し、コミュニティ分断化・相互不透明化・疑心暗鬼化が進んでいます。それが格差放置と犯罪増加につながり、ますます防衛意識が拡がって先の悪循環が強化されます。こうしてコモンセンスが崩れます。崩れれば「昔のアメリカはこうじゃなかった」との思いからティーパーティー的表出に拍車がかかります。
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宮台◇ 現状への不満や抑鬱が、政策的な手当の有無という現実主義的問題ではなく、〈最終目標〉たる建国理念への理解無理解という理想主義的問題に、意味加工されちゃう。これでは現実主義的態度が疑心暗鬼の対象になって当たり前です。
 米国の法哲学者ロナルド・ドウォーキンも指摘しますが、オバマ政権の政策は国民一人ひとりの利益を増進させるもので、全体として理に適っているのに、理に適った政策が激烈な対立を生み、オバマ政権への否定的感情を広げています。客観的には理に適った政策でも、主観的には感情的憤激を招き、理に適った政策手救済されるはずの弱者が、政権に敵対する、という逆説です。
 日本でも05年総選挙で同じことが起きました。「政府を小さく、社会を大きく」という新自由主義への、誤解に基づく小泉政権の市場原理主義政策で、最も苦しむことになる都市的弱者が、既得権益構造の一掃という一点でカタルシスを得て、小泉政権に熱狂します。「弱者が、感情的表出を、自らの首を絞める政治に結びつける」といった馬鹿げた事態が多くの先進国で起こっています。コモンセンスが空洞化し、不満が不安と結びついた結果、理に適うか否かへの関心よりも、表出機能の有無にばかり関心が集中するようになります。
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宮台◇ 欧州にはフランス革命後の悲劇から「自由こそが社会の〈最終目標〉なのか」を巡って自由主義と保守主義の対立があります。米国は最初から自由が〈最終目標〉で、この意味での保守主義はありません。かわりに自由主義の内部に、「自由になるために必要な前提を整備するのが政府の役割で、政府は自由実現に不可欠」とするリベラルと、「政府に依存する自由は真の自由でなく、個人の内発性を支えとするものだけが自由だ」とするリバタリアンが分岐します。後者は所有物や家族などの近接性以外を信じないので、旧欧州のアナキズムに似ますが、米国と違って政府を懐疑せずに政策を議論する欧州ではアナキズムは傍流です。自由懐疑が議論され、国家を疑わない(アナキズムを切除した)欧州と、国家懐疑が論争され、自由を疑わない(保守主義を切除した)米国との、対比です。
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宮台◇ 理に適ったものより感情の表出が尊重されるのはなぜか。参考になるのはデビッド・フィンチャー監督の映画『ソーシャル・ネットワーク』です。フェイスブック創業のエピソードですが、ハーバード大が舞台で「ボストンのバラモン」と呼ばれるリベラルな上層の人たちがいかにクソであるかが描かれます。「理に適ったことに従うと、実存の輝きが失われる」という構えは、映画を観るとよく分かります。つまり「理に適うかどうかより、気持ちのままに」の志向を、抑鬱によるヒステリーとばかりは言えないんです。
 フランス革命以降百年の「意図せざる結果」ゆえにアナキズム––国家を信じず近接性を信じる思考––が広がり、対抗思想としてマルクス主義と社会学が定着します。アナキズムは「国家を否定する中間集団主義」、マルクス主義は「市場を否定する行政官僚制主義」、社会学は「国家を否定しない中間集団主義」です。アナキズムは現実制度を生み出さなかったけれど、中間集団主義の国家肯定版である社会学が近接性志向を継承し、社会主義国家が消えた1990年代以降「補完性の原則」としてEU統合につながります。
 自由主義/保守主義/社会主義の図式と対応させると、アングロサクソンの英国は二大政党制で保守主義概念が残ったけど、それ以外では自由懐疑が「市場は、近接性の敵か味方か」という図式に変異し、最終的には市場には警戒的であれとの合意につながります。欧州全土に広がるスローライフが象徴的です。国家は、中間集団のせめぎあいの調停者として正当化され、同時に、EU統合の中で国家がせめぎあう必要として正当化されました。それが「補完性の原則」で、欧州では国家の存在は理に適っている「から」OKなのです。
 米国には国家がせめぎあう発想がなく、合衆国が一世界です。国家への依存か自立かの対立が先鋭すぎて、理に適ったものの尊重が国家依存を意味して否定されちゃう。欧州では理に適ったものの尊重は肯定的なことですが、「そのせいで欧州は遠い昔に死んだ土地になり、内発性を持て余した者は米国で活躍する」という発想が欧米に広がります。米国は欧州と違って“微熱”に覆われ、『ソーシャル・ネットワーク』を見るとそれが伝わります。中国映画『スプリング・フィーバー』(ロウ・イエ監督)を見ると、中国社会も“微熱”に覆われています。これらを目の当たりにすると、理に適ったものを重視する欧州やボストンのバラモンは確かに死んで見えます。「俺たちは理に適っていないが、元気だ!」という感覚が米国映画と中国映画の両方から伝わってきます。日本も遠い昔はそうでした。
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宮台◇ 渡辺さんのご著書を読むと、僕らは米国を一枚岩だと考えてはならず、内部のダイナミズムを見極めなければならないという思いを強くします。これは米国や日本が、中国を見極める上でも重要です。
 日本は尖閣問題で中国を一枚岩だと見做して感情的に噴き上がりました。実際には共産党と人民解放軍の相克が伝統的にあり、中国海軍は無線を切って示威行動を展開した実績もあります。日本に親近感を抱く胡錦濤が「このままじゃ中国海軍を抑えられない」との懸念を背景に日本に一生懸命にシグナルを送ったのに、前原国交大臣・仙谷官房長官が完全にスルーしました。米国は、日本の失敗を他山の石とし、中国国内の「共産党・軍・国民」のパワーバランスを見つつ、その都度どのボタンを押すかを熟慮する必要があります。
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宮台☆ コモンセンスが信頼できなくなると、信頼できる範囲でコミュニケーションをとろうとして「内向き化」するか、コモンセンスが通じない相手に対して「暴走化」するか、の二方向が生じます。これは日本国内でも見られます。若者たちが腹を割らないコミュニケーションで「内向き化」する一方、モンスターペアレンツが「暴走化」しています。共通前提が信頼できなくなったとき、「内向き化/暴走化」はどこでも反復される形式です。
 僕らが、他でもない米国に「内向き化/暴走化」の傾向を見出してしまう事実は、それだけ米国で信頼できる共通前提が希薄化したことを示し、そのぶん米国に信頼を置けなくなったことを意味します。昔は共通前提の存在ゆえに、たとえ対立があっても米国を一枚岩として見ることにリアリティがありました。それも今は昔。共通前提空洞化に怯える米国に、理に適った行動を求めるのは難しくなりました。これまでは不要だった「米国の身になって考える」ことをしなければならない時代になったようです。