【鷲見一雄の視点】
裁判をみる眼、検察の処分をみる眼@小沢氏強制起訴の行方
●私の捉え方の基本
裁判は「論理の闘い」、「判決は論理的帰着」という人は多いが、私は違うと思う。私は論理の前提になる「事実はどうだったのか」「証拠はどうなのか」の方が大切だと考えている。「政治家には政治家」の「ヤクザにはヤクザ」の「やっていいこと」と「やってはいけない」ことの「決まり」があると考えるからだ。「事実はどうだったのか」の主張不十分の典型例が日本相撲協会と講談社の「八百長訴訟」である。裁判所は1・2・3審とも「八百長はなかった」として4000万円の損害賠償と謝罪広告掲載を命じた。しかし、八百長はあったのである。
論理は「検察官には検察官の被告人には被告人の弁護人には弁護人という、何らかの立場を持っている。裁判で問題なのは「事実はどうだったか」であって検事の描いた「筋書き」や弁護人の反論する「シナリオ」ではないからだ。
●司法は変わった!!
司法改革によって裁判・検察の環境は大きく変わった。村木厚子氏無罪判決によって、かつて平野龍一東大名誉教授が論文で言っていた「欧米の裁判所は『有罪が無罪かを判断するところ』なのに対し、日本の裁判所は『有罪であることを確認するところ』であるといってよい」は過去のものになってしまった。
同じことは検察に対しても言える。かつては「起訴されるべき人が起訴されていない」という批判が強いものがあった。そこで検察の不起訴判断に世論を反映させ、「起訴されるべき人を起訴する」制度が改正検察審査会法なのである。その強制起訴制度ができて初めて強制起訴された大物政治家が小沢一郎氏であったと言うことだ。「起訴されるべき人が不起訴になっても、検察審査会が『強制起訴』する道がついた」のである。
●裁判官・検察官考現学
ところで私はいうまでもないことかも知れぬが、「法律の専門家」ではない。素人である。だから、「違法性」がどうの「有責性」がどうの「刑法の構成要件」がどうの「違法性阻却理由」「責任阻却理由」がどうの「侵害犯」か「危険犯」か「形式犯」がとか、「故意」だとか「過失」だとか「未必の故意」だとか、「共謀正犯」か「共謀共同正犯」なのか、などは得意ではない。
しかし、こと「政治と金の絡む事件」の「公訴事実」「罪状認否」を裁判官がどう判断するか、この「疑惑」を検察官がどう判断するか、に関する裁判官・検察官考現学、観察歴、即ち「事件の見立て」においては昭和36年の武州鉄道事件の楢橋渡元運輸相から小沢氏の政治資金規正法違反事件まで50年余りに亘り「生の事件」を事件の関係者・捜査する検察官たち・裁く裁判官を観察してきた経験から「プロフェッショナル」である。接した「医者でいえば臨床体験の数が多い」からだ。その数の多さは知る人も少なくなってしまったが、どんな「弁護士にも負けない」自信がある。私が「この人は無罪にならない」、と見立てた事件関係者で有罪にならなかった例は皆無である。私は事件に関わりのない人の知り合いはいない。「この道一筋で観察してきた」のだから当然といえよう。
●鷲見一雄の視点
その「私の裁判官考現学」に基づいて小沢氏の事件を見立てる。
小沢氏の事件は読売新聞によれば「政治資金規正法違反で立件された虚偽記入の金額としては史上最高となった総額約21億円の資金の流れ」だ。
小沢氏はこれまで「東京地検特捜部が不起訴としたことを根拠に自らの潔白」を主張し、「検察審査会の制度や審査には批判的な発言を繰り返してきた」ことは周知の事実である。しかし、改正検察審査会法で「指定弁護士による強制起訴制度」がある以上、今の日本には「悪法の存在はない」のだから、反論はあろうが、従わざるを得まい。
いったい、誰が、陸山会で東京都世田谷区深沢8丁目28番5号と19号の土地を買うと決めたのか、発売された7区画のうち5号と19号と決めたのは誰か、大久保、石川被告の筈はない。小沢氏以外に決められる人物などいないではないか。それで04年10月29日、3億5200万円で購入しておいて、小沢氏が「いずれの年(注・04・05年度)の報告書についても提出前に確認せず、担当者(石川元秘書ら)が収入も支出もすべて真実ありのまま記載していると信じて、了承した」と主張したとしても、小沢氏は政治資金規正法の精通者、プロなのだからそれを認める裁判官はいないと思う。まして石川被告が指定弁護士の任意の聴取要請で「小沢氏との共謀を否定することもできたのに拒否した」ことを考えれば「小沢氏の『公訴事実に対する否認』が認められる確率は低い」のではないかと私は推測する。