(cache) 暗い日曜日
Je mourrai un dimanche ou j'aurai trop souffert
Alors tu reviendras, mais je serai parti
Des cierges bruleront comme un ardent espoir
Et pour toi, sans effort, mes yeux seront ouverts
N'aie pas peur, mon amour, s'ils ne peuvent te voir
Ils te diront que je t'aimais plus que ma vie
Sombre dimanche.
(Sombre dimanche)
「その曲、とめて」
年のわからないしゃがれた声と共に、カウンターに伏せていた女の、皺が寄ったスーツに包まれた背が緩慢に動いた。そしてもぞもぞと服をかぶって着るようなじれったい動きで、ゆっくりと肩があがっていき、最後に垂れた顔がその表面のおうとつに膨大な影を引きずりながら向けられた。
光量が抑えられた店内にいて、薄暗い影が始終まとわりつく顔の皮膚は見るからに張りと艶をなくし、不気味に黒ずんだ黄色をしていた。目の下の隈はぎょっとするほど深く醜く刻まれて、若くはないが年増というほどでもない女の顔に、肌が疲労に垂れ下がり皺を作る有様は嫌悪を呼ぶ。アイシャドウで陰影をつけた目は充血して、眼球の白濁に血の線が走り、口元はかすかに開いて常に酒気を吐き出した。
酒がどれだけ人を醜く無残に作り変えるかの警告に、そのままポスターにでもなり医院の壁に見せしめとして貼られることになってもおかしくない風体だ。いやそんな生易しいものではなく、疲労しきって時たま痙攣する眼にかすかな正気の色を見つけなければ麻薬所持を疑った方が自然かもしれない。
バーテンダーは小首を傾げてカウンター席越しに無残な彼女を見下ろした。
「どうかなされましたか?」
「どうもなされてないわよ」
声はところどころ引きつるように不自然に高低が入れ替わり、女は体の半分が鉛にでもなったかのよう重たげに手をあげ、さらに重たげに顔の横に流れべったりと不潔に服にへばりつく髪を払いのけた。軽やかさをいっさい失った髪の表面は、得体のしれない油が浮いているように薄暗い店内に不気味な艶を輝かせた。
「辛気臭い曲。気分が悪くなる」
「お客様はお聞きになったことがおありで?」
何気ない言葉を吐くのも聴くのも頭が痛むのか、はがれかけたマニュキュアのみすぼらしさが目を引く手で、額にへばりついた前髪をかきわけ痛みを抑えるように生え際を指で押しやる。そこで何事かを思い出したのか、女はその格好のまま指で額を支えるようにうつむき酒臭い息を吐いてくっくっと笑った。
「あるわよぉ。すっごい馬鹿らしい場所で」
言って手を額からはなし、カウンターテーブルに倒れこむよう頬をつけた。不自然に丸く張った背にスーツの皺が少し伸びる。女はその体勢のまま手を伸ばしてテーブルの上を探り、その小指の先が自分の前にあったグラスの端にあたると、さぐりながらグラスをつかみ黒いカウンターテーブルに水の淡い痕をつけて引き寄せる。磨きぬかれた材木のような黒いテーブルの表面に、いたいけに震える水の塊が幾つか生まれて店内の闇を映した。
頭のすぐ横までグラスを引きずってくると、女はのろのろと顔をあげて、グラスを水平に傾け、茶色の液体を味わうポーズもとらずに喉に一気に流し込んだ。そこにも皺が寄った喉が幾度かのたうつ蛇のような動きを見せ、その動きが止まるとグラスは垂直へと引き戻され、反動で残された氷がグラスの内部に当たってかちんと音を立てた。干した後に女がはあと息を吐き出すと、上向きに天井を向いた黒ずんだ顔色が少しだけ赤味を帯びたように見える。
「あたしの元カレの部屋。こんなもん大音量でかけるんだもん、あのボロアパートで。そりゃ文句も来るもんよね」
そこで女は再び笑いの発作にかられたのか、カウンター席に垂れた前髪が横たわるほど顔を沈め、すでにすくめられた肩を揺らしククと笑う。
「ほらぁ、物置だのでっかいスーツケースだのに異臭がするからって警察呼んだら、死体がぎゅーっとつまってましたー、ってニュースあるじゃなぁい」
「ああ、はい。最近、多いですね」
「あれってさ、絶対見てんのよ。ちょっと臭うくらいじゃけーさつなんて呼ばないわよ、普通。好奇心で見たらさ死体がぎゅーってつまってるから警察呼ぶのよ。死体なんか誰も見つけたくないもんね」
「そうかもしれませんね」
「そう、死体がぎゅーって。ぎゅーって……」
