あわしま風土記
粟島の信仰
両墓制
現代では埋葬する墓と詣墓とは同じであるのが普通であるが、民俗学者の柳田国男氏によれば、昔は埋葬する墓とお詣りする墓と二つあるのが普通であったとされている。死者の汚れたものを埋めた墓から霊魂を移して、お詣りする墓を家から近いところやお寺に造り、たびたびお詣りしたり加護を願ったりするために二つの墓を造ったと考えられている。
国内では、中国、四国の地方に多いといわれているが、粟島では釜谷にこの制度が残っている。本土でも、「ラントウバ」という墓を持っている家もあることからすれば、その名残と思われる。
島では死者の忌みの期間が過ぎると、埋墓から詣り墓へ霊を移してお参りしている。その埋墓を「ミハカ」または「ハカ」、詣り墓を「石塔」と呼んでいる。1月4日に「ミダノ年夜」といってミハカに団子をあげてお詣りし、16日に石塔にお詣りする。盆の8月16日にはこの逆コースでお詣りする例になっている。
疱瘡神送り
疱瘡は天然痘とも呼ばれ、全身に吹出物が出る恐ろしい病気であった。神林村松沢では慶応2年(1866)に疱瘡が大流行し、数十人の人たちが死んでいる。粟島浦村小学校沿革史には、昭和15年4月17日、「村上地方天然痘流行につき、全村民種痘す。」と記されている。
医学の進んだ現代では、天然痘がどれほど恐ろしい病気であったか知る人などいなくなったが、昔はこの病気を逃れるために、またかかっても軽く済むようにと、疱瘡守護神と刻んだ石を拝む風習が各地に広がり、神林村の松沢、新飯田に碑が残っている。
釜谷部落では、各家とも桟俵に赤い幣束を立て、これを神棚に上げ、8日間毎日膳と燈明を上げて拝んだ。9日目に桟俵の上にあらかじめ沸かしておいた「にごし」をとって注ぐ真似をする。その後、桟俵と幣束は疱瘡さまの祠に納める。
疱瘡送りの日、2mほどの萱舟を作り、帆柱の張り縄に小豆御飯を白紙に包んで吊し、その舟に祠に納めておいた幣束や注連縄を積んで、「何の神送ろば」「疱瘡の神送るぞ」と唱え、村を一巡して舟を海に流した。
昭和57年の北蒲原郡医事衛生史「疱瘡神」(河内喜夫氏稿)によれば、赤飯や赤い幣束を使うのは、赤い発疹は予後が良く黄色は不良だということらしい。また、赤は健康のシンボルで、病魔を払う他、生き血を捧げて悪魔の怒りを解くという意味もあるとのことである。
風の三郎様
内浦の前田岩則氏屋敷内には、風の大神が祀られ、風の三郎様と呼んでいる。新発田市赤谷の滝谷という部落にも、8月6日に子どもの手で風の三郎祭を行っているが、島の風の三郎様は9月9日にお祭りする。
宮沢賢治の童話に出て来るような親しみを持った神様であるが、日和見をたよりに漁に出、航海に出る島の人々にとっては、風に願いを込める思いには真剣なものがあった。
岩船では当てにならないことを「粟島の暇乞い」という。岩船に来た島の人が宿の人暇乞いの挨拶をして帰ろうとしても、風が変わって途中から引き返してきたり、また、明日は島へ帰れると思ってもなかなか順風が吹いてくれなかったり、予定を立ててもなかなか当てにならないことが多い。そこから生まれた譬えことばである。
乳入観音
内浦の神丸七平家の屋敷内に祭られている観音様で、布で作った乳房と、ご飯を盛る竹箆に12ヶ月を祈る意味で12ヶ月に墨で印を付けたものを奉納する。ただし、その際自分の奉納したものを観音様にあげ、今まで奉納していた箆をお受けして来て、それでご飯をよそうと母乳がたくさん出ると伝えられている。
和歌山県紀の川粉河寺は、西国観音巡礼第3番札所であるが、この近くの慈尊院には、無数の布で作った乳房が奉納されている。七平家の観音様が慈尊院の流れを汲むものかどうかは不明であるが、粟島へ寄港した船人たちによって伝えられたものではないだろうか。
母乳が出ないということは、嬰児の死を意味することであり、奉納された品々から、母親の必死の願いがじかに伝わってくる思いがする。
釜谷十九地蔵
釜谷の地蔵堂にはいると、たくさんの地蔵様が並んでいるのに驚かされる。潮騒の音の届く地蔵堂にいろいろな表情の地蔵様を見ていると、異様な感に包まれる。
一番奥の列は十王(死んだ人の生前の善悪の行動を調べる大王)、一番前列には六地蔵(地獄へ行かぬように守ってくださる地蔵)が並び、中段に各家の印をつけた19体の地蔵が並んでいる。
この19地蔵については、昔早春の海へはえ縄漁に出た釜谷の19人の若者が、八幡沖で 操業中急に大時化となり、一人残らず海底に沈んだという。遺族はその死を悲しみ、19体の地蔵を刻んで祀ったということである。
薬師様
村の庄屋であった本保家には薬師如来像が伝えられており、本保家の裏山に薬師堂がある。この薬師様は眼病に霊験あらたかとのことで、村の眼を病っている人はみなお詣りをし、願をかける。薬師様の祭りは旧来は2月正月だったので2月7日であったが、昭和46年から、村が新正月を実施するようになり、1月7日にあらたまった。
この日は初薬師ということで、初詣りをし、おかざり等もあげることになっている。また11月7日には、しまい薬師のお祭りをする。
粟島様
昔、治郎作さんの家に、霊験あらたかな石があった。このことを酒田の鉄門海上人が聞いて、酒田は持っていかれた。それから治郎作さんの家は病人が次々に出るので、屋敷に神を祭って粟島様とした。
この霊石は、今酒田の日和山の海河寺にあるという。
庚申様
島には庚申塚が三ヶ所にある。村の人達は、いくつかのグループに分かれて講を作り、年に1回12月に集まりを持っていた。唱えごとには、次のようなのがあり、これを百回繰り返して、夜の更けるまで続けられた。
「ナンマイダ ナンマイダ ソワカ」
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