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啄木を抜擢した人？
楚人冠は、『東京朝日』の一校正部員であった石川啄木の才能を認め、いきなり「朝日歌壇」の選者に抜擢した人といわれます。
この説は楚人冠終焉の地であるわが我孫子市では疑う人のない定説となっていて、楚人冠公園に立つ説明板にも「石川啄木、（長塚節など）が世に出る際、功があった」と書かれてあり、また市の教育委員会が編集刊行する「我孫子市史跡ガイドブック」の「杉村楚人冠碑・邸」の項にも「校正部員の石川啄木の才能を認め選者に起用して『朝日歌壇』を設けた」と記されています。
これを受けて、市または市内文化団体が催行する史跡・文学散歩が楚人冠公園を訪れるたびに、決まって啄木を世に出したのは楚人冠であるという説明がなされています。
この定説に私が疑問を抱くようになったのは、啄木日記の「明治四十四年当用日記補遺○前年（四十三）中重要記事」の九月の欄に、「十五日より朝日紙上に『朝日歌壇』を設け、予選者たり。渋川柳次郎氏の好意に由る。」という文章を読んだからでした（『石川啄木全集第六巻 日記�供拊淤狃駛軸�）。
渋川柳次郎とは当時の社会部長で俳号は玄耳、藪野椋十という筆名でのちに啄木の処女歌集『一握の砂』のユニークな序を執筆した人物です。啄木は自分を選者に抜擢してくれたのは渋川柳次郎氏（以下玄耳と呼ぶ）の好意によるものだと言っているのです。
しかし、本人の言だからといって直ちに信用することは危険です。啄木を含めてとかく天才肌の人物の日記や自伝には、思い入れが激しく日付や事実の誤りが多いのが特徴です。
ほかの証拠はないものかと思案している私に、市民図書館に朝日新聞の社史があるから参考にしてみては、と貴重なヒントをくださったのは、「我孫子の文化を守る会」会長で当会メンバーでもある三谷和夫さんでした。
すぐに出向いて手に取った『朝日新聞社史 明治篇』（一九九〇年七月刊）には、啄木を選者に抜擢したのは玄耳であるとはっきり書かれてありました。
それは「啄木の入社と『朝日歌壇』」という小見出しに出ています。この項は二段組の四頁にわたって、前半は金田一京助の著作をもとに啄木入社前後の経緯が記され、後半は玄耳の談話に基いて啄木の朝日歌壇選者就任の経緯が述べられます。
さて、記事によると、
「或る日、石川君が僕の所へ歌を書いた原稿用紙を二、三枚もって来て、『これをのせてくれませんか』と言うのです。僕は勿論それまで、石川君が歌詠みだともなんとも思っていなかったのですが、一つ一つ読んで見ると、全く風変わりな面白い大胆な歌ばかり作ってあるので、『こりゃ面白い、これならのせよう』と言ってのせたのが、石川君の歌が朝日にのった初めでしょう」（原文は旧漢字旧仮名、以下同じ）
という玄耳の談話が紹介され、このときの歌は明治四十三年三月十八日の誌面に「曇れる日の歌」の題で掲載された、とあります。
以後、二、三日おきに啄木歌が掲載され、社内外での評判も高まります。このときの歌に、
大いなる彼の身体を憎しと思ふ その前に行きて物を言ふ時
京橋の滝山町の新聞社 灯ともる頃のいそがしさかな
という、のちに名歌とされたものが含まれているといいます。
そして、九月になっていきなり次のような社告がのるのです。
「来る十五日の紙上より 朝日歌壇 選者 石川啄木 の一欄を設け投稿を募る。歌数、用紙共に制限なし。本社編輯社会部歌壇係宛の事。」
このいきさつについて、再び玄耳の談話が紹介されます。
「僕が『朝日』に入った当時まで、やはりよその新聞と同じように歌壇を設けていたのですが、あまり陳腐なものばかりのるので、僕が入る早々歌壇を廃止してしまったのです。……『朝日』なんと言えば舞台がいいもんだから、僕が廃止してからも、有名な歌人達から直接間接に、歌壇の選をさしてくれと再三再四頼んで来たものですが、僕は一々断っておりました。……
或る日、石川君を呼んで、『君が選をやるなら歌壇を復活させよう』と言いますと、非常にびっくりしたような顔をして喜んだことを記憶しています。そりゃ喜ぶ筈でしょう、一流の歌人達でさえ斥けられていた『朝日』の選をやらせるのですから……。そして『募集文も君勝手に書きたまえ』と言って一切合切石川君にまかせたのです。まあ一風変った無名の歌人にやらせるのも面白いと思ったからです。」
なおこの玄耳談話の出典は、大正十四年十月発行の『文藝日本』所載の吉田孤羊「朝日時代の啄木」であると記されています。
社史には楚人冠の名前は全く出てきません、啄木日記は正しかったのです。楚人冠も玄耳も啄木も、みんな同じ社員であった朝日新聞の社史がこれほど明確に玄耳抜擢説を採用している以上、地元に根づいた定説は間違いである、と私が信じたのももっともなことでありました。
とすれば、楚人冠公園の説明板や「我孫子市史跡ガイドブック」の記載には誤りがあることになります。これは市外のどなたかに指摘されて恥をかかない前に速やかに改めるべきだ…不遜にもそう思った私は、朝日の社史を紹介して我孫子市教育委員会宛に書面でその書き直しを求めたのでした。