うわ言のように繰り返しながら、女はまた濁った目をふせて、一瞬あげかけた顔をあまりきれいとは言えない硬いテーブルの上に投げ出し転がして頬をつけた。黒い表面に張りのない頬の肉がつぶされて醜くたるんだ。
しばらく静かになるかと思われた店内はけれど唐突な女の言葉に打たれる。
「――日曜には、死ぬかもしれない。苦しみのあまり」
「え?」
「訳よ。訳。あんたがしつこくかけてるこの歌の。」
「訳……ですか?」
「なーに? その目。あたし、三流大学だったけど、フランス語学科だったのよ。これくらい分かるわよ。あんたはあたし馬鹿にしていつまでもこの曲とめないけど。こっちだって客よ」
バーテンダーは困ったように笑ったが、曖昧さが含まれたそれで、女の要求を満たすための行動を移そうとはしなかった。その動きに女は不満げに鼻を鳴らす。
「嫌な歌よね。辛気臭くって、陰気で。あんたさ、この曲の別名知っててかけてんの?」
バーテンダーはやはり困ったような顔をしてみせた。意図が読みとれないそれに、女はまだ鼻をぐすぐず言わせながら目だけで見つめた。
「知らないの?」
声は詰問の態をおびてかすかに苛立ちが生まれていくのがわかる。危険を感知したのかバーテンダーは落ち着いて口を開きかけた。
「お客さま――」
「自殺」
え? というように、バーテンダーの肩があがる。それめがけてあげた土色の顔がゆがんだ。
「じ・さ・つ。自殺ソングよ。今、このあんたの店で流してるの。これ聴いてばたばた自分で自分を殺すやつらがいーっぱいでてきたのよ。そんないわくつきの流すなんて、ずいぶん自虐的――いや攻撃的な店なのね、あんたの店は」
一方的にそれだけ言うと、再び顔を伏せて小さくまた訳したとやら言う歌詞をぶつぶつとつぶやき始めた。かすかに聞こえてくるのは池に落とした石のよう重く掠れた声だった。
「でも恐れないで――……で、――」
徐々に小さくなり、酔っ払いの多くがたどるように彼女は眠りに支配されて、やがて声も完全に途絶え丸くなった背中がすうすうと動き始めた。
しばらくバーテンダーは呼びかけて起こすわけでもなく、困った客など自分の目の前にはいないとでもいうように平然とグラスを磨いていたが、カラン、とドアに取り付けた安物のベルの音がして、新たな客が入ってきた。そのかすかな音と風が動く気配に、皺だらけのスーツに包まれた女の身体が再びもぞもぞと動き出した。
「……会ったとき、こんなもんだと思ったのよ。あたしには、これくらい、だろうって……それぐらいの気持ちだったのに……」
しわがれた声で紡がれた言葉は、それまでもずっと言葉を続けてきたとでも言うように、脈絡がなくつかみもなかった。
「……なにが自殺ソングよ……馬鹿みたい、馬鹿じゃない」
やがて濁った右目に、暗い店内をうつして黒い涙が膜を張った。
「なんでこんなことになったのよ……」
そうして女は沈黙した。すると背後で先程入ってきた客が自分で席を決めて移動する足音が聞こえた。それに気を取られたように女の倒れたまま瞳だけが動くと
「お客さま、どうぞ」
女がふした顔のすぐ横に、足が細くすっきりとしたカクテルグラスが置かれ、とんとその振動が台にへばりついた耳に直につたわってきた。
顔をあげた拍子に、たるんだ頬に一筋の涙がこぼれる。
「頼んでないわよ」
「サービスです」
そう言った相手の邪気のない笑顔に、ふっとほだされたよう、女は浴びるほどに飲んだだろう身を、どこかで打ち身でもこさえたのかじくじく痛む肘を突っ張ってたてなおし、黒い液体がゆれるカクテルグラスを引き寄せた。
「サービスは、悪くないのね。目、覚めてもまだあの曲流してるのは気に食わないけど。ボリュームあげたの? もっとうるさくなってる」
もはや口癖のように愚痴を吐いて、細いその足を指でつかもうとして手が震えていることに気づき、ごまかすようグラスの淵側をつまみ上げる。それをとうに口紅はすべてはがれたかさかさした唇につけた。こくり、とまた小さく蛇がのたうつ。一瞬の沈黙の後
「――変な味。」
「当店オリジナルカクテルです」
その言葉に少しは気をつかったのか、口に合わずにしかめられた顔が、とりつくろうようにわざとらしく笑いに歪み
「まあ、悪くはないわ。オリジナルカクテルって、こんなもんよね。――なんて名前なの?」
紛らわすための何気ない問いかけに、バーテンダーは少し不自然な間合いをとった。女がそれに気づいて不審そうに見つめる中、笑うバーテンダーの細めた目に、その奥では冷静にこちらを見つめているよう、目を閉じたふりをして薄目を開けている子どものよう、抜け目のない光が潜んでいるが見て取れた。
