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天声人語

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2011年2月12日(土)付

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 まいど東京暮らしの寝言ながら、靴底ほどでも積もると雪の煩わしさを痛感する。そして雪国にわびながら、白魔を味方に熟す雪中酒を思う。風土と時だけが醸す味といえば、南極にて100年を経た「氷中酒」の記事があった▼20世紀初めに英国の探検隊が残したウイスキーである。小屋の床下、ブランデーと共に五つの木箱で眠っていた。スコッチの中の氷は見飽きたが、氷中のスコッチは初耳だ▼隊長のアーネスト・シャクルトンは、南極に挑み続けた猛者。その酒は、人類初の南極点到達までわずかに迫った旅の品らしい。11本がニュージーランドで解凍され、一部が分析のため英国に里帰りした▼アムンゼンやスコットに先を越されたシャクルトンは、次に南極横断を企てる。氷海で船を失うものの、2年近い苦難の末に28人全員が生還を果たし、英雄になった。死闘を記した『エンデュアランス号漂流記』(中公文庫)にも、遭難前、船中のクリスマスをウオツカやラムで祝う場面がある。厳しい極地行に酒は必携だった▼リーダーシップに防寒衣を着せたような探検家である。いずれ皆で乾杯すべく埋めたのではないか。夢はかなわず、47歳での探検途上、不帰の客となった。「ライオンとして死ぬより、ロバとして生きたい」の言葉が残る▼オーロラの下で価値を蓄えた希代の蒸留酒。売れば1本10万ドル(約830万円)という。琥珀(こはく)色の液体は、ロバに徹した男の自負や嫉妬のすべてを溶かし込み、香(かぐわ)しく揺れる。封を解くのが誰であれ、喜々として氷と戯れよう。

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