教育委員会市史編纂室（当時）は、さっそく市教委が根拠とした新聞記事のコピーを送ってくれました。それは昭和三十六年四月二十五・二十六日付朝日新聞に掲載された「楚人冠と啄木」と題したコラムで、楚人冠が啄木を抜擢したのは自分である、という楚人冠自身の手紙が紹介されていたのです。
手紙にはこう書かれています。
「拝啓 御手紙並びに文藝日本拝見しました。多謝。
石川君に和歌の選考を頼む時、さすがに英断果決の渋川君もちと突飛の抜擢と考えたか、どうだろうかと僕に尋ねました。僕は歌も分らず、石川君の事もよくは知らぬが、とにかく才能によって異例（？）の抜擢を行うという事にいうべからざる興味をもって、僕は言下に賛成の意を表しました。それが幸にして成功であった事を私は今に痛快に感じています。…（中略）
啄木が死んで文名とみに高くなると、生前さも親しく世話でもしたような顔をしたがる者が急に出て来ましたが、朝日にいたころの啄木はそれは認められんものでした。多少認めたのは佐藤（私註 編集長の佐藤北江）と渋川くらいのものでした。
貴作を読んで昔を思い出して、こんなことを書いてしまいましたが、これは人に見すべきものに非ず、無論世に公けにすべきものにも非ずとご承知を願います。 （大正十四年）十二月六日夜 楚」
やはり、玄耳の抜擢の裏には楚人冠の力添えがあったのでした。蔭の事情を知らない啄木が、自分を抜擢してくれたのは渋川玄耳だと信じたのは尤もなことでしょう。
とにかく楚人冠自身の手紙というのは動かぬ証拠です。私は、一市民の疑問に真摯に応えてくれ、しかも四十年以上も前の新聞記事を探し出して送ってくれた市教委の厚意に感激し、折り返し感謝の手紙を市教委に送りました。無名の啄木を発掘した人は、我孫子とは縁もゆかりもない玄耳よりも、我孫子を愛し我孫子で生を終えた楚人冠であったほうが、私を含めた市民にとってちょっぴり鼻の高い出来事と思われたのでした。
でも、暫し時間をおいてみると、例によって私の頭にむくむくと「？(はてな)」の大群がうごめきはじめました。楚人冠の手紙が正しいとしたら、玄耳は実は迷っていて最終判断は楚人冠に委ねたということになります。であれば、玄耳は、なぜ楚人冠に相談したことに触れずに、いかにも自分ひとりで決めたようなことを言っているのでしょう？
このコラムの執筆者である吉田孤羊氏は、本名は徳治（一九〇二〜一九七三）、著名な啄木研究家で、コラム執筆時の肩書は盛岡市立図書館長とあります。
コラムの前段で吉田氏は楚人冠の手紙をもらった経緯を、このように述べています。
「私はいつかはお目にかかって直接啄木の思い出話をうかがいたいと、心の底には忘れることがなかったが、私のような若い駆け出し記者では、大記者の見本のような楚人冠先生は、とうてい面会など思いもよらないような高い存在だった。
たまたま私は大正末期のころ、Ｃ新聞の学芸部を担当しており、杉村さんの随筆集『白馬城』が出たので匿名で批評したところが、思いがけなくさっそくお手紙をいただいた。
私は好機とばかり、杉村さんとは同僚であり、啄木の『一握の砂』に序文をよせてくれた渋川玄耳氏との会見記をのせた雑誌を添えて、いつかぜひ啄木のお話をうかがいたい旨手紙を書いた。それに対するたいへんていねいなお返事があり、この間、いろいろの古書簡を整理したさい発見したので、ここに紹介しておきたい。」
吉田氏が楚人冠に送ったその雑誌は、楚人冠が手紙冒頭で「文藝日本拝見しました」と言うように、朝日の社史が玄耳談話の出典として示す大正十四年十月発行の『文藝日本』でありましょう。
とすれば、楚人冠は吉田氏が聴いた玄耳談話をはっきり否定したことになります。
若き日の吉田氏にとって、二人の証言の明らかな相違はさぞかしショッキングな出来事であったであろうと思われるのですが、不思議なことに吉田氏はコラムの中でこのことに少しも触れていません。「この間、いろいろの古書簡を整理した際発見したので、ここに紹介しておきたい」という文調には、この楚人冠の手紙を受取ったときの衝撃がいささかも感じられないのです。
吉田氏は、なぜ玄耳を再訪してことの真偽を質さなかったのでしょうか？（続く）
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「楚人冠は吉田氏が聴いた玄耳談話をはっきり否定したことになります」
「若き日の吉田氏にとって、二人の証言の明らかな相違は
さぞかしショッキングな出来事であったであろう」
「はっきり否定」（笑）
「明らかな相違」（笑）
「ショッキングな出来事」（笑）
なぜこんな珍解釈になるのやら〜。
（啄木と身近だった）渋川玄耳に採用決定権があるならば、
先輩の楚人冠にアドバイスを受けたことを
わざわざしゃべる必要もない。
楚人冠も手紙で公に話さないでくれと一筆しているように
2011/2/12(土) 午後 8:25 [ とおりすがり ]