バーテンダーは横を向き、女にカクテルグラスを差し出すために脇に置いた、それまでずっとその作業に従事していたグラスを手に取ると、磨き具合を確かめるよう爪でグラスの淵をはじいた。きいん、と澄んだ音をさせた。
満足したようにバーテンダーは女に向き直り、聞かれた名を答えた。
ふとバーテンダーが回収したグラスの水洗いから顔をあげた先、カウンター席の右端の角に先程入ってきた髪に白いものがちらほら見える、ほっそりとした老人が手招きをしている姿が目に入った。相手には見えないようにカウンター席の下で、濡れた手をタオルで拭きながら足早に近寄る。
「何用でございましょうか? お客さま」
「いや、なにね。初めて来てみたけど、ここは落ち着いたいい店だね。私はどこでも人がいるとついついその人達が気になってしまって、いや、人嫌いとか言うわけではないんだが、むしろ好きなんだが。ともかく気になってしまって自分のことなどそっちのけでどうしても落ち着けなくて。その点この店は、あ、いや、そういうわけじゃないんだが」
取り留めのない言葉をたどたどしく続けるうちに、無礼な言葉だと気づいて、慌てて老人が動作や言葉でかき消そうとする。少し見苦しいほど痩せていて骨に皮がへばりついたような首筋が哀れだが、さっぱりとした身なりと意外に染みなどがない頬や顎回りの乾いた肌の色が人の良さを演出している。全体的にすっかり白っぽいがまだ色を残した灰色の髪の生え際が綺麗だった。
「よろしいのですよ。私も一人でそうまで大勢のお客さまのお相手を満足に務めることはできませんし。お客さまを蔑ろにするような真似はしたくありませんしね。この店は私のペースにあっているので」
明るい笑い声にほっとしたように老人は、それだけのやりとりでかいた汗を拭うためにポケットから綺麗に折りたたんだハンカチを取りだした。四角に畳んだまま広げようとはせずに、その角を額に押し付ける。いささかオーバーな表現だが、品の良さを感じさせる動作だった。
「それで、わざとじゃないんだがね、先ほどのお嬢さんの言葉もついつい聞こえてしまってだね。いや、本当に初めは聞くつもりじゃなかったんだが、いったん耳に入ってしまうと……。人間の耳というものは、難儀なものだね。いや私の真意を聞いて耳は取り入れてしまうのだろうが」
「いえ、店内には何も流してはおりませんし、他のお客さまもおられないのですから、お聞こえして当然ですよ」
するとその言葉に妙に安心したように老人の目尻が和み、はっと息を抜いて薄いシャツに包んだ細い肩が下がった。
「ああ、良かった。いや、お嬢さんがうるさいといっていたようだが、私にはさっぱり聞こえないものでね。なんだと、この店はなにも流していないんじゃないのか、と。そんなに耳が遠くなってしまったかと、聞き耳をたてているようなじじいの言い草ではないだろうが、焦ってしまってね。ハハ、それも自業自得なんだろうが」
「そう言えばかのベートーベンも三十を過ぎた頃、自室の小窓から見える教会の正午の鐘が聞こえなくなったことで、己の耳がきこえなくなりはじめていることを悟って絶望した、というようなエピソードがありますね」
「そうそう。いやあ、奇遇だな。私もそれを思い浮かべて背筋が寒くなっていたんだよ。かの楽聖と聞き耳じじいを一緒にされてはベートーベンもたまったものではないだろうが。――君は、音楽が好きなのかね?」
「人並みには」
「人並みに到達している者は、なかなかいないものだよ。ああ、けれど、君の声はしっかり聞き取れるようだ。良かった」
安堵の息を吐き出すと、老人は両肘をテーブルに立てて、顔の前で指を組み合わせそこに軽く顎を乗せた。目を細めて身体の力を抜きのんびりと老人は
「音楽が好きなもんでね。そう遠くはない「いつか」が来て、どちらも段々錆びていくだろうが、ならその時は目より耳の方が長くもって欲しいと思っているんだよ」
「何かおかけいたしましょうか。耳の肥えたお客さまの肥やしになるほどのそろえはよくありませんが」
「ああ――」
嬉しげに言いかけて、けれど好物は最後にとっておく子どものように老人は
「その前に、いっぱい。聞き耳をたてていた恥の告白ついでに、あのお嬢さんが飲んでいたカクテルを頼めるかな。珍しい色で気になっていたんだ。いや、最近の流行はああいう色なのかな?」
「かしこまりました」
カウンターに付した女へと差し出したものを再現しようと、バーテンダーが気取ったように一礼して背を向ける。老人はそれをなんとはなしに眺め、先ほどまで女がふしていた席へと目を走らせた。
「暗い、日曜日か」
呟きを聞き漏らさずにバーテンダーはおどけたように振り向き
「おや、ご存知でしたか」
「無駄に年を取ったからね」
老人は笑い、バーテンダーもかすかに笑った。特に意味はない笑みの応酬の後、バーテンダーが再び背を向けたとき、皺がよった老人の唇がふっと歪んだ。
「誰でも一度や二度は、死に惹かれることがあるさ。絶望はどこにでも転がっている」
その呟きが聞こえていたのかいないのか、今度はバーテンダーは自身の仕事を中断させずに、言葉もまた返さなかった。二人の共犯者がつむぎだした無言の中で、ばたん、と冷蔵庫が開き風が潰される音がした。何も流れず人もまたバーテンダーと老人しか存在しない薄暗い店内に響く音は、後はバーテンダーの足音くらいだ。
「彼女はいつまで、あの曲を聴き続けるんだろうね。」
「たとえ、耳が聞こえなくなっても」
背を向けたままの相槌に、羨望のようなため息を吐き、老人は呟いた。
「美しい曲だ」
戸棚からグラスを取ると、もう一度念入りにキュッキュッとふいてから、素知らぬ顔でバーテンダーは振り向き
「死は、美しいのでしょうかね?」
「さあ」惨めに痩せた肩をあげて老人はおどけて見せた。「この年になっても、知らない」
からからと相手を気持ちよくさせる反応で笑い、材料とグラスをそろえたバーテンダーは手早く作り終えて手を伸ばしてカウンター越しに老人の前へと差し出した。
「お待たせしました。当店オリジナルカクテル「Sombre dimanche」です。お客様にお勧めするときは、日本名のほうがよろしいでしょうかね?」
「その日が日曜でなければ、ね。」
かすかに曲がった指を振って、それから老人はありがとう、と言って受け取った。
「しかし、助かりました」
その言葉に ん? と優しげな疑問を顔に浮かべると、バーテンダーは薄目で笑った。
「しっくりいくのが見つからず、ずっと悩んでいたのです。今日、やっと名前がつきました」
その言葉に微笑んで老人は、名を冠することによりこの世にようやく生まれ出た艶やかな闇が揺れるカクテルを、誰かに捧げるよう顔の高さへと掲げた。
Sombre dimanche
Sombre dimanche... Les bras tout charges de fleurs
Je suis entre dans notre chambre le coeur las
Car je savais deja que tu ne viendrais pas
Et j'ai chante des mots d'amour et de douleur
Je suis reste tout seul et j'ai pleure tout bas
En ecoutant hurler la plainte des frimas ...
Sombre dimanche...
Je mourrai un dimanche ou j'aurai trop souffert
Alors tu reviendras, mais je serai parti
Des cierges bruleront comme un ardent espoir
Et pour toi, sans effort, mes yeux seront ouverts
N'aie pas peur, mon amour, s'ils ne peuvent te voir
Ils te diront que je t'aimais plus que ma vie
Sombre dimanche.
暗い日曜日
暗い日曜日 腕にいっぱい花を抱えて
沈む心で 部屋に帰ってきたぼく
もう君が来ないことを わかっていたから
愛と苦しみの ことばを歌う
ひとり残され 声をころし 涙する
寒風の 嘆きのうなりを 聞きながら
暗い日曜日
日曜には 死ぬかもしれない 苦しみのあまり
君が戻ってきても ぼくはもういない
ろうそくが 灯っているだろう 熱い望みのように
君のほうへ おのずから ぼくの眼は開いているだろう
でも恐れないで 眼は君を 見られなくても
こう言っている いのちより 君を愛していたと
暗い日曜日
了
「Sombre dimanche」
作詞:Jean Mareze et Francois-Eugene Gonda
作曲:Seress Rezs
文中の訳詩は「WIEN e MUSIA」さまのこのページより引用しました。実際に聞きたい方は声はなしですがここへどうぞ(注意・開くと音楽が流れます。)
(参考文献 映画「暗い日曜日―Gloomy Sunday」サイトはこちら
「二木 紘三のWebサイト」
「WIEN e MUSIA」)
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